【実録】ある地方都市で囁かれる「顔のない隣人」に関する取材ノート
第5話 File.05:共通項・「マネビト」という都市伝説
手元には、送り主不明の茶封筒から出てきた、古びた鍵がある。
タグには「304」の文字。
K市営団地4号棟304号室。
「いつでも」入室可能だという、不気味な招待状。
私はすぐにでも現地へ飛びたい衝動を抑え、まずは机に向かっていた。
潜入取材は最終手段だ。その前に、敵の正体について仮説を立てておく必要がある。
これまでの取材で得られた断片的なキーワード――「顔のない隣人」「深夜の洗濯」「泥だらけの服」「練習する声」。
これらを繋ぎ合わせるミッシングリンクが、必ずどこかにあるはずだ。
私はインターネットの海に潜った。
検索ワードは「K市 都市伝説」「K団地 噂」「入れ替わり」。
大手掲示板のオカルトスレッドから、地元の中高生が利用するSNSの裏アカウントまで、あらゆる情報を漁った。
有象無象のデマや創作怪談の中に、一つだけ、妙に引っかかる単語が見つかった。
『マネビト』
それは、K市周辺の子供たちの間で、少なくとも二十年前から囁かれている都市伝説だった。
情報の出処は、K市の地元掲示板にある「昔の思い出を語るスレッド」だった。
そこに、こんな書き込みがあった。
『子供の頃、親から「夕方五時のチャイムが鳴ったらすぐに帰れ。マネビトに名前を呼ばれるぞ」って脅されなかった?』
『懐かしい。あったな。影踏み遊びしてると「影を盗られる」とか言われたわ』
『俺の地域だと、マネビトは川から来るって言われてた。泥で出来てるから、雨の日は外に出るなって』
書き込みの日付は数年前だが、そのスレッドの中で一人、異様な熱量で長文を投稿しているユーザーがいた。
ハンドルネームは「民俗学徒」。
彼はこう書いていた。
『マネビト(真似人/招き人)は、単なる子供騙しの妖怪ではない。あれはこの土地固有の「現象」だ。湿地帯だったこの地域には、古来より「形を持たない何か」が泥の中に棲んでいるという伝承がある。それは人間に憧れ、人間になりたがっている。だから、隙のある人間を見つけては、その姿形を真似て、生活を乗っ取ろうとする』
私はこの「民俗学徒」というユーザーにコンタクトを取った。
スレッドは過疎化していたが、幸いにも彼のSNSアカウントが特定できた。
DMを送ると、意外にも数時間後に返信があった。
彼は現在、都内の大学院で民俗学を専攻しているBさん(24歳)だった。
K市の出身で、自身も奇妙な体験をしたことがあるという。
翌日、私は都内の喫茶店でBさんと会った。
黒縁メガネをかけた、理知的な雰囲気の青年だった。
彼は私の名刺を見ると、少し緊張した面持ちで口を開いた。
「K団地のこと、調べているんですね。……まだ、あそこには関わらない方がいいと言っても、無駄ですよね」
「ええ。もう深入りしすぎてしまいました。それに、あちら側から招待状まで届いている状態なんです」
私が304号室の鍵を見せると、Bさんの顔色が変わった。
彼はカップを持つ手を止め、その鍵を凝視した。
「……やっぱり。彼らは、手順を踏んでいる」
「手順、ですか?」
「マネビトには、いくつかの段階(フェーズ)があるんです。僕が調べた限りでは、大きく分けて三段階です」
Bさんはノートを広げ、図を描きながら説明を始めた。
「第一段階は『観察(ミラーリング)』です。ターゲットを決めたマネビトは、まずその人間の行動を遠くから観察します。歩き方、声のトーン、生活リズム。コインランドリーや公園は、絶好の観察スポットなんです」
T氏が感じていた「視線」や、Aさんがコインランドリーで見た「ガラス越しに真似をする男」の話が合致する。
「第二段階は『接触(コンタクト)』。ターゲットに少しずつ干渉を始めます。無言電話、チャイムの悪戯、私物の紛失。これらは嫌がらせではありません。反応を見ているんです。怒るのか、怯えるのか、無視するのか。感情のパターンを学習しているんです」
そして、Bさんは声を潜めた。
「第三段階が『置換(リプレイス)』です。学習を終えたマネビトは、ターゲットの目の前に現れます。そして、その存在を奪う。殺すのではありません。文字通り『入れ替わる』んです。本物はどうなるのか……それは誰も知りません。神隠しとして処理されるか、あるいは……」
