井川線の女
第二部 江川家の内戦
朋美は、その日から江川家の人たちと暮らすことになった。江川家の空き部屋は、いくら空き部屋と言っても、ベッドもあり机や椅子もちゃんとあり、一人の人間が暮らせるようにはなっている。由紀夫は、以前は、何人か住み込みで修行していたパン職人もいたので、その人達のために用意してあったといったが、今は信雄さんを始め、職人たちは、自宅から通うか、それともアパートを借りるなどしてしまうので、あっても意味がないと言っていた。空き部屋には台所も用意されていたが、使用人ではないので一緒に御飯を食べて良いと朋美はひろ子さんに言われた。その魂胆はよくわからなかったけれど、そう言われたのだった。テレビはなかったけれど、普段からテレビが嫌いだった朋美はそれは必要ないと思った。
とりあえず、与えられた部屋の中で荷物を整理するなどしていると、
「お食事ができましたよ。」
とひろ子さんの声が聞こえてきた。朋美は急いで、
「すぐ参ります。」
と言って、食堂へ直行した。食堂は広々していて、内容もまた豪勢だった。もちろん売れ残ったパンを食べるということでもあったけれど、それが朋美には豪勢に見えてしまうのだった。常子さんが、売れ残ったパンばかりでつまらない食事ですけど、食べてくださいと言って、朋美にピザを差し出した。その隣には、由紀夫が車椅子でいたのであるが、朋美はあれと思った。ふつう、男性が上座を占めるものだが、この家では、ひろ子さんと常子さんが上座に座っており、由紀夫さんは、台所の入口近くに座っているのだ。
「じゃあ、いただきます!」
ひろ子さんの合図で、みんな思い思いパンにかぶりついた。とても美味しそうに食べているんだけど、由紀夫だけは、黙ったままパンを口にするのだった。なんだかこの家の食事は変なところがあるなと、朋美は直感的に感じ取った。
「それでは、ごちそうさま。」
ひろ子さんがそう言って、本日の食事は終了した。もちろんパンは美味しかったし、コーヒーも良い香りがして美味しいものであったが、由紀夫はすぐに台所にいってしまった。ひろ子さんはにこやかに笑って、
「お疲れでしょうから、もう部屋に入って休んでもいいですよ。」
と、朋美に言った。
「ありがとうございます。これから、お世話になりますが、あたしはわざわざここに来なくても、自分で、」
朋美はそういいかけるが、
「いいえ、あなたには、毎日ここで食事をしてもらいますよ。自分でできるとか言っても、どうせインスタントとか、そういうものでしょ。それでは、何もエネルギーにはなりませんよ。」
ひろ子さんは、そういうのであった。朋美は、とりあえずその日は
「そうですか。よろしくお願いします。」
とだけ言っておいた。
「いいえ、これからも由紀夫をよろしくお願いします。」
と、ひろ子さんはいう。そんな彼女を見てなにかわけがあるのかなと朋美は考えたが、それは言わないでおいた。
「それでは、今日はおやすみなさい。よくお休みください。美希さん、彼女を、部屋まで案内してやってちょうだい。」
ひろ子さんがそう言うと、美希さんと呼ばれた女性は、わかりましたと言って、朋美を部屋まで連れて行った。
「風呂は、19時から入れますから、好きな時間に入ってくださいね。」
美希さんは少々きつく言って部屋を出ていった。
しばらく経って、朋美が持っているスマートフォンの時計が19時を示したので、朋美は風呂に入らせてもらおうと思い、部屋を出た。大邸なので、風呂がどこなのかわからなくなってしまって、眼の前のドアをがちゃんと開けてしまうとそこは食堂だった。
「あ、すみません。あの、お風呂はどこでしょうか?」
朋美が聞くと、中にはひろ子さんと常子さんがいた。急いで常子さんが、
「ああ、一階の廊下を歩いて右に曲がったところよ。」
と彼女に言ったので、朋美はわかりましたと思って部屋を出た。しかしなんだか気になって、ドアに耳をつけて話を聞いてしまった。
「もうお母さんには話はしたと思いますが、由紀夫は私が大学へいかせます。それでよろしいと思ってください。それでもう私たちのところには構わないでください!」
と、常子さんが言っている。
「何を言ってるの。この店の援助がなければ、あんたも由紀夫もやっていけないことは、知ってるじゃないか!」
