井川線の女
第三部 夏の日の自然薯
何日かたち、接阻峡温泉にも夏がやってきた。夏はいつまでたっても暑くて、本当に過ごしにくい季節ではあるが、奥大井の山の中ではあまり暑さを感じない。避暑地としてやってくる観光客も少なくない。
菅原朋美は、相変わらず旅館の手伝いをする日々を過ごしていた。もう、都会には絶対出ない。ずっとここにいると朋美は祖母の泉に告げていた。山岡先生には、都会での生活は合わなかったと報告した。山岡先生はとても残念そうにしていたけれど、障害のある朋美にはそう見えてしまっても仕方ないと思ってくれたらしく、彼女を許してくれた。
暇があると、朋美は、近所の人に、富士での思い出を語った。ひどく窮屈な学校と、女ばかりの奇妙な邸宅で、縛られるような生活をさせられたこと。朋美の富士での思い出はそれしかないのかと聞かれるほど、朋美はそれを話した。泉は、悪いことばかりを話す彼女に、それではよくないのではないかといったが、山岡先生から、朋美のような障害のある女性には、悪いことばかり印象に残ってしまうと聞かされて、仕方ないかと考え直した。その間にも朋美は富士での生活のつらかったことを、旅館近くに住んでいるおじさんやおばさんなどに話し、あの町には二度と行きたくない、本当につらい、行くべきじゃなかったなどと言っていた。
今日も、サツマイモ畑をやっているおじさんに、富士市でのつらさを話していたところ。
れい子が血相を変えてやってきた。朋美がどうしたのと彼女に聞くと、
「どうしたのどころじゃないわよ。あの、江川由紀夫という車いすの男が、駅に来てるのよ。朋美に会いたいって。」
とれい子はそういうのであった。
「聞けば、富士にいた時、朋美を自分の家に住まわせたっていうじゃない。それで何か、集りに来たんじゃないの?」
れい子がそういっても、朋美は驚きを隠せなかった。
「一人で来てるの?まさか、あの井川線で、一人で車いすで乗れるはずないでしょ?」
「それが、信雄さんとかいう、付き人というかお手伝い係を連れてるのよ。こうなったら駅へ行った方がいいんじゃないの?」
れい子は朋美にいった。確かにこの温泉地から接岨峡温泉駅までは歩いて8分程度だが、由紀夫がまさか、ここへ会いに来ただろうか?
「ほんとに来てるの?由紀夫さん。」
「ええ間違いないわ。だって、菅原朋美さんはいますかって、私に聞いてきたんだから。早く、迎えにいった方がいいわよ。」
れい子に言われて一緒にいた、サツマイモ農家のおじさんも、
「早くいった方がいい。こんなところに会いに来てくれるんだもの。きっと強い思いがあるんだよ。」
と朋美に言ったので、朋美はれい子と一緒に、接岨峡温泉駅へ向かった。駅と言っても、富士駅のように大きな建物がある駅ではなかった。小さな待合室に、ホームがあるだけである。駅員として、別の旅館の若い人が雇われているという話だが、それも長続きするかわからないとうわさされていた。そんなおんぼろの駅に、由紀夫が何をしに来たのだろうか?朋美が駅に到着すると、その駅員の若い男が、朋美を見つけて、
「朋美ちゃんもいい人見つけたね。こんな山奥へ会いに来てくれるんだから、きっと朋美ちゃんのフィアンセだねえ。」
なんて彼女をからかった。
「それで、由紀夫さんはどこに?」
朋美が聞くと、
「暑いので、駅の事務室で休んでもらってるさ。こっちだよ。」
と駅員は、彼女を事務室へ案内した。事務室にあるテーブルの前に、江川由紀夫と、大海信雄さんが、座っていた。
「ど、どうしてこの奥大井に!」
朋美は挨拶もしないで、そういってしまったが、
「びっくりさせちゃってごめんなさいね、ピー助がどうしても会いたいっていうからよ。それで、切符とって、来させてもらったのさ。」
と信雄さんがカラカラと笑った。
「学校が、夏休みになったので、来させてもらいました。夏の間だけでもいいから、朋美さんにもう一回お会いしたかったんです。」
頭を下げる由紀夫に、朋美は声も出ない。
「ということは、富士駅から電車に乗って、金谷駅まで来て、大井川線で千頭駅まで来て、それでトロッコ列車にのったの?」
れい子が朋美の代わりに聞くと、
「はい。その通りです。ここへ来るにはそうするしかありませんから。道路も狭くて運転しにくいと信雄さんが言っていたので。」
と、由紀夫は答えた。
