堕ちて空蝉

女郎花静流

1章

問い:氷を鉄板に乗せるとどうなる?
回答:溶けてなくなる

問い:ヒトを溶岩に落としたらどうなる??
回答:溶けてなくなる

問い:なぜ?
回答:適応できないから

問い:なぜ?
回答:そのように作られていないから

問い:なぜ?
回答:…

水と油を混ぜるとどうなる?
回答:混ざらない

問い:なぜ?
回答:適応できないから

ではその混ざらなかった水と油の境は水?油?
回答:……

その境界にいるモノは、何と呼べばいいのでしょう?
回答:……

では最後に…

これを読んでいるあなたは本当に…

ニンゲン?




「ん~、これでもない」
夕暮れの図書室に少女の声が小さく響く。
とは言え、広大な図書室でこの声が迷惑になることはないだろう。
少女の周りに人もほとんどいない。
誰もいないわけではないがGW前の平日ともなれば、部活動に勤しんでいる生徒は放課後にこんなところに来ないし、テスト前でもないのに勉強をしにくる生徒もほぼいない。
見渡してもここにいるのは、単純に本が好きな生徒と係の人の数人ぐらいだ。
スマホやタブレットで読める時代に生まれたが、少女は本を手に持って読むのが好きだった。 
昔から読み聞かせをしてもらったのが電子書籍ではなく普通の本だった影響も大きいかもしれない。
そのせいか、今もこうやって図書館に来て本を眺めている。
買うこともできるのだが、色んな人に読まれた本は味があってよいと思っている。
痕跡本などと呼ばれることもあるが、その本をみんながどこを好きになったかが、折れ目などで分かる。
好きなページは何度も読むので、折れ目がつきやすいのだ。
言い換えれば本の歴史が分かる。
その歴史も辿りながら読むのが、数少ない趣味のひとつとなっていた。

『ジッ…ジジジッ…』
何か掠れたような音と共に、一瞬目の前が暗くなる。
「っ!」
立ち眩みが収まると、不快な頭痛がまだ頭の奥に残っている感じがした。
「…早く帰ろう」
そう考えて鞄を取りに行こうとする。
『ファサッ』
音のする方を向くと、そこには1冊の本があった。
本が傷まないように薄いカーテンがかけられた窓の下、背の低い本棚の上にその本はあった。
ちょうどカーテン同士の間にあり、誰かが戻すのを忘れたのだろう。
近寄ってみると、赤いハードカバーの本だったが、珍しいことに題名も著者も書かれていなかった。
「なんの本だろう」
近くの本棚を見渡しても、近いカバーの本はない。
本を手に取り持ち上げようとした瞬間、少女の指先が何かに引っかかったような気がした。
──どすっ

一瞬手の力が抜け、持ち上げようとしていた本が、するりと指からすり抜け床に落ちる。
図書室の静寂の中に、本が床とぶつかる乾いた音がやけに大きく響いた。
「あ……」
慌ててしゃがみこみ、少女は本を拾い上げようと指を伸ばす…
「っ痛っ!」
微かなチクりとした痛みが、右手の人差し指を走る。
見ると指先の表皮がほんのわずかに裂けていた。
「どこかで引っかけたかな?」
先ほど持ち上げる時に、本棚のささくれにでもひっかけたのだろうか
痛みはないが、うっすら血が滲んでいる指先。
そのとき、不意にポケットの中でスマホが震えた。
条件反射的にスマホを取り出す。
スマホが鳴ったら、とりあえず見てしまうのは近代人の習慣なのだろう。
画面のロックを外すと、友人からのたわいのないチャットだった。
とりあえず適当な相槌を返して、落としてしまった本を拾う。
チクッ
本を拾った指に、僅かな疼き。
「あ、」
スマホに着信が来たことで、ケガしたことを忘れていた。
本の裏表紙を見ると、薄っすらと血の跡が付いていた。
慌ててハンカチを取り出して血を拭う。
元々赤いカバーなので、血の跡はすぐに目立たなくなった。
「一応謝っておこう…」
係の人に言おうとカウンターを見るが無人。
時間も遅いので、帰ってしまったのかもしれない。
「あとで係の人に言えば良いか…今日は遅いしもう帰ろう…」

ペタペタ
柔らかなゴム底の上履きが床を軽く押す、静かな足音。
誰もいなくなった図書室から、少女は本をカウンターに置いて帰る。
閉じられた図書室の中に赤い夕陽が差し込む。
夕陽に照らされた赤い本。
…ぷくっ
そしてそこに付着した赤い血液がゆっくりと膨れだした。
薄い膜を張って膨らむ血液。
濃淡様々なコントラストを持った赤色のシャボン玉が、何かを注入されるように膨張していく。

