大阪

ノベルバユーザー617307

大阪

「北側正門正面に『歩兵竜』出現! その数、一万以上!」

 魔法王国サンリーハムはいま、存亡の危機に立っていた。

 城塞も国土も小さいにも関わらず、強大な魔力と輝きを放たんばかりの威厳によって周辺国からの尊敬を集めていた先代国王グラン・ダルト・サンリーハムの崩御から半年、後継者として選ばれたのは十二歳の孫娘リリアであったが、その即位直後から魔龍の侵攻が始まったのだ。

 魔龍軍団の主力は人間ほどの体高に抗魔法効果のある黄金の鎧をまとった、肉食恐竜型二足歩行の歩兵竜。雲霞うんかの如く押し寄せる圧倒的な数に任せたその進撃に対し、サンリーハムの国軍は健闘を見せたものの後退を余儀なくされた。

 何しろ歩兵竜のまとう黄金の鎧の抗魔法効果は絶大で、ただの兵が使うレベルの魔法ではかすり傷さえ与えられない。かと言って物理的なスピードやパワーでは並みの人間が歩兵竜にかなう訳もない。

 これに対抗するためにサンリーハムは最高レベルの魔道士を集め、魔法兵器を持ち出した。人間相手なら一国の陸軍兵力を一撃で灰燼かいじんに帰すこの超兵器も、歩兵竜の軍勢の前には足を止めるだけで精一杯。しかも魔道士の魔力は無尽蔵ではないのだ、そう続けて何発も撃てるはずもなかった。

 そしていま、サンリーハムは城塞の門をすべて閉じ、籠城ろうじょうの構えを見せている。いかに強烈な破壊力を誇る歩兵竜の群れであるとは言え、人間のように手で道具を使うことはできない。城塞の壁を乗り越えてくることはなかろう、という王室の判断であった。

「敵歩兵竜の様子はどうか」

 国防大臣サヘエ・サヘエは豊かな白髭ひげに覆われた口元を苦悶くもんに歪め、自らの禿頭とくとうを何度も叩いた。その前に立つ若い騎士は緊張の面持ちでこう答える。

 「はっ、城塞の周囲はいま歩兵竜に囲まれ立錐りっすいの余地もございません。ただ、敵も打つ手がなく苛立っている様子は見られると報告にあります」

「わかった。持ち場に戻りたまえ」

「はっ」

 若い騎士が駆けて行く背を見送りながら、サヘエ・サヘエの意識はその視界の中にはなかった。

「多少の時間的猶予は確保された。ではこの先、我らはどうすべきなのだろう。貴公ら二人の意見を聞きたい」

 サヘエ・サヘエが振り返れば、そこには黒い鎧をまとった偉丈夫と、白い鎧をまとった女剣士が立っている。

 黒い偉丈夫は逆立った黒い髪が天を衝つきそうな大柄な男で、鋭い目でサヘエ・サヘエを見下ろし、手にした異形の槍『魔槍まそうバザラス』の石突いしづきで大理石の床を腹立たしげに強く叩いた。

「どうすべきもこうすべきもない。これは我がサンリーハムだけの問題ではござりますまい。人類と魔龍との殲滅戦せんめつせんが開始されているのですぞ。いかなる手段を用いても周辺諸国を巻き込み、あの歩兵竜どもを皆殺しにする以外の選択肢などあるとお思いか」

 サヘエ・サヘエは腕を組んで考える。

「ふうむ、それは黒曜の騎士団長ゼバーマン・ザンドリアとしての公式の意見と受け取って良いのだね」

「無論であります」

 サヘエ・サヘエは白い鎧をまとう女剣士に顔を向ける。

「ならば白銀の剣士団長レオミス・ケングリアにたずねる。貴公はこの先、我らはどうすべきと考えているか」

 女剣士団長と言いながら、その体は筋骨隆々とは言えない。簡素な白い鎧に包まれているのは、まだ成人になったばかりの華奢きゃしゃな肉体に見える。しかし腰まで伸びた真っ白な髪と色素の薄い青い瞳を、腰に佩はいた聖剣『ソロンシード』の放つオーラが燦然さんぜんと輝かせている。

