望まぬ結婚をする侯爵令嬢は、魔族の旦那様に溺愛されます

赤頭巾ぐりこ

後編


 その日、わたしは夢を見た。

 夢の中で、まだ人間だったときのブッシュがベッドに縛り付けられていた。
 地下室なのだろうか。
 じめじめとして日が差さぬ暗い部屋に、悲痛な叫び声が響く。

「やめろ……っ! これ以上やめろ! 殺してくれ!」

 必死に彼は抵抗していたが、その口元に青い液体が注がれる。
 ――魔王の血だ。

 ブッシュがそれを飲み干すと、彼の身体に変化が起こった。
 肌色だった顔は、見る見るうちに真っ青になり、頭からは山羊のような角が生え揃う。
 苦しみ、呻き、体をよじる。

 その様子を、魔王が見下ろしていた。

「ごめんね。やめるわけにはいかないんだ」

 もがくブッシュの頬を、魔王はやさしく撫ぜた。

「もしも息子が生きていたら、君と同い年くらいだった。侵攻前、国境の小競り合いで息子が王国軍に殺されてね。死にかけている君を他人事だとは思えなかった」

 ブッシュは雄たけびを上げる。
 指先の爪が鋭く伸び、まるで猛禽類の爪のよう。
 人間と魔族の狭間にいる男は、沸騰するような体の熱さにもがき苦しんでいた。

「次は竜種の血を混ぜようか。大丈夫、魔族の血が馴染めば怪我も完治する。君は死なずに済む」
「こんな姿になってまで生きていたくはない! 人間と呼べるうちに殺してくれ!」

 必死にブッシュは訴える。魔王は小さく首を振った。

「生きろ。これは魔王から魔族となった君への命令だ」

 ブッシュの顔が、絶望に染まった。


   ◇◇◇


「大丈夫かい、ノエル。すごくうなされていた」

 ブッシュの言葉でわたしは目を覚ました。
 シーツがぐっしょりと汗で濡れていた。

 窓からは涼やかな月明かりが差し込んでいる。
 魔王城に用意されたふたりの寝室は、まるで深海の底に沈んだように暗く静かだ。

「……夢を見たんです。ブッシュ様の夢を」
「それにしては悲しい顔をしているね」
「殺してくれ、と魔王に必死に訴えていました。あの光景は――……」

 ブッシュは大きく目を見開いた。
 それから、わたしの頭をやさしく撫でてくれる。

「久しぶりに君に会えたのが嬉しくて、魔力の制御ができていなかったんだね。すまない」
「……ということは」
「きっとそれは僕の過去の光景だ。怖いものを見せてしまったね」

 あの光景は、ブッシュが実際に体験したことだという。
 ブッシュの「殺してくれ」という叫びが耳から離れない。
 信じたくなかった。
 あんな苦しい思いをして、ブッシュは魔族になったというのか。

「ブッシュ様。身体のお加減はもう大丈夫なのですか」

 わたしはブッシュの頭の角をそっと撫でた。
 ブッシュの頭皮を突き破って、山羊の角めいたそれが生える瞬間の、彼が苦痛に身をよじるさまが頭をよぎった。 

「もう、平気だ。完全に魔族の血が身体に馴染んだんだ。だから、もう大丈夫」
「……ブッシュ様」
「なんだい」

 それからわたしは、ブッシュの髪をやさしく撫でた。

「生きていてくださって、ありがとうございます」

 ブッシュは目をぱちぱちと瞬かせた。それから、ふっと相好を崩す。

「どういたしまして」

 わたしたちふたりは、自然と微笑み合った。
 ふと、ブッシュは遠い目をする。

「正直言ってね。君に再会することだけを目標に、僕は今日まで必死に生きてきたんだ。ご子息を亡くされ、憎しみに駆られた魔王様を何年も説得し続けて……。だから、いざ君に会ったら、生きる目標を失ってしまうのではないかと、不安で仕方なかった」
「実際は、どうでしたか」

 ブッシュはやさしく微笑んだ。

「君に会えた途端に、ああしたい、こうしたい。こんな未来を手に入れたい。不思議と生きる気力が湧いてきた」
「それはわたしも同じです」

 ブッシュの存在を確かめるように、彼の手をぎゅうと握る。

「戦地のブッシュ様に送った手紙の返事を、毎日、毎日、この数年は待ち続けていました。あなた様のご遺体が見つかっていないという、ただその一点を希望のよすがにして、今日この日までわたしは生きてきました」
「……ノエル。つらい思いをさせてしまったね」