…ぱしゃっ

そしてそのシャボン玉は、誰もいない夕焼けの元で静かに弾けた。




コツコツコツ
夜になり冷えた廊下に足音が響く。 
深夜とは言えない微妙な時間、警備員の巡回前の隙間時間の見回りは若い新人の役目だった。
それは女性と言えども関係なく押し付けられる役目だった。
すっかり暗くなった教室や廊下を1つずつ電気をつけては確認していく。
春先となり昼間は暖かいが、夜になると冬と変わらない寒さのせいで、体調を崩している生徒もいるらしい。
そんな下手すれば息が白くなりそうな廊下を進み、確認を行っていく。
「今時学校に忍び込む生徒なんていないわよ」
思わず愚痴が漏れる。
教師の職場改善が叫ばれているが、この学校が変わるのはまだまだ先かもしれない。
なんだかんだと不満は漏れるが、所詮は夜の校舎。
今まで何回も巡回しているが、一度も誰かに遭遇したことはない。
今日も同じように巡回して、職員室に戻り、後片付けをして帰ってビールを飲むのだ。
そんな風に考えながら、最後の建屋を見回っていた時だった。

―どすっ

急に聞こえてきた物音に、反射的に身を縮めてしまう。
何か重いものが落ちたような低い音。
音のした方を見ると、そこには図書室のプレートが。
「何か落ちたのかしら」
図書室と言うことは、何かの拍子に本が落ちたのだろう。
聞かなかったことにしても良いが、それも後髪引かれる気がして図書室の扉を開けた。
夜の図書室は、電気をつけても薄暗い室内と、独特の本の微臭さから、普段とは違う不気味さが漂っている気がする。
他の教室より少しだけ寒い室内を見渡すと、
「やっぱり本が落ちたのね」
カウンター近くに、古びた赤いハードカバーの本が落ちていた。
「びっくりさせないでよね」

『ジリッ…ジリリ…』

落ちていた本を拾おうと屈んだ瞬間、何かの雑音が頭の中を走った。
同時に、気のせいなどでは到底説明できない寒気が走った。
「早く戻して、帰ろう」
本を拾った瞬間、寒い部屋の温度がさらに下がった気がして思わず身震いをした。
図書室中の空気が、春先とは思えない冷気に包まれているような。
口から溢れた空気ですら、白くなりそうに感じに…
静かな夜がさらに静かになって、うるさいほどの静寂が聞こえるように…
思わず助けを求めるように拾った本を見つめる。

表紙には何も書かれていない…

「何が書かれているの?」
喉がごくりと鳴った。
気がつけば左手に持った本を、右手で開こうとしている自分がいた。
左手に持った本の重みが、よい紙を使っていることを教えてくれる。
自分の右手が思考とは反対に愛おしそうに本の小口を撫でる。
少し古びた、でも高価であることが分かる紙質。
ペラッ
本の中央付近を開くが、ページには何も書かれていない。
ん?
不思議に思って次のページを開いても白紙…
人生し指で、本の厚みを感じるようになってはめくる。
なぞってはめくる
白紙
白紙…
白紙……
白紙………

「な、何、この本?」
開いても開いても白紙のページが続く本。
先ほどまではていとおしそうに棚でていた本が、なんだか急におぞましく感じた
「ま、まぁ、何かのエラー本かもしれないしね」
そうだ、きっとエラー本が混じってしまったので、返品か処分するために、棚に置いてあったのだ。
それの置き場所が悪くて、たまたま私が通った時に落ちたのだろう…
自分の中で無理やり理由を付けて納得させる。
その時だった。

ぱしゃっ

耳元、あるいは頭の中で、シャボン玉が割れたような軽い破裂音がした
「な、なに?」
夜の学校での怪奇現象なんて、笑い話にもならない。
さっさと本を戻して、見回りの続きをしよう。
そう考えて踵を返そうとしたとき…