 レオミスは言った。

「私も理想論的にはゼバーマン殿の意見に賛成です。ただし、いまの我が国がどう要請しようと、飛び火を恐れる周辺国は動きますまい。我が国は独力でこの難局を乗り切らねばなりません」

「そんな手段があると?」

 サヘエ・サヘエの疑問ももっともである。魔法兵器まで持ちだしても埒らちの明かない相手に対して、これ以上何をどうすればいいのか。

 しかしこの疑問にレオミスは静かにうなずいた。

「リリア王にご決断いただき、『聖天の歯車』を稼働していただきます」

「聖天の歯車だと! 貴公はまさか」

 驚いたのはサヘエ・サヘエだけではない。黒曜の騎士団長ゼバーマンも怒鳴り声を上げた。

「貴様、逃げると言うのか!」

 二人から詰め寄られたレオミスだが、動揺する気配はない。

「一旦戦略的に撤退し、捲土重来けんどちょうらいを期すのが得策であると考えます」

 これにゼバーマンは怒りを表した。

「逃げるだと! この国土を捨てて逃げるだと! まったく話にならん!」

 だがサヘエ・サヘエは、まったく話にならないとまでは考えなかったようだ。

「逃げるとして、いったいどこに逃げるつもりなのかね」

 レオミスは以前から考えていたのだろう、落ち着いた口調ですらすらと答えた。

「東方の公海上であれば周辺国との軋轢も生まず、反撃の力を蓄えるまでの時間は稼げるのではないかと」

「なるほど」

 納得しそうなサヘエ・サヘエを見てゼバーマンはさらに怒る。

「無理だ無理だ! 国は一度捨てたら終わりなんだよ! 王宮だけ残したところで何になる! 竜に食われて滅びるのと結果は変わらんのだ! 目を覚ましてくれ大臣!」

「いや」

 サヘエ・サヘエは決然と顔を上げた。

「我らにもはや時間も選択肢も残されていない。大至急リリア王に進言しよう」


◇ ◇ ◇


 大阪府内某所のターミナル駅を背中に、駅前の再開発工事は急ピッチで進んでいた。しかしいまは昼の休憩時間。作業員たちはみな夏の太陽を避け、日陰に座って食事をしている。はずなのだが。

 一台の油圧ショベル、いわゆるバックホーやユンボと呼ばれる機械がまだ動いていた。地面に空いた穴に砂を落としている。

 運転しているのは背はさほど高くないものの、よく日に焼けた筋肉質でガッチリした若い男。黄色いヘルメットの下には短く刈った頭に額のヘッドバンドで汗を止め、ノースリーブのシャツにカーゴパンツ姿。よくいる典型的な土木作業員に見えた。

 そこにヘルメットにベージュの作業服姿の若い女が、バックホーの動きに巻き込まれないよう距離を取りながら近づいて声をかけた。

「一平太さん、休憩時間ですよ! 休むのも仕事のうちなんですけど!」

 しかし一平太と呼ばれた男はバックホーを止めずにこう返した。

「悪いな監督さん! これ一区切りついたら休むから!」

「いや、そんなん言われても」

 そこに背後の日陰から、笑い声が起こる。

「無理無理、無理だっせ監督さん。一平太は残業なしで即帰することしか考えてへんのやから」

「そうそう、留美ちゃん幼稚園に迎えに行かないかんしな、残業回避するためやったら昼の休憩なんぞいらんっちゅうヤツなのよ」

 これに現場監督は目を丸くする。

「え、一平太さんてシングルファーザーなんですか?」

「いまどきシングルファーザーぐらいで驚いたらアカンわ」

「そうそう、多様性、多様性の時代やから」

 とは言われても、監督だって困るのだ。

「それでも休憩時間に休憩してくれへんかったら、監督の責任問題になるんですよぉ、ねえ一平太さん」

「わかった、あと五分! あと五分で区切りつけるから!」

 あと五分で作業をやめても、昼食の時間は十五分ほどしか残されていない。しかしそこに後悔など感じるはずもない。一平太にとって留美は己の命より大切な宝物だ。その笑顔に一分一秒でも早く触れるためなら、肉体の疲れなどどうでもいいレベルの話なのである。



