ギフト・フロム・カノープス
第1部 Night Flight - 1
第1部 Night Flight
      日本国 小笠原諸島沖 南西200海里(公海) 
夜の波は賑やかで、潮風は濃厚だ。
セージがそう言ったところで、その主張に同意してくれる人間はそう多くないだろう。
世の中全般とは大きなことを言わず、このイニシエイト・ロコラの艦内に限定したところで、それはきっと変わらない。
それはいかにも多感な年頃の少年が言いそうなことであって、少し意地の悪い者なら「それは「きっと竜子場の影響なんじゃないか」と性質の悪い冗談交じりにまぜっかえして来たとしてもおかしくはない。「竜子場じゃなくてマナだよ」と言い返したところで、どこまで真剣に受け取ってもらえるかはわかったものじゃない。
布良セージは16歳になった。
まだ大人ではないにせよ、もう子供でもないのだから、セージだって、わかってもらえないことくらいはわかっている。
だいたい竜子場《オピオニック・フィールド》の影響と言ったところで、一体どれだけの人間がそれを直に感じ取ることができるというのだろう?
彼自身でさえ、それを確かな感覚として捉えられるのはあくまで空の上に揚がった時だけで、世界に少なくとも80人はいるはずの〝同類〟もそれはきっと同じはずだ。
甲板の手すりにもたれかかったセージは、まだ手に残っていたポテトサラダとツナのサンドウィッチを口の中へ放り込んだ。
どれほど時代が下り、どれだけ科学技術が発展しようと、船上では新鮮な食材はいつだって御馳走だ。
成長期を迎えた少年が小腹を空かせてしまって、どうにもならなくなり、仕方なくギャレーの顔馴染みに頼み込んで、出てきたものがポテトサラダとツナだったとしても、それは道理というもの。
イモは保存が利く食品だ。ジャガイモは大航海時代に南米大陸からユーラシア大陸に持ち込まれて以来、壊血病に悩まされていた船乗りたちの友であったし、太平洋の島々では古くからタロイモやヤムイモ、サツマイモが主食であった。
同じく南米が原産であるサツマイモがヨーロッパ人の到来以前にポリネシアの島々で栽培されていた理由には幾つかの興味深い説があって、例えば現在はペルー海流の影響で伝統的な航海術による双方への行き来は非常に難しいものとなってしまっているが、かつてはこの海流がなく、相互の交流が行われていたという伝承が残されているらしい。
らしい、というのは、この話自体、以前セージが連れていかれたガラパゴス諸島での研究チームにいた海洋学者のジョアンが言っていたことだからだ。
彼曰く、何人かのノルウェー人たちがこの仮説を立証するために、わざわざ自分達の手で立派な筏を作り上げ、風と波の力だけでペルーからフランス領ポリネシアに属するトゥアモトゥ諸島を目指して漕ぎだし、見事辿り着いてみせたという。
なんでも、それについて詳細に語った記録が、その時貸してもらった『コンティキ号漂流記』という本だったらしい。
だが、セージは最初、その話をドキュメンタリーとは思わず、陽気なジョアンが退屈そうな子供のためにしてくれた良くできた作り話だと思っていたし、もっと幼い頃に英語の勉強を兼ねて読まされた『ガリヴァー旅行記』や『海底二万里』といった本と同じ種類のものだと思っていたから、後で実話だと知った時には驚いた。
誰だって、甲板にいつでもどこでも飛び込んでくるトビウオが美味しい食材になったなんて話を読んで、それが全く身に覚えのない出来事でもないにせよ、本当のことだとは思わないだろう。
だが確かに魚もまた、船乗りに限らず、沿岸地域や島々に住む人々にとっては食卓の常連客であることは確かだった。
貝塚から発掘された動物の骨を研いで造った釣り針からも明らかであるように、旧石器時代から人類は魚介類を日々の糧としてきた。海原を馳せる船上にいれば、トップウォーターに昇ってきた魚影を見かける機会はいくらでもある。それこそ日常茶飯事というもので、海の上にいる限りはサカナの数も無限にも思えてしまうが、実際には水産資源は有限なのだから、心ない人間たちが穫り尽くしてしまわない限りは、という付帯条件は免れ得ない。
もっとも、この艦《ふね》〝イニシエイト・ロコラ〟は漁船ではないし、いくら全長およそ300m、排水量4万t近い巨大な艦体に何でも積み込まれているとは言え、延縄だの底引き網だのが設置されているわけではないのだから、新鮮な食材の現地調達を期待することはできない。
この数日の間、甲板から頑張って釣り糸を足らしているクルーがいたが、残念ながら大物がかかったという朗報に接したことはなかった。
