井川線の女

増田朋美

第一部 女ばかりの邸宅

静岡の秘境と言われている接阻峡。静かで、のんびりしたその街は、小さな温泉がある程度で、他に観光名所などはない。あるとしたら、山奥の自然があるだけだ。それでもここには人が住んでいて、鉄道駅もあるのだから、驚くばかりだ。
その日、菅原旅館で、20歳の菅原朋美は、いつも通り旅館の入口を掃除していた。朋美は父も母もいなかった。ふたりとも、数年前に起きた大災害に巻き込まれてなくなっている。もう、その事を話返すことはしたくなかった。今は、この接岨峡温泉で祖母の菅原泉がやっている、菅原旅館を手伝っている。朋美は社会に出るのも学校に出るのも嫌だった。もう、ふるさと接岨峡を離れたくないっていうか、遠方へ働きに行くとか、遠方の学校へ学びに行くとか、そんなことはしたくない。そういうことなら大好きなばあちゃんのそばにいたい。それが朋美の考えでもあった。接阻峡には、大きな企業があるわけでもないので、朋美が働くとしたら、菅原旅館を手伝うしかない。それくらい、山の奥の、人の少ない場所であった。
その日、朋美は、親友の須田れい子と一緒に、お米屋さんへお米を買いに出ていた。ところが、店の中に、いつも彼女が買っている、コシヒカリがおいていなかった。米屋の親父さんが、
「ごめんねえ朋美ちゃん。今日はコシヒカリが入ってこなかったのよ。他で我慢して。」
という。れい子は、わかりましたそうしますと言って、他の米の入った袋を取ったのだが、
「それでは困りますよおじさん。うちは、普通の家と違って、お客さんだって入ります。その人達には、家で美味しいご飯を食べてもらいたい。それを怠けるのはいけないことよ。どうしてもコシヒカリが欲しい。なんとかして!」
と、朋美は主張した。れい子が、
「朋ちゃん、ないものはないって諦めた方がいいよ。きっとばあちゃんも許してくれるよ。」
と言ったけれど、
「そういうわけにはいかないわ。お客さんに出すんだからコシヒカリではないと困るのよ。早くコシヒカリを出してちょうだい。」
と、朋美は強く言うのであった。
「朋美ちゃん。入ってこなかったんだから。」
米屋のおじさんは困った顔でそう言うが、そこへ、この地方で唯一の医者というか、菅原旅館の近くでクリニックを開業している、山岡千恵子先生が、店に入ってきた。
「こんにちは。朋美さん。おばあさまがいつまでも戻ってこないから心配してらしたわよ。」
「ああ山岡先生。あたし今、おじさんと大事な話をしてるんです。それが終わってから帰ります。困るんですよ。お米屋さんのおじさんときたら、あたしにコシヒカリを売る気がないんですわ。それで今日は入ってこないなんて、誤魔化そうとしてるんですよ。」
「朋ちゃん考えすぎよ。たまたま入って来なかったと考えればいいじゃない。きっとお米屋さん悪気はないと思いますよ。だけど朋ちゃんは、勝手にコシヒカリを売る気がないとか。」
れい子は、山岡先生にそういうのであるが、
「そんなことないわ!本気でこのおじさん、私達に、コシヒカリを売る気がないのよ。」
と、朋美は感情的に言った。
「朋美さん、それはどうしてそう思うの?おじさんが、あなたにコシヒカリを売る気がないという証拠はどこにあるの?」
山岡先生が朋美に聞く。
「証拠などないわ。でも、このおじさんは前もそうだったからわかるのよ。」
朋美はそう答えるが、
「いやあねえ、本当にコシヒカリは今日は入ってこなかっただけで、それだけのことなんですけどねえ、先生。」
米屋の親父さんは頭をかじっていった。
「そうでしょう。」
と山岡先生はいう。
「勝手な推論でものを言うのはやめようね。朋美さん。そういうのを私達の世界には妄想って言うのよ。それは立派な病気の症状だから、ちゃんとして治療しなくちゃね。今日はそのために来たのよ。」
「はあ。そのためって、もう入院はまっぴらごめんよ。あんな刑務所みたいなところで、一年過ごしたって、何も形はしないわよ。」
朋美は山岡先生にそう言うが、
「取り合えず、お米はここで買って、あなたのお祖母様と一緒に話をしようか。」
と山岡先生は言った。
「はい。」
朋美は仕方なく、別の品種の米を買い、れい子が運転する軽自動車に、山岡先生といっしょに乗って、菅原旅館まで連れて行ってもらった。
「ただいま。」
朋美が、菅原旅館の前へ到着すると、
「どこ行ってたんだい?遅いから心配したんだよ。」
と、祖母の菅原泉が出迎えた。