ひろ子さんは、そう言うのだった。
「そうかも知れないんですけど、由紀夫のことは、あたしが働いて、それで大学へいかせます。せっかくこれから、高校へ行き始めたのに、あなたが、この家に取り込ませようとしているなんて、由紀夫が可哀想すぎるじゃありませんか!」
そう常子さんは言っていた。
「でも、現実問題、もう由紀夫だって、26なのよ。そんなんで大学いかせるよりは、もうこの店で働かせて、ちゃんと生活して行くように仕向けるのがふつうだと思わなくちゃ。それにね、あたしはわかるけど、世の中学歴なんて、どうでも良いものなのよ。例えばここで働いているのぶちゃんだって、学歴は何にもないけれど、ちゃんとパン職人をしているじゃないか。それと一緒だと思えば、由紀夫だって。」
「そんな昔の話を持ち出さないでよ。今は時代が違うのよ。そんな腕のいい職人であっても、幸せとは言い難いじゃありませんか。それを由紀夫にもお母さんは押し付けるつもりですか!」
「じゃあ何?何が幸せなの?」
ひろ子さんは、反抗する常子さんに言った。
「信雄ちゃんも、紀夫さんだって一生懸命パン職人やって、幸せだったんじゃないの?そりゃ、紀夫さんは、外に女を作って出ていったけど、それは体力がないから。信雄ちゃんは一生懸命パンを作ってる。そういう人たちのことを、あんたは不幸だって言うのかい!」
そう言われてしまうと、常子さんは困ってしまうようである。
「きっと、紀夫さんは、お母さんのそういうところが辛かったから、そういうきついところが嫌で、私に黙って出ていったのよ。」
常子さんは言った。
「まあ、パン屋には向かなかっただけ、体力がなかっただけのことよ。あたしが紀夫さんに何をした?なにか暴力でもしたというの?そんなこと全然ないでしょう?」
「そうだけど、、、。」
ひろ子さんに言われて常子さんは、何も言えなくなってしまうのであった。確かに、常子さんの夫だった人物は紀夫さんというパン職人であった。それは事実である。
「そういうわけでもないんだから、紀夫さんはただ体力と精神力がなくて、パン屋に向かなかっただけ。でも由紀夫は、紀夫さんとは違うのよ。由紀夫は紀夫さんだけではなくて、この家の子供でもあるの。それは忘れないように。」
ひろ子さんは昔の人らしい事を始めた。
「お母さんは、必ずそういう事言うんですね。だから、」
「だから何!由紀夫にとっても、大人がこういうふうに生きると示してやることは、必要なのではないの?あんたみたいにね、好きな音楽の道へ進ませるって言っても、どうせあんたは足を棒にして働くことしかできなくて、由紀夫のこと何も構ってやれなかったじゃないの!だから由紀夫が、大学の入試に失敗して、自殺未遂して、ああいう体になったんでしょうが。だからね、好きな仕事とか、そういうことは許しませんよ!そういう曖昧な態度を大人が取ってるから、由紀夫も、道に迷って堕落してしまうんじゃない。そういう失敗を二度としたくない。その思いで私は由紀夫に高校へ行けって言ったのよ!それがなんだって言うの?」
ひろ子さんの言うことは筋が通っていた。だからこそ、常子さんは辛いのであった。そうか、この家も、決して家族円満ではないんだなと朋美は思った。やがてすすり泣くこえが聞こえる。
「常子、あんたが泣いてどうするの。由紀夫の母親は、あんたしかいないのよ。それだって、大事なことなのよ。ほら、戻りなさい!」
ひろ子さんに言われて、椅子から立ち上がる音がした。朋美は、先程のことなど忘れて、急いで部屋に戻ってしまった。
翌朝、またパン中心の食事であったが、朝食が出されたと、美希さんから呼び出しがあって、朋美は部屋を出て食堂に向かった。急いで食卓につくと、由紀夫と、ひろ子さん、そして常子さんが待っていた。常子さんとひろ子さんは、昨日の喧嘩がまだ残っているらしく、ちょっときつい表情をしている。みんなの前に、食パンが出され、またひろ子さんの合図で、いただきますという挨拶のあと、パンを食することになった。由紀夫もひろ子さんも、常子さんも皆いつもと変わらないでパンを食べているが、なんだかぎこちない様子でもあった。
「ごちそうさま。」
由紀夫は、車椅子でテーブルから出ていった。朋美も急いで、
