ギフト・フロム・カノープス
第1部 Night Flight - 8
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メラ・デンゲイは、夜の闇と隔てるところのない灰ばみた雲海の上空を、星々の小さな灯りに照らされた暗い蒼穹の月下を、即ち、どこまでも騒々しく電気と貴金属の贅肉がつき過ぎた地上と、いつまでも静謐で常しえに岩石とガスが漂う寂しき天上の狭間を、黙々と飛翔していた。
空は穏やかで、竜子場は安定していた。
先ほどまで、海と島に吹き荒れていた強風はすっかり和らぎ、雷雨は鳴りをひそめていた。マナも、どうして低調であったか分からないほど高揚していて、騒がしいくらいに賑やかで、竜が踊り出してもおかしくないくらいに濃密だった。
セージたちは現在進行形で熱帯低気圧の勢力圏を離脱しつつあった。
眼下の雲海は徐々に切れ間を増やし、ヒトの視程も広がりつつあったが、セージはそれよりもずっと確かなデンゲイの知覚によって、天球に恒星の方角を探った。
月の光は未だ天に聞こえず(あの凸凹とした天然の衛星は水平線の下でまだ眠っている)、〝右手〟の空には、潰れたW字のカシオペア座が空に錨を投げているところを確認できた。
それを手掛かりにできれば、肉眼でも、雲の塊からのっそりと顔を出すこぐま座のα星、即ち天の北極の程近くにあり、実質的に北天の中心として瞬く北極星の位置を知るのに、そう苦労はしないだろう。
対するおおぐま座の北斗七星はほとんど雲海に沈んでしまって、その一部が目を出しているに過ぎなかったが、天頂付近でははくちょう座の十字が大きく羽ばたき、ちょうどセージたちの頭上に交差しているかと思えば、進行方向の空にはまさしく、りゅう座の〝首〟が観えていて、それら星々の並びは、同じ竜族のデンゲイを招いているかのようにも思え、彼らに翔ぶべき進路を指し示しているようでさえあった。
覚えず、セージは小さく鼻を鳴らした。
思っていたより、良い状況だった。
少なくとも、100年以上の前の人々が飛行機を実用化し始めた頃、山脈を越えるにも命懸けで、雲の上に飛び込むことさえ自殺行為だった頃にパイロットたちが置かれていた状況よりは格段に。
雲下の荒天を避けて、多少なりとも想定していたコースからズレていたはずだが、嵐をかいくぐり、右往左往しているうちにまた元のコースに復帰できていたらしい。
だが、針路を把握し、結果的に飛行経路の修正に成功していたことがわかったとしても、それだけでは、地磁気を感知して渡りの目処をつける鳥たちの感覚とそう大して変わらない。
それは、地図と方位磁針だけで自身の位置を確定できるわけではないのと同じであったし、では、どのように地球上における位置というものを表現するかを考えてみれば、緯度経度どころか東西南北でさえ、人間が自然界に対して勝手に当て嵌めた言語的枠組に過ぎないのだから、それが渡り鳥の嗅覚(鳥たちが地磁気を察知する感覚器官は概ね鼻の辺りにある)であろうと、デンゲイと同調することで得られる竜としての知覚や認識であろうと、それこそ航空年鑑《アルマナック》を使って置き換えてみなければ、その情報を誰か他のヒトに伝えることなど出来やしないだろう。
自分が生まれる前のことなのでセージもあまり良くは知らないが、二十一世紀の初頭ぐらいから、人類は人工衛星との通信技術を飛躍的に進歩させ、特に全地球測位システムやそれに類する測位システムは航空機や船舶のみならず、自動車にまで広く普及し、一般の歩行者さえもスマートフォンを覗き込みながら、街中を歩くようになっていた。
伝統的に航海に用いられてきた六分儀は民間の航海士の養成課程では廃止されるようになり、電波が広範囲に長期にわたって妨害される状況を想定する一部の軍関係者だけがその使用法の履修を続けていただけだったという。
だが、竜子場が地球を丸ごと包み込んでしまった今では状況は一変した。特に現在まさにそうであるように、濃密なマナに曝されている状況下ではGPSどころか、方位磁針や羅針盤だって期待通りの働きをすることはない。
幸いなことに、人類は竜星群が襲来するより以前に、全地球上の殆ど全ての陸地を記した地図を作り上げていた。
人里離れた山奥であっても、周囲に見える山景や渓流、氷河などの地形の配列を把握し、地図と照らし合わせることで、自分が今いる場所を推測することはできる。