「あるいは?」
「彼らが元いた場所――『泥』に戻されるのかもしれません」
Bさんの話は、あまりにも荒唐無稽に聞こえるかもしれない。
だが、私の手元にある取材メモの内容と、恐ろしいほど符合していた。
S老人が言った「入りやすいが出にくい土地」。
コインランドリーの洗濯機の中で見た泥水。
そして、304号室から聞こえる練習の声。
「Bさん、304号室について何か知りませんか? あそこが『練習場』になっているようなのですが」
Bさんは頷いた。
「僕の友人も、あそこに連れて行かれたのかもしれません」
Bさんは、高校時代の友人の話をしてくれた。
同じ部活だった友人K君。
K君はある日突然、部活に来なくなった。
心配して家に行くと、K君は出てきたが、様子がおかしかったという。
「あいつ、右利きだったんです。でも、玄関に出てきた時、左手でドアノブを握っていました。それに、目が合わないんです。僕の顔を見ているようで、僕の背後の壁を見ているような、焦点の合わない目でした」
Bさんは、その時K君に違和感を覚えて、とっさにカマをかけたという。
『昨日のテスト、数学の最後の問題、答えなんだった?』
二人は前日、テスト終わりに答え合わせをして、二人とも間違っていたことを笑い合ったばかりだった。
「でも、Kは無表情でこう言いました。『7だよ』って。正解を言ったんです。あいつは数学が苦手で、絶対に解けないはずの問題だったのに。まるで、解答用紙を丸暗記したみたいに」
その翌日、K君は学校を辞め、一家で引っ越していったという。
Bさんが後で聞いた噂では、引っ越し先など存在せず、一家全員が行方不明になっているそうだ。
「僕が思うに、304号室のような『空室』は、マネビトたちの巣であり、孵化場なんです。あそこで彼らは、泥から人の形を作り、盗んだ情報を吹き込んで、人間に成るための訓練をしている。……でも、完璧にはなれない」
「完璧にはなれない?」
「ええ。彼らには『創造性』がないんです。模倣はできても、オリジナルの思考ができない。だから、想定外の質問をされたり、感情の機微を求められると、バグを起こす。笑顔が貼り付いたままになったり、同じ言葉を繰り返したりするのはそのためです」
私は、第1話でT氏が言っていた言葉を思い出した。
『まだ、なじんでない』
あれは、物理的な身体の話ではなく、人格のインストールの不具合を指していたのかもしれない。
「ライターさん、その鍵。……それは、ただの部屋の鍵じゃありません」
Bさんが、机の上の鍵を指差して言った。
「それは『認可証(ライセンス)』です」
「認可証?」
「あなたが、彼らの『新しいモデル』として認可されたという証です。彼らはあなたになりたがっている。あなたの記事、あなたの思考、あなたの行動パターン。それら全てを学習し終えたから、最後の仕上げに、あなた自身を呼び寄せているんです」
背筋が凍った。
304号室の録音データに残っていたモールス信号。
『LICENSE(ライセンス)』。
あれは、彼らが許可を得ようとしていたのではない。
私という存在を複製する準備が整ったという、完了報告だったのか。
「行けば、あなたは取り込まれます。あなたの顔をした誰かが、あなたの代わりにここに戻ってきて、あなたの続きを書くでしょう。誰も気づかないまま」
Bさんの警告は重かった。
しかし、私にはもう引き返せない理由があった。
T氏の行方だ。
もしT氏が「置換」されてしまったのだとしたら、本物の彼はどこにいるのか。
泥に戻されたのか、それとも304号室のどこかに監禁されているのか。
あるいは、まだ「完全には消えていない」のか。
「Bさん。一つだけ教えてください。マネビトを見分ける決定的な方法はありますか?」
Bさんは少し考え込んでから、こう言った。
「鏡です」
「鏡?」
「彼らは、鏡像を認識できないと言われています。自分自身という概念が希薄だからです。だから、鏡に映った自分を見ても、それが自分だと理解できない。あるいは……鏡には『本性』が映ってしまうのかもしれません」
コインランドリーのAさんの証言。
ガラスに映った男は、別の表情をしていた。