「ごちそうさま。」
と言って、由紀夫の後をつけていく。由紀夫が向かったのは、台所だった。由紀夫は流しに向かって、車椅子を動かしていた。なにをするんだと思ったら、喉に指を突っ込んで、先程食べたパンを勢い良く吐き出す。
朋美は声が出なかった。それを由紀夫は毎回繰り返していたんだなと思っていたのであるが、なんだかそれを止めてしまうのは、行けないような気がしてしまうのであった。昨日の常子さんとひろ子さんの喧嘩の代償がここにあるのではないかと、思ってしまった。とりあえず、その日は、何でもないふりをして、その場を離れようと思ったが、
「何をしてるんですか?」
という声がした。誰だろうと思ったら、家政婦の美希さんだった。
「ああ、あの、また道がわからなくなってしまって。」
朋美はそれだけそういったのであるが、
「いいえ違うでしょ。あなた、この家を引っ掻き回しにここへ来たの?」
と美希さんは言うのであった。
「あの美希さん。あたしは、そんな思いをするわけじゃなくて。」
朋美はわざと明るくそういったのであるが、
「いいえ、中崎さんと呼びなさい。見ては行けないモノを見てしまったあなたには、それなりの懲罰が下るということを覚えておきなさい!」
と中崎美希さんは、そういうのであった。
その日も、朋美は授業があったので学校へ行った。しかし、由紀夫は特別授業のため学校に残り、朋美だけ先に帰った。帰ってくると、いつもは、ひろ子さんが待っていてくれるのに、今日は、中崎美希さんが待っていた。
「おかえりなさい。朋美さん、これからは、あなたにも、家事を覚えてもらうわね。まず洗濯してちょうだいね。それから掃除も毎日お願いね。」
中崎さんはそういうのであった。朋美は朋美で、ある程度の家事は慣れていたため、文句も言わず、洗濯機を回して、部屋の掃除をした。でも、大きな邸宅だから、掃除をするにはかなり時間がかかったけれど。朋美は、宿題をしようと部屋へ戻ったが、中崎さんが部屋にやってきて、
「明日も、庭の掃除と、部屋の掃除はやっておいてくださいね。」
と、朋美に言った。
「なんで私が、部屋の掃除を?」
と、朋美が言うと、
「ええ、由紀夫さんの大事なところを見てしまった以上、ちゃんとやってもらいますよ。」
中崎さんは言うのだった。なんだか、そういう事を言われて、朋美は、どうしたら良いのかなと思ったけれど、中崎さんは、ちゃんとやってちょうだいねといって部屋を出てしまうのである。それほど、由紀夫さんの事は重大だったのだろうかと思ったけれど、他の人はそれを何も言わなかった。
翌日、朋美は、部屋の掃除をし、庭の掃除をした。竹箒で庭をはいていると、由紀夫が信玄餅を持ってきてくれたりしたが、とても食べる気にはなれなかった。由紀夫も、信玄餅を食べても、吐き出してしまうのだろう。朋美はなぜ、食べようとしても吐き出してしまうのか、由紀夫に聞いてみたかったが、その前に中崎さんがやってきて、
「ほら、まだ、池の掃除が残ってるわよ!しっかりやりなさい!」
というのである。
「中崎さん、この人は何も悪いことはしてません。」
由紀夫がそう言うが、
「いいえ、あなたのためですよ。」
と、中崎さんは言った。
「僕のため?それがなんだって言うんです?」
由紀夫がそう言うが、
「由紀夫さんは頑張って宿題をして、ちゃんといい成績取ってくださいね。常子さんから言われてるんです。大学へ進学するようにって。」
中崎さんは言った。
「常子さん?母が、中崎さんにそんなこと言ったんですか。」
由紀夫さんがそう言うと、
「ええ、いいましたとも。だから由紀夫さんはしっかり勉強して、せっかく高校にも入り直したんだし。だからお母さんの期待に答えてあげるように、勉強して、いい成績取ってちょうだいね。」
中崎さんは、そういった。
「僕は、大学へ行く意思はありません。高校に行くと行ったのは、ただ、知識が必要だと思ったから行ったんです。」
由紀夫はそういうのであるが、
「いいえ、常子さんは、そう言ってますよ。もう一度、大学へ行って、頑張ってもらえれば必ず食事もできるはずだって。そのためにも、あなたには勉強は頑張ってもらいましょうね。」
中崎さんはそれを無視したのであった。