「そうなんですか。じゃあ、随分遠くから来られたのねえ。それでは、大変だったでしょ。きっとご飯も食べたいんじゃない、何か持ってこさせるわ。」
「いいのよれい子。そういうことはできないわ。由紀夫さんには事情があるから。」
世話好きなれい子に朋美はそれをやめさせた。
「そうなの?でも人間は動物なんだし、食べることをしないと、だめになるわよ。せめてお菓子だけでも食べるとか、そういうことしたら?富士から長旅してきたんだったら、おやつがいるわよ。」
れい子がそういうと、駅員さんが、ここは駅なので外へ出てほしいといった。もうすぐ、トロッコ列車が到着するという。朋美たちはその通りにして駅の外へ出た。
「ここは山の音が聞こえるんですね。空気はいいし、鳥の声も綺麗。都会では絶対聞かない声です。」
由紀夫がそういうと、れい子は由紀夫に、泊るところはと聞いた。静岡市内にでも泊まろうかと考えていると由紀夫が答えると、れい子はせっかく来たのだし朋美の家に言ったらどうかといった。信雄さんもそれに賛同してくれて、全員、朋美の家である旅館に向かった。
幸い、朋美の家の旅館は、まだ予約が入っていなかったので、部屋を使っていいと泉が許可してくれた。れい子は勝手に、由紀夫たちを一番いい部屋へ案内してしまった。部屋には多少段差もあったけど、信雄さんとれい子が協力して、何とか由紀夫を部屋に入れた。
「えーと由紀夫さんって言ってたよね。あたし、れい子。朋美とは、子供のころから親友よ。一体どうして朋美に会いにこんな山奥まで来たのよ?」
「ええ。理由は一つしかありません。朋美さんに会いたいからです。」
由紀夫は、れい子の質問に答えた。
「じゃあ、れい子とは、どういう関係だったの?どこで出会ったの?」
「富士の国高等学校で、クラスメイトだったんです。」
由紀夫がそういうと、れい子はなるほどと大げさに反応した。
「そうなんだ。朋美も、様になったわね。クラスメイトで、こんな男を、こっちへ連れてくるなんて。ここは不便じゃない?電車の本数も少ないし。」
「そうなんですけどね。でも、お会いできたからよかったですよ。それに井川線から見た湖上駅も素敵でしたよ。」
「お世辞が上手ねえ。さすが都会の人だわ。」
そういって由紀夫と話しているれい子に、朋美は、なんだか、嫌な気持ちというか、ちょっと変な気持ちを抱いてしまい、れい子にこういってしまうのだった。
「やめてよれい子。そんな質問攻めにして、もし何かあったらどうするの?」
「何かあっても何もしないわよ。そこにいる、暴力団顔負けのおじさんが、何とかしてくれるでしょ。」
れい子は信雄さんを顎で示した。
「いやだそんなこと言って。」
「いやいや、れい子さんみたいに明るくて面白い人は、富士にはなかなかいませんよ。」
信雄さんは、髪の毛をかじりながら、そう苦笑いをした。それと同時に、
「お昼ができたよ。自然薯のお好み焼きだよ。」
泉が、大きな皿に入った、自然薯入りお好み焼きをもってやってきた。
「自然薯?それなんですか?」
由紀夫は珍しそうに聞く。
「山芋の一種で、栄養満点。どんな病気の人だって、これをたべれば元気百倍。」
泉ばあちゃんは、昔の人らしく言った。確かに自然薯というのは栄養価の高いものとして知られているが、由紀夫がまた吐き出してしまうのではないかと、朋美は緊張した。しかし、ばあちゃんは、由紀夫の前にも自然薯お好み焼きを置いた。れい子と信雄さんが頂きますと言って、おいしそうにそれにかぶりついたのを見た由紀夫は、それならばと自然薯お好み焼きを食べた。
「味はどうね?一応、一般的なソースで味付けしてあるんだけどね。」
ばあちゃんが言うと、
「ええおいしいです。生まれて初めて食べました。こんなお好み焼きがあったとは、知りませんでした。」
と、由紀夫は感想を言ってくれた。そのまま、吐き出してしまうかなとれい子は思ったが、由紀夫はそれをしないで、もう一切れ、自然薯お好み焼きを食べている。
「由紀夫さんが食べてる!由紀夫さんが、お好み焼きを食べてるわ!」
れい子が、何を言ってるんだという顔で朋美を見たが、
「すごいすごい!確かにすごい!由紀夫さんが食べてる!由紀夫さんが、吐き出さないで食べている!」