「心外だなあ。ボクは君にソロンシードを扱える力を与えたんだよ、味方に決まってるじゃないか。それとももっと力がほしいかい。だったら改めて契約が必要になるけど」

「いちいちうるさい、いまは……」

 目の前の大型歩兵竜が、不意に後ろを向いた。尾の一撃が来る、レオミスはすかさず後退したが、敵の回転は止まらない。尾をかわしても次に牙の並んだ口が迫り、それをかわしてもまた尾がやって来る。レオミスは攻め手を見つけられずに一方的に後退するしかなかった。

 だが。

 突然突き上げるような地鳴りが響き渡り、サンリーハムの城壁を取り囲むように白い光のカーテンがかかる。聖天の歯車が起動したのだ。両足が下に押しつけられる感覚。王国サンリーハムはいま、王宮や街を取り囲む城塞ごと上昇し、宙に浮いていた。これが第一段階。

 そして次の段階はすぐにやって来る。ここから東方の公海上に瞬時に転移するのだ。そうなれば、もう魔龍の軍団も簡単にはサンリーハムを攻撃できない。形勢は逆転するだろう。目の前の大型歩兵竜も事態の変化に追いつけないのか、動揺を隠せないでいる。

 上空が七色に輝き、その光が歪み、混じり合って行く。転移が始まった。あと自分のなすべきことは、この大型歩兵竜を何とか倒すことだけ。レオミスは息を整え、聖剣ソロンシードに己の魔力を込めた。その瞬間である、サンリーハムに横殴りの大きな衝撃が加わり、城壁の上にいたレオミスと大型歩兵竜は外側に落下してしまった。

 もちろん、この程度で慌てるレオミスではない。ただちに浮遊魔法を念じ、眼下の雲の中に下りて行く。魔力を大量に消費すれば城塞の上まで上昇することも可能だが、どうせサンリーハムは海面まで降下する。あの大型歩兵竜がどうなったかもわからないいま、魔力の消費は抑えたい。

 しかし雲を抜けて降下を続けるレオミスの目に映ったのは、青い海面ではなかった。

「何だこれは……街、だと」



 上空でドォンと大きな音がしたのは、根木一平太が弁当を食べ終わったのと同時だった。休憩を終えた他の作業員たちが空を見上げる。

「何や、飛行機でもぶつかったか?」

「んなアホな。雷やろ」

 しかし音はそれっきり。雲に覆われた空からは他に何らの便りもなし。

「よっしゃ仕事や仕事! 働くぞ!」

 その声に皆が振り返れば、一平太がバックホーのエンジンをかけていた。

「あいつだけはホンマ元気やの」

「まあええがな。わしらも仕事せんとな」

 作業員はそれぞれ持ち場に戻り、午後の仕事に取りかかった。

 だがこのとき、すでに異変は始まっていたのである。



 天にまっすぐ伸びる直線的で四角い建物。それが数え切れないほど建っている。誰も彼も見慣れない服装で多くの人間が行き交っているが、レオミスに対し一瞬怪訝な視線を送りはするものの、すぐ無関心に通り過ぎる。道は黒く、金属の箱に乗せられた人間が恐ろしい速さで移動している。

 何だここは。いったいどこの国なのだ。東方にこんな国があると聞いた覚えはない。いや、それはいま考えるべきことではないのかも知れない。問題はあの大型歩兵竜だ。あれがもしこの街のどこかに降りたのだとすれば。