「さあ、それでは、朋美さんだっけ。すぐに池の掃除を続けてちょうだいね。由紀夫さんは、宿題をしに、部屋へ戻りましょうね。」
中崎さんは、由紀夫を部屋へ連れ戻してしまった。それを本人の意思で制御できないのが、本当に辛いところだった。
朋美は、毎日、庭の掃除や、床の掃除などを強いられた。そのうち、あのパン職人の信雄さんも、屋敷へ尋ねてくることはなくなった。あのときは、4人で食事をすることだってできたのに、なんだかそれが、辛いものになってしまった。一応、売れ残りのパンと言うことで、パンが与えられたけど、それだって美味しいとは感じなかった。一方の由紀夫は、学校の勉強をして、宿題もちゃんとやった。でも、ちゃんとご飯も食べることはなくて、度々、台所の流し台で、吐き出してしまうのが度々目撃された。車椅子だから、立ち上がって隠れてやるということができなかったのである。
そんな日々が続いて、朋美はなぜこの邸宅にいなければ行けないのかなと思うようになった。ある日、いつも通りに、中崎さんから、池の掃除を言い渡された朋美は、いつも通り竹箒とちりとりを持って池の前に経ったのであるが、、、。
それから、夕方になっても、朋美が池の掃除終わりましたと戻ってこないので、
「朋美さんどうしたんですかね?」
と、由紀夫が聞いた。中崎さんは、それに気にしないで、勉強を続けなさいといったが、
「でも、朋美さんはなんで戻ってこないんですかね?中崎さん、見に行ってきてくれますか?」
由紀夫がそういったため、中崎さんは仕方なく、池のほうへ行ってみると、池の中で仰向けに浮いている朋美を見つけてキャーッと言う声を上げる。すぐに、他の人達が呼ばれ、みんなで朋美を救出した。幸いにも、飛び込んでからさほど時間が経っていなかったため、命に別状はなかったが、由紀夫たちはお医者さんからはえらく叱られた。
数時間経って、朋美は、意識を取り戻した。隣に、車椅子に乗った由紀夫が彼女を心配そうに眺めていた。
「もう帰った方がいいって言われました。」
と、由紀夫は、朋美に言った。
「帰る?」
朋美はぼんやりしたままそう言うと、
「はい。奥大井にですよ。ここでは、あなたは静かに暮らせないからって。」
由紀夫はそういうのであった。
「奥大井に帰ったって、どうせまた、あの山岡っていう医者が、なにか言ってくるに決まってるわ。あたしは、捨てられたのよ。ちゃんと教育を受けたほうがいいって、それで捨てられて。」
朋美はそういうのであるが、
「いいえ、あなたはやはり、こういうところよりも、奥大井の井川線の、静かなところで、過ごしたほうがいいんじゃありませんか。だって、そうやって、自殺未遂したのが、何よりも証拠じゃないですか?」
由紀夫に言われて、朋美は認めざるを得なかった。
「僕の方こそすみません。中崎さんのちからがないと僕も暮らしていけないことはわかっていますので。中崎さんは、悪い人ではないんです。ただ、考えることが極端すぎるだけで。ほんと、人間ってわからないですよね。同じものを食べていても、全然考えることは違うんですね。みんな、僕が悪いんだってわかるから、僕はどうしても、周りの人には逆らえなかった。」
「由紀夫さんが悪いわけではないですよ。」
朋美は、小さな声でそういった。
「だって、どうせあたしたちなんて、ただのお荷物さんであるだけなんだし。どうせ、ここにいても、奥大井に帰っても、あたしは障害者でお荷物さんです。みんなから、嫌われてしまうだけ。だから、もう生きてなくてもいいやって本気で思っちゃった。人間は違うってあなた言ったけど、本当はそうじゃないのかもしれませんわ。」
「ありがとうございます。」
由紀夫は、朋美に言った。
「本当に、毎日楽しく暮らせればそれでいいなって、思っただけなんですけど。それは、全然できないですね。それだけだったのに。本当にそれだけだった。」
由紀夫はそう言っているが、
「いいんです。由紀夫さんは大学へ合格に向けて、しっかり勉強してください。そうしないとお母様のメンツが立たないわよ。」
と、朋美は初めて笑って返事をしたのであった。
