今日からあなたが造物主です
第一話 今日からあなたが
「あなたが、造物主です」
その美しい女性はノートとペンを差し出してそう言った。
このノートに描いた通りの世界が、私の描いた通りの世界が現れるというのだ。
私が転生したのは、灰色で何もない世界だった。
見渡す限り、茫漠と広がる灰色の空と地面。地平線の先までもが全て灰色で、他には何もない。
まるで手抜きのヴァーチャルリアリティ空間に放り出されたようだ。
いや、地平線があるということは天と地の堺は設定されている。私が地面に立てていることからして重力も存在、いや設定されているらしい。まだマシなほうではあるか。
思わず自分の両手に視線を落とす。
ちゃんと両手はある。
見えている。
左手で右手をさわってみる。ちゃんとさわれる。逆も同じだ。視覚的に見えているだけでなく、紛れもなく私の両手は存在するようだ。
何もない、つまり私以外に人影も見当たらない。もしや自分という存在さえも透明で、この延々と続く灰色の中に溶け込んでしまっているのではないか、あたかも生霊のような、見えているけど振れることのできない存在になり果てているのではという恐ろしい想像をしてしまった。しかしそうではないらしい。
私がなぜ、どのように死んだのか。
どのような人生を送っていたのか。
それはあまり重要ではない。
……というわけにもいかないか。
私は前世ーーという表現が適切かは判断しかねるがーーでは、作家志望だった。
本業は別だ。
社会的には、まぁ……ありていに言うならフリーターというやつだ。
32歳だった。
大学で文芸部を卒業して、作家を目指し小説の賞に応募したが、箸にも棒にも引っかからなかった。
それ自体はいい。
そんな人間は山のようにいる。
そもそも作家への道というのは狭き門だ。
だが、大学における文芸部というものがこうもツブシのきかないものだったという現実には少々面食らった。
卒業後、私は定職につかず、というよりつくことができなかった。
コンビニのバイトや日雇いの軽作業などを転々として日銭を稼ぎ、夜は小説の執筆に没頭した。
職種を選ばず、なりふり構わずどこでもいいのならば就職できないことはなかったが、私の情熱は文芸に打ち込む以外のことを許してくれなかった。文を書く以外の職業は全て一時しのぎ以外の意味を見出すことができなかった。
同じ一時しのぎなら、アルバイトのほうが責任もないし掛け持ちもできる。時間の融通も効く。作家として大成する夢を信じて疑うことのなかった私にはそれこそが理想的な生き方に思えたのだ。
一度コンビニの店長に就任しないかという話が出たが私は断った。
即答だった。
一般的に言えば出世といえるのかもしれない。だがその成功は私の人生における理想のそれとは大きくかけ離れていた。
同期の者は次々と賞をとって作家としてデビューし、あるいは作家への道を早々に諦めて雑誌編集者やライターなどに身を落ち着けていった。
その中でただ一人、私だけが作家としてデビューすることをあきらめず、そしてかないもしなかった。
周囲の者は私を笑った。
いつまでかないもしない夢を追っているんだ、現実を見ろ、と。
それは私にとって雑音に過ぎなかった。夢をさまたげる雑音。私の栄光と勝利に満ちた世界に水を差そうとする、不要な雑音でしかなかった。
今思えば、彼らは本心で私のことを心配してくれていたのかもしれない。
笑われたと感じたのも、私の被害妄想だったのだろう。私だって三十歳を過ぎて売れないバンドマンをやっている友人がいたら苦言のひとつも呈したくなる。
そろそろ諦めて別の道を探すべきか。いやまだ諦めたくない。しかし現実を見れば……寝ても覚めてもそんな思いが頭から離れなかった。
その思いがにじみ出てしまったのか、それまでは小説の賞でも一次選考や二次選考は通ることがあったのに、いつしか一次すら通らなくなっていた。
なにもかもが灰色になり、自分はなんのために日々を生きているのか。なんのために文章を書いているのか。全てが混ざりあい、溶けて、それでいて一つにまとまることもなくドロドロとしたゲル状の塊として沈殿したまま日々は過ぎていった。
全てが色褪せ、灰色だった。そんなある日、私の報われない灰色の人生は唐突に終わりを告げた。
目の前に迫るプリウスの後ろ姿。それが私が最後に見たものだった。
プリウスミサイルなどと揶揄されるやつだ。免許を返納すべき死に損ないの高齢者がバックでコンビニに突っ込んできたのだ。つまり交通事故だ。
作家としてデビューすることはもうできないかもしれない、自分には才能がないのではないか。そう思えるには十分な時間が経過した矢先のことだった。
私の人生は、なんの意味も見いだせず、なんらかの足跡を残すことなく終わりを告げた。
まるでテレビやゲームの電源を落としたかのうように唐突に。あっけなく。
そして意識が戻った時、私は今いる灰色の世界にいたというわけだ。
鏡がないので自分の姿は確認できないが、前と同じ年齢のようだ。少なくとも、顔を手で触った感じからすると、かつての私と寸分違わないように感じる。
異世界に来たから特別にイケメンになったわけでも、若くてニューゲームというわけでもないようだ。いや、仮に若くてニューゲームだったとしても、こんな何もない灰色の世界で何の意味があるのか。