ピシッ

気が付けば、いまだに本を撫でていた右手の人差し指に、不意に冷たく不快な鈍痛が走った。
びくっと反射的に指を引っ込めるが、その指先には薄い線が現れていた。
薄い線からはみるみる内に赤く染まり、やがて大きな血の珠が浮かんだ。
弾けることなく血の珠は膨らみ、白い指を伝っていく。
「いたっ」
それまで見惚れるように傷口を眺めていた意識に、思い出したように鈍痛が鳴り響いた。
刃物で切った時とは違う不快な切り傷の痛みが脳に響く。
「…最悪」
夜の見回りだけでも面倒なのに、ケガまで…
確か絆創膏は、救急箱にあったはず、一度職員室に戻ろう。
はぁ~と、重たくなったため息をついて、図書室を後にする
…はずだった。

ピシッ

再び右手に鈍い痛みが走る。
「え?」
手元には変わらず、開いた白紙の本とそれをなぞる指。
自分の意思とは関係なく、本の淵をなぞってはページをめくっていく。
思考が追いつかず、まるで他人事のように勝手に動く指を眺めていると…

ピシッ、ピシッ…

数ページめくる度に指に切り傷が出来ていく。
「え?…え?…」
初めは愛おしそうにゆっくりと、だが徐々に本をめくる速度が上がる。
速度が上がるごとに指が切れていく感覚が短くなる。
「っ…!」
指先からはジクジクとした嫌な痛みが登ってきていた。
痛みと共に意味不明の恐怖が頭をめぐる。
それでも指先は止まらず、逆に恐怖で竦んだ足は、震えるだけで一向にそこを動かない。

ピシッ、ピシッ…
ビシッ、ビシッ…

指先から途え間なく鈍痛が続く。
理解不能の恐怖にのどが締め付けられ声が漏れる。
タス…ケテ…
絞りだした声はむなしく消え、脳内に響くだけだった。
ページをめくる乾いた音だけが、静かな図書室に響き続ける。

イタイ、コワイ、イタイ、コワイ…

ページをめくるたびに、指先に一筋の赤い線が刻まれる。
刻まれる痛みは鈍化することなく、脳に響く。

ビクッ!!

今までとは違う、攻撃的な痛みが指先から脳に届く
「ぎゃぁ!!」
締め付けられた喉を超えて叫びが出る。
傷ついた指先は赤く染まり、皮膚ではないやわらかい何かが傷口から見えていた。
神経に直接刺さる痛み、今までの冷たくなるような痛みではなく、 攻撃的な、まるで脳を焼くような痛み。
向き出た神経を、直接なぞる不快感を激痛が頭蓋に響く。
昔間違えてカッターの刃に指を押し当てて使った時を思い出す。
あの時も、数mmの刃の厚みを感じるように、指先が裂けた。
それを超える痛み。
そして自分の意思で指を割き続けている恐怖。
何度も何度も裏返したカッターの刃に指を当てて、強く引くような…

ビクッッ!!!

より一層深いところから、激痛が走る。
目の前がチカチカして、歯が鳴る。
自身の指から溢れた血が、腐ったような異臭を放つ。
粘つく匂いが鼻孔に纏わりついて離れない。
白かった紙は、赤黒い自身の血に染まり、柔らかくなっている。
異常だった…
目に映るもの、触れるものから匂いまで…

理解できない…痛い…怖い…
理解できない…痛い…怖い…
理解デキナイ…イタイ、コワイ
イタイ、コワイ、イタイ、コワイ…
イタイ、コワイ、イタイ、コワイ…
イタイ、コワイ、イタイ、コワイ…
イタイ、コワイ、イタイ、コワイ…
イタイ、コワイ、イタイ、コワイ、イタイ、コワイ、イタイ、コワイ…
イタイ、コワイ、イタイ、コワイ、イタイ、コワイ、イタイ、コワイ…
「…………!」
限界だった…
『――ひ、ひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!!!』
自分の中で何かが壊れる音が爆発した。
頭蓋の中を殴る、あるいは抉るような暴力的な音が鳴り響いた。
…ふっ
意識を手放す瞬間に目の映った本には、何かが書かれているようだった。





カチ、カチ、カチ
街の明かりが照らす、古びたマンションの一室。
アナログな時計が秒針を刻む。
カチ、カチ

2時…

…ヴヴ…ヴヴヴッ……

部屋の一室に設置されている古びたFAXが急に振動を始める。
元々暗い部屋から見る見る光度が下がっていく。
それに呼応するように、FAXは低く耳障りな音を立て始める。
低い振動音とFAXの音が、部屋に溢れる。
そしてまるでその音に耐え切れなくなったかのように、這いずるように、後から後から感熱紙がはい出てくる。

全てが吐き出され、静寂の戻った室内でその紙を拾う。
「…そう」
そのつぶやきもまた静寂に溶けていった。

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