タラップ

ノベルバユーザー617307

タラップ

落ち着け、落ち着くんだ。これが魔法王国の実力なのだとしたら、アメリカにとって力になり得る。世界に先駆けてこの技術を取り入れることができれば、アメリカは様々な分野で他国を圧倒し得る。そうだ、いまは動揺している場合ではない。大使は使命感とプライドで己を奮ふるい立たせた。

 アメリカ大使がタラップを通過すれば、その後ろから「何っ」「あれ」「うわっ」様々な驚きの声が日本語で聞こえてくる。それをいちいち振り返りはしない。タラップを渡った岸壁では黄色く豪奢な衣装をまとった人物が待ち構えていた。日本で言うなら外務省の役人といったところだろうか。

 大使は思わず右手を差し出しかけて、サンリーハムには握手の習慣がないことを思い出した。黄色い服の役人はそれで気分を害したりはしなかったようで、微笑みながら会釈を返す。

 そして各々おのおの動揺し面食らいながら六十三名が降りてくると、黄色い服の役人は初めて声を出した。

「魔法王国サンリーハム王宮直属の宮廷跳躍ちょうやく術士サン・ハーンです。これより皆様をリリア・グラン・サンリーハム王の御前にお連れ致します。なお事前にお知らせ致しました通り、一切の武装は認められません。小刀一本でもお持ちの方はこの場に置き去りとなりますので予あらかじめご了承ください。よろしいですね」

 サン・ハーンは六十三名を見回すと、納得したのか微笑んだ。

「では五十九名の皆様をお連れ致します」

 その言葉の余韻が消え入るより早く、訪問者たちは姿を消した。四人の男女をそこに残して。



 王宮の裏側に街はない。正確には王宮の周囲一定範囲内に民家はないと言うべきなのだろうが、それでも正面の正門側には決められたエリアのギリギリにまで民家が建っている。対して裏側には裏門に続く街道が一本あるだけで、その両側には穀倉地帯が広がっていた。

 王宮の裏側には裏門以外に出入り口はなく、窓もない。堀は深く塀は高く頑強である。つまり裏門の跳ね橋を上げてしまえば、裏側からは攻略困難な堅固な要塞となる。だからといって迂闊うかつに正面側に回り込めば集中攻撃を浴びる。

 それでも万が一王宮が陥落した場合には、裏側にいくつも設けられた隠し通路が王を逃がすことになっている。したがって隠し通路の上に家が建ったりすると非常に都合が悪い。それ故に裏側には農地を置くことが推奨され、農家に限って地税を安く設定してあるのだ。

 そんな農地の広がる様子をバックホーの運転席で眺めながら、一平太は小さくアクビをした。農地と農地の間には、まだ未開墾の土地が広がっている。バックホーで掘り起こすとしたらどれくらい時間かかるやろうか、などと思いながら。

 と、そこへ。

「おい、気を抜くな」

 厳しい声の方向に目をやれば、黒曜の騎士団長ゼバーマンが立っていた。一平太は眉を寄せる。それもそのはず、世界各国からの賓客ひんきゃくを迎えるに当たって黒曜の騎士団は正面側の、蒼玉そうぎょくの鉄騎兵団は裏側の警備を任されたのだから。

「何であんたがここにおんのよ」

「ヒマだからな」

「言うてることとやってることがバラバラやぞ」

 ゼバーマンはフンと鼻を鳴らす。

「国外からの賓客といったところで、サン・ハーンが直接王宮の中にまで連れて来るのだ、正門も裏門も警備する必要なんぞあるか。中を護る白銀の剣士団だけが働けばいい」

「うわぁ、職場批判や」

 面倒臭いこと言わんとってくれよ、一平太がゲンナリしていると。

「シャミルは迷惑をかけていないか」

「え?」

 思わずゼバーマンを見つめれば、相手は眼光で射殺さんばかりににらみつけてくる。

「あいつは無能だ。腕もなければ根性もない。どうせ役になど立つまい。貴様にもさぞ迷惑をかけているのだろうと思ってな」

 しばし呆気に取られていた一平太だったが、ポリポリと頬を掻くとこう言った。

「心配やねんやったら直接言うてみたら?」

「だ、誰が心配などするか! 馬鹿か、馬鹿なのか貴様は! あぁっ?」

「いや、そやけど」

「だーまれ! いいか、この私があんなカスを心配などするはずなかろうが! まったく話にならんな! せっかく貴様に同情してやったのにああ無駄だった無駄だった! これだから田舎者は救いようがない! 貴様はずっと田んぼの見張り番でもしてろ、お似合いだ!」