「すみません、お話よろしいですか」

 振り返れば濃紺の軍服のような物を着た男が二人立っている。しかし意外だ。こんな見たことも聞いたこともない地で言葉が通じるとは。

「何でしょうか」

 レオミスの返答に、二人の男は少し安心したような顔を見せた。目の鋭さは変わっていなかったが。

「ああ良かった。日本語が通じなかったらどうしようかと思ってたんですが」

 ニホンゴ? この国の言葉のことだろうか。いぶかしむレオミスに、男たちは言葉を続ける。

「大阪へは何しに? コスプレ大会か何か?」

「あ、その腰の剣、よくできてますね。ちょっと見せていただいてもいいですか」

 レオミスは言われるままに聖剣ソロンシードを鞘ごと渡す。男の一人が受け取り、けれどあまりの重さに前のめりに倒れそうになった。

「ちょ、な、何だこれ」

「おい、何して……何だ、この」

 二人がかりで何とか持ち上げようとするものの、地面に落とさないだけで精一杯。そこにレオミスが手を伸ばし、ソロンシードを軽々と持ち上げた。

「聖剣は持ち主以外の手には余る。諸君らに取り扱うのは無理だ」

 剣を腰に戻すと、唖然としている二人の男にレオミスはこう言った。

「見たところ諸君らは治安機関に所属しているのだろう。ならば次は拠点に連行し尋問じんもんを行うはずだ。良かろう、連れて行きたまえ。私も諸君らにたずねたいことがある」

街の外れの森畑もりはた幼稚園は、規模は大きくないが、相応の歴史がある。長い間大きな事故を起こさずに済んでいるのは、代々の園長が気配りの人だったからだとの評判。今日もいつも通り園庭では子供たちがはしゃいでいる。

 幼稚園の前の道路ではガス管の交換工事が行われており、一部の園児たちが興味津々の様子で見つめていた。

 見守る二人の若い教諭がそれに気付いたのは、もうすぐおやつの時間になろうかという頃。

「先生、今日はあの人いてないですね」

「いてないね。でもいてくれへん方が助かるわ。いつもいつもお酒飲んで真っ赤な顔で何やらブツブツ言うて、気持ちの悪い」

「こないだなんかビールの缶、砂場に投げてきたんですよ。園長に警察へ連絡しましょうか言うたんですけど、さすがにそこまでせんでええよって」

「園長、お人好しやもん。あんなん警察に連れて行ってもろた方が絶対ええのに」

「ああ、もう二度とここに姿を見せませんように」

 彼女らの話している男は、近隣でも有名人。年がら年中、昼間から酒をくらい、小さな迷惑行為を繰り返す。大きな事件を起こさないため、なかなか警察にも相談しにくいが、だからこそ周辺住民にとってはストレスの種だった。

 しかしそのストレスが取り除かれたのは、果たして幸運だったと言えるだろうか。男は薄汚れた二階建ての自宅、窓の破れた二階の部屋で、大型歩兵竜の餌となっていた。



 二人の警官たちは困っていた。

 おかしな格好の女がいるとの通報を受けて現場に向かえば、確かにおかしな格好の女はいた。だが昨今、コスプレなど珍しくもない。その中にあって女の格好は極めて本格的であり、地味であるとすら言える。この程度で通報してきたヤツはクレーマー気質なのだろうと思ったものの、腰に剣を下げているのは簡単に見過ごせない。

 そこで剣を調べようと思ったのだが、これがあまりに重すぎて持ち上げることも鞘さやから抜くこともできない。なのに女は軽々とこれを扱うのだ。この仕組みがまずわからない。

