今日からあなたが造物主です
第三話 学校生活をもう一度
アヤちゃんは記憶の中の彼女と寸分たがわない姿だった。
結局、アヤちゃんだけでなく他のクラスメイトたちの存在もノートに書き加えた。
アヤちゃんと二人きりにんなることが怖かった。
いや、本当にアヤちゃんなら二人きりでもかまわなかった。しかしもし姿形が同じだけで性格が違っていたら?
そもそも私の記憶が正確かという自信もなかった。
だからアヤちゃんだけでなく、周囲にクラスメイトがいて欲しかった。要するに一人だけでアヤちゃんに会うのが怖かったのだ。
かくして、アヤちゃんは他の三十名余りのクラスメイトとともに私の前に現れた。
ありし日の思い出が、映像だけでなく実体として私の目の前に現れた。
騒がしいクラスメイトたちの話し声。
窓辺から差し込むオレンジがかった夕焼け前の陽の光。
そして目の前に立つ初恋の少女。
全てがあの時のままだ。
あとは、アヤちゃんが私の知っているままの彼女なのか。
アヤちゃんはあの日と同じく、クラスメイトの女の子たちと楽しく話している。その横顔、いつも私が遠巻きに見ていたものと全く同じ笑顔。涼しげな目元、楽しそうな口元、その口を上品におさえる白い指。
そうだ、私はあの頃からずっと、まともに声をかけることすらできずにいた。
声をかけろ。
遠くから見ているだけじゃない。あの時のままでいいのか。一歩踏み出して、距離を縮めて、そして声をかけるのだ。そのために彼女をノートに書いたはずだろう。
そう自分を奮い立たせてみても、私の足はいっこうに動く気配はなく、口も舌も彫像のように固まったまま息をするのも困難だ。全身が固まってしまい、楽し気に談笑するクラスメイトの中でただ一人私だけが、時間が止まってしまったように、皆から私一人だけ取り残されてしまったかのように動けないままでいた。
私はそもそも人と話すことが苦手なタイプだった。当時そんな言葉があったかは定かではないが、今でいうところのコミュ障という人種だ。
人と話すのが苦手なだけ、得意ではないというだけで嫌いなわけではなかった。
だが自信がなかった。それも絶望的なほどに。
どうして皆あんなにも周囲と自然に、楽しく打ち解けることができるのだろうといつも疑問に思っていた。
自分もあんな風にみんなと仲良く……そう思いはしたが、どうしても行動にはうつせなかった。
そして今と同じように、遠巻きに皆をうらやましそうに、誰かが話しかけてくれないだろうかとただ眺めているだけだった。
自信がなかった。いや勇気がなかっただけなのだ。
話しかけた時、もしまずい対応だったら。
相手の気分を損ねてしまったら。
気持ち悪い奴だと思われたら。
もしそんなことになったら最後、クラスでの私の居場所は失われてしまう。それが何より怖かった。
話しかけなければ失敗することもない。寂しく周囲をうらやむだけの毎日だったが、少なくとも「人とほとんど話さない、静かな、あるいは根暗な奴」という程度の居場所までも失うことはない。お世辞にも居心地がいい居場所とはいえなかったが、少なくとも学校行事などでは皆と一緒にいることが許されている。そう思うと、根暗なコミュ障という居場所もそれほど悪いものではないと思えてくるから不思議なものだ。
だが話して失敗したら、そんな狭苦しいわずかな居場所さえも失ってしまう。
「キモい」
この言葉は当時の……いや、今の私にとってもなにより恐ろしい言葉だった。
それは死刑宣告と同義だった。
その三文字が、たった、わずか三つの文字が意味するところ、恐怖は万言を尽くしてもなお語りつくせるものではない。
強いてひとことであらわすとすれば、そう、破滅という言葉がもっとも近いだろうか。