実際問題、このイニシエイト・ロコラ乗組員数百人分の胃袋を満たす役割を負っているのは厨房に設置された巨大な冷蔵庫と棚に大量に積み込まれた穀物、乾物の山である。
ぶっきらぼうなフィリピン人の青年司厨長(セージより年上だが、まだ十分に若く、それでいて腕は確かだ。)に言わせれば、艦内貯蔵庫の容量を考えれば、まだまだ余裕はあるということだったから、頼もしいことだ。
もちろん、積荷の手配と積み込み作業の時間さえ間に合うのであれば、の話にはなるが。
件の司厨長は、先刻セージが顔を出した時も明日の仕込みに余念がなく、他の当番に細かく指示を出しながらも自分の手を止めることはしなかった。それでも以前からの付き合いである少年に向けて手短に語ってくれたところによれば、出航が急遽前倒しになり、実質的な母港にあたるケアンズをあまりにも慌ただしく出航したために、後回しにされてしまった生鮮食品の類は殆ど積み込むことができなかったそうだ。
そうなると、途中で燃料補給のために寄港したマーシャル諸島の軍港で用を足せるはずもなく、次の補給地は必然的に目的地であるトーキョーということになる。
そこまでは残り一日、二日程度の行程だった。だが、そこで悠長に食料品の買い出しができるかどうかは言葉通り天象次第でしかない。
セージは手摺に背中を預けて、空を見上げた。
まだ見慣れない星空が、流れの速い灰色の雲の合間で静かに煌めいている。北半球の夜空がこういう光景だったと思い出したのは、つい最近のことだった。
南の空を見ても、良く見知った南十字星どころか、ケンタウルス座の二つの目印《ポインター》さえ水平線の底に沈んだまま頭も出していなかった。
南天では最も明るく、概ねの方角を知るのに重宝していたカノープスの輝きは影も形もない。くじゃく座や、つる座の星々も気象条件のせいか砂粒よりも小さな光でしかなかった。
まだオリオン座の三ツ星を期待できる時期ではないし、やはり赤道を越えたからにはおおぐま座の北斗七星や、カシオペア座の潰れたW字のような星の連なりから北極星を探す他ないだろう。だが、これから夏に近づいていけば、いや北半球では冬に近づいていけば、おおぐま座の高度は下がっていくはずだった。
そうなると、二等星の集まりをトーキョーの空に探さなくてはならなくなる。
なんといっても、天の川だって暗渠に蓋してしまう、アジア有数の大都市だった。
セージは軽い溜め息を吐いて、頭を傾けた。
艦は概ね北西北の方角へ航海している。
艦の後部にある飛行甲板の端に立つセージは自然と南の空を仰ぐことになる。
南西の空では、天頂から流れる天の河が水平線に注いでいた。
その河口のほとりに、赤く光る蠍座の一等星が見えて、そこから星座線を辿るように淡くおぼろげな銀河を遡っていくと、射手座の星々を経て、やがては天頂付近に、二つの伴星を引き連れた、わし座のアルタイルを見つけることができた。
セージは不精にも首と背中を反らせて天を仰ぎ見た。
天頂の北側には、こと座のベガと、はくちょう座のデネブが輝いていて、夏の大三角が仲秋の夜空にまで幅を利かせ、冠のように彼と艦の真上の空を覆っていた。
世界中の多くの地域から四季の彩りが消え去って随分と長い時が経つ。
少なくとも、セージが物心ついた頃には、春夏秋冬という言葉はカレンダーの上でしか見かけることのない、単に慣習的に用いられる言葉でしかなくなっていて、実感としては地球の大部分が雨季か乾季で区切られるような、ケッペンが言うところの亜熱帯性気候に分類されているように思える程だった。
ほどなくして、首が疲れてきたセージは目線を下ろした。
すると、真っ白なフォーマルハウトが南東の空で思っていたよりもずっと低いところで瞬いていた。
ケアンズやタウンズヴィル、あるいはブリスベンやシドニーでは、天高く夜空に君臨するかのように輝いていた、みなみのうお座の孤高のα星が、この海の上ではすっかり落ちぶれてしまって、しょげかえっているかのように感じられてしまうのは、それこそ年頃の少年が考えそうなことだろう。
だが、フォーマルハルトとは違って、少なくともセージは一人ではなかった。
それはこの艦に様々な国籍、民族から成る多種多様な人々が多数集まっているということではない。ずっと子供の頃からそうだった、あるいはそうならざるを得なかったという意味において。
今も飛行甲板に佇む彼の傍らには黒く大きな影が寄り添っている。
その影のずっと向こう側、慎ましく互いの位置を譲り合う星座の数々の間に分け入る一筋の燦めき。奔り、墜ちる光。
それはおそらく流れ星ではない。竜星だ。
