ベスト
ベスト
先程トカレフから放たれた三発の弾丸は、当然の如くまだ死んでいないはずだ。投光器の光から外れた暗い空を舞い、次の機会をうかがっているに違いない。
キルデールは銃口をマーニーに向けながらも、不用意に六発目を撃たなかった。いかに化け物じみたトカレフであれ、弾数は無限ではない。普通に考えてマガジンにはあと三発。他に八発入りの替えマガジンが最低一つはあるだろうか。全弾撃ち尽くさせ、それをすべて叩き落とすまで安心はできない。マーニーは突き出した両手に意識を集中した。体力が持つかどうかが心配だ。
そのマーニーと黄色ジャージ、そして小丸恵の周囲を、防弾ベストを身に着け刺股を手にした刑事たちがグルリと囲んでいる。隙あらば取り押さえてくれようと。だが、肝心の隙が見つからない。トカレフは構えているが、力を込めず自然体で立っているだけに見える黄色ジャージに、正面は元より、左右や背後からも、誰一人として近寄ることができずにいた。
近付けば自分が最初に撃たれることは自明の理。いかな訓練を積んだ警官であれど、職業意識だけでは乗り越え得ない壁もある。しかしその壁を越え、均衡を破ったのはまだ若い刑事。怖いもの知らずの未熟さが、ここでは力を発揮した。
「おおりゃぁああっ!」
うわずった声と共に突き出された刺股が黄色ジャージの腰を捉えた、かに思えたのだが。
上空から音もなく飛来した「何か」が刺股の柄を叩き折り、その勢いで若い刑事は地面に突っ込んだ。それでも切っ掛けを得た他の刑事たちは、雪崩を打って黄色ジャージに襲いかかる。
二発の銃声。しかし、これは二人が撃たれたことを意味しない。先の三発にプラス二発の合計五発の銃弾が空中で渦を巻き、押し寄せた十数本の刺股の柄をことごとく打ち砕いた。刑事たちの足も思わず止まる。だがこの状況、動きを止めることが意味するところは一つ。
死、あるのみ。
黄色いジャージの男の口元に笑みがこぼれた。
そのとき、急停止したために前のめりに倒れた刑事たちの、背中の向こう側から跳ね上がるように飛び出した地豪勇作が、猟銃を頭上高くに振りかぶる。
この程度の幼稚なトリックに引っかかるものか。キルデールは飛び回る五発の銃弾を、すべて小丸恵に向けた。おそらくマーニーは恵を守らんと飛び出すだろう。そこに僅かな時間差で八発目の銃弾を叩き込めば、いかなマーニーとてかわし切れまい。
黄色ジャージの表情に浮かぶ自信。だがそれは慢心であり、これこそが隙である。勇作の動きはトリックでも何でもない、ただ視線を向けさせるための型通りの陽動だということに、すなわちいま、真後ろから妖刀蝶断丸が迫っていることに気付かなかったのだ。
“りこりん”の一太刀はトカレフを持っていた敵の右腕を断つ。宙を飛んだ五発の銃弾は勢いを失い、マーニーに簡単に叩き落とされた。そして勇作が猟銃の台尻で、黄色ジャージの頭を殴りつける。
地に落ちた右腕は八発目の引き金を引いたものの、弾はマーニーにも勇作にも“りこりん”にも恵にも当たらず、反動で黒い自動拳銃は手から離れて転がった。末期の咆吼か。後は猟銃に詰めたスラグ弾でこのトカレフを砕けば、この悪夢のような物語も終わるのだ。勇作は一歩踏み出した。
「鮫村課長!」
聞こえた悲痛な叫びに勇作が視線をやれば、さっき会話した鮫村が足を押さえて倒れている。偶然? 流れ弾に当たった? ……いや、違う! 慌てて視線をトカレフに戻せば、刑事の一人がフラフラと近付き、拾おうとしていた。勇作は思わず猟銃を構える。
「そいつに触るな!」
だが、これに周囲の刑事たちが反射的に銃を抜いた。もちろん銃口を勇作に向けて。ここでもし勇作が撃てば、ただでさえ殺気立っている刑事たちは堪えられまい。銃撃戦になれば、マーニーたちがどうなるか。
「さすがに全部は避け切れんぞ」
恵を背後にかばい勇作の左隣に立ったマーニーが、キャップを目深にかぶり直す。
「もうちょっとだったんですけどねぇ」
右隣の“りこりん”もため息をつく。
トカレフを拾った刑事はマガジンを抜いてみせた。
「残弾はゼロだ。そのジャージの男が他にマガジンを持ってるかも知れない。本間、探してみろ」
これに「はい」と返事をしたのは、最初に刺股で突っ込んだ若い刑事。勇作の構えた銃口の前を横切る度胸はたいしたものだが、実情を考えればとても褒められたものではない。
「おいやめろ、おまえら騙されてんだよ」
しかし本間は勇作の言葉を無視し、黄色ジャージの死体のポケットをまさぐった。
「ありました! マガジン一つです」
「ようし、こっちに持ってこい」
本間が立ち上がり走ると、拳銃を構えた別の刑事が勇作に怒鳴った。
「もう逃げられんぞ! 諦めて銃を捨てろ!」
確かに、普通に考えれば万事休すの場面である。もはや勝敗は決した。そう、普通ならば、だ。
そこに響いた銃声は、勇作からではなく、刑事たちからでもトカレフからでもなかった。三発の音と共に投光器が三つ破壊され、残る光は一つだけ。悲鳴が響くパニックめいた薄闇の中を、勇作は背を向け走った。恵を肩に担いで、再び支部教会の中へと。
「待て、人質に当たる」
刑事たちの声を背中に聞きながら。
「父さん!」
修練室の入り口で父親に抱きついた恵はそれっきり何も言わない。小丸久志もただはらはら涙を流すのみで娘を抱き締めている。
そんな二人を横目で見ながら、勇作は釜鳴佐平に声をかけた。
「助かったぜ。爺さん、いい腕してんじゃねえか」
「いえいえ、マトが大きかっただけでね」
そう言いつつ空薬莢を三つコルト・パイソンのシリンダーから抜き取り、三八スペシャル弾を詰めている。別におかしな光景ではなかったが、勇作は首をかしげた。
「三五七マグナム使わないのか、パイソンなのに」
「馬鹿言っちゃいけませんや、こっちはジジイですぜ。マグナムなんぞ使ったら、肩が抜けちまう。どうせ援護射撃くらいしかできねえんだ、サンパチでも十分すぎるくらいでやすよ」