T氏の証言。
ベランダの家族は、窓ガラスに映る自分たちを見ていた。
「ありがとうございます。……行きます」
私が席を立つと、Bさんは悲しげな目で私を見た。
「止めても無駄なようですね。……もし、戻ってきたあなたが『あなた』じゃなかったら、僕には分かりますか?」
「記事を読んでくれれば分かりますよ。もし急に文章が上手くなっていたら、それは私じゃないかもしれません」
私は精一杯の冗談を言ったが、Bさんは笑わなかった。
別れ際、Bさんは小さな声で言った。
「『名前』を、大切にしてください。彼らは名前を奪うことから始めますから」
店を出ると、外は雨だった。
K市の方角から流れてくる湿った風が、私の頬を撫でた。
その感触が、泥のぬめりのように感じられて、私は思わず顔を拭った。
自宅に戻り、私は最後の準備を整えた。
304号室への潜入。
それは単なる取材ではない。
私という存在を賭けた、彼らとの対峙だ。
私は、T氏のノートと、コインランドリーで拾った交流ノートを並べてみた。
筆跡、言葉選び、感情の揺れ。
これらは確かに、人間が書いたものだ。
しかし、そのページの端々に、黒い染みのようなものが付着していることに気づいた。
インクの染みではない。
微粒子状の土だ。
私はノートを閉じ、304号室の鍵をポケットに入れた。
重い。
たかだか数グラムの金属片が、鉛のように重く感じる。
出発直前、私はふと思い立って、自分の部屋の鏡を布で覆った。
もし、帰ってきた時に、鏡に映る自分が「私」でなかったら。
その恐怖に耐えられる自信がなかったからだ。
車に乗り込み、ナビをK市営団地にセットする。
到着予定時刻は、深夜二時。
「草木も眠る丑三つ時」とはよく言ったものだが、あの団地においては、その時間は「彼ら」が起き出す時間だ。
雨脚が強くなってきた。
ワイパーが必死に水を弾く音が、メトロノームのように響く。
ペタ、ペタ。ペタ、ペタ。
そのリズムが、いつしかあの湿った足音のように聞こえ始めていた。
私はアクセルを踏み込んだ。
待っていろ、304号室。
そして、そこにいる「私」を名乗るものたちよ。
取材の時間だ。
(第5話 完)
タグには「304」の文字。
K市営団地4号棟304号室。
「いつでも」入室可能だという、不気味な招待状。
私はすぐにでも現地へ飛びたい衝動を抑え、まずは机に向かっていた。
潜入取材は最終手段だ。その前に、敵の正体について仮説を立てておく必要がある。
これまでの取材で得られた断片的なキーワード――「顔のない隣人」「深夜の洗濯」「泥だらけの服」「練習する声」。
これらを繋ぎ合わせるミッシングリンクが、必ずどこかにあるはずだ。
私はインターネットの海に潜った。
検索ワードは「K市 都市伝説」「K団地 噂」「入れ替わり」。
大手掲示板のオカルトスレッドから、地元の中高生が利用するSNSの裏アカウントまで、あらゆる情報を漁った。
有象無象のデマや創作怪談の中に、一つだけ、妙に引っかかる単語が見つかった。
『マネビト』
それは、K市周辺の子供たちの間で、少なくとも二十年前から囁かれている都市伝説だった。
情報の出処は、K市の地元掲示板にある「昔の思い出を語るスレッド」だった。
そこに、こんな書き込みがあった。
『子供の頃、親から「夕方五時のチャイムが鳴ったらすぐに帰れ。マネビトに名前を呼ばれるぞ」って脅されなかった?』
『懐かしい。あったな。影踏み遊びしてると「影を盗られる」とか言われたわ』
『俺の地域だと、マネビトは川から来るって言われてた。泥で出来てるから、雨の日は外に出るなって』
書き込みの日付は数年前だが、そのスレッドの中で一人、異様な熱量で長文を投稿しているユーザーがいた。
ハンドルネームは「民俗学徒」。
彼はこう書いていた。
『マネビト(真似人/招き人)は、単なる子供騙しの妖怪ではない。あれはこの土地固有の「現象」だ。湿地帯だったこの地域には、古来より「形を持たない何か」が泥の中に棲んでいるという伝承がある。それは人間に憧れ、人間になりたがっている。だから、隙のある人間を見つけては、その姿形を真似て、生活を乗っ取ろうとする』
私はこの「民俗学徒」というユーザーにコンタクトを取った。
