今日からあなたが造物主です

丸鰐大鄕

第四話 二度目の現実

 こんなノート手にするべきじゃなかった!
 心からそう思えた。

 私はアヤちゃんと学校のくだりを書いたページをまとめて破り捨てた。
 アヤちゃんも、クラスメイトも、教室も、全てが消え、元の灰色の空虚な世界だけに戻った。
 耐えられなかったのだ。

 アヤちゃんやクラスメイトは紛れもなく私の記憶の中のそれと同じだった。
 そう、寸分たがわなかったのだ。

 教室から一歩出ると、そこには灰色の世界が広がっていた。
 思えば教室以外を書いてなかったから当然だ。
 窓の外に見えていた夕暮れの放課後の茜色は、窓というモニターに映し出した映像でしかないらしい。
 だがそれはそれでいい。
 そこには永遠の放課後とでも言うべき世界があったのだから。
 教室の外には何もないが、こうるさい先生もいない。
 いつまでも皆と楽しく過ごせる場所と時間がそこにはあった。
 どれほどその空間を楽しんだろうか。
 腹が減れば給食を書き、みなで食べる。眠くなれば教室に布団を出し、皆で雑魚寝する。
 永遠に続く放課後。決して現実にはありえない臨海学校。それは誰もが一度は懐かしんだものではないだろうか。

 しかしさすがに数日が経過すると飽きてきた。
 そこで私は教室の外、つまり学校の校舎を描くことにした。
 自分たち以外の教室、グラウンド、体育館、音楽室、オバケが出ると噂があった体育倉庫などなど。
 最初は一つ一つを細かく書いていたが、その内このノートの使い方にも慣れてきた。短い文章で自分の思い描くものを出す方法を身に着けてきたのだ。あるいはノートがAIのように私の好みを学習してきただけかもしれない。
 校舎を完全に作り上げる、つまり書きあげるのは正直に言って相当に面倒な作業だった。しかしどこまで手を抜けるかを模索した結果、短い文章で最大の再現効果をあげる方法も分かってきた。
 校舎の次は周囲の町だ。
 しかしここで二つ困ったことが起きた。
 校舎の外の町の記憶は学校以上におぼろげなのだ。
 中学時代の私は別の校区に引っ越したので、小学校付近に近寄ることはほとんどなかった。
 まだ街並みはなんとかなるが、もう一つの問題である、保護者の顔がネックとなる。
 クラスメイト一人一人はまだしも、その保護者や家族となるともう思い出すこともできない。よほど印象の強い保護者なら別だが、そんな人ばかりなわけもない。
 困った私は、クラスメイト一人一人に抱いた、その子の家庭での印象を描いた。なんとなく幸せそう、両親の仲が悪そう、兄弟でいつもイタズラばかりしていそう……そんな曖昧でふわっとしたイメージだけを書くに留めた。
 この試みは思った以上に上手くいき、少なくとも私の記憶の中のクラスメイトたちや学校や町の空気感を壊すことはなかった。細部についてはハッキリ言ってまったく自信はないが、私自身が気にならなければまぁ問題ないだろう。