「言うねえ」
勇作はニヤリと笑う。釜鳴は言外にこう匂わせているのだ。「この弾なら簡単に当てられる」と。
「義を見てせざるは勇なきなり、ってね。古い人間でやすから」
釜鳴は弾丸を詰め終わったシリンダーを元に戻し、勇作に不敵な笑顔を返した。
修練室の一番奥の隅では“りこりん”がしゃがみこみ、両腕を抱き締めるように押さえている。マルチーズのボタンは心配そうに見上げていた。その隣に座る縞緒有希恵。
「傷口、開いたの」
“りこりん”はうなずく。
「出血はほとんどないんでぇ、大丈夫ですよぉ。荒事は慣れてますからぁ」
「仕事だものね」
「ええ、お仕事は大事ですからぁ。プロフェッショナルですしねぇ」
「……本当にそれだけ?」
縞緒はボタンの頭を撫でている。“りこりん”はクスッと笑った。
「お姉様こそ、お仕事はもう終わってるんじゃないんですかぁ」
「よく言われる。変わり者だって。だけど」
「だけど?」
のぞき込む“りこりん”に、縞緒もフッと笑い返した。
「憧れるじゃない、正義の味方って」
マーニーはキャップも脱がず、畳の上に倒れ込んでいる。まさにバタンキュー、体力を使い果たしたのだろう。キルデールに指摘されたとおり、持久力に問題があるのだ。
そのとき久志のスマホが鳴った。画面を見れば知らない番号。
「出てみるといい」
倒れたままのマーニーにそう言われて、困惑した表情の久志が五回目のコールで出てみると。
「……あなたと話したいそうです」
久志からスマホを差し出された勇作がそれを受け取り、耳に当てれば聞こえてくるのはやけに落ち着いた声。
「こちらは県警捜査一課の倉橋警部補だ。わかるな」
「ああ、わかるぜ」
キルデール、という名前はグッと飲み込んだ。電話の向こうの倉橋が笑った気がした。
「トカレフはこちらの手にある。あとはキミが降参すれば話は終わりだ。無駄な抵抗はやめて人質を解放したまえ。決して悪いようにはしない」
おそらくはこの会話を何人もの警察官が聞いているはずだ。テメエはキルデールだろう、刑事を乗っ取りやがって、などと口にしようものなら、その時点でこちらは精神異常者扱い決定だ。説得など無意味と判断されて突入部隊が編成される。知恵が回りやがる、勇作は舌打ちをしそうになった。
最初に出くわしたときのようにただ殺意が暴走しているままなら、ここまで苦労することもなく、もうとっくに叩き潰せていたものを。マーニーが余計なことをしやがるからだ、まったく。こちらの反応がないのを弱気と受け取ったのか、倉橋は押し込んできた。
「あまり長時間の立てこもりは、人質の体力が持たない。その場合、強攻策に打って出るしか選択肢がなくなる。我々もできればそれは避けたいのだ。子供だけでも解放してはくれないか」
子供というのは恵とマーニーのことだろうが、マーニーを殺すことしか考えてないヤツにわざわざご献上差し上げるほど俺も馬鹿じゃねえよ、と勇作は口に出しかけて堪えた。そもそもキルデールがマーニー以外の誰も殺さないのなら久志と恵くらいは外に出してもいいのだろうが、実際そうではない。こちらに置いた方がどう考えても安全だろう。
「考えたまえ、地豪勇作」
倉橋は言う。
「頭を使うのだ。思考は不可能を超越し、恐怖すら乗り越えるのだから」
「だったら俺の考えを教えてやる」
ようやく出て来た勇作からの提案めいた言葉に、相手は興味深げに「ほう」と声を上げた。だが勇作に提案などする気は最初から毛頭ない。あるはずがない。
「俺は時間を稼ぐことにする。何にせよ、何としてでも、とにかく何とかして時間を稼ぐ。最後まで『我慢』しきれたらテメエの勝ちだ。まあ、そんなに都合よく本性まで変えられるとは思ってねえけどな」
「……私は我慢比べには自信があるのだが」
「そうかい、だったらせいぜい我慢しな。頭がイカレて仲間を食ったりしねえよう気をつけるこった」
電話を切って久志に渡し、勇作は倒れ込んだままのマーニーにたずねた。
「で、どうする」
さしものマーニーも、思わず顔を上げた。
「いやいやいや。お主、何の策もなしに相手を怒らせたのか」
「他に言いようなんざ思いつかなかったから、しゃあねえだろ」
「まったく、存外面倒臭いタイプだな」
真っ赤なロサンゼルス・エンゼルスのキャップでパタパタ自分をあおぎながら、寝転んだマーニーは苦笑した。
「とは言え、この状況では確かに時間を稼ぐ以外に手はない。何とかキルデールが自らここへ来るよう仕向けられればいいのだが、警察はどう動くと思う」
勇作は即答する。
「人質の解放交渉をしながら体勢を整える。後は催涙弾をぶち込んで突入してくるんだろう」
「えらい大雑把だな。しかしまあ、そのときキルデールが一緒に入って来るという確証があるなら、まだ戦いようもある」
これに、修練室の戸を開けて玄関の方を見張っている縞緒が問うた。
「相手の勝利条件は、あなたを殺すことですよね」
マーニーが上半身を起こしうなずく。
「そうだな」
「こちらの勝利条件はあのトカレフを破壊すること。なら余程の間抜けでもない限り、敵はここへはやって来ません」
「ああ、確かにその通り」
マーニーの言葉を聞いて、釜鳴が「へっ」と鼻先で笑う。
「警官隊を突入させて地豪の旦那を射殺して人質を『解放』、マーニーちゃんをここから連れ出して、その後でゆっくり殺せばいいって寸法か。なるほど、こりゃ王手だ」
状況的にはまさに絶望的。なのに。久志は怯える恵を抱き締めながら、不思議に思っていた。この場に悲壮感も諦めムードもないのは何故だろうと。まだ何か起こるという確信があるのだろうか。
その心を読んだかのようにマーニーが言う。
「何かは起こるぞ。あのキルデールに我慢比べなどできるはずがない」
勇作は修練室の壁に掛かっている時計に目をやった。
