ギフト・フロム・カノープス
第1部 Night Flight - 2
*
メラ・デンゲイの発艦準備はおよそ30分以内に整えられた。
セージが通話アプリ越しのブリーフィングを終えて格納庫に戻ると、ちょうど整備班のシフトクルーが総出で、コンテナ状のミッションモジュールを彼の竜の小ぶりの尾部を避けつつ、その脚部と後腰に接続しているところだった。
「いいところに来たな、セージ!」
作業の陣頭指揮をとる青年が手を振って、声を張り上げた。
ただでさえ騒音に満ち溢れている格納庫は艦内で外界に最も近い場所の一つでもあり、海が時化てきたからには大声を出すか、無線を使わなければ声は届きづらい。
幸い、艦の構造上、波浪による艦体の動揺は相当に抑えられており、セージが彼の竜へと駆け寄るにも、整備班が発艦前の点検作業を速やかに実施するにも何ら支障はなかった。
「対荷特装が一番厄介なんだよ。サーボモーターでカーボンナノチューブのケーブルとジンバル側をうまく連動させなきゃならないんだ。もちろん、デンゲイに嵌めた支持器から外れないようにな!」
マダガスカル出身のラダマは無線機のインカムに指をあてた姿勢のまま作業の進捗に目を光らせつつ、やって来たセージに向けてミッションモジュールを示し、ぼやいてみせた。
「でも、整備は完璧なんだろ?」
セージが念を押すと、ラダマはにんまりと笑って答えた。
「当たり前だろ。そのためにオレたちはこの艦に乗ってんだ」
それからラダマは表情を引き締め、「確認するか?」とタブレットに表示されたチェックリストを示したので、セージは即座に肯定した。
二人は、連結部のトルクを検測するクルーや、与圧機能を担う圧縮機を含む空調系統の動作を確認するクルーの間を縫って、デンゲイとミッションモジュールの周囲を回り、コンテナを上部から保持するスプレッダーの具合や、それとデンゲイをカーボンナノチューブのケーブルで接続するパラレルリンク機構に加え、更にはサーボモーターの作動を制御するジャイロセンサまで漏らすことなく目視と指差によって確認を行った。
その間にも、整備班若手筆頭のラダマは他の整備班クルーの動きに気を払って適宜艦内通信で指示を出し、時には声を張り上げ、同僚たちへ注意を促した。
「ニック、コンテナの降着装置は衝撃吸収機構を確認しておけよ!」
一連の確認作業を終えたところで、セージがまだ浮かない顔をしていることに目敏く気づいたラダマはこう言った。
「心配すんな、試験飛行は珊瑚海で何度もやったじゃねぇか。オレたちもお前も普段通り自分の仕事をする。それだけだ。物事っていうのはな、なんでも良い方向に考えるもんだ。今回の作戦が上手くいきゃあ、オレたちは世界初のドクターヘリならぬドクターデンゲイってわけだ。世界初だぞ、良い響きじゃねぇか」
「わかってるよ」
セージが口を尖らせると、ラダマは笑って彼の背中を叩いた。
「よし、良い顔だ。おい、見ろ。ドクターたちがおいでなすった」
格納庫に機材を伴って慌ただしく駆け込んできたのは白衣に身を包んだ医療班のクルーたちだった。
デンゲイに接続された救急医療用コンテナへと医療器材が次々と積み込まれていく。訓練通りに、あるいはそれ以上に緊張した面持ちと機敏な動作で、機材の搬入作業とそのチェックを同時並行で行っていく医療班の人員を率いているのは、防護服に身を包んだ一人のドクターだった。
セージはもちろん、その防護服に見覚えがあった。さんざん、医療史のテキストで見たものだ。
二十年前に、世界中で猛威を振るったウイルス感染症。その対応に奔走した医療従事者たちが写真資料の中でそれを身に着けていた。
その防護服を今、医療班のチーフであり、艦内感染症対策の責任者を務めるマリアが着ているということは、テルミたちが何を恐れているかもよくわかるというものだった。
マリアは梟のような視線でセージの姿を認めると、良く通る凛とした声で呼びかけてきた。
「共辰者、私が同行します。空路は任せました」
セージが軽く手を挙げて返答とすると、マリアはすぐに医療班の面々へと視線を戻し、自分たちの仕事に戻った。
傍らに立つラダマがセージを促した。
「オレたちはオレたちの仕事をしたぞ、セージ。次はお前の番だ」