最初は死後の世界かとも思ったが、他に誰もいないところを見るとそうではないらしい。キレイなお花畑が広がるわけでも、血の池や針の山が広がる地獄というわけでもない。天使もいなければ金棒をもった鬼もいない。
どうも、異世界とやらに来てしまったのだろう。異世界転生というやつだろうか。
私は異世界転生というものがどうにも苦手だった。
だってそうだろう。
今という現実がイヤだから、異世界に転生して都合のいい強力な能力を苦労もせず授かって、人生を楽勝モードで乗り切るなんて、どう考えてもムシがいいし、話としてもあまりに面白くなさすぎる。書いている本人は楽しいだろうが、外から見ている限りでは盛り上がりが何もなく、つまらないことこの上ない。
主人公がなんの起伏もなく、ただ順風満帆で終わるだけの物語の何が面白いというのか。
察するに、昨今の小説家志望者たちが自分の不遇な環境を嘆いて願望、いや浅はかな欲望をぶつけているだけの自慰行為、それが異世界転生というものなのではないか。少なくとも私にはそのように思えてならない。
だが、今私はその異世界転生……とおぼしき状況にいるようだ。
まさか、あれだけ下に見ていた世界に、自分自身が置かれることになろうとは思わなかった。
ここには私以外に何もなかった。最初のうちは。
ふと気配を感じて振り返ると、そこに女性が立っていた。
それまでさんざん周囲を見渡しても誰もいなかったというのに。
その女性はとても美しかった。私の理想といえる顔、スタイル、表情だ。全てが完璧だ。あまりにも理想通りすぎて、作り物めいた印象を受けてしまう程に。どこかで見たような顔立ちという印象だが、思い出せない。多分単純に私の好みのタイプなのだろう。
彼女は人間というよりも完璧な計算で整えられた絵画や彫刻、人形のそれに近い。だが、わずかに上下する肩や胸は彼女が呼吸をしていることの何よりの証だし、その表情は人形のような一種類しかない硬いものでもない。
彼女は私をまっすぐに見つめ、口を開いた。
「ここにはまだ何もありません。あなたの理想をここに作り上げてください」
そう言うと、彼女は私にノートとペンを差し出した。なんの変哲もない、そこらへんのコンビニで売っていそうなノートとペンだ。
「……私の、理想?」
私は聞き返した。彼女の言っていることが理解できなかったのだ。
「このノートにあなたが描いたものが全て実現します。この世界をゼロから思いのまま作り上げる。あなたが、造物主なのです」
その美しい女性はノートとペンを差し出してそう言った。
このノートに描いた通りの世界が、私の描いた通りの世界が現れるというのだ。
私が転生したのは、灰色で何もない世界だった。
見渡す限り、茫漠と広がる灰色の空と地面。地平線の先までもが全て灰色で、他には何もない。
まるで手抜きのヴァーチャルリアリティ空間に放り出されたようだ。
いや、地平線があるということは天と地の堺は設定されている。私が地面に立てていることからして重力も存在、いや設定されているらしい。まだマシなほうではあるか。
思わず自分の両手に視線を落とす。
ちゃんと両手はある。
見えている。
左手で右手をさわってみる。ちゃんとさわれる。逆も同じだ。視覚的に見えているだけでなく、紛れもなく私の両手は存在するようだ。
何もない、つまり私以外に人影も見当たらない。もしや自分という存在さえも透明で、この延々と続く灰色の中に溶け込んでしまっているのではないか、あたかも生霊のような、見えているけど振れることのできない存在になり果てているのではという恐ろしい想像をしてしまった。しかしそうではないらしい。
私がなぜ、どのように死んだのか。
どのような人生を送っていたのか。
それはあまり重要ではない。
……というわけにもいかないか。
私は前世ーーという表現が適切かは判断しかねるがーーでは、作家志望だった。
本業は別だ。
社会的には、まぁ……ありていに言うならフリーターというやつだ。
32歳だった。
大学で文芸部を卒業して、作家を目指し小説の賞に応募したが、箸にも棒にも引っかからなかった。
それ自体はいい。
そんな人間は山のようにいる。
そもそも作家への道というのは狭き門だ。
だが、大学における文芸部というものがこうもツブシのきかないものだったという現実には少々面食らった。
卒業後、私は定職につかず、というよりつくことができなかった。
コンビニのバイトや日雇いの軽作業などを転々として日銭を稼ぎ、夜は小説の執筆に没頭した。
職種を選ばず、なりふり構わずどこでもいいのならば就職できないことはなかったが、私の情熱は文芸に打ち込む以外のことを許してくれなかった。文を書く以外の職業は全て一時しのぎ以外の意味を見出すことができなかった。
同じ一時しのぎなら、アルバイトのほうが責任もないし掛け持ちもできる。時間の融通も効く。作家として大成する夢を信じて疑うことのなかった私にはそれこそが理想的な生き方に思えたのだ。
一度コンビニの店長に就任しないかという話が出たが私は断った。
即答だった。