「鑑識が来る」
負傷し意識を失った鮫村を救急車が収容している後方に、赤い回転灯を回したワンボックス車が停止する。鑑識課の到着だ。青い制服を着た鑑識課員が降車し、倒れた黄色ジャージの男の元へと向かった。すでに死亡は確認されている。後は鑑識がチョークで遺体の外枠に線を引き、一通りの現場写真を撮影した後、遺体を袋に詰め、搬送車で警察に運ぶ手はずだ。
倉橋警部補に報告するのは、捜査一課の若い本間刑事。
「警部補、鑑識課が到着しました」
「そうか」
「ですので、証拠品を引き渡します」
倉橋は横目で本間をにらむように見つめる。
「それで」
「は? はぁ、ですから証拠品の拳銃を引き渡しませんと」
すると倉橋は、白い手袋をはめた右手で黒いトカレフを持ち上げてみせた。
「これか」
「はい。……あの、警部補。どうかされたのですか」
「いや、別に。このトカレフは私から鑑識課に渡そう」
「いえ、それくらいは自分が」
「くどい!」
突然激昂した怒鳴り声は、現場を震撼させる。刑事やマスコミ関係者たちが何事かと見守る中、倉橋は殺意の籠もった視線で本間を射すくめると、鑑識官に向かって大声を上げた。
「鑑識! 証拠品を取りに来い!」
いささか不審げに首をかしげながら、ビニール袋を持って鑑識官の一人が近付いて来るのを見て、倉橋の口元がニイッと吊り上がる。
「証拠品を渡せばいいんだな」
「え? はい、まあそれは」
キョトンとしている鑑識官の目の前で、倉橋は悠々とトカレフのマガジンを交換し、スライドを引いて薬室に装填する。
「では受け取れ」
「ちょ、ちょっと警部補!」
慌てた鑑識官の額に穴が空いた。同時にタン、と乾いた銃声。本間が、他の刑事たちやマスコミ関係者が恐怖に目を見開く。
「異端者が!」
叫びながら倉橋は、流れるように三発の銃弾を放った。
「異端者が! 異端者が! 真なる神を奉ぜぬ異端者どもが! 滅びよ、滅びて土に還るがいい!」
放たれた一発プラス三発、合計四発の銃弾は、たった四人の犠牲者で満足するはずもない。額を撃ち抜き、こめかみを貫通し、背中から心臓を射貫きながら何度も何度も宙を舞い、次々に犠牲者を増やして行く。刑事たちには為す術もなく、パニックに陥ったマスコミや野次馬は悲鳴を上げて逃げ惑い、あちこちで将棋倒しを起こした。
「ハハハハハッ、ハハハハハハハハハッ!」
狂気をはらんだ哄笑が夜の闇に響き渡る。そのとき、倉橋の上半身がほんの少し仰け反った。直後に響く銃声。キルデールの意思に乗っ取られた警部補はニンマリと笑う。
「いい腕だ」
散場大黒奉賛会の支部教会玄関では、コルト・パイソンを構えた釜鳴佐平が目を丸くしていた。
「何てこったい、本当に弾ぁ避けやがった」
背後に立った地豪勇作が言う。
「最終的に一発当たりゃいい。援護頼むぜ」
「あんな化け物に当てる自信はねえが、まあ頑張りやすよ」
そう答える釜鳴の横を勇作が通り過ぎて行く。背には赤いキャップをかぶったマーニーをおぶり、右手にグロック、左手には猟銃を持って。玄関を抜けるとすぐ、一つだけ残った投光器の作る薄闇の中を、勇作はトカレフに向かって猛然と走り出した。
「これで最後にすんぞ、オラァアッ!」
「いっけぇええっ!」
背中のマーニーがヤケクソ気味に拳を突き出す。迎え撃つ倉橋の血走った目は見開かれ、宙を舞っていた四発の弾丸が唸りを上げて勇作へと飛んだ。しかしマーニーの見えない力がこれを火花と共にはじき飛ばす。一発が勇作の右脚をかすめたが気にしない。勇作の右手のグロックが火を噴いた。走りながら倉橋に向けて連続で五発。とは言え狙いを定めていない銃口である、真横に全力で走られては当たりようもない。ただ。
向かって左側に回り込もうとした倉橋は、勇作の背後から飛び出した“りこりん”の蝶断丸による一撃を、左側面で受けねばならなくなった。銃を持ち替える時間はないはず。まずは腕一本、成果を確信した“りこりん”に倉橋の左手が向けられる。握られているのはリボルバー、ニューナンブか。おそらくは元々倉橋の所持していた拳銃。
銃声より先に動き出した蝶断丸が、一発目は弾いた。距離は蝶断丸の間合いに入る。だが一度振り抜いた剣を引き金より速く元の位置に戻すのは至難の業、しかもここまでの近距離ともなれば、まず不可能。倉橋の指に力が入った。
その倉橋の左手が、稲妻の速度で蹴り上げられる。“りこりん”の足ではない。彼女の背後から伸びてきた、縞緒有希恵の足である。勇作の背後に“りこりん”を置いただけではなく、さらに背後に縞緒を配置した三段構えの策。しかも縞緒は素手。この思い切りたるや。
宙を飛ぶニューナンブが地面に落ちる前に“りこりん”の蝶断丸は突きを放ち、縞緒は両手を地について竜巻のように脚を回転させた。“りこりん”の狙いは倉橋の心臓、縞緒は右手のトカレフを叩き落とさんとする。飛んで来る銃弾ならかわせるはずの倉橋も、この至近距離からの変則的な二重攻撃には守勢に回った。
何とか二発を撃ち、大きく弧を描いてまず縞緒を狙おうとするが、“りこりん”の蝶断丸が立ちはだかる。一度刃にはじかれた弾丸は、体力の残り少ないマーニーに容易に叩き落とされた。
何とかこの二人から距離を取り、マーニーを直接狙わねばならない。倉橋の体を支配するキルデールの意識は焦った。だから足下が留守になる。大きく飛んで後退しようとしたとき、何かにつまづいてしまった。
いや、違う。つまづいたのではない。白いマルチーズが右足のかかとに噛み付いているのだ。まさかの四段構えの策だった。倉橋の体は仰向けに倒れて行く。振り下ろされる蝶断丸の先端と、縞緒のかかと落とし。
だが倉橋はそれをかわした。左足一本で地面を蹴り、ほぼ水平に飛んでトカレフを天に向けた。まだ残弾は二発ある。替えマガジンこそもうないが、戦える、勝てる、敗北などするはずがない! 空に向かって引き金を一度引いた倉橋の胸に、釜鳴のパイソンから放たれた三八口径弾が二発命中した。