 そう言いながらゼバーマンは背を向け去って行ってしまった。

「ええ……」

 なんちゅう面倒臭いヤツや。一平太が呆れ返ったそのとき、王宮内からファンファーレが鳴り響いた。賓客が到着したのだ。

盛大なファンファーレと共に七色の光が天井から差し、原色の花吹雪が舞い散った。紙吹雪ではない。本物の花びらが視界を埋め尽くさんばかりに降り続くのだ。

 船着き場で跳躍術士サン・ハーンを前にして直後、跳躍したと言うより、賓客ひんきゃくとしてもてなされる五十九名の彼らの感覚から言えば周囲の世界の方が一瞬で変わった。殺風景な港の景色から極彩色の王宮内へと。

 この展開と演出に、各国大使や軍関係者、および軍需産業の営業担当は息を呑むしかない。これが魔法王国サンリーハム。近代機械文明は発達していなくとも、決して侮あなどるべからざる潜在能力を秘めた国家との印象を強く与えられた。もちろん、それがサンリーハムの狙いである。

 そこに新たなファンファーレが。王宮正面に張り出したテラスに立つ紫色の大柄な影。事前情報が確かなら、これが摂政サーマインのはず。

「国外よりご訪問いただいた賓客の皆様に、これよりリリア・グラン・サンリーハム王が謁見えっけんいたします。サンリーハムでの儀礼に沿って行動せよなどとは申しませんが、各々国家を代表する立場にあることを自覚し、敬意ある態度で王をお迎えいただきたい」

 そう言って賓客たちを高い場所から睥睨すると、満足したかのようにうなずき、こう叫んだ。

「リリア王のおなりでございます! 謹つつしんでお迎えください!」

 かすかな衣擦きぬずれの音と共にテラスに姿を現したのは、小柄で儚はかなげな十二歳の少女。

 摂政サーマインが声を上げる。

「リリア王からのお言葉です! 諸氏傾聴するように!」

 しんとした室内に、「みなさん」とリリア王の言葉が響いた瞬間。重い銃声が鳴り響いた。アメリカ大使は目を疑う。自身の男性秘書官が手に大口径の自動拳銃を持ってリリア王を狙っていたからだ。衛兵はもちろん、秘書官にも軍需産業関係者にも一切の武装は禁じてあったのに、いったいこれはどういうことだ。

 そもそも船着き場でサン・ハーンが武器を携帯している者を見定めていた。秘書官が武器を隠し持っていたなら、あの場に残されたはずである。しかしならば、この状況は何なのか。

 銃声は二発、三発と続いた。なのにリリア王は見えない壁に護られているのか、動揺すら見せない。そこに人の間を縫って走る白い風。白銀の剣士団長レオミスが聖剣ソロンシードを抜き放ち、秘書官の手から自動拳銃を弾き飛ばした。

 だがこれに秘書官はニヤリと笑みを浮かべると、一気に数メートルも高く飛び上がり、王宮の壁に垂直に立つ。その手にはいつの間にか自動小銃が握られていた。秘書官は右手一本で自動小銃を構え、リリア王に狙いを定めたものの、その目の前に宙に浮くレオミスが立ちはだかる。

「貴様、何者だ。正体を見せろ」

 しかしさっきまでアメリカ大使の秘書官だった男は、不敵な笑みを返すだけ。トリガーを引き絞りレオミスに銃弾の雨を降らしたものの、聖剣ソロンシードが横に一閃しただけで、すべての弾丸は床に落ちた。

「なるほど」

 秘書官だった男は初めて口を開き、感心したかのようにこう続けた。

「これが魔法王国サンリーハムか。確かにその名にふさわしい。ではその魔法王国に命じる。女王リリアを我らに差し出せ。さもなくば魔竜の群れがこの国を飲み込むことになるだろう」

「貴様はいったい何者だ。名を名乗れ」

 激高せず落ち着いたレオミスの言葉に、謎の男は合わせるかの如く淡々と話した。

「我は魔竜皇国ハイエンベスタ四方神の一人、風界のヒュードルを拝命致す者。以後お見知りおきを」

「ではヒュードル、貴様には聞きたいことがある。武装を放棄し投降・捕縛されよ」

 するとヒュードルはニッと歯を見せて笑った。

「残念、それは不可能というものだ」

 そう言いつつヒュードルは自動小銃を投げ捨てた。それが床へと落ちる寸前、ヒュードルは稲妻の速度で前に出た。これを迎え撃つ聖剣ソロンシード。ヒュードルの細い指先がレオミスに達するのを食い止める。しかし本来ならソロンシードに触れた手の方が切り裂かれて当然の状況である。なのにヒュードルの指先には傷一つ付いていない。

