ひらめいた曲
指揮者 三島由紀夫
前々回のアフリカンシンフォニーで、海上自衛隊のの三宅由佳莉さんの姿に魅せられ、いろいろ検索していたらすごいものを見つけました。
  
軍艦行進曲
指揮 三島由紀夫
演奏 読売日本交響楽団  
https://youtu.be/5smjjQXkUUk?si=DoKAPmyygavadLV9
  日本テレビ『團伊玖磨ポップスコンサート』という番組に三島由紀夫がゲスト出演者した時の映像です。1968年3月31日。
  
三島 由紀夫(1925年1月14日 - 1970年11月25日)は、小説家、劇作家、随筆家。評論家、政治活動家。本名は平岡 公威(ひらおか きみたけ)
 
三島さん、指揮もしたのですね。膨大なWikipediaにはいくつも『天才』の文字が。
三島由紀夫は『午後の曳航』と『憂国』しか読んでいません。
太宰治はずいぶん読みましたが。
ふたりは1度だけ会っていたのですね。
  
1946年12月14日、三島は、当時の青年から熱狂的支持を得ていた太宰治を囲む集いに参加した。
三島は太宰の稀有の才能は認めていたが、その自己劇画化の文学が嫌いで、愛憎の法則によってか生理的反発も感じていた。
三島は太宰の正面の席に導かれ、彼が時々思い出したように上機嫌で語るアフォリズムめいた文学談に真剣に耳を傾けていた。
そして三島は森鴎外についての意見を求めるが、太宰は、
「そりゃ、おめえ、森鴎外なんて小説家じゃねえよ。第一、全集に載っけている写真を見てみろよ。軍服姿の写真を堂々と撮させていらあ、何だい、ありゃ……」
と太宰流の韜晦とうかいを込めて言った。
下戸の三島は「どこが悪いのか」と改まった表情で真面目に反論して鴎外論を展開するが、酔っぱらっていた太宰はまともに取り合わず、両者の会話は噛み合わなかった。
その酒宴に漂う絶望讃美の甘ったれた空気、太宰を司祭として〈自分たちが時代病を代表してゐるといふ自負に充ちた〉馴れ合いの雰囲気を感じていた三島は、この席で明言しようと決めていた
「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」
という言葉をその時に発した。
これに対して太宰は虚を衝かれたような表情をし、
「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と顔をそむけた後、誰に言うともなく、
「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」
と言った。
気まずくなった三島はその場を離れ、それが太宰との一度きりの対決となった。
その後、太宰は「斜陽」を『新潮』に連載するが、これを読んだ三島は川端に以下のような感想を綴っている。
太宰治氏「斜陽」第三回も感銘深く読みました。滅亡の抒事詩に近く、見事な芸術的完成が予見されます。しかしまだ予見されるにとどまつてをります。完成の一歩手前で崩れてしまひさうな太宰氏一流の妙な不安がまだこびりついてゐます。太宰氏の文学はけつして完璧にならないものなのでございませう。しかし抒事詩は絶対に完璧であらねばなりません。
— 三島由紀夫「川端康成宛ての書簡」(昭和22年10月8日付)
  
太宰治 死去1948年6月13日、東京玉川上で山崎富栄と入水。38歳没。
三島由紀夫 死去1970年11月25日、自衛隊駐屯地での割腹自殺。45歳没。
  
軍艦行進曲
指揮 三島由紀夫
演奏 読売日本交響楽団  
https://youtu.be/5smjjQXkUUk?si=DoKAPmyygavadLV9
  日本テレビ『團伊玖磨ポップスコンサート』という番組に三島由紀夫がゲスト出演者した時の映像です。1968年3月31日。
  
三島 由紀夫(1925年1月14日 - 1970年11月25日)は、小説家、劇作家、随筆家。評論家、政治活動家。本名は平岡 公威(ひらおか きみたけ)
 
三島さん、指揮もしたのですね。膨大なWikipediaにはいくつも『天才』の文字が。
三島由紀夫は『午後の曳航』と『憂国』しか読んでいません。
太宰治はずいぶん読みましたが。
ふたりは1度だけ会っていたのですね。
  
1946年12月14日、三島は、当時の青年から熱狂的支持を得ていた太宰治を囲む集いに参加した。
三島は太宰の稀有の才能は認めていたが、その自己劇画化の文学が嫌いで、愛憎の法則によってか生理的反発も感じていた。
三島は太宰の正面の席に導かれ、彼が時々思い出したように上機嫌で語るアフォリズムめいた文学談に真剣に耳を傾けていた。
そして三島は森鴎外についての意見を求めるが、太宰は、
「そりゃ、おめえ、森鴎外なんて小説家じゃねえよ。第一、全集に載っけている写真を見てみろよ。軍服姿の写真を堂々と撮させていらあ、何だい、ありゃ……」
と太宰流の韜晦とうかいを込めて言った。
下戸の三島は「どこが悪いのか」と改まった表情で真面目に反論して鴎外論を展開するが、酔っぱらっていた太宰はまともに取り合わず、両者の会話は噛み合わなかった。
その酒宴に漂う絶望讃美の甘ったれた空気、太宰を司祭として〈自分たちが時代病を代表してゐるといふ自負に充ちた〉馴れ合いの雰囲気を感じていた三島は、この席で明言しようと決めていた
「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」
という言葉をその時に発した。
これに対して太宰は虚を衝かれたような表情をし、
「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と顔をそむけた後、誰に言うともなく、
「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」
と言った。
気まずくなった三島はその場を離れ、それが太宰との一度きりの対決となった。
その後、太宰は「斜陽」を『新潮』に連載するが、これを読んだ三島は川端に以下のような感想を綴っている。
太宰治氏「斜陽」第三回も感銘深く読みました。滅亡の抒事詩に近く、見事な芸術的完成が予見されます。しかしまだ予見されるにとどまつてをります。完成の一歩手前で崩れてしまひさうな太宰氏一流の妙な不安がまだこびりついてゐます。太宰氏の文学はけつして完璧にならないものなのでございませう。しかし抒事詩は絶対に完璧であらねばなりません。
— 三島由紀夫「川端康成宛ての書簡」(昭和22年10月8日付)
  
太宰治 死去1948年6月13日、東京玉川上で山崎富栄と入水。38歳没。
三島由紀夫 死去1970年11月25日、自衛隊駐屯地での割腹自殺。45歳没。

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