スレッドは過疎化していたが、幸いにも彼のSNSアカウントが特定できた。
DMを送ると、意外にも数時間後に返信があった。
彼は現在、都内の大学院で民俗学を専攻しているBさん(24歳)だった。
K市の出身で、自身も奇妙な体験をしたことがあるという。
翌日、私は都内の喫茶店でBさんと会った。
黒縁メガネをかけた、理知的な雰囲気の青年だった。
彼は私の名刺を見ると、少し緊張した面持ちで口を開いた。
「K団地のこと、調べているんですね。……まだ、あそこには関わらない方がいいと言っても、無駄ですよね」
「ええ。もう深入りしすぎてしまいました。それに、あちら側から招待状まで届いている状態なんです」
私が304号室の鍵を見せると、Bさんの顔色が変わった。
彼はカップを持つ手を止め、その鍵を凝視した。
「……やっぱり。彼らは、手順を踏んでいる」
「手順、ですか?」
「マネビトには、いくつかの段階(フェーズ)があるんです。僕が調べた限りでは、大きく分けて三段階です」
Bさんはノートを広げ、図を描きながら説明を始めた。
「第一段階は『観察(ミラーリング)』です。ターゲットを決めたマネビトは、まずその人間の行動を遠くから観察します。歩き方、声のトーン、生活リズム。コインランドリーや公園は、絶好の観察スポットなんです」
T氏が感じていた「視線」や、Aさんがコインランドリーで見た「ガラス越しに真似をする男」の話が合致する。
「第二段階は『接触(コンタクト)』。ターゲットに少しずつ干渉を始めます。無言電話、チャイムの悪戯、私物の紛失。これらは嫌がらせではありません。反応を見ているんです。怒るのか、怯えるのか、無視するのか。感情のパターンを学習しているんです」
そして、Bさんは声を潜めた。
「第三段階が『置換(リプレイス)』です。学習を終えたマネビトは、ターゲットの目の前に現れます。そして、その存在を奪う。殺すのではありません。文字通り『入れ替わる』んです。本物はどうなるのか……それは誰も知りません。神隠しとして処理されるか、あるいは……」
「あるいは?」
「彼らが元いた場所――『泥』に戻されるのかもしれません」
Bさんの話は、あまりにも荒唐無稽に聞こえるかもしれない。
だが、私の手元にある取材メモの内容と、恐ろしいほど符合していた。
S老人が言った「入りやすいが出にくい土地」。
コインランドリーの洗濯機の中で見た泥水。
そして、304号室から聞こえる練習の声。
「Bさん、304号室について何か知りませんか? あそこが『練習場』になっているようなのですが」
Bさんは頷いた。
「僕の友人も、あそこに連れて行かれたのかもしれません」
Bさんは、高校時代の友人の話をしてくれた。
同じ部活だった友人K君。
K君はある日突然、部活に来なくなった。
心配して家に行くと、K君は出てきたが、様子がおかしかったという。
「あいつ、右利きだったんです。でも、玄関に出てきた時、左手でドアノブを握っていました。それに、目が合わないんです。僕の顔を見ているようで、僕の背後の壁を見ているような、焦点の合わない目でした」
Bさんは、その時K君に違和感を覚えて、とっさにカマをかけたという。
『昨日のテスト、数学の最後の問題、答えなんだった?』
二人は前日、テスト終わりに答え合わせをして、二人とも間違っていたことを笑い合ったばかりだった。
「でも、Kは無表情でこう言いました。『7だよ』って。正解を言ったんです。あいつは数学が苦手で、絶対に解けないはずの問題だったのに。まるで、解答用紙を丸暗記したみたいに」
その翌日、K君は学校を辞め、一家で引っ越していったという。
Bさんが後で聞いた噂では、引っ越し先など存在せず、一家全員が行方不明になっているそうだ。
「僕が思うに、304号室のような『空室』は、マネビトたちの巣であり、孵化場なんです。あそこで彼らは、泥から人の形を作り、盗んだ情報を吹き込んで、人間に成るための訓練をしている。……でも、完璧にはなれない」
「完璧にはなれない?」
「ええ。彼らには『創造性』がないんです。模倣はできても、オリジナルの思考ができない。だから、想定外の質問をされたり、感情の機微を求められると、バグを起こす。笑顔が貼り付いたままになったり、同じ言葉を繰り返したりするのはそのためです」