それから数日後、朋美は、富士駅へ戻っていった。由紀夫は見送りたいといったが、中崎さんがそれを許さないようで、行くことはできなかった。一方、パン職人の信雄さんは、せっかくピー助に遊び相手ができたのによ、と悔しそうだった。朋美は、江川家の人たちが、どういう顔をしているかなんて考えないようにしようと思いながら、浜松行の電車に乗って、金谷駅に向かった。もう、こんなところには二度とくるものか。朋美はそう思っていた。
とりあえず、与えられた部屋の中で荷物を整理するなどしていると、
「お食事ができましたよ。」
とひろ子さんの声が聞こえてきた。朋美は急いで、
「すぐ参ります。」
と言って、食堂へ直行した。食堂は広々していて、内容もまた豪勢だった。もちろん売れ残ったパンを食べるということでもあったけれど、それが朋美には豪勢に見えてしまうのだった。常子さんが、売れ残ったパンばかりでつまらない食事ですけど、食べてくださいと言って、朋美にピザを差し出した。その隣には、由紀夫が車椅子でいたのであるが、朋美はあれと思った。ふつう、男性が上座を占めるものだが、この家では、ひろ子さんと常子さんが上座に座っており、由紀夫さんは、台所の入口近くに座っているのだ。
「じゃあ、いただきます!」
ひろ子さんの合図で、みんな思い思いパンにかぶりついた。とても美味しそうに食べているんだけど、由紀夫だけは、黙ったままパンを口にするのだった。なんだかこの家の食事は変なところがあるなと、朋美は直感的に感じ取った。
「それでは、ごちそうさま。」
ひろ子さんがそう言って、本日の食事は終了した。もちろんパンは美味しかったし、コーヒーも良い香りがして美味しいものであったが、由紀夫はすぐに台所にいってしまった。ひろ子さんはにこやかに笑って、
「お疲れでしょうから、もう部屋に入って休んでもいいですよ。」
と、朋美に言った。
「ありがとうございます。これから、お世話になりますが、あたしはわざわざここに来なくても、自分で、」
朋美はそういいかけるが、
「いいえ、あなたには、毎日ここで食事をしてもらいますよ。自分でできるとか言っても、どうせインスタントとか、そういうものでしょ。それでは、何もエネルギーにはなりませんよ。」
ひろ子さんは、そういうのであった。朋美は、とりあえずその日は
「そうですか。よろしくお願いします。」
とだけ言っておいた。
「いいえ、これからも由紀夫をよろしくお願いします。」
と、ひろ子さんはいう。そんな彼女を見てなにかわけがあるのかなと朋美は考えたが、それは言わないでおいた。
「それでは、今日はおやすみなさい。よくお休みください。美希さん、彼女を、部屋まで案内してやってちょうだい。」
ひろ子さんがそう言うと、美希さんと呼ばれた女性は、わかりましたと言って、朋美を部屋まで連れて行った。
「風呂は、19時から入れますから、好きな時間に入ってくださいね。」
美希さんは少々きつく言って部屋を出ていった。
しばらく経って、朋美が持っているスマートフォンの時計が19時を示したので、朋美は風呂に入らせてもらおうと思い、部屋を出た。大邸なので、風呂がどこなのかわからなくなってしまって、眼の前のドアをがちゃんと開けてしまうとそこは食堂だった。
「あ、すみません。あの、お風呂はどこでしょうか?」
朋美が聞くと、中にはひろ子さんと常子さんがいた。急いで常子さんが、
「ああ、一階の廊下を歩いて右に曲がったところよ。」
と彼女に言ったので、朋美はわかりましたと思って部屋を出た。しかしなんだか気になって、ドアに耳をつけて話を聞いてしまった。
「もうお母さんには話はしたと思いますが、由紀夫は私が大学へいかせます。それでよろしいと思ってください。それでもう私たちのところには構わないでください!」
と、常子さんが言っている。
「何を言ってるの。この店の援助がなければ、あんたも由紀夫もやっていけないことは、知ってるじゃないか!」
ひろ子さんは、そう言うのだった。
「そうかも知れないんですけど、由紀夫のことは、あたしが働いて、それで大学へいかせます。せっかくこれから、高校へ行き始めたのに、あなたが、この家に取り込ませようとしているなんて、由紀夫が可哀想すぎるじゃありませんか!」
そう常子さんは言っていた。