 ブッシュはぎゅうとわたしの手を握り返す。

「いいえ。……いいえ。会えない期間が、あなたへの愛を育んでくれました」

 わたしたちふたりは抱きしめ合う。
 もう離れることがないように。

「もう離さないよ、ノエル。ずっといっしょだ」

 魔族のブッシュの身体はぬくもりも心臓の鼓動もなく、ただ冷え切っていた。
 けれど、彼の言葉が確かにあたたかかったから、わたしは安心感に包まれて再び目を閉じた。

 それから、わたしは二度目の眠りに落ちていった。
 もう怖い夢は見なかった。


   ◇◇◇


 停戦協定の日は、あいにくの曇天だった。
 魔王領と王国の緩衝地帯で、停戦協定の締結は行われる。
 
 魔王領側には、魔王を筆頭にブッシュを含めた魔族の将の姿。
 王国側には国王をはじめとして見知った顔の貴族が顔をそろえている。

 それぞれの閣僚が勢ぞろいする場で、瀟洒なドレスを身に纏った場違いなわたしの姿があった。
 王国の貴族たちが何人かわたしに怪訝な視線を送ってきたものの、停戦協定の条件であった嫁入りの令嬢ということで、一応の納得はしたのだろう。
 厳かな雰囲気の中、粛々と停戦協定の締結は進んでいく。

 いざ調印式の段となって、唐突にわたしは一歩前へと進み出た。

「……ひとつ、よろしいでしょうか」

 わたしは魔王に目配せをする。
 魔王は小さく頷いた。
 事前に魔王には話を通していた。あとはうまくいくことを祈るだけ。

「わたしから国王陛下に、ご紹介したい人がおります」
「ノエル、わきまえなさい。停戦協定の場だ」

 国王は眉をひそめた。当然だ。
 国の今後を賭けた停戦協定の場で、小娘が国王に紹介したい人がいるとは何事だろうか。
 しかし、わたしは話を止めない。止めるわけにはいかない。

「わたしの愛する夫。ガトーこと、ブッシュ様です」

 魔王軍側の閣僚席に何食わぬ顔で座っていたブッシュは、信じられないという表情で固まっていた。

「ほら、立ってください。ブッシュ様」
「何を言っている。私は……ガトーで。ブッシュなどでは……」

 しどろもどろに言い訳をするブッシュを、無理矢理に立たせる。
 そうして、トンとその背中を押した。

「……第三王子ブッシュは戦死した。息子の死を愚弄することは許さんぞノエル」
「愚弄しているかどうかは、直接話してみれば分かることです」

 無理やり私に前に押し出されたブッシュは、困ったように魔王を見た。
 魔王がニコニコ笑っているのを見て、ブッシュは絶望の表情を浮かべる。
 もう逃げられない。そう悟ったのだろう。