では、陸地から遠く離れた洋上なら、あるいは海面も見えない雲の上の高空なら、何が山河に当たり、草木に当たるというのだろう。
地表面が時として密度の高い竜子場に覆われてしまったとしても、それで尚、輝きを失わない標識があるものだろうか。
星空が、それである。
観測者が見上げる天という銀幕に架けられた星景、遥かな彼方の星々から何光年、幾星霜の月日をかけて届く微かな光の配列、それこそが電波の誘導を失った海と空に輝く唯一の道標である。
地表面から遠く離れて運動する天体は、当然ながら地球を包む竜子場の影響を受けることはない。竜子場は可視光やその近縁にある紫外線や赤外線といった波長領域の電磁波には大きく干渉しないため、天体観測の結果自体は以前と何ら変わらない。
それが銀河の向こう側で核融合を繰り返す恒星の数々であろうと、それらよりくっきりと円く光を反射する惑星であろうと、あるいは白く浮かぶ月であろうと、人類の多年にわたる不断の努力、その成果として物理学は宇宙を漂う岩石やガスの塊が振る舞う様をおおよそ究明し、その過去と現在と未来の姿を数学によって記述することが可能である。
要するに、現在時刻と、各天体が見える方角と高度、そしてそれらの配列さえ判るのであれば、現在地の緯度と経度を特定することができる。
裏を返せば、それは、人類が技術発展の歴史的過程において半ば〝卒業〟してきた六分儀や航海年鑑を再び不用品回収箱の中から取り出さなくてはならなくなってしまったということでもある。
現在では、自分の位置を知るためにはスマートフォンを覗き込むのではなく、首をもたげて、空を見上げなくてはならなくなってしまった。
航海士たちは一端の船乗りというよりは詩人のような口調でそう言うし、時々、自分たちの身分と資質を明かすちょっとした儀式として恭しく六分儀を甲板上や艦橋で扱ってもみせる。
セージだって、紙の航空年鑑や六分儀をシートの背後にあるエマージェンシーボックスに放り込んではいるし、それらの使い方、即ち天測航法のやり方だって教え込まれてはいるので、飛行中にそうした冊子や器械を使用することもないことではない。
だが、現在、セージのデンゲイにはそうした古典的な航法システムとは別の仕組みが導入されている。
それがスターゲイザー星景測位システムであり、これは元々、高々度偵察機や大陸間弾道ミサイルといった二十世紀の〝発明品〟に用いられた技術をベースとして発展的に開発された航法装置の一種だという。
他の人工の航空機とは異なり、竜子場を避けるのではなく、その只中を突っ切っていくことになる、というよりはその波に乗るように、あるいは泳ぐように飛翔することになるデンゲイが電波によらずして自身の位置を測定するためには、通常のものとは異なる航法装置が必要となる。
そのデンゲイを実運用にするにあたって、国連竜星群機関《UNOO》は〝艦載竜〟に搭載する航法装置の選定を行い、最終的に、星景測位という古錆びた旧来型技術と、〝宇宙の灯台〟たるパルサー中性子星が放出するガンマ線と大気上層部に希薄ながらも遍在する竜子場との相互作用を検知することで測位を行う新技術とを天秤にかけて、結局、前者を採用した。
開発に予算と時間の双方をかけることができなかったUNOОとしては、後者にどれだけの将来性や安定性があったとしても、それよりは遥かに現実味があり、実用化までの道のりが短く、同じく搭載予定のCNI統合システムとの連携を考慮するのであれば、前者を選択せざるを得なかったのだろう。
その理屈はわかるし、テルミたちが検討を重ねた結果、そういう結論に至ったのであれば、そうなのだろうが、いくら観測素子や得られたデータを処理するソフトウェアが最新式の信頼性あるものであろうと、原理的には古代の航海術のような測位システムをデンゲイに載せて、それを使って飛行するように指示されるのはセージだった。
雲の上に出ることさえできれば殆ど何の問題がないにしても、今回のような人命に関わる重要なミッションの途上で、先刻のような竜子場の不調に見舞われてしまえば、飛行に支障はないにしても、正確なナビゲーションを失って、目的地に最短時間で辿り着くことが困難になるかもしれない。そうなれば、救急コンテナにいる患者はどうなってしまうだろう。それは恐ろしい想像だ。
あの時、竜星が降ってこなければ、セージは最期まで横たわっているしかなかったのだ。それは今、コンテナの患者が置かれている状況とそこまで違うだろうか。