「でも、現実問題、もう由紀夫だって、26なのよ。そんなんで大学いかせるよりは、もうこの店で働かせて、ちゃんと生活して行くように仕向けるのがふつうだと思わなくちゃ。それにね、あたしはわかるけど、世の中学歴なんて、どうでも良いものなのよ。例えばここで働いているのぶちゃんだって、学歴は何にもないけれど、ちゃんとパン職人をしているじゃないか。それと一緒だと思えば、由紀夫だって。」
「そんな昔の話を持ち出さないでよ。今は時代が違うのよ。そんな腕のいい職人であっても、幸せとは言い難いじゃありませんか。それを由紀夫にもお母さんは押し付けるつもりですか!」
「じゃあ何?何が幸せなの?」
ひろ子さんは、反抗する常子さんに言った。
「信雄ちゃんも、紀夫さんだって一生懸命パン職人やって、幸せだったんじゃないの?そりゃ、紀夫さんは、外に女を作って出ていったけど、それは体力がないから。信雄ちゃんは一生懸命パンを作ってる。そういう人たちのことを、あんたは不幸だって言うのかい!」
そう言われてしまうと、常子さんは困ってしまうようである。
「きっと、紀夫さんは、お母さんのそういうところが辛かったから、そういうきついところが嫌で、私に黙って出ていったのよ。」
常子さんは言った。
「まあ、パン屋には向かなかっただけ、体力がなかっただけのことよ。あたしが紀夫さんに何をした?なにか暴力でもしたというの?そんなこと全然ないでしょう?」
「そうだけど、、、。」
ひろ子さんに言われて常子さんは、何も言えなくなってしまうのであった。確かに、常子さんの夫だった人物は紀夫さんというパン職人であった。それは事実である。
「そういうわけでもないんだから、紀夫さんはただ体力と精神力がなくて、パン屋に向かなかっただけ。でも由紀夫は、紀夫さんとは違うのよ。由紀夫は紀夫さんだけではなくて、この家の子供でもあるの。それは忘れないように。」
ひろ子さんは昔の人らしい事を始めた。
「お母さんは、必ずそういう事言うんですね。だから、」
「だから何!由紀夫にとっても、大人がこういうふうに生きると示してやることは、必要なのではないの?あんたみたいにね、好きな音楽の道へ進ませるって言っても、どうせあんたは足を棒にして働くことしかできなくて、由紀夫のこと何も構ってやれなかったじゃないの!だから由紀夫が、大学の入試に失敗して、自殺未遂して、ああいう体になったんでしょうが。だからね、好きな仕事とか、そういうことは許しませんよ!そういう曖昧な態度を大人が取ってるから、由紀夫も、道に迷って堕落してしまうんじゃない。そういう失敗を二度としたくない。その思いで私は由紀夫に高校へ行けって言ったのよ!それがなんだって言うの?」
ひろ子さんの言うことは筋が通っていた。だからこそ、常子さんは辛いのであった。そうか、この家も、決して家族円満ではないんだなと朋美は思った。やがてすすり泣くこえが聞こえる。
「常子、あんたが泣いてどうするの。由紀夫の母親は、あんたしかいないのよ。それだって、大事なことなのよ。ほら、戻りなさい!」
ひろ子さんに言われて、椅子から立ち上がる音がした。朋美は、先程のことなど忘れて、急いで部屋に戻ってしまった。
翌朝、またパン中心の食事であったが、朝食が出されたと、美希さんから呼び出しがあって、朋美は部屋を出て食堂に向かった。急いで食卓につくと、由紀夫と、ひろ子さん、そして常子さんが待っていた。常子さんとひろ子さんは、昨日の喧嘩がまだ残っているらしく、ちょっときつい表情をしている。みんなの前に、食パンが出され、またひろ子さんの合図で、いただきますという挨拶のあと、パンを食することになった。由紀夫もひろ子さんも、常子さんも皆いつもと変わらないでパンを食べているが、なんだかぎこちない様子でもあった。
「ごちそうさま。」
由紀夫は、車椅子でテーブルから出ていった。朋美も急いで、
「ごちそうさま。」
と言って、由紀夫の後をつけていく。由紀夫が向かったのは、台所だった。由紀夫は流しに向かって、車椅子を動かしていた。なにをするんだと思ったら、喉に指を突っ込んで、先程食べたパンを勢い良く吐き出す。
朋美は声が出なかった。それを由紀夫は毎回繰り返していたんだなと思っていたのであるが、なんだかそれを止めてしまうのは、行けないような気がしてしまうのであった。昨日の常子さんとひろ子さんの喧嘩の代償がここにあるのではないかと、思ってしまった。とりあえず、その日は、何でもないふりをして、その場を離れようと思ったが、