朋美は、涙をこぼしてしまった。誰も彼女を非難するものはなく、信雄さんがそっとハンカチを貸してくれたが、朋美は、涙が止まらなかった。
「本当に生まれて初めて食べたの?」
れい子が聞くと、
「そうなんです。自然薯というものが存在することすら知りませんでした。こんなにおいしいものだったなんて初めて知りましたよ。うちでは、自然薯なんて欲しくても買ってくることできないでしょ。そう考えてみると貴重な食べ物ですよね。」
と、由紀夫は、にこやかに笑って言った。信雄さんまでが、ピー助が久しぶりに笑ってくれたと言って、男泣きに泣き出す始末だった。泣いている二人をしり目に、れい子と由紀夫は、自然薯お好み焼きを完食した。泉ばあちゃんが、もっと食べるかいと聞く。由紀夫とれい子はお願いしますと答えると、ばあちゃんはちょっと待ってなと言って台所へ戻っていった。
しかし、接阻峡温泉駅には、また別のトロッコ列車が到着していた。そこから降りてきたのは、いかにも上流階級という雰囲気を漂わせている、女性二人。
「まったく、電車が走っていると思ったら、路線バスよりも遅くて、一時間以上かかるなんて、腹の立つ電車だわ。」
駅を歩きながら、常子さんが言った。
「駅前に食堂もコンビニもないし、きっと由紀夫はすぐに帰ってくるわよ。」
ひろ子さんがそういってなだめたが、
「そうかしらね。だってあの子は、信雄さんまで巻き込んだのよ。ここへ来たいというなら、私に真っ先に言うはずでしょ。それなのになんで信雄さんに。」
常子さんはそういうのだった。
「まあね、常子。由紀夫も、そういう面では大人になったというべきなんでしょうね。きっと、そういうことなのよ。」
ひろ子さんはそういうのであるが、
「お母さんは、由紀夫と私とどっちの見方なのよ。」
と常子さんがきつくいったため、それ以上は言わなかった。二人の婦人は、接岨峡温泉駅の駅舎に入って、先ほどの駅員に切符を渡して、菅原朋美という人はどこに住んでいるのかと尋ねた。駅員が、道順を教えると、どうも有難うございますと二人は言って、さっそくその道を歩き始めた。確かに、信号機は少ないが、坂道ばかりで歩きにくいところだった。常子さんは、こんな道をはたして由紀夫は通ったのかと愚痴を漏らした。
「ほら、菅原って書いてある。ここよ。」
ふいにひろ子さんがそういうことを言った。やや一般的な家より大きいだけの簡素な旅館であった。大規模な旅館ではないことに、常子さんは、バカにしたような顔をして、こんな所になんで由紀夫がと言っていた。
「ごめん下さい。」
ひろ子さんが、その建物の入り口の引き戸をたたいた。
「はい。何の御用でしょうか?」
応答したのは、泉ばあちゃんだった。
「あの、私どもは江川と申しますが、そちらに、孫の江川由紀夫と、大海信雄という人間がいらしていないでしょうか?」
ひろ子さんがそう聞くと、
「おりますけど、何のようなんですかね?」
泉ばあちゃんは聞いた。
「当り前じゃないですか。由紀夫を連れ戻しに来たんです。あの子、私の許可もないのに、こっちへ来たんですよ。それも信雄さんという使用人まで巻き込んで。」
常子さんが少し高ぶってそう答えると、
「そうですかね。それは、囚人施設から由紀夫君は逃げたかったのではありませんか?」
と泉ばあちゃんは答えた。
「囚人施設って、由紀夫は、あたしたちの家のものです。それに学校にだってようやく行き始めたんです。それをこんな田舎の娘が、あの子をたぶらかして、ここへ連れてきてしまったんですから、取り戻しに来たのは親として当然でしょう!」
常子さんがそういうと、
「本当にそうでしょうか?」
と泉ばあちゃんは言った。
「うちの朋美が、由紀夫さんをたぶらかしたのではなく、由紀夫さんが、こっちへ来たくて、ここへ来たのではありませんか?」
「何を言ってるんですか。由紀夫は歩けないんです。そんな子が、こんなど田舎で暮らしていけるわけがないじゃありませんか。さっきの駅だって、荒れ放題でひどいもんでした。なんでこんなところに来たのか。由紀夫はたぶらかされた、洗脳されたしか思えません!」
そういう常子さんに、
「じゃあ、今から、見る風景は、偽物だというのですかね?」