「……わ、私は」

 言葉に詰まり、ブッシュは視線を彷徨わせる。
 そうして、観念したように国王を見据えた。

 ブッシュと国王。ふたりの視線が交差する。
 やがて、国王の瞳が揺れた。

「……まさか。いいや、そんなはずは」

 国王は小さく首を振る。
 そして、一歩ブッシュに向かって足を踏み出した。  

「他人の空似だ。……そうに決まっておる」

 さんざん王国を苦しめてきた、異形の智将ガトーへ、また一歩、近づく。

「本当に。ブッシュなのか。生きていたのか」

 ついに国王は驚愕の表情を浮かべ、調印のための万年筆を取り落とした。

「…………僕は、」
「ああ、こんな姿になって……気付かなんだ……」

 一歩、また一歩。
 国王はブッシュへと近づいていく。
 そうして、ついにブッシュは瞳を潤ませた。

「父上……お会いしとうございました」

 そうして、国王とブッシュは抱擁した。
 その横では、魔王がだらだらと両目から涙を零しながら親子の再会を見守っている。
 この魔王、とことんお人好しらしい。

「ブッシュ様。よかった」

 わたしの頬にも涙が伝った。
 もらい泣きだ。

 どんなに姿かたちが変わっても、親が子の姿を見紛うはずもない。
 こうして、ささやかな親子の再会と、停戦協定の締結は無事に幕を下ろした。


   ◇◇◇


「ノエル、してやられたよ」
「でも、よかったでしょう? 無事に国王陛下に正体を明かすことが出来て」
「それは……そうなんだけど」

 魔王城に戻ってきてから、困ったようにブッシュは頭を掻いている。
 すっかり彼の調子は狂ってしまったようだ。

「魔王様に相談したら、すぐに賛同してくださいました。親子はあるべき姿に戻るべきだと」
「もしも父上が僕を受け入れてくれなかったらどうする気だったんだい」
「ありえません、そんなこと。大切なご子息ですもの」

 それから、わたしは少し声のトーンを落とした。

「ブッシュ様はご存知ないからです。ブッシュ様が戦死されたと伝えられた後の、国王陛下の落胆ぶりを。それは見ていられないものでした」
「……そうか」

 ブッシュの竜の尾が、所在なさげに揺れていた。
 尻尾の動きを見ていれば、なんとなくブッシュが何を考えているか分かる。
 本人には決して伝えないけれど。

「国王陛下に息子だと明かす機会は、今までもあったのではないですか」
「あったよ。……けど、実の親に、こんな姿に変わってしまった僕を知られたくなかったんだ」
「国王陛下は喜んでいらっしゃいましたよ。言っていたじゃないですか。どんな姿に変わっても、おまえは自慢の息子だって」
「……そうだね」

 ブッシュはふにゃふにゃと相好を崩した。
 よほど嬉しかったのだろう。今の自分を親を国王に受け入れてもらったことが。

「君と再会してから、すべてがうまくいきすぎて怖いくらいだ」

 ブッシュは顔を両手で覆った。

「それは重畳です。これで、王国と魔王領との国交樹立も近付きましたし」
「そうだね。それは……喜ばしい」

 ぎゅう、とブッシュの手を握った。

「平和な世界を作っていきましょう。あなたにしか、できない仕事です」
「……ありがとう、ノエル」

 窓の向こうの、曇天を見つめる。
 この荒れ果てた地を、愛するこの人と共に、豊かで平和な国にしようと誓った。


   ◇◇◇


 ――数年後。

 魔王領に久方ぶりの青空が覗いている。
 どこまでも広がる花畑の下に、わたしとブッシュの姿はあった。

「まさか、魔王領で青空が見られる日が来るなんてね」
「これも平和が訪れたからでしょうか」

 わたしは蒼穹を仰いだ。
 ざあ、と花畑を春風が駆けてゆく。
 整えられたわたしの金髪が、風に揺れた。

「魔王領と王国の国交が樹立して、もう半年なんですね」
「僕の――ふたりの父が協力してくれたんだ。うまくいかないわけがないよ」

 ふたりの父。魔王と国王。

 魔族と人間の狭間にいるブッシュは、それぞれの国の事情をよく理解していた。
 粘り強い交渉と、ふたりの父への働きかけ。
 10年はかかると言われていた二国の国交は、無事に半年前に樹立した。

 少しずつではあるが、魔王領と王国に交易が生まれている。

「ブッシュ様。なにをなさっているんですか」
「……すこし、昔を思い出してね」

 鷹のように伸びた爪を器用に使って、ブッシュはシロツメクサで花冠を編んでいた。
 やがて、あの頃もらったよりも幾分か整った形の花冠ができあがる。

「できた。きっとノエルに良く似合うよ」

 無邪気に笑うブッシュの顔が、幼い頃の彼と重なった。
 トクン、とわたしの心臓が跳ねた。
 ああ。いつまで経っても、わたしはこの人に恋をしている。

 わたしの頭に、シロツメクサの花冠がのせられる。
 昔のように、わたしはやわらかくブッシュを抱きしめた。

「大好きです。ブッシュ様」
「ああ、僕もだ」

 どこまでも広がる一面の花畑で、わたしたちは抱きしめ合う。
 そうして熱い熱い口づけを交わした。

 ざあ、と風に吹かれて花畑の花弁が大量に舞い上がった。
 わたしの左の薬指には、約束の指輪がきらめいている。
 この幸せで平和な日々がいつまでも続くように、わたしは祈った。


《終》

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