「何をしてるんですか?」
という声がした。誰だろうと思ったら、家政婦の美希さんだった。
「ああ、あの、また道がわからなくなってしまって。」
朋美はそれだけそういったのであるが、
「いいえ違うでしょ。あなた、この家を引っ掻き回しにここへ来たの?」
と美希さんは言うのであった。
「あの美希さん。あたしは、そんな思いをするわけじゃなくて。」
朋美はわざと明るくそういったのであるが、
「いいえ、中崎さんと呼びなさい。見ては行けないモノを見てしまったあなたには、それなりの懲罰が下るということを覚えておきなさい!」
と中崎美希さんは、そういうのであった。
その日も、朋美は授業があったので学校へ行った。しかし、由紀夫は特別授業のため学校に残り、朋美だけ先に帰った。帰ってくると、いつもは、ひろ子さんが待っていてくれるのに、今日は、中崎美希さんが待っていた。
「おかえりなさい。朋美さん、これからは、あなたにも、家事を覚えてもらうわね。まず洗濯してちょうだいね。それから掃除も毎日お願いね。」
中崎さんはそういうのであった。朋美は朋美で、ある程度の家事は慣れていたため、文句も言わず、洗濯機を回して、部屋の掃除をした。でも、大きな邸宅だから、掃除をするにはかなり時間がかかったけれど。朋美は、宿題をしようと部屋へ戻ったが、中崎さんが部屋にやってきて、
「明日も、庭の掃除と、部屋の掃除はやっておいてくださいね。」
と、朋美に言った。
「なんで私が、部屋の掃除を?」
と、朋美が言うと、
「ええ、由紀夫さんの大事なところを見てしまった以上、ちゃんとやってもらいますよ。」
中崎さんは言うのだった。なんだか、そういう事を言われて、朋美は、どうしたら良いのかなと思ったけれど、中崎さんは、ちゃんとやってちょうだいねといって部屋を出てしまうのである。それほど、由紀夫さんの事は重大だったのだろうかと思ったけれど、他の人はそれを何も言わなかった。
翌日、朋美は、部屋の掃除をし、庭の掃除をした。竹箒で庭をはいていると、由紀夫が信玄餅を持ってきてくれたりしたが、とても食べる気にはなれなかった。由紀夫も、信玄餅を食べても、吐き出してしまうのだろう。朋美はなぜ、食べようとしても吐き出してしまうのか、由紀夫に聞いてみたかったが、その前に中崎さんがやってきて、
「ほら、まだ、池の掃除が残ってるわよ!しっかりやりなさい!」
というのである。
「中崎さん、この人は何も悪いことはしてません。」
由紀夫がそう言うが、
「いいえ、あなたのためですよ。」
と、中崎さんは言った。
「僕のため?それがなんだって言うんです?」
由紀夫がそう言うが、
「由紀夫さんは頑張って宿題をして、ちゃんといい成績取ってくださいね。常子さんから言われてるんです。大学へ進学するようにって。」
中崎さんは言った。
「常子さん?母が、中崎さんにそんなこと言ったんですか。」
由紀夫さんがそう言うと、
「ええ、いいましたとも。だから由紀夫さんはしっかり勉強して、せっかく高校にも入り直したんだし。だからお母さんの期待に答えてあげるように、勉強して、いい成績取ってちょうだいね。」
中崎さんは、そういった。
「僕は、大学へ行く意思はありません。高校に行くと行ったのは、ただ、知識が必要だと思ったから行ったんです。」
由紀夫はそういうのであるが、
「いいえ、常子さんは、そう言ってますよ。もう一度、大学へ行って、頑張ってもらえれば必ず食事もできるはずだって。そのためにも、あなたには勉強は頑張ってもらいましょうね。」
中崎さんはそれを無視したのであった。
「さあ、それでは、朋美さんだっけ。すぐに池の掃除を続けてちょうだいね。由紀夫さんは、宿題をしに、部屋へ戻りましょうね。」
中崎さんは、由紀夫を部屋へ連れ戻してしまった。それを本人の意思で制御できないのが、本当に辛いところだった。