ヴィクトリアたちの言うことが間違っているとは思わなかったし、テルミやスティーブンたちが困り果てる姿を内心、小気味良く思いもした。
デンゲイに次々と機械を積み込まれたり、載せられたりした時も、またオトナたちの、オトナたちによる、オトナたちのための勝手な都合を押し付けられているとしか取らなかった。
こうして、自分の身に降りかかってくるとは考えてもみなかった。
メディアという望遠鏡を通して、どこか遠く離れたところの話だと思っていたことが、実際の問題として、自分のやること、できること、しなくてはならないことに圧し掛かってきているというのであれば、日本語のテキストで見た〝良い面の皮〟と言うのは、こういうことを言うのだろうか。
そんな日本語表現を急に思い出した理由はセージ自身にも判然としない。トーキョーなのか、東京なのか、とにかくそこへ行くと決まったからには日本語を使うことだってあるだろう。それだけに決まっている。もしかしたら、大して現地の日本人と話すことはないかもしれない。それなら、それで構わない。
今更、物心つくかつかないかの古い記憶を引っ張り出す程めんどうなことはない。
子供の頃、テルミたち国連職員に連れられて離れて以来、日本という国へ戻ったことはない。それどころか、どこの国にも長くいたことはなかった。UNOОの本部があったフィンランドだってそうだった。
どこかの国の地面の上にいるよりは、海の上の船にいる時間の方がずっと長かった。初めの頃は船酔いがつらかったが、そのうち慣れてしまったし、そうなってしまえば船にいた方がずっと良かった。
どこの国の人たちであっても、航空機だろうとデンゲイだろうと空を飛ぶものを歓迎することはなかった。ましてデンゲイは世界に被害をもたらした竜星から現れたものだった。良い眼で見られるはずがない。
だからセージはこれからもずっと海と空の間を浮かんだり、漂ったり、時折わずかな隙間を泳ぐだけだろうと思っている。
ラダマが言うような生まれ故郷だのなんだの、そんなことは何の関係もなかった。そういうことではないのだ。そうじゃない。何か認識が根本的に違っていて、それが伝わっていない。今更、日本という国へ戻ることになるなんて確かに思ってもみなかったことだが、そこに何かの意味があるなんてことはないのだ。
メラ・デンゲイは、夜の闇と隔てるところのない灰ばみた雲海の上空を、星々の小さな灯りに照らされた暗い蒼穹の月下を、即ち、どこまでも騒々しく電気と貴金属の贅肉がつき過ぎた地上と、いつまでも静謐で常しえに岩石とガスが漂う寂しき天上の狭間を、黙々と飛翔していた。
空は穏やかで、竜子場は安定していた。
先ほどまで、海と島に吹き荒れていた強風はすっかり和らぎ、雷雨は鳴りをひそめていた。マナも、どうして低調であったか分からないほど高揚していて、騒がしいくらいに賑やかで、竜が踊り出してもおかしくないくらいに濃密だった。
セージたちは現在進行形で熱帯低気圧の勢力圏を離脱しつつあった。
眼下の雲海は徐々に切れ間を増やし、ヒトの視程も広がりつつあったが、セージはそれよりもずっと確かなデンゲイの知覚によって、天球に恒星の方角を探った。
月の光は未だ天に聞こえず(あの凸凹とした天然の衛星は水平線の下でまだ眠っている)、〝右手〟の空には、潰れたW字のカシオペア座が空に錨を投げているところを確認できた。
それを手掛かりにできれば、肉眼でも、雲の塊からのっそりと顔を出すこぐま座のα星、即ち天の北極の程近くにあり、実質的に北天の中心として瞬く北極星の位置を知るのに、そう苦労はしないだろう。
対するおおぐま座の北斗七星はほとんど雲海に沈んでしまって、その一部が目を出しているに過ぎなかったが、天頂付近でははくちょう座の十字が大きく羽ばたき、ちょうどセージたちの頭上に交差しているかと思えば、進行方向の空にはまさしく、りゅう座の〝首〟が観えていて、それら星々の並びは、同じ竜族のデンゲイを招いているかのようにも思え、彼らに翔ぶべき進路を指し示しているようでさえあった。
覚えず、セージは小さく鼻を鳴らした。
思っていたより、良い状況だった。
少なくとも、100年以上の前の人々が飛行機を実用化し始めた頃、山脈を越えるにも命懸けで、雲の上に飛び込むことさえ自殺行為だった頃にパイロットたちが置かれていた状況よりは格段に。
雲下の荒天を避けて、多少なりとも想定していたコースからズレていたはずだが、嵐をかいくぐり、右往左往しているうちにまた元のコースに復帰できていたらしい。