 さらに身元が不明だ。所轄署にパトカーで連れ帰り、取調室で質問をしてみれば。

「王国サンリーハム、白銀の剣士団団長、レオミス・ケングリア」

 凜とした姿勢でこの言葉を繰り返す。パスポートを持っている訳ではなく、それ以外の身分証明書も同様。外国人だと証明ができれば入国管理局へ送れるのだが、手荷物もないので手がかりがない。近隣のホテルに問い合わせてみたが、彼女と思われる宿泊客は記録になかった。まるで天から降ってきたかのようである。

 しかも。

「諸君らからの質問がないなら、私から問いたい。人間よりも大きな二足歩行の竜の目撃情報はないか」

 真剣な顔でこんな質問をされて、いったいどう答えればいいのか。少しでもふざけている様子があれば怒鳴り散らすこともできるのだけれど、本気で真面目に切迫した様子を見せられては警官たちは混乱するばかり。もう質問するのもされるのも嫌になってほぼお手上げとなったとき。

 取調室のドアがノックされ、警官たちが返事をする前に外から開いた。そこに立っていたのはこの署の署長。あまりのことに二人の警官が一瞬唖然とし、慌てて立ち上がれば、難しい顔の署長が無言で手招きをする。二人は顔を見合わせたものの、署長の招きを無視できるはずもない。警官たちは取調室から出て行き、それから三十秒ほど経ったろうか。

 ドアが再び開くと、そこには中年のしょぼくれたスーツ姿の男が立っていた。男は軽く会釈をすると取調室に入りドアを閉める。そしてレオミスの正面向かいの椅子に座るとこう言った。

「初めまして。私は内閣情報調査室の中ノ郷なかのごうと申します。あなたはサンリーハムから来られたとか」

「そうだ」

 レオミスが肯定すると、中ノ郷は天井を指さした。

「いまこの街の上に浮かんでいる巨大な城塞、あれがあなたの言うサンリーハムなのでしょうか」

 レオミスはうなずく。

「その通りだ」

「立て続けに質問ばかりで申し訳ないのですが、そのサンリーハムはいずれこの街に落ちてくるのですね」

 中ノ郷の問いに、今度は首を振る。

「いや、サンリーハムは移動できる。いますぐこの街の脅威になることはあり得ないだろう」

「いますぐは、ですか」

「近くに海があるのなら、そこに下ろせるはずだ」

「だとすると大阪湾になりますね。海運とか漁業権とか面倒臭いことになるなあ」

 中ノ郷が額を抑えて考え込んでいると、レオミスがたずねた。

「私からも質問をしていいか」

「はい、それは。どうぞ、何なりと」

「人間よりも大きな体格の竜が一匹、私と一緒に落ちたはずだ。心当たりはないか」

「……竜?」

 中ノ郷の反応は、先ほどの警官たちとは明らかに違った。

「それは、人間に危害を加える存在なのでしょうか」

「ああ、ヤツらは人間を食らう。この地に放置しておいては大惨事を招きかねない」

「その竜を探す手立てがあなたにはあると?」

 この中ノ郷の言葉に、レオミスはしばし目を伏せると小さくうなずいた。

「手立ては、ある」



「はあ? 今日の作業中止? そらまた何でよ、監督」

 急な作業中止指示に、再開発工事現場の職人や作業員たちが不満を漏らす。もちろん彼らとて仕事は早く終わってくれた方が有り難いのだが、今日の分が明日以降に持ち越されることがわかっていながらの中止ともなれば反発があるのも当然だ。