 いや、ごくごく小さな傷が付いたようだ。そこからひび割れるように、傷はヒュードルの全身に広がって行く。次の瞬間、まるで花吹雪が舞い散るようにヒュードルの全身から表皮が砕け落ちた。

 そこにいたのは、灰色の鳥。鋭く大きな目と先の曲がったくちばしは猛禽類を思わせる。二枚の翼は肩甲骨の辺りから生え、肩からは人間のように腕が伸びていた。下半身のスラリと伸びた両足の先には巨大なかぎ爪が。

「これが貴様の正体なのだな」

 レオミスがソロンシードをぐいと押し込めば、ヒュードルは人間のように五本揃った指先で軽々と受け止める。

「それを決めるのは私ではないよ」

 言うが早いか、ヒュードルは足を蹴り上げ、かぎ爪でレオミスの腕をつかもうとした。これを避けようとレオミスが後退した隙を突いて、ヒュードルは王宮の天井一番高いところにまで飛び上がった。そして逆さにぶら下がりながら、一言唱える。

「風震」

 室内に猛風が吹き荒れた。人が立っていられないレベルの、当たると痛みを伴うほどの風。さしもの摂政サーマインもこの攻撃は防げなかったと見えて、リリア王は床に倒れている。奪うならいまだ。だが。

「光雷壁!」

 レオミスの声が響いたかと思うと、瞬く間に室内は稲妻の形をした光の壁で埋め尽くされた。これでは風が王まで届かないばかりか、ヒュードルが壁を迂回してリリア王に近づくためにはパズルのような空間を縫って移動しなくてはならない。

「ほう、これは考えたな」

 だが驚くにはまだ早かった。この壁を放ったレオミス自身は、まるで何もないかのように光の壁をすり抜けることができるのだ。聖剣ソロンシードの強烈な突きを思わず両手で受け止めようとして、ヒュードルはその先端を左手のひらに深く食い込ませてしまった。

「これまでだ、ヒュードル!」

「やれやれ、そのようだね」

 ヒュードルの目が笑った。次の瞬間、そこに散らばるのは羽吹雪。敵の本体はすでにない。

――リリア王の命と体、しばらくは預けておこう

 ヒュードルの声が響く中を、レオミスはリリア王の側に降り立った。もはや歓迎式典どころではない。今回敵の名前はわかった。魔竜皇国ハイエンベスタ。だがそれを素直に収穫だと言えるだろうか。敵はこの展開を導き出すべく、関空連絡橋への出現を行ったと考えられなくもない。つまり我々はまんまと引っかかったのだ、レオミスはそう思う。

「賓客の皆様方にお伝え致します」

 声を張り上げたのは摂政サーマイン。

「このような事態となりました以上、歓迎式典は難しいでしょう。皆様方の中には商談を期待してここにお越しになった方も多いのでしょうが、我が国の置かれている現状はいまご覧になった通り。これを何とか解決できる方策をお持ちの方のみ商談に応じます。担当役人を向かわせますので後は各自のご判断で。各国大使とリリア王の個別の面会は中止致します」

 それだけ言うと、リリア王を連れて奥へと下がってしまった。



 まさか我が国のスタッフに敵方の刺客が紛れ込んでいたとは。いったい大統領に何と報告すればいいのか。わざわざ軍人と軍需産業関係者からなる使節団を構成してまでサンリーハムに乗り込んできたというのに、何の収穫もなしに戻らなくてはならない。屈辱だ。これ以上ない屈辱である。

 水中翼船に戻り沈痛な表情で頭を抱えていたアメリカ大使は、ふと違和感を覚えた。胸のポケットに紙が入っている。こんな物を入れた覚えはない。取り出して見てみれば携帯電話の番号。これはいったい……?