だが、針路を把握し、結果的に飛行経路の修正に成功していたことがわかったとしても、それだけでは、地磁気を感知して渡りの目処をつける鳥たちの感覚とそう大して変わらない。
それは、地図と方位磁針だけで自身の位置を確定できるわけではないのと同じであったし、では、どのように地球上における位置というものを表現するかを考えてみれば、緯度経度どころか東西南北でさえ、人間が自然界に対して勝手に当て嵌めた言語的枠組に過ぎないのだから、それが渡り鳥の嗅覚(鳥たちが地磁気を察知する感覚器官は概ね鼻の辺りにある)であろうと、デンゲイと同調することで得られる竜としての知覚や認識であろうと、それこそ航空年鑑《アルマナック》を使って置き換えてみなければ、その情報を誰か他のヒトに伝えることなど出来やしないだろう。
自分が生まれる前のことなのでセージもあまり良くは知らないが、二十一世紀の初頭ぐらいから、人類は人工衛星との通信技術を飛躍的に進歩させ、特に全地球測位システムやそれに類する測位システムは航空機や船舶のみならず、自動車にまで広く普及し、一般の歩行者さえもスマートフォンを覗き込みながら、街中を歩くようになっていた。
伝統的に航海に用いられてきた六分儀は民間の航海士の養成課程では廃止されるようになり、電波が広範囲に長期にわたって妨害される状況を想定する一部の軍関係者だけがその使用法の履修を続けていただけだったという。
だが、竜子場が地球を丸ごと包み込んでしまった今では状況は一変した。特に現在まさにそうであるように、濃密なマナに曝されている状況下ではGPSどころか、方位磁針や羅針盤だって期待通りの働きをすることはない。
幸いなことに、人類は竜星群が襲来するより以前に、全地球上の殆ど全ての陸地を記した地図を作り上げていた。
人里離れた山奥であっても、周囲に見える山景や渓流、氷河などの地形の配列を把握し、地図と照らし合わせることで、自分が今いる場所を推測することはできる。
では、陸地から遠く離れた洋上なら、あるいは海面も見えない雲の上の高空なら、何が山河に当たり、草木に当たるというのだろう。
地表面が時として密度の高い竜子場に覆われてしまったとしても、それで尚、輝きを失わない標識があるものだろうか。
星空が、それである。
観測者が見上げる天という銀幕に架けられた星景、遥かな彼方の星々から何光年、幾星霜の月日をかけて届く微かな光の配列、それこそが電波の誘導を失った海と空に輝く唯一の道標である。
地表面から遠く離れて運動する天体は、当然ながら地球を包む竜子場の影響を受けることはない。竜子場は可視光やその近縁にある紫外線や赤外線といった波長領域の電磁波には大きく干渉しないため、天体観測の結果自体は以前と何ら変わらない。
それが銀河の向こう側で核融合を繰り返す恒星の数々であろうと、それらよりくっきりと円く光を反射する惑星であろうと、あるいは白く浮かぶ月であろうと、人類の多年にわたる不断の努力、その成果として物理学は宇宙を漂う岩石やガスの塊が振る舞う様をおおよそ究明し、その過去と現在と未来の姿を数学によって記述することが可能である。
要するに、現在時刻と、各天体が見える方角と高度、そしてそれらの配列さえ判るのであれば、現在地の緯度と経度を特定することができる。
裏を返せば、それは、人類が技術発展の歴史的過程において半ば〝卒業〟してきた六分儀や航海年鑑を再び不用品回収箱の中から取り出さなくてはならなくなってしまったということでもある。
現在では、自分の位置を知るためにはスマートフォンを覗き込むのではなく、首をもたげて、空を見上げなくてはならなくなってしまった。
航海士たちは一端の船乗りというよりは詩人のような口調でそう言うし、時々、自分たちの身分と資質を明かすちょっとした儀式として恭しく六分儀を甲板上や艦橋で扱ってもみせる。
セージだって、紙の航空年鑑や六分儀をシートの背後にあるエマージェンシーボックスに放り込んではいるし、それらの使い方、即ち天測航法のやり方だって教え込まれてはいるので、飛行中にそうした冊子や器械を使用することもないことではない。
だが、現在、セージのデンゲイにはそうした古典的な航法システムとは別の仕組みが導入されている。
それがスターゲイザー星景測位システムであり、これは元々、高々度偵察機や大陸間弾道ミサイルといった二十世紀の〝発明品〟に用いられた技術をベースとして発展的に開発された航法装置の一種だという。