セージは頷くと、格納庫扉の前にひざまづくように鎮座している彼のデンゲイの前へと回り込んだ。
ずんぐりとした黒い竜の屈んだ胴部には大きな空洞があり、そこには人一人を収容してなお余りある容積がある。
ヌークレオと呼ばれるその空間に、セージはふわりとした動作で身軽に乗り込んだ。
それは服を着るよりも自然な仕草だった。
彼は身を捩って、デンゲイの内表面にすっぽり収まるように設置された祭壇、というよりは天球儀のようなシートの奥に滑り込んだ。
飛んできたラダマが空洞の縁に手をかけ、口早に説明を始めた。
「航空電子機器《アビオニクス》は立ち上げてある。お前の尻の下にあるバッテリーも交換済みだし、慣性航法装置のアラインメントも完了してる。今は星景測位装置《スターゲイザー》、例の自動六分儀と内蔵光格子時計を連動させてるところだ。お前たちに言うことじゃないだろうが、マナが密になってきたらGPSもTACANもあてにはならないからな。無いよりはマシだろうが、それよりこの全天候型天測航法がもっと普及してくれたら航空機だって堂々と飛べるのによ。まっ、飛行機を飛ばすどころか宇宙開発や天体観測まで御法度だって言うんだったら、しょうがないけどな。それはともかく、ウェイポイントの設定だ。フィトリの報告じゃ飛行計画はもうデータ共有されてるって話だったが、確認はいつだってどんな場合も重要だ。必ず見てくれ。たしか目的地はナントカって島とトーキョーの二つだったよな」
「オガサワラだよ」
「は?」
「だから、小笠原諸島の母島だよ」
「全然わからないな。なんだってお前やテルミの国の言葉はそう聞き取りづらくて発音しづらいんだ?」
肩をすくめるラダマを無視して、セージはシートを囲うアームレストを下ろすと、手元のコンソールを操作した。
デンゲイの体表面に設置された360度カメラの映像をシートに内蔵されたARプロジェクターがヌークレオの内壁に全球投影し、セージはデンゲイの内部にいながらにして、そこに壁などないかのように、周囲の様子、つまりクルー一人一人が手際良く仕事をこなしてく格納庫の様子を手に取るように知覚することができた。
もちろん、共辰者であるセージにとって、カメラの映像、即ちヒトの視覚情報というものはあくまで補助的な感覚器官に過ぎない。
それよりは、外界の映像に重ね合わされる通信・航法・識別統合処理システム、航法装置の設定情報や航空計器だとか、ミッションモジュールの挙動を観測する後方カメラの映像だとか、あるいは復号されたノータムや予定航空路上の気象情報といったものの方がより重要だった。
ARプロジェクションの動作を含め、一通りのチェックをこなしながら、セージはシートフレームの内側で居心地悪そうに何度も座り直した。
「どうした?」
落ち着かない様子の彼を見て、整備班の若手筆頭が不審がった。
「狭いんだよ」
ラダマは訝しげにセージの頭の天辺と空洞の大きさを見比べた。
「まだ十分余裕があるだろ」
「これから成長期なんだよ!」
ニヤついているラダマを睨みながら航法システムの設定確認を終えたところで、ミッションモジュールのコンテナから有線で連絡が入った。
医療班の搬入作業が完了し、マリアと看護師たちは既に救急コンテナに搭乗したとのことだった。
ラダマが「気密扉、最終確認!」と叫びながら後方へ向かった。
救急コンテナのベイドアが閉じる低い電動音の響きを耳にしながら、セージはソフトウェア無線を使って、艦橋にいる気心の知れた管制官のアイノを呼び出した。
「管制塔、こちらメラ・デンゲイ。現在地は格納庫、準備完了した。これから立ち上げる」
「メラ・デンゲイ、起動次第、飛行甲板のスポット3へ進入してください。発艦態勢に入ったら速やかに報告すること。それとセージ、承認済みの飛行計画はイオージマへ提出してあるから安心して。カトマンズの時みたいにはならないから」
「ありがとう。できれば最初からそうしておいてほしかったけどね」
アイノに答えてから、セージは彼のデンゲイを立ち上がらせた。
竜星物質から成る厳かな巨体が意外にも滑らかに起き上がり、セージの視野は急に高度を上げたが、違和感など感じるはずもない。
再び駆けてきたラダマがセージたちの前に回り込み、合図を送ってきた。
格納庫のシャッターが徐々に開き始める。