「ただ、お米屋さんがケチで私達にコシヒカリ売ってくれないから、怒ってきただけよ。」
朋美はそういうのであるが、一緒にいた山岡千恵子先生が、
「失礼いたします。菅原さん。お久しぶりですね。」
と泉に言った。泉は、山岡先生に頭を下げて、ゴセイが出ますねと挨拶した。
「何なのよ。おばあちゃんまでこの先生に頭下げて。あたし、そんなに悪いやつだったかしら。」
「何言ってるの、朋美が入院したとき、山岡先生が、診断書書いてくださったでしょ。」
れい子は、朋美の発言を訂正した。確かに、朋美が医療保護入院になったとき、その診断書を書いたのは山岡先生である。
「そういうことなら、すぐに本題に入らせてもらいますね。」
山岡先生はカバンの蓋を開けて、パンフレットを2つ取り出した。
「なんて書いてあるんでしょ。」
朋美は簡単な漢字も読めなかった。それは入院していたので仕方ないことであったが、
「富士の国高等学校入学案内。」
とれい子が言った。
「実は、富士市に、朋美さんのような精神疾患を持っている方を専門的に教育する学校が、開校することになりました。私も、顧問として、学校に訪問させて頂いていますが、生徒さん、先生方、皆さん良い人ばかりです。それでどうでしょう。朋美さんを、そこへ通わせてみたらいかがでしょうか?」
「何を言ってるの。学校なんて、変な人ばっかり。まっぴらゴメンだわよ。」
朋美は山岡先生の説明にそういったのであるが、
「ええ、確かに若いときはそれで良かったかもしれません。でも朋美さんももう20歳。基本的にふつうの人であれば、進学や就職などして、家から離れて生活しているのが当たり前です。それに、お祖母様だって、もう年なんですし、いつ体調崩されてこの旅館を廃業されるかわからないですよね。そういうことだったら、朋美さんに自分の力で生活してもらう。それが必要なのではないでしょうか。そのために、こういう支援学校があるのです。支援学校ですし、決して威圧的に接してくる教師はいません。どうでしょう、朋美さんを通わせてみたらいかがですか?」
山岡先生は、静かに言った。
「何よ!そんなところ行ったって、何も意味がないわよ。どうせ、辛い思いして傷つくだけよ。」
「朋美さん、そういうところが甘えなんですよ。あなたはお祖母様が亡くなられたあとのことを考えたことがありますか?今のあなただったら、間違いなく、途方にくれてしまうことでしょう。しかし、それを助けてくれる人など正直にいってしまえば、誰もいませんよ。だから、あなた自身で考えて、あなた自身で生活していくすべを身に着けなくちゃ。ここにいるれい子さんだって、ちゃんと仕事を持っているのですからねえ。」
山岡先生はそういった。たしかにれい子は茶畑を手伝っていて、そのために、接岨峡温泉駅から、千頭駅に出ることもしばしばあった。
「それと比べるの?」
朋美は聞いたが、
「比べるんじゃありません。あなたの将来はそれしかないということを言ってるんです。だから、そのためには学校が必要なの。決してあなたを、どこかへやってしまおうとかそう思ってるわけじゃないのよ。むしろ逆なのよ。みんなあなたが将来、こんな何もない街で、一人ぼっちで困ってしまわないようにするために、あなたに訓練を受けるように、勧めてあげているんです。それを気にかけてくれる人がいてくれるだけでもありがたいと思わなくちゃね。」
と、山岡先生は言った。
「そうですね。確かに私も年ですし、朋美とこれから先いられるかどうかもわかりません。それに、息子も嫁も、こないだの大地震でなくなってしまいましたし、ここもいつやられるかわからない。ある日突然、朋美が一人でということもあるでしょう。じゃあ先生、朋美をお願いします。」
泉が、山岡先生に静かに頭を下げる。朋美はまだ嫌そうな顔をしているが、
「朋ちゃん、こういうときは行ったほうがいいわよ。ピンチはチャンスって言う言葉もある。きっとなにかすごいことが学べると思う。頑張って!」
とれい子が応援してくれたので、じゃあそうするわと朋美は同意したのであった。
それから、山岡先生と泉が入学の手伝いをしてくれて、朋美は、富士の国高等学校へ入学することが決まった。高等学校と行っても、全日制の高等学校ではなく、必要な授業の時だけ学校に通う、通信制で単位制の学校であった。学年の区別もなく、74単位を取得すれば卒業できるのだという。