キルデールは視認できただろうか、自分に猟銃を向けて構える勇作を。だが見えなくとも、曲線軌道を描いた一発の銃弾は直上からマーニーと勇作を狙う。これを防がんとマーニーが手のひらを天に突き上げたものの、もはやスタミナ切れ、僅かに軌道を歪められた銃弾が勇作の右腕を貫通した。
それでも勇作の構えは動じない。急速に感覚が失われて行く右手の指が、猟銃ミロク8000の引き金を引き絞る。
轟音と共に、倉橋の突き上げた右腕を肉片に変える散弾。その直前、空に向けて放たれた七・六二ミリトカレフ弾の最後の一発は、放物線を描いてどこか遠くへと飛び去って行った。
娘の恵には凄惨な現場を見せないよう抱き締めながら、小丸久志は修練室の窓から外を見つめている。残念だが、いま自分にできることは何もない。ほんの少しばかり疎外感を覚えたものの、それでも生きて恵の体温を感じられる幸せを噛みしめていた。
外は決着がついたようだ。イロイロ大変すぎる体験だったが、これで何とか恵と一緒に、無事に家に戻れるだろう。そう思っていた久志の顔が、ふと後ろを振り返る。誰かに呼ばれた気がしたのだ。もちろんここには自分たち以外、誰もいない。
あまりにもとんでもない話に触れすぎて、少し当てられたのかも知れない。まあ久志のような一般人には刺激の強すぎる事件だったし、仕方ない。
あれ、まただ。
「父さん、どうしたの」
怪訝な顔で振り返る久志を、恵は不思議そうに見つめている。
「いや、ちょっとね」
久志は恵を体から離し、部屋の隅へと歩いて行った。どうしても自分を呼ぶ声が聞こえる、気がする。そんなはずはないのだが。理性ではそう理解しているのに、呼びかけに逆らえない。声は黒いバックパックからしている。勇作の荷物だ。
いかにこんな特殊な状況下だからといって、他人の荷物を勝手に漁るような真似はしたくない。したくないのだが、伸びる手を止めることができなかった。早く、早く、急がなければ。気持ちは焦り、久志は中も確認せずバックパックに勢いよく右手を突っ込んだ。
痛っ。
人差し指の先に走る痛み。しかし久志は顔を歪めながらも、その硬く鋭い物を静かに優しく手で包む。そして引き抜いてみれば、それは。
倉橋の肉体は仰向けで倒れ、原型をほぼ失った右腕から飛ばされたトカレフTT-33が少し離れた場所に落ちている。
「……どうして……どうして……どうして」
うなされるように繰り返す倉橋を放置し、地豪勇作は上下二連の猟銃の、下の銃口をトカレフに近付けた。上に入っていたのは散弾だが、下にはイノシシやクマを撃つためのスラグ弾が込められている。極至近距離から撃てば、頑丈なトカレフもお陀仏だろう。まあ仏教徒じゃないヤツにお陀仏もおかしいのかも知れないが。そんなことを考えながら、勇作は感覚を失いかけている右手の指で、引き金に力を込めた。
轟音と硬い音が入り交じり、猟銃は反動ではね上がる。トカレフは真ん中がひしゃげたスクラップになった。フレームもバレルもひん曲がった以上、もう銃弾は撃てない。ランヤードリングに付いていた小さな子グマの人形は、散弾で撃たれたときに紐がちぎれたのか、離れた場所で転がり空を仰いでいた。
「終わりやしたねえ」
釜鳴佐平の言葉に縞緒有希恵はため息で応え、白いマルチーズのボタンを抱いた“りこりん”はしゃがみ込む。
「あーあ、壊れちゃいましたぁ。でも無傷で回収しろとは依頼されてませんしぃ」
蝶断丸の先端で突いてみたが反応はない。もう完全に死んだ鉄の塊だ。
勇作はしばらく猟銃の引き金から震える指が離せなかったものの、やがて大きな息を吐き、静かに左手に持ち替えた。振り返ればマーニーが笑顔で見つめている。ニッと笑った勇作の口からこぼれるこの言葉。
「どうして」
勇作の目が見開かれ、口からは驚愕のうめき声が漏れ出す。釜鳴が、縞緒が、“りこりん”が異変に気付き、ボタンは歯を剥き出して唸った。マーニーは一人笑顔で見つめている。
「まったく命冥加なヤツよな。まだ諦めきれないのか」
頭を抱え目の焦点が合わない勇作の口は、混乱した言葉を吐き出した。
「どうして、どうして、どうしてこのワレが死ななければ、おいテメエ何で俺の中に入って、ワレが敗れるはずなど、どっから入って来やがった! さっさと、死にたくない、死にたくない、出て行けこの野郎!」
傷口から流れ出す血にまみれた勇作の右手が、尻のポケットからグロックを抜き出し、マーニーに銃口を向ける。しかし左手が咄嗟にハンマー部分に指を突っ込み押さえ込んだ。グロックを左右の手で上下させながら勇作は吼える。
「ふざけんじゃねえぞ、コイツ。かくなる上は、かくなる上は、かくなる上はじゃねえ! 一人では逝かぬ、道連れだマーニー! うるせえ黙れ! 異端者に死を! テメエが死んだんだよ!」
だがやはり腕の傷の有無が勝敗を分けたのだろうか、勇作の左手が右手をねじり上げるように引き戻し、グロックの銃口を自分に向けた。そして口元へと近付けて行く。
「待て、やめろ、何をする。何をするじゃねえよ、テメエは一人じゃ死にたくねえんだろうが。貴様正気か、馬鹿なことをするな。心配するな、俺は正気だよ。正気だから、俺の居場所なんざこの世界にないことがわかるんだ。だからやめろ、やめてくれ、一緒に死んでやる。ワレは、ワレが!」
さくり。そんな感じ。勇作の左腕に、小丸久志が持った果物ナイフが突き刺さった音は。勇作が自宅から持ってきた、柄の真っ黒に焦げた果物ナイフ。死んだ母親の唯一の思い出の品。それが突き刺さった途端、勇作の全身から力が抜け、ガックリと膝から崩れ落ちた。
「何だ、この光は、熱は」
この言葉は勇作のものか、それともキルデールのものだったか。
マーニーが真っ赤なロサンゼルス・エンゼルスのキャップを手に持ちながら、一歩近付いた。