 大使の心の中に、悪魔がささやこうとしていた。

摂政サーマインの執務室に呼び出されたのは三兵団長とサン・ハーン。サーマインは怒り心頭だった。敵の斥候せっこうが偶然紛れ込んだというレベルならともかく、それなりの有力者と思しき存在が堂々と王宮の中に足を踏み入れたのである。怒りの矛先はまず宮廷跳躍術士のサン・ハーンに向けられた。

 何故あのような大きな力を持った者を見逃したのかと責められ、サン・ハーンは平身低頭で謝罪したが、能力者を探すのは武器を隠し持っている者を探すようには行かないと懸命に反論する。

 それはまったく的確な反論であると自身も強大な能力者であるサーマインは思ったものの、一度振り上げた拳はどこかに下ろさねばならない。さてどうしたものか。迷ったあげく、サーマインはこう口にした。

「それにつけても情けないのは黒曜の騎士団と蒼玉の鉄騎兵団です」

 え? 揃って目を丸くしたゼバーマンと一平太にサーマインは言う。

「王宮内であれだけの騒ぎがあったというのに、誰一人として駆けつけて来なかったのはどういう了見か」

 いやいやいや、それはいくら何でも無茶でしょうが。別に駆けつけなかった訳ではなく、駆けつけたときには終わっていたというのが正確なところなのだし。と弁明したかった二人だが、相手は摂政、お気軽に話しかけられる存在ではなく言葉は選ばねばならない。

 ゼバーマンが切り出した。

「お待ちください摂政殿。我らは与えられた役目を全うしたまで。騒動に間に合わなかったのは単に距離と時間の問題であり」

「黙らっしゃい!」

 サーマインはこれを一喝で退けた。

「これは事実上サンリーハムとハイエンベスタの戦です。戦は結果がすべて。課程を重視して欲しければ事務方にでも転属なさい。これまでの功績を認めて転属願いはいつでも受け付けましょう」

 ゼバーマンの顔はみるみる赤くなって行く。摂政があと一言でも彼の誇りを傷つけるようなことを口にすれば、誰にも抑えられぬ大爆発を起こすに違いない。

 と、そこに一平太が小さく手を上げた。

「あのう、いいでしょうかね」

 サーマインの眉間に深い皺が寄る。

「何ですか、あなたまで言い訳があるとでも」

「いや、そうやなくて。そろそろ定時なんで帰らせてもらいますね、娘を幼稚園に迎えに行かなあかんもんで」

 平然とそう言う一平太に、サーマインはもちろん、ゼバーマンもレオミスも、そしてサン・ハーンも唖然とした。

 今度は摂政サーマインの顔に血が上る。

「あ、あなたは! 娘を迎えに行くだけのことがそんなに大事だと言うのですか!」

「はい、大事なんです」

 一平太は笑顔でうなずくと、そのまま背を向けた。

「ほしたらまた明日」

 執務室を出て王宮内を行く一平太の背中に、遠くからサーマインの声が響いた。

「クキーッ! 何なんですかあの男はーっ!」



 幼稚園の先生にバイバイと手を振りながら、留美は軽自動車の後部座席に据え付けられたチャイルドシートに座った。もちろん一平太に抱きかかえられなければ一人では座れないのだが、その際まったく嫌がる素振りを見せない。

 そんな素直で手のかからない留美に助かると思う反面、ほんの少し哀しみを感じる一平太だった。

 車を出してすぐ、小さな交差点で止まると留美がたずねた。

「一平太ちゃんはええことあったん?」

「え、何で」

「何かニコニコしてるもん」

「ええことは何もなかったなあ。今日も仕事場でえらい怒られたし」

 信号が青に変わってアクセルを踏む。

「まあまだいまの仕事場に慣れてないからな、しゃあないんやろうけど」

「一平太ちゃん、怒られるん?」

「怒られるでえ。いっぱい怒られる。留美は幼稚園で怒られへんか」

「留美、怒られるようなことせえへんもん」

「そうか、留美は賢いなあ」

 一平太がそう言いつつ、路地に左折したそのとき。

 目の前に、雷が落ちた。思わず急ブレーキをかけた車内に鳴り響く、不気味なハープのような音。この音は。

「留美、しっかりつかまっとけよ」

 一平太の声は緊張している。歩兵竜が出てくる可能性がある。いや、もっと厄介なモノが出てくるのかも知れない。しかしバックホーほどではなくても軽自動車にも戦闘力はあるのだ、降りて徒歩で逃げ出すより生存確率は高まるはずだ。

 だが縦に亀裂の入った空間から現れたのは、意表を突く存在。

 人影。大きい。背の高さはゼバーマンほどある。だがゼバーマンをこの人影の隣に置いたら、貧相で華奢に見えるだろう。それくらい太い首、太い腕、厚い胸板だった。緑色の肌に長く伸びて折れたモヒカン、そしてあごヒゲ。人間か? 