勢いよく吹き込んできた雨風がデンゲイの岩肌を濡らし、セージはそれを自分の体が濡れたように感じてしまった。
少し没入し過ぎていると知った彼は移入をわずかに引き上げた。
今よりもっと幼かった頃はこの加減がわからなくて、導師ホクレアに出会うまではずっと泣いていた気がする。
誘導員を真似てラダマが送ってきた「直進」のハンドサインを目視して、セージはデンゲイを歩かせた。
その時、ラダマが余計な一言を叫んだ。
「しっかりやれよ、星の王子様!」
セージが慌ててデンゲイに風防膜を閉めさせたのは、これ以上、核珊に水滴が入り込まないようにするためであって、恥ずかしさのあまり赤面したからではない。
ハッチの役割を果たす風防膜が閉じると、ヌークレオは気密室になった。常人ならば、暗闇の中でARプロジェクションを頼りに穴蔵の内側を見つめながら、立ち上がったばかりの幼児のようにふらついて、途方に暮れるしかないだろう。
しかし、セージの知覚と認識と思考は既に竜と共辰していた。
セージが普段自分が歩くのと同じように、デンゲイもまた歩いている。
すると、竜に牽かれてミッションモジュールのコンテナも降着装置の車輪を転がして、その動きに追随した。
橇を牽くトナカイか、あるいは馬車というべきか。
竜がコンテナを牽く様を形容する表現は様々にあったが、筒のようなモジュールを翅のようなケーブルでつなぐ様がカワゲラの成虫を連想させるので、このミッションモジュールはストーンフライと呼称されている。
飛行甲板は夜闇の中、風雨に紛れ、標識灯だけが頼りといった状態だったが、指定された発艦位置《スポット》にミッションモジュールを曳いて近づいていくと、蛍光グリーンのラインが入ったクルー共通の制式ブルゾンと同色のヘルメットを身に着けた航空班のクルーが強風に耐えながら両手に持った信号灯を振り上げ、こちらを誘導する姿が見えてきた。
辺りを見渡せば、蛍光レッドのラインが入ったジャケットを着こんだ消防班や、同様に蛍光ホワイトのラインが入った保安班の姿も見えただろう。しかし、それを気にすることは今セージがやるべきことではなかった。
彼は竜を救急コンテナと共に発艦位置に着けて、管制を呼んだ。
「こちらメラ・デンゲイ。スポット3から発艦準備完了」
「メラ・デンゲイ、こちら管制塔《タワー》。貴竜を確認しました。現在の海況はコード5、風は西南西から27ノット。せっかく故郷へ帰って来たっていうのに天気はお生憎さまだけど、夜間飛行隊なら大丈夫。メラ・デンゲイ、スポット3より発艦を許可します。気をつけてね、セージ」
管制の言葉を受け、共辰者が意志して、竜が翼を開いた。
それは鳥類や蝙蝠の羽根とは異なるものだった。
それはアゲハ蝶の翅であって、トビウオの羽であった。
あるいは、ベタやカサゴ、バショウカジキのような鰭だった。
はたまた、美しく流麗な青蓑海牛のフィンでもあった。
その竜の翼膜が、あたかもジオイドに沿って層序として漂う孤立波のような竜子場を巧みに捉え、その加護を受けると、メラ・デンゲイの黒い岩のような巨体は虹色の瞬光を散らしながら、音もなく浮かび上り始めた。
その挙動を検知したミッションモジュールのジャイロセンサーが電気信号を動力に変換するアクチュエーターとしてのサーボモーターを作動させ、カーボンナノチューブを巻き上げ、あるいは緩め伸ばして、医療コンテナの平衡を保った。
それは少々大がかりな機構ではあったが、原理としてはそれこそ伝統的な羅針盤や、現代の自撮り棒やドローンに用いられるジンバル式のカメラスタビライザーとほぼ同様の仕組みだった。
セージは後方カメラを通してミッションモジュールの動作を確認し、本格的な発艦態勢に入った。
デンゲイは自身を構成する竜星体《カプシド》から竜子場を放出した。
天の羽衣のように靡き、はためくマナ・エンベロープ。
それはまるで竜が身に纏う光冠のマフラーか、極光のコートか、あるいは虹のスカートのようであって、デンゲイがその袖や裾を翻すと、彼我の竜子場は更なる揚力と推力を、つまり加護をセージとその半身である竜に与えた。
そして、次の瞬間。
メラ・デンゲイは空に昇っていた。
静かに、オーロラの如き光跡を曳きながら。
大きな積荷を牽いて、嵐の夜空を飛翔していた。
