消え残るアクアマリン

清水レモン

梅なんじゃないかな

 はーっ。白い息。
 『マスクつけなさい』って言われるんだけど、マスクつけてるとできなくなることって、いろいろあるんだよね。
 鼻水ツツーってなったとき、ティッシュで迅速に対処できない。
 よほど意識してコントロールしていないと、自然な呼吸スタイルのままではマスク内部に水滴が発生するから。
 それも、一滴や二滴なんてレベルじゃない。
 どっと、つととととーって水流レベル。
 なんだよ、なんなんだよ、なんでこんなに濡れちゃうんだよ!
 濡れた内側が口元に触れるときの気持ち悪さといったら、どうしようもない。
 まるで誰かにくちまわりを舐められたかのようだ。
 …誰かに、舐められたかのよう? 誰にだよ。そんなこと、あったか?
 ないだろ!
 と、脳内で自分勝手な喧嘩が始まると、ちょっとまずい。
 こういうの、想像っていうの?
 想像力の暴走。
 あるいは妄想だっけ?
 妄想の果てに行き着くところは不毛な思考ゆえの疲労。
 な、そういうのマジ意味ないんだ。意味のない妄想なんて、やめておけ。と誰かが言う。
 それはまさに油断の一瞬と言っていい。
 知っていた、はずなのに。おれは無意識のうちに自分の妄想を許してしまっていた。
 だからその一瞬あるいは刹那に、おれの脳内スクリーンいっぱいに!
 よみがえっていた。
 近づく唇、あともうちょっとで触れるよ触れるよ触れてしまうよ、っていう接近。それは幼なじみの顔、いつもの表情で。いよいよ当たるぞ、というときに目を閉じられて、おれも目を閉じていた…んだっけ?
 え!?
 なんていまそんなこと思い出しちゃうかな、おれ。
 と冷静に思った。同時に動揺して、みるみるうちに耳が熱くなるのがわかった。
 しまった!
 おれとしたことが本当に油断した!!
 自分を戒めるのと同時に、彼女のことを思い出す。
 戒めよりも彼女の勝ちは確定です。おれは耳の熱と赤面を自覚し、その自覚がさらに沸騰を招く結果となる。
 心臓なんてばっくばく。だが…
 いい。これでいい。じゃなくて、これでもいい。
 おれは空を見あげる。
 鳥、飛ばないかな。ピーって。
 鼻水つつつー。おっと、いけない。マスクをはずすが間に合わなかった。マスクの内側には、おれの粘液が。さらさらだけれど糸をひいて、はずしたマスクから細い線を描いて消えた。
 ティッシュペーパーをポケットから取り出す。いったん立ち止まろう。時間なら大丈夫そうだろう?
 そのあと、おれは右手の人差し指で唇をなぞった。
 いつもならカサカサしていて割れたりしていて…けど今日は違う。数日前からケアしているから。リップクリームたっぷり、しっかり、きっちり。たんねんに、にゅうねんに。
 そう、そうとも、そうだよ、リップクリーム!
 リップクリーム。
 リップクリーム。
 りっぷ! くりー…
 ふたたび脳内に彼女が思い浮かぶ。
 彼女の唇、うるおい。
 一度だけ、おれが塗ってあげたことがある。そのときの記憶が。

 会いたい。会いたいなあ。

 ちょっと無表情な、よみがえりかた。
 あわてておれは記憶をたぐり出す。
 いちばん素敵でカワイイ笑顔の記憶を。
 そうだ、あのとき、あの場所、あの瞬間の彼女のことを。
 やばい…心臓が強烈にバクバクしちゃう。もうおれダメかもしんない。
 と、なにもかもを投げ出したくなった次の瞬間。
 スーっと血の気がひいていくのがわかった。
 ほてった体が一気に冷めて、妄想から記憶へ回路が切り替わる。
 あぁ…
 このまえ会ったの、いつだっけ。
 そのとき言葉どんなふうに交わしたっけか。
 あのときおれ、冷たい態度とかしてなかったか。
 しなくても良さそうな、後悔。
 おれは気持ちを切り替えることができずに、ただただ垂れ流しされるがままの感情に包まれる。足は立ち止まり、見あげれば青空。さっきより少しだけ近づいた満開の白い花。
 たぶん梅だと思う、梅なんじゃないかな。どうでもいいか。
 この試験が終わったら会いに行こう。
 会いにいって、会って、それで、それで、それで…
 ちゃんと謝らないと。
 いや、お礼をまず言わないと。お礼の前に謝罪かな。どっちだ、どっちが先だ。
 と、どうどうめぐりがひととおり終われば、冬の冷たい空気が頬に気持ちよくて鼻水もおさまっていた。あらためてマスク装着ヨシッ!
 さあ、歩くぞ。歩こう、試験会場は目の前もう、すぐ、そこだ。
 

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