キモいという烙印を押されてしまったら最後、教室中の誰からも無私されてしまうことだろう。いや、ただ無視されるだけならまだいい。もっと悪くすればイジメの対象にされるかもしれない。
キモいという言葉には、
「こいつはもう人間扱いしなくいい。どんなにヒドい扱いをしても許される」
という意味がこめられている。
もちろん最初からいきなり殴る蹴るの暴行が始まるというのは考えにくい。
しかし、誰か一人が烙印を押したということは他の者にもすぐに知れ渡る。瞬く間に周囲の者に伝播する。そして広まり続けていくうちに皆の中で一つの認識が形成される。
「あいつは自分たちに捧げられた生贄なのだ」
と。
その瞬間、私という存在は人権を奪われる。
飢えた狼の群れに羊を放り込めばどうなるか、わざわざ語るまでもないだろう。
狼たちの牙で八つ裂きにされるくらいなら、狭い羊小屋に押し込められて窮屈な思いをするほうがまだマシだ。
あまりにも臆病すぎるのかもしれない。悪い方向に考えすぎているだけかもしれない。
だが私にとっては確信を持って言える、来たるべき未来なのだ。
そして私には皆と仲良く打ち解けた会話をする、そんな成功のイメージを思い浮かべることはできない。他人からどう言われようと、私にとってその来たるべき孤立と破滅は紛れもなく現実なのだ。
夢でも、幻でも、妄想でもない。
現実なのだ。
ああ、せめてあちらから話しかけてくれれば……。
そう願わずにはいられなかった。
自分から声をかけてしまえば、それは私から始めたことになる。だが相手が話しかけてきたのなら話は違う。
相手が対応を求めてきたからそれに応じる。たとえその対応が稚拙なものであっても、それは精一杯やった結果だ。どれほどヒドい結果であろうと、相手が私を避けるだけで済む。私から相手に干渉して、その上で不快な思いをさせるのとはわけが違うのだ。
……そうだ!
簡単な解決法があるじゃないか。
ノートに書き加えればいいのだ。
『アヤちゃんが私に話しかけてくれる』
と。
どうして今まで気が付かなかったのか! 自分の鈍さに自分でも腹が立つ。安易であろうとこの苦痛から逃れられるなら、私が躊躇う理由はなかった。
私はさっそくノートを開く。手が震えている。緊張か、それとも期待かは自分でも分からない。 だが、私の浅はかな考えはあっさり頓挫し、裏目に出た。
震えた手がペンを取り落してしまったのだ。
そしてあろうことか、そのペンはアヤちゃんの足下に転がっていったのだ!
アヤちゃんが足下に転がってきたペンに気づき、それを拾いあげる。
私のほうを見る。
胸が大きく高鳴った。
初恋のあの子がこっちを見ている。
いや、この胸の鼓動が大きいのは初恋の時のそれだけではない。
不安だ。
あるいは恐怖かもしれない。
そもそもアヤちゃんに話しかけることを戸惑っていたのはかつての自分のコミュ障を思い出したからだけではない。
アヤちゃんが、私がノートに書いて出現した彼女が、私の知るアヤちゃんと同じかを知るのが怖かったからだ。
アヤちゃんが私に向かって歩いてくる。
一歩。
初恋のあの子。
また一歩。
だけど怖い。
また一歩。
でも会いたかった。
一歩。
来ないでくれ。
一歩
でも話したい。
目の前まで来た。
アヤちゃんは微笑んでペンを差し出した。
「落としたよ」
その声は、その表情は、紛れもなく私の知るままのアヤちゃんだった。
何を恐れていたのだろう。何に怯えていたのだろう。
「あ、ありがとう」
自分でも驚くほどなめらかに返事ができた。さっきまで胸につかえていたのはなんだったのだ。
クラスメイトたちの声、筆箱や机、椅子がたてる物音、全てがあの時のまま、コンサートホールの演奏のように私の耳に響く。
この教室は、こんなにも色鮮やかだったろうか。
私は紛れもない、あの日の私に戻れたのだ。
このノートを手にしてよかった!