メラ・デンゲイの発艦準備はおよそ30分以内に整えられた。
セージが通話アプリ越しのブリーフィングを終えて格納庫に戻ると、ちょうど整備班のシフトクルーが総出で、コンテナ状のミッションモジュールを彼の竜の小ぶりの尾部を避けつつ、その脚部と後腰に接続しているところだった。
「いいところに来たな、セージ!」
作業の陣頭指揮をとる青年が手を振って、声を張り上げた。
ただでさえ騒音に満ち溢れている格納庫は艦内で外界に最も近い場所の一つでもあり、海が時化てきたからには大声を出すか、無線を使わなければ声は届きづらい。
幸い、艦の構造上、波浪による艦体の動揺は相当に抑えられており、セージが彼の竜へと駆け寄るにも、整備班が発艦前の点検作業を速やかに実施するにも何ら支障はなかった。
「対荷特装が一番厄介なんだよ。サーボモーターでカーボンナノチューブのケーブルとジンバル側をうまく連動させなきゃならないんだ。もちろん、デンゲイに嵌めた支持器から外れないようにな!」
マダガスカル出身のラダマは無線機のインカムに指をあてた姿勢のまま作業の進捗に目を光らせつつ、やって来たセージに向けてミッションモジュールを示し、ぼやいてみせた。
「でも、整備は完璧なんだろ?」
セージが念を押すと、ラダマはにんまりと笑って答えた。
「当たり前だろ。そのためにオレたちはこの艦に乗ってんだ」
それからラダマは表情を引き締め、「確認するか?」とタブレットに表示されたチェックリストを示したので、セージは即座に肯定した。
二人は、連結部のトルクを検測するクルーや、与圧機能を担う圧縮機を含む空調系統の動作を確認するクルーの間を縫って、デンゲイとミッションモジュールの周囲を回り、コンテナを上部から保持するスプレッダーの具合や、それとデンゲイをカーボンナノチューブのケーブルで接続するパラレルリンク機構に加え、更にはサーボモーターの作動を制御するジャイロセンサまで漏らすことなく目視と指差によって確認を行った。
その間にも、整備班若手筆頭のラダマは他の整備班クルーの動きに気を払って適宜艦内通信で指示を出し、時には声を張り上げ、同僚たちへ注意を促した。
「ニック、コンテナの降着装置は衝撃吸収機構を確認しておけよ!」
一連の確認作業を終えたところで、セージがまだ浮かない顔をしていることに目敏く気づいたラダマはこう言った。
「心配すんな、試験飛行は珊瑚海で何度もやったじゃねぇか。オレたちもお前も普段通り自分の仕事をする。それだけだ。物事っていうのはな、なんでも良い方向に考えるもんだ。今回の作戦が上手くいきゃあ、オレたちは世界初のドクターヘリならぬドクターデンゲイってわけだ。世界初だぞ、良い響きじゃねぇか」
「わかってるよ」
セージが口を尖らせると、ラダマは笑って彼の背中を叩いた。
「よし、良い顔だ。おい、見ろ。ドクターたちがおいでなすった」
格納庫に機材を伴って慌ただしく駆け込んできたのは白衣に身を包んだ医療班のクルーたちだった。
デンゲイに接続された救急医療用コンテナへと医療器材が次々と積み込まれていく。訓練通りに、あるいはそれ以上に緊張した面持ちと機敏な動作で、機材の搬入作業とそのチェックを同時並行で行っていく医療班の人員を率いているのは、防護服に身を包んだ一人のドクターだった。
セージはもちろん、その防護服に見覚えがあった。さんざん、医療史のテキストで見たものだ。
二十年前に、世界中で猛威を振るったウイルス感染症。その対応に奔走した医療従事者たちが写真資料の中でそれを身に着けていた。
その防護服を今、医療班のチーフであり、艦内感染症対策の責任者を務めるマリアが着ているということは、テルミたちが何を恐れているかもよくわかるというものだった。
マリアは梟のような視線でセージの姿を認めると、良く通る凛とした声で呼びかけてきた。
「共辰者、私が同行します。空路は任せました」
セージが軽く手を挙げて返答とすると、マリアはすぐに医療班の面々へと視線を戻し、自分たちの仕事に戻った。
傍らに立つラダマがセージを促した。
「オレたちはオレたちの仕事をしたぞ、セージ。次はお前の番だ」
セージは頷くと、格納庫扉の前にひざまづくように鎮座している彼のデンゲイの前へと回り込んだ。