 けれど迷いは無用、このパターンで出現した相手が友好的である訳がない。一平太はハンドルを右に切りながら一気にアクセルを踏み込んだ。一瞬のホイルスピンの後、軽自動車は急加速する。その前に人影が回り込んだ。ブレーキは踏まない。このまま跳ね飛ばす!

 しかし強烈な衝撃と共に、軽自動車は無理矢理停止させられた。この車にも精霊シャラレドの加護はある。だからバンパーに傷一つついていないし、エアバッグも出ていない。その頑丈な車を、目の前の巨漢は両手で押しとどめていた。

「竜殺しの英雄よ」

 地の底から湧き上がるような低く太い声。

「サンリーハムの結界の外に出る愚かな英雄よ。おまえを最初の生け贄にえにしてやろう」

 一平太の足はまだアクセルを踏み込んでいる。なのに前輪は空回りし、車はピクリとも前進しない。巨漢は右腕を振り上げると、拳でフロントウィンドウを殴りつけた。もちろんシャラレドの加護がある以上、ガラスが割れるはずもない。それを確認すると巨漢はニヤリと笑った。

「なるほど強烈な精霊の加護があるな。ではこういうのはどうだ」

 巨漢が何を言っているのか、しばらく一平太にはわからなかった。だが。

「冷たっ」

 踏ん張っている左足のかかとに氷水のような冷たい感覚が流れ込んでくる。左足を動かせばピチャピチャと水の音。それがどんどん高さを上げていた。

 巨漢は言う。

「精霊の加護を突破しておまえをそこから引きずり出すのは至難の業だ。しかしおまえの精霊は水を操ることはできまい。ならば指を咥えて眺めているしかない訳だ、おまえがそこで溺おぼれ死ぬのをな」

 一平太は窓を開けようとした。けれどスイッチが反応しない。ドアを開けようとしても開かない。まるで接着剤で封じられたかのように。水はもう腰の高さまで来ている。アカン、留美だけでも助けんと。一平太は振り返って声をかけた。

「留美、大丈夫か、留美!」

 返事はない。クソ、一平太はシートベルトを外し、ダッシュボードから赤い脱出用ハンマーを取り出した。そしてシートを倒して後部座席に移る。留美はチャイルドシートで気を失っていた。

 一平太はハンマーで後部座席の窓ガラスを叩く。だが割れない。

「シャラレド! 加護を外せ!」

 そう叫んでもう一度叩くが、やはりガラスは割れない。

「無駄だ」

 巨漢の低い声が笑っている。

「この機械はすでに我が水の結界に捕らわれている。いまさらおまえの精霊が加護を外したところで、その窓は決して割れぬよ」

 水は胸の高さまで来た。一平太は留美のシートベルトを外して抱き上げているが、もう天井まで空間は僅かしかない。どうしたら、どうしたらええんや。一平太の頭は混乱している。命乞いのちごいか、命乞いしたらええんか、留美だけでも助けてくれ言うたら助けてくれるんか、俺が死んだら、俺さえ死んだらええんか。俺だけが死んだら!

 そのとき、留美の目が開いた。

 途端、世界が赤くなった。車の外が炎に包まれている。

「ぐおおおあああっ!」

 炎の中で巨漢が苦しんでいた。

「馬鹿な、こんな……誰だ……おまえたちは誰だ!」

 この叫びを最後に巨漢は消えた。同時に周囲を取り巻いていた炎も消え去った。後部座席のドアレバーを引けばドアが開き、一斉に水が流れ出す。留美を抱えて放心状態の一平太に、声をかける者が。

「おいネギ! イッペイタ! 無事なのか!」

 ああ、ゼバーマンや。そうか、助かったんか。助けられたんやな。一平太は笑顔を浮かべて、そのまま意識を失った。

「どういうことだ貴様! イッペイタに護衛もつけなかったのか!」

 ゼバーマンは中ノ郷の胸ぐらをつかんでいた。

 ここは精霊を祀る精霊廟びょうに併設された治療所。二つ並んだ寝台の上には意識を失った一平太と留美が眠っている。二人が襲われサンリーハムの治療所に収容されたと連絡を受けた中ノ郷が急いでやって来たのだが、そこでゼバーマンたちと鉢合わせた。

