ほっとけないよ?

清水レモン

おぼえていますよ?

 あいまいな記憶が色づくとき、自分の立ち位置が鮮明になる。
 どこからどう見ても、ここは地球。いまは現代で、日本の海岸線で暮らしている。生まれてから10年くらいのとき、中学受験のために塾に通い始めた。残念ながら塾になじめず、結果的に転々とするのだけれど。
 あっちの塾で劣等感を知り、そっちの塾で優越感を知る。こっちの塾で沈んでたことが、あっちの塾では浮かびあがるらしいよ。へーそうなんだーふーん、ふーん、ふーん?
 ジェットコースターのような体験だった。
 当時は無我夢中で、なにがなにやらだったけれど、気づけば「自分て何!?」という疑問符が湧きあがってきていて、いつしか問いかけに答えるように思案と試行錯誤を繰り返す。
 そして至った現在、おれは「自分」を知っている。
 現世があり前世がある。前世は、ひとつではない。困ったことに地獄にもいっていたようだ。地獄にいたのは1000年ほどだね?
 現在の感覚では1000年なんて途方もない歳月だ。しかし、振り返ってみれば案外どうってことはない。仮にいまから1000年前に地獄に落ちていたとしても、平安京の都での暮らしがそこにある。
 ん?
 平安時代におれはなにかやらかして地獄に落ちたのか。まあいいや、こまかいことはこのさいどうでもいい。
 ていうか、100年なんて、あっというま。
 どういうシステムなのか、いまいちわかりかねるところもあるが、何回も何回も生まれてきたのは現実という気がする。しかもカルマつき。うわ、めんどい。そう思いつつも、ふとしたときに思わざるを得ないこと。それが、

 「あのときの、あのひと。あいつ、それから」

 懐かしいひとたちのことだ。

 おまけに、生まれてきたものの、こちらはこちらで「家」が続いている。同じ「家」もしくは「家系」の範囲内であれば、記憶を有効活用できたものの。
 
 とりあえず、いまのおれは小早川家で世話になっている。
 まあ、小早川秀人として生まれてきたわけだから当然といえば当然なんだけど、ちょっと不思議なことにココの当主は色々とご存知のようだった。
 当主すなわち祖父であるが。

 祖父は、ふとしたときに語りかけてくれる。
 「秀人おまえは女が好きで好きでたまらんだろうよ、のう?」
 と冷静沈着かつきわめて真面目に語りかけてくる。
 「おじいちゃん」おれは言った「そんなふうに言われるとなんだかイケナイコトのようにも珍しいことのようにも聞こえてしまうだけど?」
 「イケナイコトであるものか。ましてや珍しくもなんともない!」
 「だよね?」
 「たりめぇだろ?」
 「うん」
 祖父との会話は決して長続きしないのが特徴。
 本音を言えば、もっと話したいし、聞きたいことなんてたくさんある。
 けど。

 「時間ですよ、ご当主」
 「うむ」
 執事の呼びかけにうなずくとサヨナラも言わずにすくっと立ち上がりスーっと去っていく。
 
 『また来るよ、おじいちゃん』
 と、おれが声に出して言うときは、もう誰もいない部屋と廊下と縁側だった。

 わが小早川家は、自由に姓を名乗ってよいとされてからつけられたという。じゃあ、それ以前は?

 お寺の過去帳を見ると、どうやら800年くらいの記録らしい。ただし、相当に古い年代は、あとになってから書き直したり書き足したりしたようで、二重に記録されているものまである。どれが真実で、どれが嘘なのか。故意の書き塗りなのか、ミスった書き写しなのか。
 いまとなっては、わからない。

 でも。

 おれは知っている。かつて、小早川家の源流のひとつといえる小さな屋敷で、使用人の息子として生まれた記憶があるからだ。田んぼを管理していたと思う。思うっていうか、していた。 ちょっと変わった田んぼだったから、うっすらとした記憶だけれども「見れば思い出す」ことができる。
 そんな気がしている。

コメント

コメントを書く

「学園」の人気作品

書籍化作品