ずんぐりとした黒い竜の屈んだ胴部には大きな空洞があり、そこには人一人を収容してなお余りある容積がある。
ヌークレオと呼ばれるその空間に、セージはふわりとした動作で身軽に乗り込んだ。
それは服を着るよりも自然な仕草だった。
彼は身を捩って、デンゲイの内表面にすっぽり収まるように設置された祭壇、というよりは天球儀のようなシートの奥に滑り込んだ。
飛んできたラダマが空洞の縁に手をかけ、口早に説明を始めた。
「航空電子機器《アビオニクス》は立ち上げてある。お前の尻の下にあるバッテリーも交換済みだし、慣性航法装置のアラインメントも完了してる。今は星景測位装置《スターゲイザー》、例の自動六分儀と内蔵光格子時計を連動させてるところだ。お前たちに言うことじゃないだろうが、マナが密になってきたらGPSもTACANもあてにはならないからな。無いよりはマシだろうが、それよりこの全天候型天測航法がもっと普及してくれたら航空機だって堂々と飛べるのによ。まっ、飛行機を飛ばすどころか宇宙開発や天体観測まで御法度だって言うんだったら、しょうがないけどな。それはともかく、ウェイポイントの設定だ。フィトリの報告じゃ飛行計画はもうデータ共有されてるって話だったが、確認はいつだってどんな場合も重要だ。必ず見てくれ。たしか目的地はナントカって島とトーキョーの二つだったよな」
「オガサワラだよ」
「は?」
「だから、小笠原諸島の母島だよ」
「全然わからないな。なんだってお前やテルミの国の言葉はそう聞き取りづらくて発音しづらいんだ?」
肩をすくめるラダマを無視して、セージはシートを囲うアームレストを下ろすと、手元のコンソールを操作した。
デンゲイの体表面に設置された360度カメラの映像をシートに内蔵されたARプロジェクターがヌークレオの内壁に全球投影し、セージはデンゲイの内部にいながらにして、そこに壁などないかのように、周囲の様子、つまりクルー一人一人が手際良く仕事をこなしてく格納庫の様子を手に取るように知覚することができた。
もちろん、共辰者であるセージにとって、カメラの映像、即ちヒトの視覚情報というものはあくまで補助的な感覚器官に過ぎない。
それよりは、外界の映像に重ね合わされる通信・航法・識別統合処理システム、航法装置の設定情報や航空計器だとか、ミッションモジュールの挙動を観測する後方カメラの映像だとか、あるいは復号されたノータムや予定航空路上の気象情報といったものの方がより重要だった。
ARプロジェクションの動作を含め、一通りのチェックをこなしながら、セージはシートフレームの内側で居心地悪そうに何度も座り直した。
「どうした?」
落ち着かない様子の彼を見て、整備班の若手筆頭が不審がった。
「狭いんだよ」
ラダマは訝しげにセージの頭の天辺と空洞の大きさを見比べた。
「まだ十分余裕があるだろ」
「これから成長期なんだよ!」
ニヤついているラダマを睨みながら航法システムの設定確認を終えたところで、ミッションモジュールのコンテナから有線で連絡が入った。
医療班の搬入作業が完了し、マリアと看護師たちは既に救急コンテナに搭乗したとのことだった。
ラダマが「気密扉、最終確認!」と叫びながら後方へ向かった。
救急コンテナのベイドアが閉じる低い電動音の響きを耳にしながら、セージはソフトウェア無線を使って、艦橋にいる気心の知れた管制官のアイノを呼び出した。
「管制塔、こちらメラ・デンゲイ。現在地は格納庫、準備完了した。これから立ち上げる」
「メラ・デンゲイ、起動次第、飛行甲板のスポット3へ進入してください。発艦態勢に入ったら速やかに報告すること。それとセージ、承認済みの飛行計画はイオージマへ提出してあるから安心して。カトマンズの時みたいにはならないから」
「ありがとう。できれば最初からそうしておいてほしかったけどね」
アイノに答えてから、セージは彼のデンゲイを立ち上がらせた。
竜星物質から成る厳かな巨体が意外にも滑らかに起き上がり、セージの視野は急に高度を上げたが、違和感など感じるはずもない。
再び駆けてきたラダマがセージたちの前に回り込み、合図を送ってきた。
格納庫のシャッターが徐々に開き始める。
勢いよく吹き込んできた雨風がデンゲイの岩肌を濡らし、セージはそれを自分の体が濡れたように感じてしまった。