朋美は、毎日、庭の掃除や、床の掃除などを強いられた。そのうち、あのパン職人の信雄さんも、屋敷へ尋ねてくることはなくなった。あのときは、4人で食事をすることだってできたのに、なんだかそれが、辛いものになってしまった。一応、売れ残りのパンと言うことで、パンが与えられたけど、それだって美味しいとは感じなかった。一方の由紀夫は、学校の勉強をして、宿題もちゃんとやった。でも、ちゃんとご飯も食べることはなくて、度々、台所の流し台で、吐き出してしまうのが度々目撃された。車椅子だから、立ち上がって隠れてやるということができなかったのである。
そんな日々が続いて、朋美はなぜこの邸宅にいなければ行けないのかなと思うようになった。ある日、いつも通りに、中崎さんから、池の掃除を言い渡された朋美は、いつも通り竹箒とちりとりを持って池の前に経ったのであるが、、、。
それから、夕方になっても、朋美が池の掃除終わりましたと戻ってこないので、
「朋美さんどうしたんですかね?」
と、由紀夫が聞いた。中崎さんは、それに気にしないで、勉強を続けなさいといったが、
「でも、朋美さんはなんで戻ってこないんですかね?中崎さん、見に行ってきてくれますか?」
由紀夫がそういったため、中崎さんは仕方なく、池のほうへ行ってみると、池の中で仰向けに浮いている朋美を見つけてキャーッと言う声を上げる。すぐに、他の人達が呼ばれ、みんなで朋美を救出した。幸いにも、飛び込んでからさほど時間が経っていなかったため、命に別状はなかったが、由紀夫たちはお医者さんからはえらく叱られた。
数時間経って、朋美は、意識を取り戻した。隣に、車椅子に乗った由紀夫が彼女を心配そうに眺めていた。
「もう帰った方がいいって言われました。」
と、由紀夫は、朋美に言った。
「帰る?」
朋美はぼんやりしたままそう言うと、
「はい。奥大井にですよ。ここでは、あなたは静かに暮らせないからって。」
由紀夫はそういうのであった。
「奥大井に帰ったって、どうせまた、あの山岡っていう医者が、なにか言ってくるに決まってるわ。あたしは、捨てられたのよ。ちゃんと教育を受けたほうがいいって、それで捨てられて。」
朋美はそういうのであるが、
「いいえ、あなたはやはり、こういうところよりも、奥大井の井川線の、静かなところで、過ごしたほうがいいんじゃありませんか。だって、そうやって、自殺未遂したのが、何よりも証拠じゃないですか?」
由紀夫に言われて、朋美は認めざるを得なかった。
「僕の方こそすみません。中崎さんのちからがないと僕も暮らしていけないことはわかっていますので。中崎さんは、悪い人ではないんです。ただ、考えることが極端すぎるだけで。ほんと、人間ってわからないですよね。同じものを食べていても、全然考えることは違うんですね。みんな、僕が悪いんだってわかるから、僕はどうしても、周りの人には逆らえなかった。」
「由紀夫さんが悪いわけではないですよ。」
朋美は、小さな声でそういった。
「だって、どうせあたしたちなんて、ただのお荷物さんであるだけなんだし。どうせ、ここにいても、奥大井に帰っても、あたしは障害者でお荷物さんです。みんなから、嫌われてしまうだけ。だから、もう生きてなくてもいいやって本気で思っちゃった。人間は違うってあなた言ったけど、本当はそうじゃないのかもしれませんわ。」
「ありがとうございます。」
由紀夫は、朋美に言った。
「本当に、毎日楽しく暮らせればそれでいいなって、思っただけなんですけど。それは、全然できないですね。それだけだったのに。本当にそれだけだった。」
由紀夫はそう言っているが、
「いいんです。由紀夫さんは大学へ合格に向けて、しっかり勉強してください。そうしないとお母様のメンツが立たないわよ。」
と、朋美は初めて笑って返事をしたのであった。
それから数日後、朋美は、富士駅へ戻っていった。由紀夫は見送りたいといったが、中崎さんがそれを許さないようで、行くことはできなかった。一方、パン職人の信雄さんは、せっかくピー助に遊び相手ができたのによ、と悔しそうだった。朋美は、江川家の人たちが、どういう顔をしているかなんて考えないようにしようと思いながら、浜松行の電車に乗って、金谷駅に向かった。もう、こんなところには二度とくるものか。朋美はそう思っていた。
「文学」の人気作品
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