他の人工の航空機とは異なり、竜子場を避けるのではなく、その只中を突っ切っていくことになる、というよりはその波に乗るように、あるいは泳ぐように飛翔することになるデンゲイが電波によらずして自身の位置を測定するためには、通常のものとは異なる航法装置が必要となる。
そのデンゲイを実運用にするにあたって、国連竜星群機関《UNOO》は〝艦載竜〟に搭載する航法装置の選定を行い、最終的に、星景測位という古錆びた旧来型技術と、〝宇宙の灯台〟たるパルサー中性子星が放出するガンマ線と大気上層部に希薄ながらも遍在する竜子場との相互作用を検知することで測位を行う新技術とを天秤にかけて、結局、前者を採用した。
開発に予算と時間の双方をかけることができなかったUNOОとしては、後者にどれだけの将来性や安定性があったとしても、それよりは遥かに現実味があり、実用化までの道のりが短く、同じく搭載予定のCNI統合システムとの連携を考慮するのであれば、前者を選択せざるを得なかったのだろう。
その理屈はわかるし、テルミたちが検討を重ねた結果、そういう結論に至ったのであれば、そうなのだろうが、いくら観測素子や得られたデータを処理するソフトウェアが最新式の信頼性あるものであろうと、原理的には古代の航海術のような測位システムをデンゲイに載せて、それを使って飛行するように指示されるのはセージだった。
雲の上に出ることさえできれば殆ど何の問題がないにしても、今回のような人命に関わる重要なミッションの途上で、先刻のような竜子場の不調に見舞われてしまえば、飛行に支障はないにしても、正確なナビゲーションを失って、目的地に最短時間で辿り着くことが困難になるかもしれない。そうなれば、救急コンテナにいる患者はどうなってしまうだろう。それは恐ろしい想像だ。
あの時、竜星が降ってこなければ、セージは最期まで横たわっているしかなかったのだ。それは今、コンテナの患者が置かれている状況とそこまで違うだろうか。
ヴィクトリアたちの言うことが間違っているとは思わなかったし、テルミやスティーブンたちが困り果てる姿を内心、小気味良く思いもした。
デンゲイに次々と機械を積み込まれたり、載せられたりした時も、またオトナたちの、オトナたちによる、オトナたちのための勝手な都合を押し付けられているとしか取らなかった。
こうして、自分の身に降りかかってくるとは考えてもみなかった。
メディアという望遠鏡を通して、どこか遠く離れたところの話だと思っていたことが、実際の問題として、自分のやること、できること、しなくてはならないことに圧し掛かってきているというのであれば、日本語のテキストで見た〝良い面の皮〟と言うのは、こういうことを言うのだろうか。
そんな日本語表現を急に思い出した理由はセージ自身にも判然としない。トーキョーなのか、東京なのか、とにかくそこへ行くと決まったからには日本語を使うことだってあるだろう。それだけに決まっている。もしかしたら、大して現地の日本人と話すことはないかもしれない。それなら、それで構わない。
今更、物心つくかつかないかの古い記憶を引っ張り出す程めんどうなことはない。
子供の頃、テルミたち国連職員に連れられて離れて以来、日本という国へ戻ったことはない。それどころか、どこの国にも長くいたことはなかった。UNOОの本部があったフィンランドだってそうだった。
どこかの国の地面の上にいるよりは、海の上の船にいる時間の方がずっと長かった。初めの頃は船酔いがつらかったが、そのうち慣れてしまったし、そうなってしまえば船にいた方がずっと良かった。
どこの国の人たちであっても、航空機だろうとデンゲイだろうと空を飛ぶものを歓迎することはなかった。ましてデンゲイは世界に被害をもたらした竜星から現れたものだった。良い眼で見られるはずがない。
だからセージはこれからもずっと海と空の間を浮かんだり、漂ったり、時折わずかな隙間を泳ぐだけだろうと思っている。
ラダマが言うような生まれ故郷だのなんだの、そんなことは何の関係もなかった。そういうことではないのだ。そうじゃない。何か認識が根本的に違っていて、それが伝わっていない。今更、日本という国へ戻ることになるなんて確かに思ってもみなかったことだが、そこに何かの意味があるなんてことはないのだ。
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