 興奮するゼバーマンの腕を押さえたのはレオミス。

「よせ。それは彼の責任ではないし、変化の速さに追いつけていないのは我々も同じだ」

 今回一平太への襲撃が発覚したのは千里眼たちの一人がたまたま落雷に気付いたおかげである。ほぼ偶然と言っていい。レオミスの言う通り、すべて後手後手に回っているのはサンリーハムとて同じなのだ。

「くっ!」

 ゼバーマンは忌々いまいましげに手を放し、背を向けて去って行く。レオミスは中ノ郷に頭を下げた。

「許してやってほしい。あいつも混乱しているんだ」

「いえ、私も気持ちは理解できますので」

 シャツの皺を伸ばしながら中ノ郷は首を振る。

 レオミスは眠る二人に目をやりながらたずねた。

「日本政府は今後どうするつもりなんだ」

 中ノ郷は少し首をかしげながら答えた。

「政府要人とサンリーハム近隣の知事には警察から警護がついています。根木さんもこの先サンリーハムから出る場合には身辺警護がつくはずです。ただ相手がどの程度の規模で襲ってくるのか判断ができませんからね、実効性があるのかと言われると心許こころもとないのが現実でしょうか」

「サンリーハムには結界がある、敵の有力者が一人で侵入してくるのは防ぎきれないが、軍団単位で直接転移してくるのは難しいはずなんだ。だから当分の間、一平太たちはここにいた方が安全だと思う。断言ができないのがもどかしいがな」

 心苦しげなレオミスに、中ノ郷は同情するようにうなずいた。

「お二人の病状は明らかなのですか」

「目を覚まさない理由か。一平太は簡単だ。精霊の加護を受けるために精神の力を一気に削ってしまったのが原因らしい。相手がそれほどの怪物だったのだろう。これはしばらく休んで体力が回復すれば元通りになる。ただ問題は留美だ。この子がどうして目を覚まさないのか、治療術士たちにも原因がつかめていない」

 中ノ郷はレオミスの言葉にうーんと唸るとこう言う。

「大阪にある大きな病院で精密検査を受けさせたいところですが、まあさすがにいまここから動かすのは得策とは思えませんね」

「それはやはり警護の問題からか」

「そうですね。ハイエンベスタですか、相手は我々の暮らす場所にはいつでもどこでも自由に出て来られる訳です。これはどうしようもない。我々の社会はそんな敵と戦うことを前提とした構造をしていないのですから。いまから変えようとしても間に合いませんしね」

 半ば諦あきらめが見えたが、それでもまだ中ノ郷は冷静だ。

「根木さんは対ハイエンベスタの象徴のような人物です。今後戦いが激しさを増せば、世界からより注目を浴びることでしょう。ある意味、総理大臣より替えが効きません。日本人の一人としては大変に心苦しいのですが、いまはサンリーハムの魔法の力に護っていただくしかないのです。どうかよろしくお願い致します」

 頭を下げる中ノ郷に、レオミスは優しい笑みを向けた。

「一平太はサンリーハムにとっても大事な英雄だ。任せてくれ、護りきってみせる」


◇ ◇ ◇


 黒い炎が照らし出す、ほの暗い空間。緑色の肌をしたモヒカン頭の巨漢が壁を殴る。

「邪魔が入らなければ、ヤツを抹殺できていたのだ。あと少しで!」

「そ~んなこと言ったら、うちだってそうだにゃ~ん」

 野太いうなり声をあざけるように、蛇革鎧のネコ耳娘は笑った。巨漢は殺気のこもった視線を向ける。

「おのれミャーセル、我を笑うか貴様」

「それは笑われる方に問題があると思うにゃ~ん」

 巨漢は静かに腰を落とし、戦闘態勢を取った。これに対しミャーセルと呼ばれたネコ耳娘は知らん顔で尻尾の手入れをしていたが、口元には小さく不敵な笑みが浮かんでいる。巨漢が一歩踏み出そうとしたとき。

「やめたまえ、みっともない」

 落ち着いた声が二人をいさめる。一人で正方形のテーブルに着いている有翼鳥面人身の姿。風界のヒュードルである。

「あと一歩で失敗したという点において、我々三名は同様同罪同程度だ。誰にとやかく言える立場でもなければ腹を立てる筋合いでもない」

「ほんっとヒュードルはつまらないにゃ~ね」

 ミャーセルがテーブルの自分の席に近づくと、椅子が勝手に引かれる。よく見れば椅子の脚の先端に無数の昆虫の脚のようなものがうごめき、椅子を動かしているのだ。ミャーセルは椅子に腰を下ろすと、テーブルに頬杖をついた。

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