今日からあなたが造物主です
第十八話 崩れる理想
それは唐突に訪れた。
楽園の終わりだ。
いや、本当に楽園だったのだろうか?
◇ ◇ ◇
その日は雨のせいか、行商人のおじさんの到着が遅れていた。
私は小屋の窓から空を見上げる。かなりの荒れ模様だ。風もかなり強い。
「嵐になるかもな……」
私はふと呟いた。
「行商のおじさん、大丈夫かしら」
マヤが心配そうに言う。
「途中で何かあった、なんてことがないといいのだけど」
「多分、大丈夫だと思うよ。このあたりは危険なわけでもないし。雨で道がぬかるんで歩きにくいだけだろう」
この周囲は地形もなだらかで川もない。土砂崩れや洪水が起こる心配はないとは思う。
ふと、おじさんが無事に辿り着くようにノートに書こうかとも思ったがすぐに思いとどまった。
これまで軽はずみにノートを使ってきたせいで変な副作用を起こしてきたのだ。たとえ人助けのためであっても軽々しくやるべきじゃない。
「そう言えばあのおじさん、なんていうの?」
「なんて、とは?」
「名前よ。私たちも聞いてなかったし、あの人も名乗ってなかったじゃない」
「……そう言えば、知らないままだったな」
「いつまでもおじさん、とか商人さん、とか言うのもなんだし、今日聞いてみましょう」
「そうだな。今日、辿り着ければだけど。この様子だと明日になるかもしれないな」
そう言えば彼の名前も設定していなかった。
だがこれまでのノートの傾向からして、私が指定しなくても名前は既にあるのだろう。現にマヤ以外の村人の名前は決めていなかったが彼らは自分で名前を名乗っている。
誰かの名前を決めたくらいで大きな悪影響が出るとは考えにくいが、無意識になにかを定義づけることを避けていたのかもしれない。
私は椅子に腰かけ、マヤが淹れてくれた紅茶を飲んだ。紅茶の茶葉は行商人と交換したものだ。
いい味だ。淹れ方も美味い。そう言えばミールもよく私に紅茶を淹れてくれたな。あの子はまだまだ上手くはなかったが。
「美味くなったな……」
私は思わず呟いた。
「え?」
妻が聞いてきた。
「あ、いや、その、美味いな、と思ってな」
ついマヤにミールの影を重ねてしまった。マヤとミールは顔立ちがよく似ている。元々アヤちゃんがモデルなので当然なのだが。
「きっと淹れ方がいいんだろうな」
「まぁ」
マヤが嬉しそうに微笑む。
「結構頑張ったのよ。あなたに喜んで欲しかったから。なかなか上手くなったでしょう?」
「……え?」
私はマヤの顔をじっと見た。
「いや、マヤ、君は……最初からお茶をうまく淹れてくれてたような気がするんだが……」
というよりも、そもそもマヤは料理をはじめさまざまなことを上手くこなせるよう設定したはずだ。お茶の入れ方も同様だ。
「え? ……あ!」
マヤは口に手をあて、しまったという顔をした。
「いけない、そうだったわね。ああ、前とごっちゃになってしまったわ。ちゃんとリセットできてなかったのね」
リセット?
前?
マヤは何を言ってるんだ?
「ちょっと待っててね。ちゃんとやり直すから」
マヤは椅子から立って床にひざまずいた。
「!?」
かと思うと私の目の前で信じられないことが起きた。
ひざまずいたマヤの姿が、まるでノイズでも走ったように歪み、ゲームの画面が表示バグでも起こしたように色、形、サイズ、何もかもが違うキャラクターを表示するように次々と姿が変わっていく。
そしてマヤの姿は少しづつ、小さくなっていく。
ノイズがおさまった時、そこにいたマヤだった姿は……なんてことだ。私がよく知っている、いや知っていた姿になった。
小柄で華奢な少年。
少女のように可憐で、愛らしい笑顔。
これは、この姿はーー
「……ごめんなさい、先生。奥さんの中にまだボクの記憶が残ってたみたいです。だから、今度こそ消去しますね」
ミール。
間違いない。
その姿はミールそのものだった。
いや姿だけではない。
喋り方、表情、立ち振る舞い、全てが私の知るミールそのものだ!