「そんなん言われてもJVの指示やし、JVもどっかから指示受けてるみたいやしで、私にどうこうできる話やないのんよ」

 現場監督も困り顔だが、まあこの辺は所詮中間管理職であるということだろう。

「JVに指示できるってどこや。クライアントか?」

 作業員たちからはまだ不満が出るものの、監督としては首をかしげるしかない。

「さあ。とにかく今日は作業中止、悪いけど。あ、あとこの辺、避難指示が出てるみたいやから、あんまりこの近辺でウロウロせんようにね」

 まだ不満はたらたらだが、こうなっては作業員たちも解散するしかない。

「避難指示って台風でも来とんかいな」

「雲は出てるけどなあ。雨も風もないで」

 そう文句を言いながらマイクロバスに乗り込めば、根木一平太がすでに一番前の席に座っていた。口には出さないが、一分一秒でも早く家に帰りたいと顔に書いてある。

「コイツだけはホンマもう」

 思わず呆れはするものの、一平太の日頃の働きぶりを知っているだけに、誰もが苦笑するだけだった。



「小刀のような物はあるだろうか。紙を切るときに使う」

 警察署の玄関の外、レオミスにそう問われて中ノ郷は上着の胸ポケットから、細身のカッターナイフを取り出す。

「ご自分の剣は使わないのですか」

 そうたずねながら手渡す中ノ郷からカッターナイフを受け取ると、レオミスは使い方を教わりもせずに刃を出した。

「なるほど、これは便利だ。サンリーハムに輸入したい」

 と、つぶやいたかと思うと、自らの左手のひらをカッターナイフで斬りつける。

 ハッと目を見張る中ノ郷に、レオミスは微笑みかける。

「聖剣では持ち主を傷つけることができないのでな」

 左手ににじみ出る赤い血。それをしばらく見つめてからレオミスは中空を見つめてこう言った。

「精霊リュッテよ、特別契約だ」

 すると手のひらの血が中空に巻き上がる。まるで誰かがすすっているかのように。

「そうだ。あの大型歩兵竜の居所を探ってほしい」

 その瞬間、空に真っ赤な血の色のアーチがかかった。

「なるほど、あちららしいな」

「私が車を出しましょう」

 中ノ郷は玄関横の駐車場に走り、黒いセダンのエンジンをかけた。

いつもなら仕事から帰れば即、留美のいる幼稚園へと車を飛ばすのだが、幼稚園にも時間割の都合というものがある。今日は仕事が早く終わったために、時間的に余裕があった。たまにはシャワーを浴びて綺麗になってから迎えに行くのもいいだろう、一平太にそんな気持ちがあったからこそ滅多に点けないテレビを付けたのだ。

「……今回の緊急避難指示、また範囲が拡大した訳ですが、この点どう思われますか」

 アナウンサーがコメンテイターに話の水を向けている。ああ、そう言えば現場監督が避難指示がどうとか話してたっけか。でもあの辺からここまで結構離れてるしな。そんなことをぼんやり考えていると、コメンテイターがテレビの中でこう言う。

「この緊急避難指示ですね、気象庁が発表したものではなく、政府が発表したものなんですね。しかしJアラートも活用されていない。まことにもって意味不明としか言いようがありません」

 その言葉を終えるのを待っていたかのようなタイミングで、テレビにテロップが流れる。また避難指示の範囲が拡大したらしい。一平太の目が動きを止めた。新たに加えられた避難指示区域には、留美のいる森畑幼稚園がある。

 嫌な予感が走った。スマホをポケットから取り出せば、電源スイッチを押しても何の反応もない。故障じゃなければ充電切れ。一平太にとってスマホは遊び道具ではない。朝から晩までやることだらけの彼にとってスマホはただの電話なのだ。しかしだからこそ、バッテリー残量など数日に一回しか気にしない。その結果がこれである。 

 アホか! ボケカス! 自分自身を罵ののしる言葉が頭の中を駆け巡ったが、いまはそんなことをしている時間さえ惜しい。一平太は軽四のキーを手にマンションの外へと走った。



 空に浮かぶ血の色のアーチは目的地にまっすぐ向かうのではなく、道路地図を読み取っているかの如く、つまりカーナビのように中ノ郷のセダンを誘導し続けた。しかしそれもどうやらここが終点のようだ。

 薄汚れた二階建ての一軒家。その二階の窓が破壊されていた。その穴から出入りする無数のハエ。何かが起こっている、いや、すでに起こった後なのかも知れない。

「ここから出ないように」

 中ノ郷にそう言うと、レオミスは車を降りた。

 まだ気付いていない? いや、そんなことはあるまい。こちらが動くのを待っているはずだ。レオミスは聖剣ソロンシードに手をかけ、浮遊魔法を念じると、トン、と地面を蹴った。