「それが人の意思の力というものだよ」
「意思の……力?」
不思議そうな顔を上げる勇作に、しゃがみ込んだマーニーは言う。
「まだわからないのか、キルデール。これこそが神のご意向。そなたは人の世界に与えられた試練そのもの、そなたの存在こそが奇跡なのだ。人の手で倒され、乗り越えられて初めて価値を持つ厄災。その役目をそなたは見事に成し遂げた」
「ワレ、が、成し遂げた……?」
両膝をつく勇作の頭に、マーニーは赤いキャップを乗せる。
「いまそなたには『彼女』の姿が見えていよう。その者と共に、胸を張って天界に戻るがいい」
「天に、戻る」
勇作の顔は空を振り仰いだ。ずっとずっと遠くを見つめるような目で。
「戻れるのか、このワレが」
「念じろ、そして信じろ。そなたが生まれ、生きて来た奇跡と意味を」
勇作は静かに目を閉じ沈黙した。静寂。そして輝き。東の空が白み始めた。夜が明けるのだ。
「さて、行ったようだな」
空を見上げるマーニーの言葉に、勇作は目を開けて「らしいな」と答える。
「お主も一緒に行きたかったか」
しゃがんで見上げたままのマーニーを、勇作は横目でチラリと見やった。そして腕に果物ナイフが刺さったままの左手で赤いキャップを自分の頭から取り、マーニーの頭に静かに乗せる。
「思い出したよ」
「何を」
「匂いを」
「匂い?」
「髪や服の燃えたニオイだけじゃない、もっと優しかった匂いをな」
「なるほど」
キャップを目深にかぶったマーニーが周囲を見回せば、生き残った刑事やマスコミ関係者たちは、憔悴し困惑しきった顔で遠巻きに眺めている。
勇作はたずねた。
「おまえ、俺のことを最初から知ってたのか」
立ち上がったマーニーはフンと鼻を鳴らす。
「おまえ言うな。知ってはいたさ、地上に来る前にイロイロと頼まれたからな、天界で」
「……そうか」
「誰に頼まれたのか、聞かなくてもいいのか」
勇作は震える血まみれの右手で、左腕に刺さった果物ナイフを何とか抜いた。
「それくらいはわかる」
「それを知ってもまだ死にたいか」
「俺はどうせ死刑だぞ、普通に考えて。何だかんだで五人殺してる凶悪犯だからな」
「なら、普通に考えられなくしてやろう」
そう言うとマーニーは右手のひらを、高く天に向ける。
「え、おいちょっと待て!」
勇作が立ち上がるより早く、マーニーの手の中で光が弾けた。
負傷した鮫村を病院に見舞った小丸久志は大変に感謝され、かえって恐縮してしまった。散場大黒奉賛会の銃と麻薬の密輸・密売の証拠を探し出してくれたと鮫村は言うが、実際に活躍したのは縞緒有希恵と釜鳴佐平、そして“りこりん”こと花房璃々子の三人である。自分はただの連絡係に過ぎない、と久志は思っていた。
支部教会に立てこもった散場大黒奉賛会との激しい銃撃戦は、県警側に大勢の殉職者を出し、現場に駆けつけたマスコミ関係者にも多大な被害が出た。まるで戦場さながらだったという。これに久志が申し訳なさを感じる必要はないのだが、現場指揮者としての責任を取らされて鮫村が降任処分となっていることもある。人間そうそう理屈通りには考えられないものだ。
久志は直接関与していないものの、ムスリムの大量殺人事件や、その後に起きた連続発砲事件にも鮫村は携わっていた。これらの事件は後任者が解決に当たるそうだが、散場大黒奉賛会との関係を疑う声が世間では日増しに高まっているらしい。いずれ真相が明らかになるときが来るのだろうかと久志は思う。
縞緒と釜鳴、“りこりん”の三人は行方も告げずに久志の前から姿を消した。もう二度と会うこともないのかも知れない。できればもう一度会ってお礼が言いたかったな、連絡先くらい交換してもよかったのではないかと久志は思ったのだが、「卒業式の中学生じゃあるまいし」と笑われただろうか。
さあて、休暇は今日までだ。久志は気分を切り替えた。最後の一日、恵と大切に過ごそう。そう言えば恵は最近、夢の中で会った少女のことを話さなくなった。もうすぐ十一歳になるのだ、精神的な成長の証あかしなのだろう、きっと。よし、何かプレゼントを買って帰るかな。何がいいだろう。無難にケーキにするか。それとも、うーん、安月給ではなかなかいい選択肢がない。そうだ、プレゼントと言うのもおかしいけど、幸から連絡があったことは話しておこう。恵さえ良ければ会って食事をするくらいはできるかも知れない。いまさら過去は取り戻せないけど、人間は未来に進む訳じゃない。人間の進む先が未来になるのだから。
そんな思いを顔に浮かべながら、久志は繁華街を歩いていた。その後ろ姿を見ている人影が二つあることに気付きもしないで。
「ホントにいいのかね、これで」
大きなバックパックを担いだ勇作が、チューリップハットを目深にかぶり直す。
「細かいヤツよな。そんな心配など要らんと言うに」
お揃いのチューリップハットをかぶった、半袖のパーカーにハーフパンツ姿のマーニーが苦笑した。
「あやつらの記憶は、ちょうど都合のいいようにパーツが組み合わさって、理性と常識で判断しやすい『事実』が出来上がっておるのだ。余程のことがなければ、それに疑問を持つ者などおらんよ」
「そういう話じゃねえだろう。何つーかよ、その、道義的に」
しかしマーニーは鼻先で笑う。
「ハッ、道義をどうこう言えるような生き方などしておるまい」
「いや、俺はそうだが」
困惑している勇作を尻目に、マーニーはスタスタ歩き出した。小丸久志とは反対方向へと。
「人間は自分に火の粉が直接降りかからない限り、実際の事件もおとぎ話も感覚的に大差ない。そういう者が世界の大半を占めているのだ。ならば陰惨な事実より綺麗なおとぎ話を見せてやるのも悪いことではあるまいて」
「そんなに綺麗じゃねえ気もするが。て言うか、こんなことができるんなら」
勇作が大股で後を追いかけるが、マーニーは止まらない。