心からそう思えた。
結局、アヤちゃんだけでなく他のクラスメイトたちの存在もノートに書き加えた。
アヤちゃんと二人きりにんなることが怖かった。
いや、本当にアヤちゃんなら二人きりでもかまわなかった。しかしもし姿形が同じだけで性格が違っていたら?
そもそも私の記憶が正確かという自信もなかった。
だからアヤちゃんだけでなく、周囲にクラスメイトがいて欲しかった。要するに一人だけでアヤちゃんに会うのが怖かったのだ。
かくして、アヤちゃんは他の三十名余りのクラスメイトとともに私の前に現れた。
ありし日の思い出が、映像だけでなく実体として私の目の前に現れた。
騒がしいクラスメイトたちの話し声。
窓辺から差し込むオレンジがかった夕焼け前の陽の光。
そして目の前に立つ初恋の少女。
全てがあの時のままだ。
あとは、アヤちゃんが私の知っているままの彼女なのか。
アヤちゃんはあの日と同じく、クラスメイトの女の子たちと楽しく話している。その横顔、いつも私が遠巻きに見ていたものと全く同じ笑顔。涼しげな目元、楽しそうな口元、その口を上品におさえる白い指。
そうだ、私はあの頃からずっと、まともに声をかけることすらできずにいた。
声をかけろ。
遠くから見ているだけじゃない。あの時のままでいいのか。一歩踏み出して、距離を縮めて、そして声をかけるのだ。そのために彼女をノートに書いたはずだろう。
そう自分を奮い立たせてみても、私の足はいっこうに動く気配はなく、口も舌も彫像のように固まったまま息をするのも困難だ。全身が固まってしまい、楽し気に談笑するクラスメイトの中でただ一人私だけが、時間が止まってしまったように、皆から私一人だけ取り残されてしまったかのように動けないままでいた。
私はそもそも人と話すことが苦手なタイプだった。当時そんな言葉があったかは定かではないが、今でいうところのコミュ障という人種だ。
人と話すのが苦手なだけ、得意ではないというだけで嫌いなわけではなかった。
だが自信がなかった。それも絶望的なほどに。
どうして皆あんなにも周囲と自然に、楽しく打ち解けることができるのだろうといつも疑問に思っていた。
自分もあんな風にみんなと仲良く……そう思いはしたが、どうしても行動にはうつせなかった。
そして今と同じように、遠巻きに皆をうらやましそうに、誰かが話しかけてくれないだろうかとただ眺めているだけだった。
自信がなかった。いや勇気がなかっただけなのだ。
話しかけた時、もしまずい対応だったら。
相手の気分を損ねてしまったら。
気持ち悪い奴だと思われたら。
もしそんなことになったら最後、クラスでの私の居場所は失われてしまう。それが何より怖かった。
話しかけなければ失敗することもない。寂しく周囲をうらやむだけの毎日だったが、少なくとも「人とほとんど話さない、静かな、あるいは根暗な奴」という程度の居場所までも失うことはない。お世辞にも居心地がいい居場所とはいえなかったが、少なくとも学校行事などでは皆と一緒にいることが許されている。そう思うと、根暗なコミュ障という居場所もそれほど悪いものではないと思えてくるから不思議なものだ。
だが話して失敗したら、そんな狭苦しいわずかな居場所さえも失ってしまう。
「キモい」
この言葉は当時の……いや、今の私にとってもなにより恐ろしい言葉だった。
それは死刑宣告と同義だった。
その三文字が、たった、わずか三つの文字が意味するところ、恐怖は万言を尽くしてもなお語りつくせるものではない。
強いてひとことであらわすとすれば、そう、破滅という言葉がもっとも近いだろうか。
キモいという烙印を押されてしまったら最後、教室中の誰からも無私されてしまうことだろう。いや、ただ無視されるだけならまだいい。もっと悪くすればイジメの対象にされるかもしれない。