朋美は、何十年ぶりに、接岨峡温泉駅からトロッコ列車に乗って、千頭駅へ出た。その後で大井川鉄道本線に乗って金谷駅へ。なぜか大井川鉄道は新しく駅も増えていて、静岡の名産物を展示したテーマパークのようなものまでできていたが、それは無視して朋美は東海道線に乗り換える。金谷駅から電車で1時間くらいで富士駅につくが、そうなると気軽に帰ってこれる距離ではないなと朋美は思った。
その富士の国高等学校は、富士駅の直ぐ側にあった。特にスクールバスも何も用意されていない。歩いて数分でたどり着けるのが、嬉しい点であった。いわゆる、学校のような建物ではなくて、小さなビルのような建物だった。そこから中に入ると、1クラスしかない小さな教室と、職員室、あと自習室と生徒食堂があるだけであった。
「今日から、この学校の仲間になってくれます。菅原朋美さんです。皆さん仲良くできますね。」
校長先生が、彼女を学校の皆に紹介した。生徒さんは、今のところ4人。皆、ワケアリの人ばかりだというが、確かにそんな雰囲気がある。性別は女性が3人、男性が一人だった。その男性の生徒は、何故か車椅子に乗っていた。高校と言っても、いわゆる高校生の年齢である生徒は一人もおらず、皆、20代から50代くらいの過年生であった。皆、紆余曲折を経てこちらに来たのだと思われた。
「菅原朋美です。よろしくお願いします。」
朋美がそう言うと、
「変な子だわ。」
と、一人の女性生徒が言った。朋美としてみれば、自己紹介したまでのことだが、
「学校に、制服を着てこないなんて、おかしな子よねえ。」
と、と別の女性生徒が言った。
「何を言うんですか。だってこの学校は制服を着るのは任意でいいって校長先生からお話がありました。」
朋美が正直に言うと、
「それがおかしな子だっていうのよ。なんでも思ってること口にして、なんか名刺ばらまいている国会議員みたい。」
と、3番目の女性生徒が言った。このような事は、ふつうの学校ではありえないのかもしれないが、この生徒たちも精神疾患に罹患しているということを、朋美は知らなかったのだった。
「なんですか。私が、そういう悪質な議員さんと同じだと言うのですか。それってちょっとひどくありませんか。」
朋美は、そう生徒たちに言うのであるが、
「何よりも制服を着用してこないのがムカつくのよ。あたしなんて前の学校で、制服の着方がおかしいと言って、首を鷲掴みにされて殴られた経験があるのよ。担任教師にね。」
と一番目の女子生徒が言った。それと同時に、口々に女子生徒たちは前の学校の事を言い始めた。こうなると、担任教師がいくら皆さんやめろといってもきかなかった。支援学校はそういうところが難しいのである。静かにしろと怒鳴っても、なかなか収まらないところだ。
「ちょっと待って!」
いきなり男性の声がした。
「もう彼女ばかりいじめるのはやめようよ。きっと彼女もそのうち制服を着るようになりますよ。」
「でも、制服を着ないのは、やっぱりムカつくわ。」
先程の女子生徒がそう言うが、
「今日だけかもしれないじゃないですか。きっとそのうち、制服を着るようになって、ちゃんと勉強しようって言う意思を示してくれます。大丈夫。それくらいできる人です。」
「そうかあ。ピー助がそういうんだったら、やめたほうがいいかもねえ。」
2番目の女子生徒がそういった。
「まあ、制服着てないけど、勉強する気があるんだったら仲間に入れてあげるわよ。」
3番目の女子生徒がそう言ったので、朋美はやっと席に座らせてもらうことになった。教師から、菅原さんの席はここだと示されると朋美はピー助と呼ばれた車椅子の生徒の隣に座らされた。
その日は、新しい生徒が来たということで、授業を受けるためのオリエンテーションだけで帰ることになった。朋美は、下宿するはずだった場所はどこだっけど、手帳に挟んだメモ用紙を探したが、見つからなかった。精神疾患を持っていると、簡単なことでも忘れてきてしまうこともある。
「あの、菅原さんとおっしゃいましたよね?菅原朋美さん。僕、江川由紀夫と申します。よろしくどうぞ。あだ名はピー助です。」
朋美がメモ用紙を探していると、車椅子の男子生徒が、朋美に声をかけた。
「江川さん?」
朋美が聞くと、
「ええ、江川と申します。江川太郎左衛門英龍と同じ江川です。」
と、男子生徒が言った。
「ああ、そうなんですか。私、江川なんとかっていう人は知らないですけど、江川さんと言うのなら覚えておくわ。先程はありがとうございました。あたしが、バカにされているのを止めてくださって。」
朋美は素直に彼に頭を下げる。
「いいえ、随分礼儀正しいんですね。僕に頭を下げるなんて。あの、失礼ですが、一緒に帰りませんか?」