誕生以来、常に周囲の環境を変革し、そのついでにいくつもの生物種を滅ぼしてきた人類は、今また新しい環境の変化によって滅びようとしているのかもしれない。
かつてアノマロカリスや恐竜がそうであったように。
月はまだ東の空に昇り始めたばかりだった。
だが、それもすぐに灰色の膨らんだ雲に隠されてしまった。
風が強くなってきた。
救命胴衣を兼ねたロコラ制式のブルゾンが風にあおられ、裾が忙しくはためき始めた。
雨の匂いがする。
「戻ろう」
セージは、すぐ傍にある大きな影の“脚”を軽く叩いて、声をかけた。
岩のように固く、それでいて滑らかな“脚”。
鉱石が擦れるような低い唸り声がかすかに風に混じり、巨大な影の主はゆっくりと格納庫へ"頭"を向けて、彼に付き従うように歩き始めた。
湿度の高い風がおもむろに甲板を撫でて、夜の闇に紛れて黒い波が荒々しく艦の喫水線を洗い始めていた。
セージの髪や目元に大きな水滴が落ちてきて、それを拭おうと腕を挙げた時、ちょうど彼の右手首に嵌まったスマートウォッチが呼び出し音を告げた。
「セージ、これからすぐに出られる?」
アイノの声だった。
艦橋が天候の悪化を知らないはずはない。
「今、飛行甲板にいるよ」
不穏を感じつつ、セージは速やかに応答したが、苦々しく思っていることは声色と口調から明らかだった。
「それは素晴らしい偶然ね。でも、飛んでもらうより先にテルミが話したいそうよ。映像を繋いでもいい?」
いつも和やかな妙齢のフィンランド人管制官は苦笑を交えながら、柔らかな話し方で応じてきたが、その内容を聞いてセージはますます顔をしかめてしまった。
アイノが出した名前は、この艦の実質的な総指揮官のものだった。
もう思い出すことさえ出来ない実の両親の顔よりもずっと見てきた中年女性の顔を思い浮かべて、セージはひたすら億劫になった。
「伝声管が映像に対応したのは良いけど、だからってなんでもかんでも映像を付ける必要があるのかな?」
つい最近になってようやく正式稼働を始めた艦内通信システムの数少ない欠点を挙げても、アイノの回答は変わらなかった。
「ダメよ。何事も手順が大切なの。特に最初はね」
何が“素晴らしい偶然”なものか。
嵐が近づいてくれば人も竜《デンゲイ》も感情がざらついて来るのは当然だ。
だから、彼が彼の竜《デンゲイ》と一緒に甲板に出て夜風にあたりたいと許可を求めた時、いつもならあれこれと要らぬ注文をつけてくるテルミが二つ返事でそれを承諾したということは、おそらくあの“おばさん”にはこうなることがわかっていたのだろう。
セージは苛立ちを抑えきれなかったが、さりとてこれ以上四の五の言ってみせたところで子供が愚図っているようにしか思われないだろう。
それは余計に癪に障る話だった。
「今、格納庫に入るよ!」
スマートウォッチにそう叫んだからには、彼は走り出していた。あっという間に、のそのそと歩いていた巨大な影を追い越す。
暢気なもんだ、こっちの気も知らないで。
表情どころか眼の一つもない無機質な竜の"顔"を見て、セージは口の中でそう毒づいた。
彼の竜がのっそりと格納庫内に戻ってきたちょうどその時、鋭い雨と乱暴な風が艦体を叩き始めた。
駆けつけてきた整備班に彼の半身を預けて(ようやく竜の方でも、そして整備班の面々も互いに慣れてきたところだ。)、セージは他クルーの視線を避けて一人、通路へ出た。
スマートウォッチから投影される通話映像を壁に映す調整をしている間に、天気はあっという間に荒れてしまって、スコールのような大雨と激しい風の音が艦内にも微かに響くようになっていた。
      日本国 小笠原諸島沖 南西200海里(公海) 
夜の波は賑やかで、潮風は濃厚だ。
セージがそう言ったところで、その主張に同意してくれる人間はそう多くないだろう。
世の中全般とは大きなことを言わず、このイニシエイト・ロコラの艦内に限定したところで、それはきっと変わらない。
それはいかにも多感な年頃の少年が言いそうなことであって、少し意地の悪い者なら「それは「きっと竜子場の影響なんじゃないか」と性質の悪い冗談交じりにまぜっかえして来たとしてもおかしくはない。「竜子場じゃなくてマナだよ」と言い返したところで、どこまで真剣に受け取ってもらえるかはわかったものじゃない。
布良セージは16歳になった。
まだ大人ではないにせよ、もう子供でもないのだから、セージだって、わかってもらえないことくらいはわかっている。
だいたい竜子場《オピオニック・フィールド》の影響と言ったところで、一体どれだけの人間がそれを直に感じ取ることができるというのだろう?