私は、第1話でT氏が言っていた言葉を思い出した。
『まだ、なじんでない』
あれは、物理的な身体の話ではなく、人格のインストールの不具合を指していたのかもしれない。
「ライターさん、その鍵。……それは、ただの部屋の鍵じゃありません」
Bさんが、机の上の鍵を指差して言った。
「それは『認可証(ライセンス)』です」
「認可証?」
「あなたが、彼らの『新しいモデル』として認可されたという証です。彼らはあなたになりたがっている。あなたの記事、あなたの思考、あなたの行動パターン。それら全てを学習し終えたから、最後の仕上げに、あなた自身を呼び寄せているんです」
背筋が凍った。
304号室の録音データに残っていたモールス信号。
『LICENSE(ライセンス)』。
あれは、彼らが許可を得ようとしていたのではない。
私という存在を複製する準備が整ったという、完了報告だったのか。
「行けば、あなたは取り込まれます。あなたの顔をした誰かが、あなたの代わりにここに戻ってきて、あなたの続きを書くでしょう。誰も気づかないまま」
Bさんの警告は重かった。
しかし、私にはもう引き返せない理由があった。
T氏の行方だ。
もしT氏が「置換」されてしまったのだとしたら、本物の彼はどこにいるのか。
泥に戻されたのか、それとも304号室のどこかに監禁されているのか。
あるいは、まだ「完全には消えていない」のか。
「Bさん。一つだけ教えてください。マネビトを見分ける決定的な方法はありますか?」
Bさんは少し考え込んでから、こう言った。
「鏡です」
「鏡?」
「彼らは、鏡像を認識できないと言われています。自分自身という概念が希薄だからです。だから、鏡に映った自分を見ても、それが自分だと理解できない。あるいは……鏡には『本性』が映ってしまうのかもしれません」
コインランドリーのAさんの証言。
ガラスに映った男は、別の表情をしていた。
T氏の証言。
ベランダの家族は、窓ガラスに映る自分たちを見ていた。
「ありがとうございます。……行きます」
私が席を立つと、Bさんは悲しげな目で私を見た。
「止めても無駄なようですね。……もし、戻ってきたあなたが『あなた』じゃなかったら、僕には分かりますか?」
「記事を読んでくれれば分かりますよ。もし急に文章が上手くなっていたら、それは私じゃないかもしれません」
私は精一杯の冗談を言ったが、Bさんは笑わなかった。
別れ際、Bさんは小さな声で言った。
「『名前』を、大切にしてください。彼らは名前を奪うことから始めますから」
店を出ると、外は雨だった。
K市の方角から流れてくる湿った風が、私の頬を撫でた。
その感触が、泥のぬめりのように感じられて、私は思わず顔を拭った。
自宅に戻り、私は最後の準備を整えた。
304号室への潜入。
それは単なる取材ではない。
私という存在を賭けた、彼らとの対峙だ。
私は、T氏のノートと、コインランドリーで拾った交流ノートを並べてみた。
筆跡、言葉選び、感情の揺れ。
これらは確かに、人間が書いたものだ。
しかし、そのページの端々に、黒い染みのようなものが付着していることに気づいた。
インクの染みではない。
微粒子状の土だ。
私はノートを閉じ、304号室の鍵をポケットに入れた。
重い。
たかだか数グラムの金属片が、鉛のように重く感じる。
出発直前、私はふと思い立って、自分の部屋の鏡を布で覆った。
もし、帰ってきた時に、鏡に映る自分が「私」でなかったら。
その恐怖に耐えられる自信がなかったからだ。
車に乗り込み、ナビをK市営団地にセットする。
到着予定時刻は、深夜二時。
「草木も眠る丑三つ時」とはよく言ったものだが、あの団地においては、その時間は「彼ら」が起き出す時間だ。
雨脚が強くなってきた。
ワイパーが必死に水を弾く音が、メトロノームのように響く。
ペタ、ペタ。ペタ、ペタ。
そのリズムが、いつしかあの湿った足音のように聞こえ始めていた。
私はアクセルを踏み込んだ。
待っていろ、304号室。
そして、そこにいる「私」を名乗るものたちよ。
取材の時間だ。
(第5話 完)
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