と、彼が言った。朋美はびっくりして、
「家はどこなんですか?」
と聞いてみると、
「ええ、ここからすぐなんです。富士市の下横割ってところですよ。」
彼はにこやかに答えた。朋美は、そうですかと言って、彼についていくことにした。みんなからピー助と呼ばれている江川由紀夫という男性は、車椅子を自分で動かしながら、学校を出ていった。彼も、一応学生服を身に着けてはいるけれど、それが偉くダボダボのように見えるくらい痩せていて、やつれていた。そんな人物と自分は何をしているのだろうか。朋美は、困ってしまった。
朋美と、由紀夫という生徒は、学校の外へ出た。富士は、流石に朋美からしてみればものすごい大都市だった。車は絶えず走っているし、大きなトラックも走っている。由紀夫は、駅前で止まっていた障害者用のタクシーに乗って、下横割というバスの停留所近くで降ろしてもらった。朋美が、このあたりにホテルはと言いかけたところ、
「あの、よろしければちょっとお寄りになりません?うち、あの家なんですけど。」
由紀夫は一軒の家を顎で示した。
「でもこれ家じゃなくて、パン屋さんじゃない。」
朋美が言うと、
「ええ、うちの祖母と母がやってるんです。」
と、由紀夫はにこやかに言った。朋美は遠慮しようかなと思ったが、充満しているパンの匂いにつられて、由紀夫に言われた通り、中へ入ってしまった。
中へ入ると、二人の女性が彼女を出迎えた。少し雰囲気が由紀夫と似ているので、由紀夫のお母さんとお祖母様だなとすぐわかった。朋美は、自分の名前と、井川から来たということを話すと、随分遠いところから来てくれたんですねと、由紀夫の家族は彼女を歓迎してくれた。すぐに朋美は、食堂へ通され、由紀夫のお祖母様である江川ひろ子が作ったという、カレーパンをご馳走になった。由紀夫も食べるかなと思ったが、それはしなかった。
「ありがとうございます。とても美味しいです。」
朋美はカレーパンを食べ終えると、そうひろ子さんにお礼を言った。それと同時に由紀夫のお母さんである江川常子という女性が、ケーキはいかがですかと彼女に言った。朋美はパンだけで十分だといったが、常子さんは、そんなこと言わないでと言って、彼女にチョコレートケーキを出してくれた。それはとても柔らかくて美味しいケーキだった。
「由紀夫が、お友達を連れてきたなんて、何十年ぶりですよ。やっぱり、学校へいかせて良かったわ。」
と、ひろ子さんが言っている。そういうことであれば、やはり、由紀夫さんもなにかわけがあるんだなと朋美は思った。
「しかし。」
と朋美は言った。
「こちらのお宅は女性ばかりなんですね。」
「まあ、由紀夫が寂しがってたわ。」
ひろ子さんは苦笑いした。部屋の外では、何人か人の声が聞こえてるのだが、すべて女性の声ばかりだからだ。掃除をしている音がするので、多分家政婦さんでも雇っているのだろうと思われるが、それも女性の声だ。もちろん、家政婦さんなので女性であっても当然と言えば当然なのだが。
「おーい、こんにちは。みんな元気かい?」
不意に中年の男性の声がして朋美はびっくりする。
「ああ、母の友達の、大海信雄さんです。」
由紀夫がそう言うと、ガタイのいいおじさんが、部屋へ入ってきた。
「ああのぶちゃん。実はね。由紀夫が、今日同級生を初めて家へ連れてきてくれたんで今歓迎のパーティーやってるの。」
常子さんがそう言うと、のぶちゃんと呼ばれた男性は、
「そうかそうか。じゃあ、おじさんも仲間に入れてくれよ。」
と言って、椅子に座ってしまった。
「はじめまして。菅原朋美です。よろしくお願いします。」
朋美が一礼すると、
「はい。菅原朋美さんね。おじさん、頭が悪いから、名前覚えるの苦手だからさあ。少しずつ覚えさせてね。」
と、言った。ひろ子さんが、改めてお茶にしましょうと言って、みんなにコーヒーを配った。
「それで、朋美ちゃんだっけ?泊まるところは決まったの?」
信雄さんが不意に朋美に聞いた。
「それが、連絡先を忘れてしまって。どこか、ビジネスホテルにでも泊まろうかと。」
朋美が答えると、
「そうなのね。うちに空き部屋があるから、使っていいわよ。そこから学校へ通ったら良いわ。」
と、常子さんが言った。
「良いんですか?」
と朋美が言うと、
「だってせっかく、ピー助が連れてきた人間の友達じゃないか!」
信雄さんが朋美の肩を叩いた。


コメント

コメントを書く

「文学」の人気作品

書籍化作品