彼自身でさえ、それを確かな感覚として捉えられるのはあくまで空の上に揚がった時だけで、世界に少なくとも80人はいるはずの〝同類〟もそれはきっと同じはずだ。
甲板の手すりにもたれかかったセージは、まだ手に残っていたポテトサラダとツナのサンドウィッチを口の中へ放り込んだ。
どれほど時代が下り、どれだけ科学技術が発展しようと、船上では新鮮な食材はいつだって御馳走だ。
成長期を迎えた少年が小腹を空かせてしまって、どうにもならなくなり、仕方なくギャレーの顔馴染みに頼み込んで、出てきたものがポテトサラダとツナだったとしても、それは道理というもの。
イモは保存が利く食品だ。ジャガイモは大航海時代に南米大陸からユーラシア大陸に持ち込まれて以来、壊血病に悩まされていた船乗りたちの友であったし、太平洋の島々では古くからタロイモやヤムイモ、サツマイモが主食であった。
同じく南米が原産であるサツマイモがヨーロッパ人の到来以前にポリネシアの島々で栽培されていた理由には幾つかの興味深い説があって、例えば現在はペルー海流の影響で伝統的な航海術による双方への行き来は非常に難しいものとなってしまっているが、かつてはこの海流がなく、相互の交流が行われていたという伝承が残されているらしい。
らしい、というのは、この話自体、以前セージが連れていかれたガラパゴス諸島での研究チームにいた海洋学者のジョアンが言っていたことだからだ。
彼曰く、何人かのノルウェー人たちがこの仮説を立証するために、わざわざ自分達の手で立派な筏を作り上げ、風と波の力だけでペルーからフランス領ポリネシアに属するトゥアモトゥ諸島を目指して漕ぎだし、見事辿り着いてみせたという。
なんでも、それについて詳細に語った記録が、その時貸してもらった『コンティキ号漂流記』という本だったらしい。
だが、セージは最初、その話をドキュメンタリーとは思わず、陽気なジョアンが退屈そうな子供のためにしてくれた良くできた作り話だと思っていたし、もっと幼い頃に英語の勉強を兼ねて読まされた『ガリヴァー旅行記』や『海底二万里』といった本と同じ種類のものだと思っていたから、後で実話だと知った時には驚いた。
誰だって、甲板にいつでもどこでも飛び込んでくるトビウオが美味しい食材になったなんて話を読んで、それが全く身に覚えのない出来事でもないにせよ、本当のことだとは思わないだろう。
だが確かに魚もまた、船乗りに限らず、沿岸地域や島々に住む人々にとっては食卓の常連客であることは確かだった。
貝塚から発掘された動物の骨を研いで造った釣り針からも明らかであるように、旧石器時代から人類は魚介類を日々の糧としてきた。海原を馳せる船上にいれば、トップウォーターに昇ってきた魚影を見かける機会はいくらでもある。それこそ日常茶飯事というもので、海の上にいる限りはサカナの数も無限にも思えてしまうが、実際には水産資源は有限なのだから、心ない人間たちが穫り尽くしてしまわない限りは、という付帯条件は免れ得ない。
もっとも、この艦《ふね》〝イニシエイト・ロコラ〟は漁船ではないし、いくら全長およそ300m、排水量4万t近い巨大な艦体に何でも積み込まれているとは言え、延縄だの底引き網だのが設置されているわけではないのだから、新鮮な食材の現地調達を期待することはできない。
この数日の間、甲板から頑張って釣り糸を足らしているクルーがいたが、残念ながら大物がかかったという朗報に接したことはなかった。
実際問題、このイニシエイト・ロコラ乗組員数百人分の胃袋を満たす役割を負っているのは厨房に設置された巨大な冷蔵庫と棚に大量に積み込まれた穀物、乾物の山である。
ぶっきらぼうなフィリピン人の青年司厨長(セージより年上だが、まだ十分に若く、それでいて腕は確かだ。)に言わせれば、艦内貯蔵庫の容量を考えれば、まだまだ余裕はあるということだったから、頼もしいことだ。