少し没入し過ぎていると知った彼は移入をわずかに引き上げた。
今よりもっと幼かった頃はこの加減がわからなくて、導師ホクレアに出会うまではずっと泣いていた気がする。
誘導員を真似てラダマが送ってきた「直進」のハンドサインを目視して、セージはデンゲイを歩かせた。
その時、ラダマが余計な一言を叫んだ。
「しっかりやれよ、星の王子様!」
セージが慌ててデンゲイに風防膜を閉めさせたのは、これ以上、核珊に水滴が入り込まないようにするためであって、恥ずかしさのあまり赤面したからではない。
ハッチの役割を果たす風防膜が閉じると、ヌークレオは気密室になった。常人ならば、暗闇の中でARプロジェクションを頼りに穴蔵の内側を見つめながら、立ち上がったばかりの幼児のようにふらついて、途方に暮れるしかないだろう。
しかし、セージの知覚と認識と思考は既に竜と共辰していた。
セージが普段自分が歩くのと同じように、デンゲイもまた歩いている。
すると、竜に牽かれてミッションモジュールのコンテナも降着装置の車輪を転がして、その動きに追随した。
橇を牽くトナカイか、あるいは馬車というべきか。
竜がコンテナを牽く様を形容する表現は様々にあったが、筒のようなモジュールを翅のようなケーブルでつなぐ様がカワゲラの成虫を連想させるので、このミッションモジュールはストーンフライと呼称されている。
飛行甲板は夜闇の中、風雨に紛れ、標識灯だけが頼りといった状態だったが、指定された発艦位置《スポット》にミッションモジュールを曳いて近づいていくと、蛍光グリーンのラインが入ったクルー共通の制式ブルゾンと同色のヘルメットを身に着けた航空班のクルーが強風に耐えながら両手に持った信号灯を振り上げ、こちらを誘導する姿が見えてきた。
辺りを見渡せば、蛍光レッドのラインが入ったジャケットを着こんだ消防班や、同様に蛍光ホワイトのラインが入った保安班の姿も見えただろう。しかし、それを気にすることは今セージがやるべきことではなかった。
彼は竜を救急コンテナと共に発艦位置に着けて、管制を呼んだ。
「こちらメラ・デンゲイ。スポット3から発艦準備完了」
「メラ・デンゲイ、こちら管制塔《タワー》。貴竜を確認しました。現在の海況はコード5、風は西南西から27ノット。せっかく故郷へ帰って来たっていうのに天気はお生憎さまだけど、夜間飛行隊なら大丈夫。メラ・デンゲイ、スポット3より発艦を許可します。気をつけてね、セージ」
管制の言葉を受け、共辰者が意志して、竜が翼を開いた。
それは鳥類や蝙蝠の羽根とは異なるものだった。
それはアゲハ蝶の翅であって、トビウオの羽であった。
あるいは、ベタやカサゴ、バショウカジキのような鰭だった。
はたまた、美しく流麗な青蓑海牛のフィンでもあった。
その竜の翼膜が、あたかもジオイドに沿って層序として漂う孤立波のような竜子場を巧みに捉え、その加護を受けると、メラ・デンゲイの黒い岩のような巨体は虹色の瞬光を散らしながら、音もなく浮かび上り始めた。
その挙動を検知したミッションモジュールのジャイロセンサーが電気信号を動力に変換するアクチュエーターとしてのサーボモーターを作動させ、カーボンナノチューブを巻き上げ、あるいは緩め伸ばして、医療コンテナの平衡を保った。
それは少々大がかりな機構ではあったが、原理としてはそれこそ伝統的な羅針盤や、現代の自撮り棒やドローンに用いられるジンバル式のカメラスタビライザーとほぼ同様の仕組みだった。
セージは後方カメラを通してミッションモジュールの動作を確認し、本格的な発艦態勢に入った。
デンゲイは自身を構成する竜星体《カプシド》から竜子場を放出した。
天の羽衣のように靡き、はためくマナ・エンベロープ。
それはまるで竜が身に纏う光冠のマフラーか、極光のコートか、あるいは虹のスカートのようであって、デンゲイがその袖や裾を翻すと、彼我の竜子場は更なる揚力と推力を、つまり加護をセージとその半身である竜に与えた。
そして、次の瞬間。
メラ・デンゲイは空に昇っていた。
静かに、オーロラの如き光跡を曳きながら。
大きな積荷を牽いて、嵐の夜空を飛翔していた。
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