と泉ばあちゃんはそういって、彼女たちを、部屋へ通した。そこは、由紀夫や朋美たちがいる部屋だ。ばあちゃんがふすまを開けると、中には、朋美、れい子、そして由紀夫が居て、朗々とした声で、炭坑節を歌っている信雄さんを楽しそうに眺めていたのだった。由紀夫は、朋美から渡された自然薯のお好み焼きを、おいしそうに食べていた。常子は、吐き出してしまうのではないかと思って、すぐに由紀夫のところへ駆け寄ろうとしたが、泉ばあちゃんがそれを止めた。それと同時に、部屋の中では、由紀夫たちが食べている、せんべいのおとが、とてもいい響きで鳴り渡った。
「由紀夫!」
常子さんは、そういったのであるが、由紀夫さんは、返事をしなかった。信雄さんが歌うのをやめて、
「ああおかみさん。すみませんね。由紀夫さんが、どうしても朋美さんに会いたいって聞かないもんですからね。」
といった。常子さんは謝りなさいといったが、
「でも、寂しがり屋の由紀夫をああして愉快にさせてくれたんだから、許してやるべきではないの!」
と、ひろ子さんに言われて、それ以上は言えなかった。
「じゃあ、信雄さん、もう一回歌ってよ。今度はもっと明るい歌がいいわよ。」
朋美がそういったため、信雄さんは、線路は続くよどこまでもをうたった。よく通る声で、部屋によく響いた。それと同時に、由紀夫が車いすのポケットからフルートを出して、信雄さんに合わせて吹き始める。常子さんは、二度と吹けないと思っていたフルートを由紀夫が吹いているので、この時点で私たちの負けだと確信した。
「へえ、フルート、上手だねえ。どこか地元のブラスバンドに入ったらどう?それくらいうまいよ。」
泉ばあちゃんがそういって由紀夫をほめると、
「いいえいいえ、もうこの体になって、フルートは楽しみで吹いているだけです。何の役にも立ちませんよ。」
と由紀夫は言うのであった。
「そうかな?でも、駅でお客さんに吹いて聞かせるとか、そういうことしてもいいと思うけど?何なら、ここら辺の公会堂借りて、コンサートしてもいいし。」
れい子が明るくにこやかに言った。
「ここでは人も、そんなに怖い人はいないんですよ。だから、もしかすると、由紀夫君みたいな人は暮らしやすいのかもしれないです。」
泉ばあちゃんがそういうと、
「何を言うんです。車いすに対応した設備も、駅にはスロープもないじゃない。それに信雄さんの助けがなければ、あなたはここに来られなかったのよ。あなたが暮らしていくには、都会に戻るしかないのよ。」
と、常子さんがそういい返した。しかし、ひろ子さんはすぐに、
「でも由紀夫はここで、自然薯のお好み焼きを食べたんだよ。あの何にも食べれなかった子が、食べたんだよ。それには自然のありがたさを感謝しなくちゃ。」
と、常子さんを訂正した。
「さあ、帰りましょう。こんなところに居たってろくなことがないわ。すぐに帰って、勉強しなくちゃ。遅れた分を取り戻さないとね。」
「いやだよ、お母さん。」
由紀夫さんは、常子さんにはっきりといった。
「僕はお母さんにいつも従うペットではないんだ。」
「何を言っているの。あんたは、歩けないのよ。ここには、歩けない人間に考慮した場所などどこにもないのよ。あんた一人では、暮らしてなんか行けないの。そういうことなら、障碍者に配慮した、設備や交通機関がある、富士に戻って、また幸せに暮らしましょう。」
常子さんは、そういうのであるが、
「でも、ここには。」
由紀夫さんは言った。
「便利な設備はないけど、素敵な山がある。おいしいものもある。そして何より優しい人たちがいる。それだけあれば、十分だよ。」
「きっとね、子供は必ず親から離れていきますよ。それは、喜ばしいことだと思わなくちゃ。由紀夫さんが、ここで暮らしたいと言い出したら、やっと、その時が来たんだと、喜んで送り出してやるべきじゃないですか?」
優しい声で泉ばあちゃんが言った。朋美は一言、
「本当に、由紀夫さんが、ここで自然薯を食べてくれた時、あたし、心から感動しました。それは、都会では絶対できなかったことです。」
と、涙をこぼしていった。
朋美やれい子たちのまなざしを見て、常子さんは一言、
「私の負けだわ。」
と、小さな声で言った。
「そうね。由紀夫は、私たちのペットではないんだし。あんたの意思で、そうしたいのなら、ここで暮らしなさい。」
ひろ子さんが年寄りらしくそういうと、信雄さんが、でかい声で高砂の歌を歌いだした。朋美は、生まれて初めて自然薯を食べたという由紀夫さんを、とてもうれしそうな目で、穏やかに見つめていた。