もちろん、積荷の手配と積み込み作業の時間さえ間に合うのであれば、の話にはなるが。
件の司厨長は、先刻セージが顔を出した時も明日の仕込みに余念がなく、他の当番に細かく指示を出しながらも自分の手を止めることはしなかった。それでも以前からの付き合いである少年に向けて手短に語ってくれたところによれば、出航が急遽前倒しになり、実質的な母港にあたるケアンズをあまりにも慌ただしく出航したために、後回しにされてしまった生鮮食品の類は殆ど積み込むことができなかったそうだ。
そうなると、途中で燃料補給のために寄港したマーシャル諸島の軍港で用を足せるはずもなく、次の補給地は必然的に目的地であるトーキョーということになる。
そこまでは残り一日、二日程度の行程だった。だが、そこで悠長に食料品の買い出しができるかどうかは言葉通り天象次第でしかない。
セージは手摺に背中を預けて、空を見上げた。
まだ見慣れない星空が、流れの速い灰色の雲の合間で静かに煌めいている。北半球の夜空がこういう光景だったと思い出したのは、つい最近のことだった。
南の空を見ても、良く見知った南十字星どころか、ケンタウルス座の二つの目印《ポインター》さえ水平線の底に沈んだまま頭も出していなかった。
南天では最も明るく、概ねの方角を知るのに重宝していたカノープスの輝きは影も形もない。くじゃく座や、つる座の星々も気象条件のせいか砂粒よりも小さな光でしかなかった。
まだオリオン座の三ツ星を期待できる時期ではないし、やはり赤道を越えたからにはおおぐま座の北斗七星や、カシオペア座の潰れたW字のような星の連なりから北極星を探す他ないだろう。だが、これから夏に近づいていけば、いや北半球では冬に近づいていけば、おおぐま座の高度は下がっていくはずだった。
そうなると、二等星の集まりをトーキョーの空に探さなくてはならなくなる。
なんといっても、天の川だって暗渠に蓋してしまう、アジア有数の大都市だった。
セージは軽い溜め息を吐いて、頭を傾けた。
艦は概ね北西北の方角へ航海している。
艦の後部にある飛行甲板の端に立つセージは自然と南の空を仰ぐことになる。
南西の空では、天頂から流れる天の河が水平線に注いでいた。
その河口のほとりに、赤く光る蠍座の一等星が見えて、そこから星座線を辿るように淡くおぼろげな銀河を遡っていくと、射手座の星々を経て、やがては天頂付近に、二つの伴星を引き連れた、わし座のアルタイルを見つけることができた。
セージは不精にも首と背中を反らせて天を仰ぎ見た。
天頂の北側には、こと座のベガと、はくちょう座のデネブが輝いていて、夏の大三角が仲秋の夜空にまで幅を利かせ、冠のように彼と艦の真上の空を覆っていた。
世界中の多くの地域から四季の彩りが消え去って随分と長い時が経つ。
少なくとも、セージが物心ついた頃には、春夏秋冬という言葉はカレンダーの上でしか見かけることのない、単に慣習的に用いられる言葉でしかなくなっていて、実感としては地球の大部分が雨季か乾季で区切られるような、ケッペンが言うところの亜熱帯性気候に分類されているように思える程だった。
ほどなくして、首が疲れてきたセージは目線を下ろした。
すると、真っ白なフォーマルハウトが南東の空で思っていたよりもずっと低いところで瞬いていた。
ケアンズやタウンズヴィル、あるいはブリスベンやシドニーでは、天高く夜空に君臨するかのように輝いていた、みなみのうお座の孤高のα星が、この海の上ではすっかり落ちぶれてしまって、しょげかえっているかのように感じられてしまうのは、それこそ年頃の少年が考えそうなことだろう。
だが、フォーマルハルトとは違って、少なくともセージは一人ではなかった。
それはこの艦に様々な国籍、民族から成る多種多様な人々が多数集まっているということではない。ずっと子供の頃からそうだった、あるいはそうならざるを得なかったという意味において。
今も飛行甲板に佇む彼の傍らには黒く大きな影が寄り添っている。