 途端に窓の内側から飛び出す大型歩兵竜。血にまみれた大口を開けて絶叫と共にレオミスに襲いかかる。その鼻先にソロンシードの一撃をくらわせるが、元より抗魔法鎧で覆われているだけではなく、宙に浮いているために踏ん張りが効かない。レオミスの体は無情にも弾き飛ばされた。かに思えたのだが。

 飛んで行く哀れな敵に追い打ちをかけようと大型歩兵竜は宙を駆けた。しかしレオミスは空中で回転し、一瞬電柱に足を止めるとバネのように跳ね返り、飛行する大型歩兵竜の下に潜り込む。抗魔法鎧は頭部と胸、腹を覆っているが、下腹部はむき出しのままだ。

 ソロンシードの一閃、大型歩兵竜の下腹部から尾にかけてを一直線に切り裂いた。敵は血を吐くような叫び声を上げて地面に落ちる。路駐していたワンボックスにバウンドし、金属製の門扉を突き破って止まった。

 そのすぐ近くでガス管の交換工事をしていた作業員が驚き目を丸くする。

「な、何や! 何やこれ!」

 作業員たちを餌と認識したのか、大型歩兵竜は頭を持ち上げ吼えた。命の危険を感じた作業員たちが意味不明な言葉を叫びながら逃げ出したのも無理はない。

 並みの歩兵竜なら致命傷の一撃だったが、体が大きな分だけ傷は浅いのかも知れない。すぐにトドメを刺さなければ。駆け寄ったレオミスの耳にそのとき聞こえたのは、小さな子供たちの大きな悲鳴。思わず目をやれば、建物の窓に十数人の子供の顔が並んでいる。

 レオミスは幼稚園というものを知らない。だがこの子供たちの集団に気付いた歩兵竜がどう動くかは予想できた。

 その一瞬を突くように大型歩兵竜は飛び上がり、下腹部から大量の血を噴き出しながら子供たちに突撃した。レオミスが前に回り込むことができたのは限界いっぱいに魔力を消費して高速移動をしたことと、歩兵竜の出血が想像以上に体力を奪っていたこと、この二つが重なった僥倖ぎょうこうと言えた。

聖剣ソロンシードが敵の喉笛を突く。鎧があるため刺さりはしないが、短時間なら相手の動きをある程度制御できるだろう。レオミスは背後に叫んだ。

「いまのうちに子供たちを建物の奥へ!」

 しかし泣きわめき逃げ惑う子供たちをすぐには一方向に動かせない。やはり自分が何とか倒すしかないか、そうレオミスが思った瞬間、左手のひらの傷がうずいた。それが少し、ほんのごく僅かに握力を削いだのかも知れない。大型歩兵竜は首を振って聖剣の切っ先をずらしたかと思うと腕を振り回し、レオミスの顔を殴り飛ばした。

 レオミスの視界の中で、すべてはスローモーションで動いて行く。飛ばされる自分の体、勝利を確信した敵の目が笑っている、いけない、このままでは子供たちが、だがもう魔力が……

 そのときである。

 うなる鋼鉄の腕が大型歩兵竜の顔面を殴り飛ばしたのは。



 一平太の軽四が森畑幼稚園の前に到着したとき、その入り口門扉はグシャグシャに潰れていた。あまりのことに思考が止まり、立ち尽くす一平太の耳に子供たちの悲鳴が聞こえる。

 見れば一般的な大人の人間より二回りは大きい『怪獣』が幼稚園に迫っていた。意味がわからない。非現実感と命に関わる恐怖が体を凍り付かせる。そのとき、また聞こえた悲鳴。留美が……危ない。留美が危ない? 留美が危ない!

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