「最初からやれというのか。こんな手品、キルデールには通じんぞ。アレの殺戮を手助けするようなものだ。そんな趣味はない」
「実際のところ、どうなんだ」
隣に追いついた勇作を、マーニーは見上げる。
「何が」
「あの最後にキルデールに言ったこと、本当なのか。神の意向とか何とか」
あんなことをしたヤツを神が許すのなら納得が行かない、とその顔は告げていた。マーニーは苦笑するしかない。
「この国には素晴らしい言葉があるだろう。『嘘も方便』とな。キルデールが本当に天界に戻ったのかどうかは私にもわからん。だがこの地上を離れてもいいという気持ちにアレがなったのなら、それで十分ではないか」
この返答に勇作は呆れ顔だ。
「まさか教祖やってたときも、こんな感じだったのかよ」
「さあ、どうだったかな」
マーニーが微笑んだとき。不意に歩みが遅くなった。前方からやって来る女には見覚えがある。縞緒有希恵だ。マーニーも勇作も何も言わない。いま、向こうはこちらを知らないはずなのだ、それが当然である。しかし無言ですれ違うかに思えたその瞬間、縞緒が小さな笑みを浮かべてささやいた。
「またいずれ」
歩き去って行く後ろ姿を、愕然とした顔で見送るマーニーと勇作。
「ただ者ではないと思っていたが、あの女」
「なるほど、効かねえヤツはいるんだな」
やがてマーニーは小さくため息をつき、「まあいい」とつぶやいた。
「いずれやって来る日のことは、いずれ考えるさ。今日はとにかく今日のことを考えよう」
勇作もうなずく。
「そうだな、まず昼飯か」
「なあ勇作」
マーニーはチューリップハット越しに見上げている。
「まだ外国人は嫌いか」
勇作は、ほんの一瞬躊躇した。
「……頑張って好きになるのも何か違うだろ」
「まったく、どこまでも馬鹿正直なヤツよな」
今度はマーニーが呆れたように笑い、勇作も微笑み返す。
「とにかく今日は醤油ラーメンにしようぜ」
「メロンを置いてる店ならいいぞ。昼食と言ったらメロンに決まってるからな」
マーニーはまた早足で進む。勇作は負けじとそれを追いかける。
「決まってる訳あるか。だいたい、そんな金ばっかり使ってられねえだろ」
「だったらお主は仕事を早く見つけろ」
「世の中そんな簡単じゃねえんだよ。不景気ってものを理解しろ、おまえは」
「おまえ言うなーっ!」
ジリジリと空気が焼けるように暑い夏の日、デコボココンビの進む先には、真っ青な空。白くて大きな入道雲が立ち上っていた。
キルデールは銃口をマーニーに向けながらも、不用意に六発目を撃たなかった。いかに化け物じみたトカレフであれ、弾数は無限ではない。普通に考えてマガジンにはあと三発。他に八発入りの替えマガジンが最低一つはあるだろうか。全弾撃ち尽くさせ、それをすべて叩き落とすまで安心はできない。マーニーは突き出した両手に意識を集中した。体力が持つかどうかが心配だ。
そのマーニーと黄色ジャージ、そして小丸恵の周囲を、防弾ベストを身に着け刺股を手にした刑事たちがグルリと囲んでいる。隙あらば取り押さえてくれようと。だが、肝心の隙が見つからない。トカレフは構えているが、力を込めず自然体で立っているだけに見える黄色ジャージに、正面は元より、左右や背後からも、誰一人として近寄ることができずにいた。
近付けば自分が最初に撃たれることは自明の理。いかな訓練を積んだ警官であれど、職業意識だけでは乗り越え得ない壁もある。しかしその壁を越え、均衡を破ったのはまだ若い刑事。怖いもの知らずの未熟さが、ここでは力を発揮した。
「おおりゃぁああっ!」
うわずった声と共に突き出された刺股が黄色ジャージの腰を捉えた、かに思えたのだが。
上空から音もなく飛来した「何か」が刺股の柄を叩き折り、その勢いで若い刑事は地面に突っ込んだ。それでも切っ掛けを得た他の刑事たちは、雪崩を打って黄色ジャージに襲いかかる。
二発の銃声。しかし、これは二人が撃たれたことを意味しない。先の三発にプラス二発の合計五発の銃弾が空中で渦を巻き、押し寄せた十数本の刺股の柄をことごとく打ち砕いた。刑事たちの足も思わず止まる。だがこの状況、動きを止めることが意味するところは一つ。
死、あるのみ。
黄色いジャージの男の口元に笑みがこぼれた。
そのとき、急停止したために前のめりに倒れた刑事たちの、背中の向こう側から跳ね上がるように飛び出した地豪勇作が、猟銃を頭上高くに振りかぶる。
この程度の幼稚なトリックに引っかかるものか。キルデールは飛び回る五発の銃弾を、すべて小丸恵に向けた。おそらくマーニーは恵を守らんと飛び出すだろう。そこに僅かな時間差で八発目の銃弾を叩き込めば、いかなマーニーとてかわし切れまい。
黄色ジャージの表情に浮かぶ自信。だがそれは慢心であり、これこそが隙である。勇作の動きはトリックでも何でもない、ただ視線を向けさせるための型通りの陽動だということに、すなわちいま、真後ろから妖刀蝶断丸が迫っていることに気付かなかったのだ。
“りこりん”の一太刀はトカレフを持っていた敵の右腕を断つ。宙を飛んだ五発の銃弾は勢いを失い、マーニーに簡単に叩き落とされた。そして勇作が猟銃の台尻で、黄色ジャージの頭を殴りつける。
地に落ちた右腕は八発目の引き金を引いたものの、弾はマーニーにも勇作にも“りこりん”にも恵にも当たらず、反動で黒い自動拳銃は手から離れて転がった。末期の咆吼か。後は猟銃に詰めたスラグ弾でこのトカレフを砕けば、この悪夢のような物語も終わるのだ。勇作は一歩踏み出した。
「鮫村課長!」
聞こえた悲痛な叫びに勇作が視線をやれば、さっき会話した鮫村が足を押さえて倒れている。偶然? 流れ弾に当たった? ……いや、違う! 慌てて視線をトカレフに戻せば、刑事の一人がフラフラと近付き、拾おうとしていた。勇作は思わず猟銃を構える。
「そいつに触るな!」