「えっと、確か最後は……そうだ、力を使い果たして死んじゃったんだ」
「な……な……」
私は何かを言おうとしたが、言葉にならなかった。
私の目の前で、一体何が起こっているんだ。
私が呆気に取られている間にミールは床に倒れ伏した。
あれは、あの姿は、最後に見たミールの姿だ。私の腕の中で力尽きた時の。
腕の中のミールがどんどん冷たくなっていく、遠くへ、どこか手の届かないところへ離れていくあの感覚が蘇る。
あれは、忘れていた感覚。二年前、記憶の奥底に封じ込めた感覚。
希望が萎み、消えていく感覚。
舌全体に広がる苦い味。吐き出したくなるわけでもなく、ただ味覚そのものを侵し、失われていく感覚。
そうだ。
あれは、絶望の味だ。
あの時の私はそれを消し飛ばそうと叫んだ。喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
だが今の私の喉からは叫び声は出ない。言葉にならない呻き声が漏れるだけだ。
私はミールを助け起こそうとはしなかった。
いやできなかった。
体が動かなかったし、そんな気にもならなかった。
倒れたミールの体に再びノイズのようなものが走ったかと思うと、見る見るうちにマヤの姿に戻った。
「ああ……あなた?」
マヤが起き上がり、微笑んだ。何事もなかったかのように。
その笑顔は、私のよく知る妻のものだった。
「ごめんなさい、もう大丈夫よ。あの子は、ミールの記憶は消えたわ」
この二年間、よく見た、見慣れた笑顔。
私の愛した人の笑顔。
初恋の人によく似た笑顔。
その笑顔は美しく、何より私好みだった。
それだけに、この世のものとは思えぬおぞましさを感じずにはいられない。
なんなのだ、これは。
一体何が怒っているのだ。
彼女はマヤ? 私の妻なのか?
それともミールなのか?
全身に冷や汗がにじんでいるのが分かる。
「わ、私は、き、君、君は……君は……!」
私は無意識にノートを手に取り、そしてこれまで書いてきたページを破り捨てようと手にかけた。
「待って。ページを破ったら世界が消えるわ。これまで積み上げてきたものも全部よ。他の村人も、行商のおじさんも全て。消すなら私だけにしたほうがいいわ」
もう限界だった。
目の前の存在、妻のような何かはノートのことまで知っている!
私はノートに
『妻は消えてなくなった』
と書いた。
その通りになった。
妻は、いや妻のふりをしていた何者かは煙のように消えた。まるで最初から何もなかったかのように。
紅茶のカップからたつ湯気だけが、妻が先ほどまでここにいたことを示していた。
人を消してしまった。
これまで禁忌として避けて来たことを。
簡単に一線を超えてしまった。
いや、本当に今のは人だったのだろうか。
私は夢を見ているのか。
静かだ。
窓や屋根を打つ雨の音以外なにも聞こえなかった。
私は狂ってしまったのだろうか。
そうかもしれない。
さもなければ二年間ともに過ごした愛する妻を簡単に消すなどできるわけがない。
私のささやかな楽園は消え去った。
私が消し去ったのだ。
悪い夢を見ている。
早く夢から冷めてくれ。
そう思った時、背後に誰かが立っている気配がしたーー
楽園の終わりだ。
いや、本当に楽園だったのだろうか?
◇ ◇ ◇
その日は雨のせいか、行商人のおじさんの到着が遅れていた。
私は小屋の窓から空を見上げる。かなりの荒れ模様だ。風もかなり強い。
「嵐になるかもな……」
私はふと呟いた。
「行商のおじさん、大丈夫かしら」
マヤが心配そうに言う。
「途中で何かあった、なんてことがないといいのだけど」
「多分、大丈夫だと思うよ。このあたりは危険なわけでもないし。雨で道がぬかるんで歩きにくいだけだろう」
この周囲は地形もなだらかで川もない。土砂崩れや洪水が起こる心配はないとは思う。
ふと、おじさんが無事に辿り着くようにノートに書こうかとも思ったがすぐに思いとどまった。
これまで軽はずみにノートを使ってきたせいで変な副作用を起こしてきたのだ。たとえ人助けのためであっても軽々しくやるべきじゃない。
「そう言えばあのおじさん、なんていうの?」
「なんて、とは?」
「名前よ。私たちも聞いてなかったし、あの人も名乗ってなかったじゃない」
「……そう言えば、知らないままだったな」
「いつまでもおじさん、とか商人さん、とか言うのもなんだし、今日聞いてみましょう」
「そうだな。今日、辿り着ければだけど。この様子だと明日になるかもしれないな」
そう言えば彼の名前も設定していなかった。
だがこれまでのノートの傾向からして、私が指定しなくても名前は既にあるのだろう。現にマヤ以外の村人の名前は決めていなかったが彼らは自分で名前を名乗っている。
誰かの名前を決めたくらいで大きな悪影響が出るとは考えにくいが、無意識になにかを定義づけることを避けていたのかもしれない。
私は椅子に腰かけ、マヤが淹れてくれた紅茶を飲んだ。紅茶の茶葉は行商人と交換したものだ。
いい味だ。淹れ方も美味い。そう言えばミールもよく私に紅茶を淹れてくれたな。あの子はまだまだ上手くはなかったが。
「美味くなったな……」
私は思わず呟いた。
「え?」
妻が聞いてきた。
「あ、いや、その、美味いな、と思ってな」
ついマヤにミールの影を重ねてしまった。マヤとミールは顔立ちがよく似ている。元々アヤちゃんがモデルなので当然なのだが。
「きっと淹れ方がいいんだろうな」
「まぁ」
マヤが嬉しそうに微笑む。
「結構頑張ったのよ。あなたに喜んで欲しかったから。なかなか上手くなったでしょう?」
「……え?」
私はマヤの顔をじっと見た。
「いや、マヤ、君は……最初からお茶をうまく淹れてくれてたような気がするんだが……」
というよりも、そもそもマヤは料理をはじめさまざまなことを上手くこなせるよう設定したはずだ。お茶の入れ方も同様だ。
「え? ……あ!」
マヤは口に手をあて、しまったという顔をした。
「いけない、そうだったわね。ああ、前とごっちゃになってしまったわ。ちゃんとリセットできてなかったのね」
リセット?