菅原朋美は、相変わらず旅館の手伝いをする日々を過ごしていた。もう、都会には絶対出ない。ずっとここにいると朋美は祖母の泉に告げていた。山岡先生には、都会での生活は合わなかったと報告した。山岡先生はとても残念そうにしていたけれど、障害のある朋美にはそう見えてしまっても仕方ないと思ってくれたらしく、彼女を許してくれた。
暇があると、朋美は、近所の人に、富士での思い出を語った。ひどく窮屈な学校と、女ばかりの奇妙な邸宅で、縛られるような生活をさせられたこと。朋美の富士での思い出はそれしかないのかと聞かれるほど、朋美はそれを話した。泉は、悪いことばかりを話す彼女に、それではよくないのではないかといったが、山岡先生から、朋美のような障害のある女性には、悪いことばかり印象に残ってしまうと聞かされて、仕方ないかと考え直した。その間にも朋美は富士での生活のつらかったことを、旅館近くに住んでいるおじさんやおばさんなどに話し、あの町には二度と行きたくない、本当につらい、行くべきじゃなかったなどと言っていた。
今日も、サツマイモ畑をやっているおじさんに、富士市でのつらさを話していたところ。
れい子が血相を変えてやってきた。朋美がどうしたのと彼女に聞くと、
「どうしたのどころじゃないわよ。あの、江川由紀夫という車いすの男が、駅に来てるのよ。朋美に会いたいって。」
とれい子はそういうのであった。
「聞けば、富士にいた時、朋美を自分の家に住まわせたっていうじゃない。それで何か、集りに来たんじゃないの?」
れい子がそういっても、朋美は驚きを隠せなかった。
「一人で来てるの?まさか、あの井川線で、一人で車いすで乗れるはずないでしょ?」
「それが、信雄さんとかいう、付き人というかお手伝い係を連れてるのよ。こうなったら駅へ行った方がいいんじゃないの?」
れい子は朋美にいった。確かにこの温泉地から接岨峡温泉駅までは歩いて8分程度だが、由紀夫がまさか、ここへ会いに来ただろうか?
「ほんとに来てるの?由紀夫さん。」
「ええ間違いないわ。だって、菅原朋美さんはいますかって、私に聞いてきたんだから。早く、迎えにいった方がいいわよ。」
れい子に言われて一緒にいた、サツマイモ農家のおじさんも、
「早くいった方がいい。こんなところに会いに来てくれるんだもの。きっと強い思いがあるんだよ。」
と朋美に言ったので、朋美はれい子と一緒に、接岨峡温泉駅へ向かった。駅と言っても、富士駅のように大きな建物がある駅ではなかった。小さな待合室に、ホームがあるだけである。駅員として、別の旅館の若い人が雇われているという話だが、それも長続きするかわからないとうわさされていた。そんなおんぼろの駅に、由紀夫が何をしに来たのだろうか?朋美が駅に到着すると、その駅員の若い男が、朋美を見つけて、
「朋美ちゃんもいい人見つけたね。こんな山奥へ会いに来てくれるんだから、きっと朋美ちゃんのフィアンセだねえ。」
なんて彼女をからかった。
「それで、由紀夫さんはどこに?」
朋美が聞くと、
「暑いので、駅の事務室で休んでもらってるさ。こっちだよ。」
と駅員は、彼女を事務室へ案内した。事務室にあるテーブルの前に、江川由紀夫と、大海信雄さんが、座っていた。
「ど、どうしてこの奥大井に!」
朋美は挨拶もしないで、そういってしまったが、
「びっくりさせちゃってごめんなさいね、ピー助がどうしても会いたいっていうからよ。それで、切符とって、来させてもらったのさ。」
と信雄さんがカラカラと笑った。
「学校が、夏休みになったので、来させてもらいました。夏の間だけでもいいから、朋美さんにもう一回お会いしたかったんです。」
頭を下げる由紀夫に、朋美は声も出ない。
「ということは、富士駅から電車に乗って、金谷駅まで来て、大井川線で千頭駅まで来て、それでトロッコ列車にのったの?」
れい子が朋美の代わりに聞くと、
「はい。その通りです。ここへ来るにはそうするしかありませんから。道路も狭くて運転しにくいと信雄さんが言っていたので。」
と、由紀夫は答えた。
「そうなんですか。じゃあ、随分遠くから来られたのねえ。それでは、大変だったでしょ。きっとご飯も食べたいんじゃない、何か持ってこさせるわ。」