 アヤちゃんの華族についてはかなり悩まされた。
 記憶はある。
 だがその記憶は私にとって、そしてアヤちゃんにとって幸せなものでも望ましいものでもないのだ。
 アヤちゃんは父子家庭だった。
 アヤちゃんはいつも父兄参観の日は寂しそうにしていたのを覚えている……そうだ、この時はまだ“父兄”という言葉が使われていた。いつの頃からか、男女差別だの母子家庭への偏見だのと言われて使われなくなった言葉だ。
 アヤちゃんのお父さんは、なんと表現すればいいか、その、そう、まぁありていに言うとダメ人間だった。
 昔は立派な警官だったらしいが、足を負傷して退職し、その後は酒浸りの日々だった。
 ケガでの退職による公務員年金は多少は高いらしいが、それでも裕福とは言えない生活だったろう。私はよく知らないが、財務省が「無駄」の一言で年金を全て引き下げたとも聞く。
 とにかく、アヤちゃんは学校では明るかったが、家ではかなり辛い思いをしていた……というのは彼女の女友達から気いtア話だ。私自身が見たわけではない。
 勇気を出してアヤちゃんに声をかけることもままならなかった当時の私の想像の中で、アヤちゃんをどんどん不幸になっていた。それがどこまで事実に近いかは分からないが、おそらくそうかけ離れたものではなかったのだろう。
 夜にアヤちゃんのことが気になって眠れないこともあった。今どうしているだろうか。ご飯はちゃんと食べさせてもらえるのだろうか。暴力を振るわれたりしてないだろうか。私が思い悩んだとおころどうなるわけでもないのだが、だからといってグッスリ眠れるわけもない。
 そして学校に遅刻して先生に怒られる。なぜ遅刻したのか問われても「好きな女の子の家庭が幸せかどうか気がかりで眠れませんでした」などと言えるわけもない。言ったところで笑われるか呆れられるか、もっと叱られるかだ。その全部かもしれない。
 そんなよく知りもしないアヤちゃんの家庭を、伝聞と子供じみた妄想で塗り固めた環境で構築してしまって良いのだろうか? ましてそこに初恋の少女を配置することなど。
 いっそアヤちゃんには私が思い描く限りの幸せな環境にしてあげようかとも思った。優しく立派な両親と、裕福で幸せな家庭を。休日には親子仲良く旅行に出かけ、愛情たっぷりに育てられ……だがそれはそれで私の知るアヤちゃんとはかけ離れた別の誰かになってしまう。少なくとも彼女に母親がいないのは間違いないことだ。
 不確かな情報で初恋の人を不幸な環境に放り込むのか、私のエゴで塗り固めた偽りの幸せに閉じ込めるのか。
 私にはどちらも選ぶことができなかった。
 結局アヤちゃんの家庭についてだけは私は何も描かず、ただ空白のままにしておくことしかできなかった。
 もし世界に神というう存在がいるとしたら、彼、あるいは彼女はこんなことにまで責任を取らねばならないのだろうか。 
 だとしたら私には神などという重責は勤まりそうもない。

 私の書き上げた箱庭で(多分)一年ほどが過ぎたあたりだった。
 アヤちゃんが転校することになった。
 なぜだ。
 私はノートに一言もそんなことを書いてはいないのに……と思ったところで記憶が蘇った。
 そうだ。アヤちゃんは二年生の中ごろに急に転校していったのだ。彼女の父親が酒浸りの生活がたたって体を壊して亡くなったのだ。だから遠方の親戚に預けられることになったのだ。
 どうりでアヤちゃんに対する記憶が他と比べて少ないはずだ。私はその後の彼女のことを知らないのだから。
 アヤちゃんの周辺を細かく描かなかったからこそ、ノートはかつて私が体験したのと同じ状況を再現したのだ。
 もちろん転校を阻止することもできた。そうノートに書けばいいのだから。
 だが私は別の決断をした。私は放課後の教室(といってもこの箱庭では学校は常に放課後なのだが)にアヤちゃんを呼び出した。他の生徒には帰宅してもらうようノートに書いたが、アヤちゃんには私が自らを声をかけた。

 夕暮れのオレンジに染まる教室の中、アヤちゃんは私に向かっていつものように微笑んでいる。
「急にどうしたの?」
「あ、あの、ごめん。アヤちゃんが転校するって聞いて……」
「うん……お父さんが、ちょっとね。それで?」
 私は告白する気だった。好きだった、と。
 その決意はこれまでのぬるま湯に満足していた私からは想像もできない程にあっさりと下せた。
 私は変われる。
 そう確信していたまさにその時だった。
 教室にクラスメイトの男子が一人入ってきた。ケイくんというクラスで一番モテる男子だった。つまり私とは何もかもんが正反対の子だった。
「アヤ、何してんの?」
 ケイくんがアヤちゃんを呼び捨てにした、その時私の脳裏の奥底に閉じ込めておいた箱の鍵が開く音がした。
 アヤちゃんは私にむかって言った。
「そうだ、私ケイくんともお別れなんだね。付き合い始めたばかりなのに」
「俺、ちゃんとアヤに手紙書くよ。それで、夏休みには会いに行くから」
 私には二人の会話が急速に遠ざかるように感じた。もう耳に入らなかった。
 そうだった。
 アヤちゃんはお別れの前にケイくんと付き合っていたのだ。
 私はそのことを忘れていた。いや思い出さないようにしていたのかもしれない。
 アヤちゃんが私に向き直り微笑んだ。少し寂しそうな、お別れを惜しむ笑顔。
 もう私には耐えられなかった。

 私はノートに書かれたこれまでのページを破り捨てた。
 灰色の、停滞した何もない世界が戻ってきた。
 アヤちゃんもケイくんも、学校も、町も何もかも。
 ただ元の32歳に戻った私だけがそこに立ち尽くしていた。
 この世界は私だ。
 何もない。
 灰色だ。
 私が灰色に戻したのだ。
 全てを否定して。

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