だが、これに周囲の刑事たちが反射的に銃を抜いた。もちろん銃口を勇作に向けて。ここでもし勇作が撃てば、ただでさえ殺気立っている刑事たちは堪えられまい。銃撃戦になれば、マーニーたちがどうなるか。
「さすがに全部は避け切れんぞ」
恵を背後にかばい勇作の左隣に立ったマーニーが、キャップを目深にかぶり直す。
「もうちょっとだったんですけどねぇ」
右隣の“りこりん”もため息をつく。
トカレフを拾った刑事はマガジンを抜いてみせた。
「残弾はゼロだ。そのジャージの男が他にマガジンを持ってるかも知れない。本間、探してみろ」
これに「はい」と返事をしたのは、最初に刺股で突っ込んだ若い刑事。勇作の構えた銃口の前を横切る度胸はたいしたものだが、実情を考えればとても褒められたものではない。
「おいやめろ、おまえら騙されてんだよ」
しかし本間は勇作の言葉を無視し、黄色ジャージの死体のポケットをまさぐった。
「ありました! マガジン一つです」
「ようし、こっちに持ってこい」
本間が立ち上がり走ると、拳銃を構えた別の刑事が勇作に怒鳴った。
「もう逃げられんぞ! 諦めて銃を捨てろ!」
確かに、普通に考えれば万事休すの場面である。もはや勝敗は決した。そう、普通ならば、だ。
そこに響いた銃声は、勇作からではなく、刑事たちからでもトカレフからでもなかった。三発の音と共に投光器が三つ破壊され、残る光は一つだけ。悲鳴が響くパニックめいた薄闇の中を、勇作は背を向け走った。恵を肩に担いで、再び支部教会の中へと。
「待て、人質に当たる」
刑事たちの声を背中に聞きながら。
「父さん!」
修練室の入り口で父親に抱きついた恵はそれっきり何も言わない。小丸久志もただはらはら涙を流すのみで娘を抱き締めている。
そんな二人を横目で見ながら、勇作は釜鳴佐平に声をかけた。
「助かったぜ。爺さん、いい腕してんじゃねえか」
「いえいえ、マトが大きかっただけでね」
そう言いつつ空薬莢を三つコルト・パイソンのシリンダーから抜き取り、三八スペシャル弾を詰めている。別におかしな光景ではなかったが、勇作は首をかしげた。
「三五七マグナム使わないのか、パイソンなのに」
「馬鹿言っちゃいけませんや、こっちはジジイですぜ。マグナムなんぞ使ったら、肩が抜けちまう。どうせ援護射撃くらいしかできねえんだ、サンパチでも十分すぎるくらいでやすよ」
「言うねえ」
勇作はニヤリと笑う。釜鳴は言外にこう匂わせているのだ。「この弾なら簡単に当てられる」と。
「義を見てせざるは勇なきなり、ってね。古い人間でやすから」
釜鳴は弾丸を詰め終わったシリンダーを元に戻し、勇作に不敵な笑顔を返した。
修練室の一番奥の隅では“りこりん”がしゃがみこみ、両腕を抱き締めるように押さえている。マルチーズのボタンは心配そうに見上げていた。その隣に座る縞緒有希恵。
「傷口、開いたの」
“りこりん”はうなずく。
「出血はほとんどないんでぇ、大丈夫ですよぉ。荒事は慣れてますからぁ」
「仕事だものね」
「ええ、お仕事は大事ですからぁ。プロフェッショナルですしねぇ」
「……本当にそれだけ?」
縞緒はボタンの頭を撫でている。“りこりん”はクスッと笑った。
「お姉様こそ、お仕事はもう終わってるんじゃないんですかぁ」
「よく言われる。変わり者だって。だけど」
「だけど?」
のぞき込む“りこりん”に、縞緒もフッと笑い返した。
「憧れるじゃない、正義の味方って」
マーニーはキャップも脱がず、畳の上に倒れ込んでいる。まさにバタンキュー、体力を使い果たしたのだろう。キルデールに指摘されたとおり、持久力に問題があるのだ。
そのとき久志のスマホが鳴った。画面を見れば知らない番号。
「出てみるといい」
倒れたままのマーニーにそう言われて、困惑した表情の久志が五回目のコールで出てみると。
「……あなたと話したいそうです」
久志からスマホを差し出された勇作がそれを受け取り、耳に当てれば聞こえてくるのはやけに落ち着いた声。
「こちらは県警捜査一課の倉橋警部補だ。わかるな」
「ああ、わかるぜ」
キルデール、という名前はグッと飲み込んだ。電話の向こうの倉橋が笑った気がした。
「トカレフはこちらの手にある。あとはキミが降参すれば話は終わりだ。無駄な抵抗はやめて人質を解放したまえ。決して悪いようにはしない」
おそらくはこの会話を何人もの警察官が聞いているはずだ。テメエはキルデールだろう、刑事を乗っ取りやがって、などと口にしようものなら、その時点でこちらは精神異常者扱い決定だ。説得など無意味と判断されて突入部隊が編成される。知恵が回りやがる、勇作は舌打ちをしそうになった。
最初に出くわしたときのようにただ殺意が暴走しているままなら、ここまで苦労することもなく、もうとっくに叩き潰せていたものを。マーニーが余計なことをしやがるからだ、まったく。こちらの反応がないのを弱気と受け取ったのか、倉橋は押し込んできた。
「あまり長時間の立てこもりは、人質の体力が持たない。その場合、強攻策に打って出るしか選択肢がなくなる。我々もできればそれは避けたいのだ。子供だけでも解放してはくれないか」
子供というのは恵とマーニーのことだろうが、マーニーを殺すことしか考えてないヤツにわざわざご献上差し上げるほど俺も馬鹿じゃねえよ、と勇作は口に出しかけて堪えた。そもそもキルデールがマーニー以外の誰も殺さないのなら久志と恵くらいは外に出してもいいのだろうが、実際そうではない。こちらに置いた方がどう考えても安全だろう。
「考えたまえ、地豪勇作」
倉橋は言う。
「頭を使うのだ。思考は不可能を超越し、恐怖すら乗り越えるのだから」
「だったら俺の考えを教えてやる」
ようやく出て来た勇作からの提案めいた言葉に、相手は興味深げに「ほう」と声を上げた。だが勇作に提案などする気は最初から毛頭ない。あるはずがない。