キモいという言葉には、
「こいつはもう人間扱いしなくいい。どんなにヒドい扱いをしても許される」
という意味がこめられている。
もちろん最初からいきなり殴る蹴るの暴行が始まるというのは考えにくい。
しかし、誰か一人が烙印を押したということは他の者にもすぐに知れ渡る。瞬く間に周囲の者に伝播する。そして広まり続けていくうちに皆の中で一つの認識が形成される。
「あいつは自分たちに捧げられた生贄なのだ」
と。
その瞬間、私という存在は人権を奪われる。
飢えた狼の群れに羊を放り込めばどうなるか、わざわざ語るまでもないだろう。
狼たちの牙で八つ裂きにされるくらいなら、狭い羊小屋に押し込められて窮屈な思いをするほうがまだマシだ。
あまりにも臆病すぎるのかもしれない。悪い方向に考えすぎているだけかもしれない。
だが私にとっては確信を持って言える、来たるべき未来なのだ。
そして私には皆と仲良く打ち解けた会話をする、そんな成功のイメージを思い浮かべることはできない。他人からどう言われようと、私にとってその来たるべき孤立と破滅は紛れもなく現実なのだ。
夢でも、幻でも、妄想でもない。
現実なのだ。
ああ、せめてあちらから話しかけてくれれば……。
そう願わずにはいられなかった。
自分から声をかけてしまえば、それは私から始めたことになる。だが相手が話しかけてきたのなら話は違う。
相手が対応を求めてきたからそれに応じる。たとえその対応が稚拙なものであっても、それは精一杯やった結果だ。どれほどヒドい結果であろうと、相手が私を避けるだけで済む。私から相手に干渉して、その上で不快な思いをさせるのとはわけが違うのだ。
……そうだ!
簡単な解決法があるじゃないか。
ノートに書き加えればいいのだ。
『アヤちゃんが私に話しかけてくれる』
と。
どうして今まで気が付かなかったのか! 自分の鈍さに自分でも腹が立つ。安易であろうとこの苦痛から逃れられるなら、私が躊躇う理由はなかった。
私はさっそくノートを開く。手が震えている。緊張か、それとも期待かは自分でも分からない。 だが、私の浅はかな考えはあっさり頓挫し、裏目に出た。
震えた手がペンを取り落してしまったのだ。
そしてあろうことか、そのペンはアヤちゃんの足下に転がっていったのだ!
アヤちゃんが足下に転がってきたペンに気づき、それを拾いあげる。
私のほうを見る。
胸が大きく高鳴った。
初恋のあの子がこっちを見ている。
いや、この胸の鼓動が大きいのは初恋の時のそれだけではない。
不安だ。
あるいは恐怖かもしれない。
そもそもアヤちゃんに話しかけることを戸惑っていたのはかつての自分のコミュ障を思い出したからだけではない。
アヤちゃんが、私がノートに書いて出現した彼女が、私の知るアヤちゃんと同じかを知るのが怖かったからだ。
アヤちゃんが私に向かって歩いてくる。
一歩。
初恋のあの子。
また一歩。
だけど怖い。
また一歩。
でも会いたかった。
一歩。
来ないでくれ。
一歩
でも話したい。
目の前まで来た。
アヤちゃんは微笑んでペンを差し出した。
「落としたよ」
その声は、その表情は、紛れもなく私の知るままのアヤちゃんだった。
何を恐れていたのだろう。何に怯えていたのだろう。
「あ、ありがとう」
自分でも驚くほどなめらかに返事ができた。さっきまで胸につかえていたのはなんだったのだ。
クラスメイトたちの声、筆箱や机、椅子がたてる物音、全てがあの時のまま、コンサートホールの演奏のように私の耳に響く。
この教室は、こんなにも色鮮やかだったろうか。
私は紛れもない、あの日の私に戻れたのだ。
このノートを手にしてよかった!
心からそう思えた。
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