「いいのよれい子。そういうことはできないわ。由紀夫さんには事情があるから。」
世話好きなれい子に朋美はそれをやめさせた。
「そうなの?でも人間は動物なんだし、食べることをしないと、だめになるわよ。せめてお菓子だけでも食べるとか、そういうことしたら?富士から長旅してきたんだったら、おやつがいるわよ。」
れい子がそういうと、駅員さんが、ここは駅なので外へ出てほしいといった。もうすぐ、トロッコ列車が到着するという。朋美たちはその通りにして駅の外へ出た。
「ここは山の音が聞こえるんですね。空気はいいし、鳥の声も綺麗。都会では絶対聞かない声です。」
由紀夫がそういうと、れい子は由紀夫に、泊るところはと聞いた。静岡市内にでも泊まろうかと考えていると由紀夫が答えると、れい子はせっかく来たのだし朋美の家に言ったらどうかといった。信雄さんもそれに賛同してくれて、全員、朋美の家である旅館に向かった。
幸い、朋美の家の旅館は、まだ予約が入っていなかったので、部屋を使っていいと泉が許可してくれた。れい子は勝手に、由紀夫たちを一番いい部屋へ案内してしまった。部屋には多少段差もあったけど、信雄さんとれい子が協力して、何とか由紀夫を部屋に入れた。
「えーと由紀夫さんって言ってたよね。あたし、れい子。朋美とは、子供のころから親友よ。一体どうして朋美に会いにこんな山奥まで来たのよ?」
「ええ。理由は一つしかありません。朋美さんに会いたいからです。」
由紀夫は、れい子の質問に答えた。
「じゃあ、れい子とは、どういう関係だったの?どこで出会ったの?」
「富士の国高等学校で、クラスメイトだったんです。」
由紀夫がそういうと、れい子はなるほどと大げさに反応した。
「そうなんだ。朋美も、様になったわね。クラスメイトで、こんな男を、こっちへ連れてくるなんて。ここは不便じゃない?電車の本数も少ないし。」
「そうなんですけどね。でも、お会いできたからよかったですよ。それに井川線から見た湖上駅も素敵でしたよ。」
「お世辞が上手ねえ。さすが都会の人だわ。」
そういって由紀夫と話しているれい子に、朋美は、なんだか、嫌な気持ちというか、ちょっと変な気持ちを抱いてしまい、れい子にこういってしまうのだった。
「やめてよれい子。そんな質問攻めにして、もし何かあったらどうするの?」
「何かあっても何もしないわよ。そこにいる、暴力団顔負けのおじさんが、何とかしてくれるでしょ。」
れい子は信雄さんを顎で示した。
「いやだそんなこと言って。」
「いやいや、れい子さんみたいに明るくて面白い人は、富士にはなかなかいませんよ。」
信雄さんは、髪の毛をかじりながら、そう苦笑いをした。それと同時に、
「お昼ができたよ。自然薯のお好み焼きだよ。」
泉が、大きな皿に入った、自然薯入りお好み焼きをもってやってきた。
「自然薯?それなんですか?」
由紀夫は珍しそうに聞く。
「山芋の一種で、栄養満点。どんな病気の人だって、これをたべれば元気百倍。」
泉ばあちゃんは、昔の人らしく言った。確かに自然薯というのは栄養価の高いものとして知られているが、由紀夫がまた吐き出してしまうのではないかと、朋美は緊張した。しかし、ばあちゃんは、由紀夫の前にも自然薯お好み焼きを置いた。れい子と信雄さんが頂きますと言って、おいしそうにそれにかぶりついたのを見た由紀夫は、それならばと自然薯お好み焼きを食べた。
「味はどうね?一応、一般的なソースで味付けしてあるんだけどね。」
ばあちゃんが言うと、
「ええおいしいです。生まれて初めて食べました。こんなお好み焼きがあったとは、知りませんでした。」
と、由紀夫は感想を言ってくれた。そのまま、吐き出してしまうかなとれい子は思ったが、由紀夫はそれをしないで、もう一切れ、自然薯お好み焼きを食べている。
「由紀夫さんが食べてる!由紀夫さんが、お好み焼きを食べてるわ!」
れい子が、何を言ってるんだという顔で朋美を見たが、
「すごいすごい!確かにすごい!由紀夫さんが食べてる!由紀夫さんが、吐き出さないで食べている!」
朋美は、涙をこぼしてしまった。誰も彼女を非難するものはなく、信雄さんがそっとハンカチを貸してくれたが、朋美は、涙が止まらなかった。
「本当に生まれて初めて食べたの?」
れい子が聞くと、