一般的に言えば出世といえるのかもしれない。だがその成功は私の人生における理想のそれとは大きくかけ離れていた。
同期の者は次々と賞をとって作家としてデビューし、あるいは作家への道を早々に諦めて雑誌編集者やライターなどに身を落ち着けていった。
その中でただ一人、私だけが作家としてデビューすることをあきらめず、そしてかないもしなかった。
周囲の者は私を笑った。
いつまでかないもしない夢を追っているんだ、現実を見ろ、と。
それは私にとって雑音に過ぎなかった。夢をさまたげる雑音。私の栄光と勝利に満ちた世界に水を差そうとする、不要な雑音でしかなかった。
今思えば、彼らは本心で私のことを心配してくれていたのかもしれない。
笑われたと感じたのも、私の被害妄想だったのだろう。私だって三十歳を過ぎて売れないバンドマンをやっている友人がいたら苦言のひとつも呈したくなる。
そろそろ諦めて別の道を探すべきか。いやまだ諦めたくない。しかし現実を見れば……寝ても覚めてもそんな思いが頭から離れなかった。
その思いがにじみ出てしまったのか、それまでは小説の賞でも一次選考や二次選考は通ることがあったのに、いつしか一次すら通らなくなっていた。
なにもかもが灰色になり、自分はなんのために日々を生きているのか。なんのために文章を書いているのか。全てが混ざりあい、溶けて、それでいて一つにまとまることもなくドロドロとしたゲル状の塊として沈殿したまま日々は過ぎていった。
全てが色褪せ、灰色だった。そんなある日、私の報われない灰色の人生は唐突に終わりを告げた。
目の前に迫るプリウスの後ろ姿。それが私が最後に見たものだった。
プリウスミサイルなどと揶揄されるやつだ。免許を返納すべき死に損ないの高齢者がバックでコンビニに突っ込んできたのだ。つまり交通事故だ。
作家としてデビューすることはもうできないかもしれない、自分には才能がないのではないか。そう思えるには十分な時間が経過した矢先のことだった。
私の人生は、なんの意味も見いだせず、なんらかの足跡を残すことなく終わりを告げた。
まるでテレビやゲームの電源を落としたかのうように唐突に。あっけなく。
そして意識が戻った時、私は今いる灰色の世界にいたというわけだ。
鏡がないので自分の姿は確認できないが、前と同じ年齢のようだ。少なくとも、顔を手で触った感じからすると、かつての私と寸分違わないように感じる。
異世界に来たから特別にイケメンになったわけでも、若くてニューゲームというわけでもないようだ。いや、仮に若くてニューゲームだったとしても、こんな何もない灰色の世界で何の意味があるのか。
最初は死後の世界かとも思ったが、他に誰もいないところを見るとそうではないらしい。キレイなお花畑が広がるわけでも、血の池や針の山が広がる地獄というわけでもない。天使もいなければ金棒をもった鬼もいない。
どうも、異世界とやらに来てしまったのだろう。異世界転生というやつだろうか。
私は異世界転生というものがどうにも苦手だった。
だってそうだろう。
今という現実がイヤだから、異世界に転生して都合のいい強力な能力を苦労もせず授かって、人生を楽勝モードで乗り切るなんて、どう考えてもムシがいいし、話としてもあまりに面白くなさすぎる。書いている本人は楽しいだろうが、外から見ている限りでは盛り上がりが何もなく、つまらないことこの上ない。
主人公がなんの起伏もなく、ただ順風満帆で終わるだけの物語の何が面白いというのか。
察するに、昨今の小説家志望者たちが自分の不遇な環境を嘆いて願望、いや浅はかな欲望をぶつけているだけの自慰行為、それが異世界転生というものなのではないか。少なくとも私にはそのように思えてならない。
だが、今私はその異世界転生……とおぼしき状況にいるようだ。
まさか、あれだけ下に見ていた世界に、自分自身が置かれることになろうとは思わなかった。
ここには私以外に何もなかった。最初のうちは。
ふと気配を感じて振り返ると、そこに女性が立っていた。
それまでさんざん周囲を見渡しても誰もいなかったというのに。
その女性はとても美しかった。私の理想といえる顔、スタイル、表情だ。全てが完璧だ。あまりにも理想通りすぎて、作り物めいた印象を受けてしまう程に。どこかで見たような顔立ちという印象だが、思い出せない。多分単純に私の好みのタイプなのだろう。
彼女は人間というよりも完璧な計算で整えられた絵画や彫刻、人形のそれに近い。だが、わずかに上下する肩や胸は彼女が呼吸をしていることの何よりの証だし、その表情は人形のような一種類しかない硬いものでもない。
彼女は私をまっすぐに見つめ、口を開いた。
「ここにはまだ何もありません。あなたの理想をここに作り上げてください」
そう言うと、彼女は私にノートとペンを差し出した。なんの変哲もない、そこらへんのコンビニで売っていそうなノートとペンだ。
「……私の、理想?」
私は聞き返した。彼女の言っていることが理解できなかったのだ。
「このノートにあなたが描いたものが全て実現します。この世界をゼロから思いのまま作り上げる。あなたが、造物主なのです」
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