その影のずっと向こう側、慎ましく互いの位置を譲り合う星座の数々の間に分け入る一筋の燦めき。奔り、墜ちる光。
それはおそらく流れ星ではない。竜星だ。
誕生以来、常に周囲の環境を変革し、そのついでにいくつもの生物種を滅ぼしてきた人類は、今また新しい環境の変化によって滅びようとしているのかもしれない。
かつてアノマロカリスや恐竜がそうであったように。
月はまだ東の空に昇り始めたばかりだった。
だが、それもすぐに灰色の膨らんだ雲に隠されてしまった。
風が強くなってきた。
救命胴衣を兼ねたロコラ制式のブルゾンが風にあおられ、裾が忙しくはためき始めた。
雨の匂いがする。
「戻ろう」
セージは、すぐ傍にある大きな影の“脚”を軽く叩いて、声をかけた。
岩のように固く、それでいて滑らかな“脚”。
鉱石が擦れるような低い唸り声がかすかに風に混じり、巨大な影の主はゆっくりと格納庫へ"頭"を向けて、彼に付き従うように歩き始めた。
湿度の高い風がおもむろに甲板を撫でて、夜の闇に紛れて黒い波が荒々しく艦の喫水線を洗い始めていた。
セージの髪や目元に大きな水滴が落ちてきて、それを拭おうと腕を挙げた時、ちょうど彼の右手首に嵌まったスマートウォッチが呼び出し音を告げた。
「セージ、これからすぐに出られる?」
アイノの声だった。
艦橋が天候の悪化を知らないはずはない。
「今、飛行甲板にいるよ」
不穏を感じつつ、セージは速やかに応答したが、苦々しく思っていることは声色と口調から明らかだった。
「それは素晴らしい偶然ね。でも、飛んでもらうより先にテルミが話したいそうよ。映像を繋いでもいい?」
いつも和やかな妙齢のフィンランド人管制官は苦笑を交えながら、柔らかな話し方で応じてきたが、その内容を聞いてセージはますます顔をしかめてしまった。
アイノが出した名前は、この艦の実質的な総指揮官のものだった。
もう思い出すことさえ出来ない実の両親の顔よりもずっと見てきた中年女性の顔を思い浮かべて、セージはひたすら億劫になった。
「伝声管が映像に対応したのは良いけど、だからってなんでもかんでも映像を付ける必要があるのかな?」
つい最近になってようやく正式稼働を始めた艦内通信システムの数少ない欠点を挙げても、アイノの回答は変わらなかった。
「ダメよ。何事も手順が大切なの。特に最初はね」
何が“素晴らしい偶然”なものか。
嵐が近づいてくれば人も竜《デンゲイ》も感情がざらついて来るのは当然だ。
だから、彼が彼の竜《デンゲイ》と一緒に甲板に出て夜風にあたりたいと許可を求めた時、いつもならあれこれと要らぬ注文をつけてくるテルミが二つ返事でそれを承諾したということは、おそらくあの“おばさん”にはこうなることがわかっていたのだろう。
セージは苛立ちを抑えきれなかったが、さりとてこれ以上四の五の言ってみせたところで子供が愚図っているようにしか思われないだろう。
それは余計に癪に障る話だった。
「今、格納庫に入るよ!」
スマートウォッチにそう叫んだからには、彼は走り出していた。あっという間に、のそのそと歩いていた巨大な影を追い越す。
暢気なもんだ、こっちの気も知らないで。
表情どころか眼の一つもない無機質な竜の"顔"を見て、セージは口の中でそう毒づいた。
彼の竜がのっそりと格納庫内に戻ってきたちょうどその時、鋭い雨と乱暴な風が艦体を叩き始めた。
駆けつけてきた整備班に彼の半身を預けて(ようやく竜の方でも、そして整備班の面々も互いに慣れてきたところだ。)、セージは他クルーの視線を避けて一人、通路へ出た。
スマートウォッチから投影される通話映像を壁に映す調整をしている間に、天気はあっという間に荒れてしまって、スコールのような大雨と激しい風の音が艦内にも微かに響くようになっていた。
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