「そうなんです。自然薯というものが存在することすら知りませんでした。こんなにおいしいものだったなんて初めて知りましたよ。うちでは、自然薯なんて欲しくても買ってくることできないでしょ。そう考えてみると貴重な食べ物ですよね。」
と、由紀夫は、にこやかに笑って言った。信雄さんまでが、ピー助が久しぶりに笑ってくれたと言って、男泣きに泣き出す始末だった。泣いている二人をしり目に、れい子と由紀夫は、自然薯お好み焼きを完食した。泉ばあちゃんが、もっと食べるかいと聞く。由紀夫とれい子はお願いしますと答えると、ばあちゃんはちょっと待ってなと言って台所へ戻っていった。
しかし、接阻峡温泉駅には、また別のトロッコ列車が到着していた。そこから降りてきたのは、いかにも上流階級という雰囲気を漂わせている、女性二人。
「まったく、電車が走っていると思ったら、路線バスよりも遅くて、一時間以上かかるなんて、腹の立つ電車だわ。」
駅を歩きながら、常子さんが言った。
「駅前に食堂もコンビニもないし、きっと由紀夫はすぐに帰ってくるわよ。」
ひろ子さんがそういってなだめたが、
「そうかしらね。だってあの子は、信雄さんまで巻き込んだのよ。ここへ来たいというなら、私に真っ先に言うはずでしょ。それなのになんで信雄さんに。」
常子さんはそういうのだった。
「まあね、常子。由紀夫も、そういう面では大人になったというべきなんでしょうね。きっと、そういうことなのよ。」
ひろ子さんはそういうのであるが、
「お母さんは、由紀夫と私とどっちの見方なのよ。」
と常子さんがきつくいったため、それ以上は言わなかった。二人の婦人は、接岨峡温泉駅の駅舎に入って、先ほどの駅員に切符を渡して、菅原朋美という人はどこに住んでいるのかと尋ねた。駅員が、道順を教えると、どうも有難うございますと二人は言って、さっそくその道を歩き始めた。確かに、信号機は少ないが、坂道ばかりで歩きにくいところだった。常子さんは、こんな道をはたして由紀夫は通ったのかと愚痴を漏らした。
「ほら、菅原って書いてある。ここよ。」
ふいにひろ子さんがそういうことを言った。やや一般的な家より大きいだけの簡素な旅館であった。大規模な旅館ではないことに、常子さんは、バカにしたような顔をして、こんな所になんで由紀夫がと言っていた。
「ごめん下さい。」
ひろ子さんが、その建物の入り口の引き戸をたたいた。
「はい。何の御用でしょうか?」
応答したのは、泉ばあちゃんだった。
「あの、私どもは江川と申しますが、そちらに、孫の江川由紀夫と、大海信雄という人間がいらしていないでしょうか?」
ひろ子さんがそう聞くと、
「おりますけど、何のようなんですかね?」
泉ばあちゃんは聞いた。
「当り前じゃないですか。由紀夫を連れ戻しに来たんです。あの子、私の許可もないのに、こっちへ来たんですよ。それも信雄さんという使用人まで巻き込んで。」
常子さんが少し高ぶってそう答えると、
「そうですかね。それは、囚人施設から由紀夫君は逃げたかったのではありませんか?」
と泉ばあちゃんは答えた。
「囚人施設って、由紀夫は、あたしたちの家のものです。それに学校にだってようやく行き始めたんです。それをこんな田舎の娘が、あの子をたぶらかして、ここへ連れてきてしまったんですから、取り戻しに来たのは親として当然でしょう!」
常子さんがそういうと、
「本当にそうでしょうか?」
と泉ばあちゃんは言った。
「うちの朋美が、由紀夫さんをたぶらかしたのではなく、由紀夫さんが、こっちへ来たくて、ここへ来たのではありませんか?」
「何を言ってるんですか。由紀夫は歩けないんです。そんな子が、こんなど田舎で暮らしていけるわけがないじゃありませんか。さっきの駅だって、荒れ放題でひどいもんでした。なんでこんなところに来たのか。由紀夫はたぶらかされた、洗脳されたしか思えません!」
そういう常子さんに、
「じゃあ、今から、見る風景は、偽物だというのですかね?」
と泉ばあちゃんはそういって、彼女たちを、部屋へ通した。そこは、由紀夫や朋美たちがいる部屋だ。ばあちゃんがふすまを開けると、中には、朋美、れい子、そして由紀夫が居て、朗々とした声で、炭坑節を歌っている信雄さんを楽しそうに眺めていたのだった。由紀夫は、朋美から渡された自然薯のお好み焼きを、おいしそうに食べていた。常子は、吐き出してしまうのではないかと思って、すぐに由紀夫のところへ駆け寄ろうとしたが、泉ばあちゃんがそれを止めた。それと同時に、部屋の中では、由紀夫たちが食べている、せんべいのおとが、とてもいい響きで鳴り渡った。