前?
マヤは何を言ってるんだ?
「ちょっと待っててね。ちゃんとやり直すから」
マヤは椅子から立って床にひざまずいた。
「!?」
かと思うと私の目の前で信じられないことが起きた。
ひざまずいたマヤの姿が、まるでノイズでも走ったように歪み、ゲームの画面が表示バグでも起こしたように色、形、サイズ、何もかもが違うキャラクターを表示するように次々と姿が変わっていく。
そしてマヤの姿は少しづつ、小さくなっていく。
ノイズがおさまった時、そこにいたマヤだった姿は……なんてことだ。私がよく知っている、いや知っていた姿になった。
小柄で華奢な少年。
少女のように可憐で、愛らしい笑顔。
これは、この姿はーー
「……ごめんなさい、先生。奥さんの中にまだボクの記憶が残ってたみたいです。だから、今度こそ消去しますね」
ミール。
間違いない。
その姿はミールそのものだった。
いや姿だけではない。
喋り方、表情、立ち振る舞い、全てが私の知るミールそのものだ!
「えっと、確か最後は……そうだ、力を使い果たして死んじゃったんだ」
「な……な……」
私は何かを言おうとしたが、言葉にならなかった。
私の目の前で、一体何が起こっているんだ。
私が呆気に取られている間にミールは床に倒れ伏した。
あれは、あの姿は、最後に見たミールの姿だ。私の腕の中で力尽きた時の。
腕の中のミールがどんどん冷たくなっていく、遠くへ、どこか手の届かないところへ離れていくあの感覚が蘇る。
あれは、忘れていた感覚。二年前、記憶の奥底に封じ込めた感覚。
希望が萎み、消えていく感覚。
舌全体に広がる苦い味。吐き出したくなるわけでもなく、ただ味覚そのものを侵し、失われていく感覚。
そうだ。
あれは、絶望の味だ。
あの時の私はそれを消し飛ばそうと叫んだ。喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
だが今の私の喉からは叫び声は出ない。言葉にならない呻き声が漏れるだけだ。
私はミールを助け起こそうとはしなかった。
いやできなかった。
体が動かなかったし、そんな気にもならなかった。
倒れたミールの体に再びノイズのようなものが走ったかと思うと、見る見るうちにマヤの姿に戻った。
「ああ……あなた?」
マヤが起き上がり、微笑んだ。何事もなかったかのように。
その笑顔は、私のよく知る妻のものだった。
「ごめんなさい、もう大丈夫よ。あの子は、ミールの記憶は消えたわ」
この二年間、よく見た、見慣れた笑顔。
私の愛した人の笑顔。
初恋の人によく似た笑顔。
その笑顔は美しく、何より私好みだった。
それだけに、この世のものとは思えぬおぞましさを感じずにはいられない。
なんなのだ、これは。
一体何が怒っているのだ。
彼女はマヤ? 私の妻なのか?
それともミールなのか?
全身に冷や汗がにじんでいるのが分かる。
「わ、私は、き、君、君は……君は……!」
私は無意識にノートを手に取り、そしてこれまで書いてきたページを破り捨てようと手にかけた。
「待って。ページを破ったら世界が消えるわ。これまで積み上げてきたものも全部よ。他の村人も、行商のおじさんも全て。消すなら私だけにしたほうがいいわ」
もう限界だった。
目の前の存在、妻のような何かはノートのことまで知っている!
私はノートに
『妻は消えてなくなった』
と書いた。
その通りになった。
妻は、いや妻のふりをしていた何者かは煙のように消えた。まるで最初から何もなかったかのように。
紅茶のカップからたつ湯気だけが、妻が先ほどまでここにいたことを示していた。
人を消してしまった。
これまで禁忌として避けて来たことを。
簡単に一線を超えてしまった。
いや、本当に今のは人だったのだろうか。
私は夢を見ているのか。
静かだ。
窓や屋根を打つ雨の音以外なにも聞こえなかった。
私は狂ってしまったのだろうか。
そうかもしれない。
さもなければ二年間ともに過ごした愛する妻を簡単に消すなどできるわけがない。
私のささやかな楽園は消え去った。
私が消し去ったのだ。
悪い夢を見ている。
早く夢から冷めてくれ。
そう思った時、背後に誰かが立っている気配がしたーー
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