「由紀夫!」
常子さんは、そういったのであるが、由紀夫さんは、返事をしなかった。信雄さんが歌うのをやめて、
「ああおかみさん。すみませんね。由紀夫さんが、どうしても朋美さんに会いたいって聞かないもんですからね。」
といった。常子さんは謝りなさいといったが、
「でも、寂しがり屋の由紀夫をああして愉快にさせてくれたんだから、許してやるべきではないの!」
と、ひろ子さんに言われて、それ以上は言えなかった。
「じゃあ、信雄さん、もう一回歌ってよ。今度はもっと明るい歌がいいわよ。」
朋美がそういったため、信雄さんは、線路は続くよどこまでもをうたった。よく通る声で、部屋によく響いた。それと同時に、由紀夫が車いすのポケットからフルートを出して、信雄さんに合わせて吹き始める。常子さんは、二度と吹けないと思っていたフルートを由紀夫が吹いているので、この時点で私たちの負けだと確信した。
「へえ、フルート、上手だねえ。どこか地元のブラスバンドに入ったらどう?それくらいうまいよ。」
泉ばあちゃんがそういって由紀夫をほめると、
「いいえいいえ、もうこの体になって、フルートは楽しみで吹いているだけです。何の役にも立ちませんよ。」
と由紀夫は言うのであった。
「そうかな?でも、駅でお客さんに吹いて聞かせるとか、そういうことしてもいいと思うけど?何なら、ここら辺の公会堂借りて、コンサートしてもいいし。」
れい子が明るくにこやかに言った。
「ここでは人も、そんなに怖い人はいないんですよ。だから、もしかすると、由紀夫君みたいな人は暮らしやすいのかもしれないです。」
泉ばあちゃんがそういうと、
「何を言うんです。車いすに対応した設備も、駅にはスロープもないじゃない。それに信雄さんの助けがなければ、あなたはここに来られなかったのよ。あなたが暮らしていくには、都会に戻るしかないのよ。」
と、常子さんがそういい返した。しかし、ひろ子さんはすぐに、
「でも由紀夫はここで、自然薯のお好み焼きを食べたんだよ。あの何にも食べれなかった子が、食べたんだよ。それには自然のありがたさを感謝しなくちゃ。」
と、常子さんを訂正した。
「さあ、帰りましょう。こんなところに居たってろくなことがないわ。すぐに帰って、勉強しなくちゃ。遅れた分を取り戻さないとね。」
「いやだよ、お母さん。」
由紀夫さんは、常子さんにはっきりといった。
「僕はお母さんにいつも従うペットではないんだ。」
「何を言っているの。あんたは、歩けないのよ。ここには、歩けない人間に考慮した場所などどこにもないのよ。あんた一人では、暮らしてなんか行けないの。そういうことなら、障碍者に配慮した、設備や交通機関がある、富士に戻って、また幸せに暮らしましょう。」
常子さんは、そういうのであるが、
「でも、ここには。」
由紀夫さんは言った。
「便利な設備はないけど、素敵な山がある。おいしいものもある。そして何より優しい人たちがいる。それだけあれば、十分だよ。」
「きっとね、子供は必ず親から離れていきますよ。それは、喜ばしいことだと思わなくちゃ。由紀夫さんが、ここで暮らしたいと言い出したら、やっと、その時が来たんだと、喜んで送り出してやるべきじゃないですか?」
優しい声で泉ばあちゃんが言った。朋美は一言、
「本当に、由紀夫さんが、ここで自然薯を食べてくれた時、あたし、心から感動しました。それは、都会では絶対できなかったことです。」
と、涙をこぼしていった。
朋美やれい子たちのまなざしを見て、常子さんは一言、
「私の負けだわ。」
と、小さな声で言った。
「そうね。由紀夫は、私たちのペットではないんだし。あんたの意思で、そうしたいのなら、ここで暮らしなさい。」
ひろ子さんが年寄りらしくそういうと、信雄さんが、でかい声で高砂の歌を歌いだした。朋美は、生まれて初めて自然薯を食べたという由紀夫さんを、とてもうれしそうな目で、穏やかに見つめていた。
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