「俺は時間を稼ぐことにする。何にせよ、何としてでも、とにかく何とかして時間を稼ぐ。最後まで『我慢』しきれたらテメエの勝ちだ。まあ、そんなに都合よく本性まで変えられるとは思ってねえけどな」
「……私は我慢比べには自信があるのだが」
「そうかい、だったらせいぜい我慢しな。頭がイカレて仲間を食ったりしねえよう気をつけるこった」
電話を切って久志に渡し、勇作は倒れ込んだままのマーニーにたずねた。
「で、どうする」
さしものマーニーも、思わず顔を上げた。
「いやいやいや。お主、何の策もなしに相手を怒らせたのか」
「他に言いようなんざ思いつかなかったから、しゃあねえだろ」
「まったく、存外面倒臭いタイプだな」
真っ赤なロサンゼルス・エンゼルスのキャップでパタパタ自分をあおぎながら、寝転んだマーニーは苦笑した。
「とは言え、この状況では確かに時間を稼ぐ以外に手はない。何とかキルデールが自らここへ来るよう仕向けられればいいのだが、警察はどう動くと思う」
勇作は即答する。
「人質の解放交渉をしながら体勢を整える。後は催涙弾をぶち込んで突入してくるんだろう」
「えらい大雑把だな。しかしまあ、そのときキルデールが一緒に入って来るという確証があるなら、まだ戦いようもある」
これに、修練室の戸を開けて玄関の方を見張っている縞緒が問うた。
「相手の勝利条件は、あなたを殺すことですよね」
マーニーが上半身を起こしうなずく。
「そうだな」
「こちらの勝利条件はあのトカレフを破壊すること。なら余程の間抜けでもない限り、敵はここへはやって来ません」
「ああ、確かにその通り」
マーニーの言葉を聞いて、釜鳴が「へっ」と鼻先で笑う。
「警官隊を突入させて地豪の旦那を射殺して人質を『解放』、マーニーちゃんをここから連れ出して、その後でゆっくり殺せばいいって寸法か。なるほど、こりゃ王手だ」
状況的にはまさに絶望的。なのに。久志は怯える恵を抱き締めながら、不思議に思っていた。この場に悲壮感も諦めムードもないのは何故だろうと。まだ何か起こるという確信があるのだろうか。
その心を読んだかのようにマーニーが言う。
「何かは起こるぞ。あのキルデールに我慢比べなどできるはずがない」
勇作は修練室の壁に掛かっている時計に目をやった。
「鑑識が来る」
負傷し意識を失った鮫村を救急車が収容している後方に、赤い回転灯を回したワンボックス車が停止する。鑑識課の到着だ。青い制服を着た鑑識課員が降車し、倒れた黄色ジャージの男の元へと向かった。すでに死亡は確認されている。後は鑑識がチョークで遺体の外枠に線を引き、一通りの現場写真を撮影した後、遺体を袋に詰め、搬送車で警察に運ぶ手はずだ。
倉橋警部補に報告するのは、捜査一課の若い本間刑事。
「警部補、鑑識課が到着しました」
「そうか」
「ですので、証拠品を引き渡します」
倉橋は横目で本間をにらむように見つめる。
「それで」
「は? はぁ、ですから証拠品の拳銃を引き渡しませんと」
すると倉橋は、白い手袋をはめた右手で黒いトカレフを持ち上げてみせた。
「これか」
「はい。……あの、警部補。どうかされたのですか」
「いや、別に。このトカレフは私から鑑識課に渡そう」
「いえ、それくらいは自分が」
「くどい!」
突然激昂した怒鳴り声は、現場を震撼させる。刑事やマスコミ関係者たちが何事かと見守る中、倉橋は殺意の籠もった視線で本間を射すくめると、鑑識官に向かって大声を上げた。
「鑑識! 証拠品を取りに来い!」
いささか不審げに首をかしげながら、ビニール袋を持って鑑識官の一人が近付いて来るのを見て、倉橋の口元がニイッと吊り上がる。
「証拠品を渡せばいいんだな」
「え? はい、まあそれは」
キョトンとしている鑑識官の目の前で、倉橋は悠々とトカレフのマガジンを交換し、スライドを引いて薬室に装填する。
「では受け取れ」
「ちょ、ちょっと警部補!」
慌てた鑑識官の額に穴が空いた。同時にタン、と乾いた銃声。本間が、他の刑事たちやマスコミ関係者が恐怖に目を見開く。
「異端者が!」
叫びながら倉橋は、流れるように三発の銃弾を放った。
「異端者が! 異端者が! 真なる神を奉ぜぬ異端者どもが! 滅びよ、滅びて土に還るがいい!」
放たれた一発プラス三発、合計四発の銃弾は、たった四人の犠牲者で満足するはずもない。額を撃ち抜き、こめかみを貫通し、背中から心臓を射貫きながら何度も何度も宙を舞い、次々に犠牲者を増やして行く。刑事たちには為す術もなく、パニックに陥ったマスコミや野次馬は悲鳴を上げて逃げ惑い、あちこちで将棋倒しを起こした。
「ハハハハハッ、ハハハハハハハハハッ!」
狂気をはらんだ哄笑が夜の闇に響き渡る。そのとき、倉橋の上半身がほんの少し仰け反った。直後に響く銃声。キルデールの意思に乗っ取られた警部補はニンマリと笑う。
「いい腕だ」
散場大黒奉賛会の支部教会玄関では、コルト・パイソンを構えた釜鳴佐平が目を丸くしていた。
「何てこったい、本当に弾ぁ避けやがった」
背後に立った地豪勇作が言う。
「最終的に一発当たりゃいい。援護頼むぜ」
「あんな化け物に当てる自信はねえが、まあ頑張りやすよ」
そう答える釜鳴の横を勇作が通り過ぎて行く。背には赤いキャップをかぶったマーニーをおぶり、右手にグロック、左手には猟銃を持って。玄関を抜けるとすぐ、一つだけ残った投光器の作る薄闇の中を、勇作はトカレフに向かって猛然と走り出した。
「これで最後にすんぞ、オラァアッ!」
「いっけぇええっ!」
背中のマーニーがヤケクソ気味に拳を突き出す。迎え撃つ倉橋の血走った目は見開かれ、宙を舞っていた四発の弾丸が唸りを上げて勇作へと飛んだ。しかしマーニーの見えない力がこれを火花と共にはじき飛ばす。一発が勇作の右脚をかすめたが気にしない。勇作の右手のグロックが火を噴いた。走りながら倉橋に向けて連続で五発。とは言え狙いを定めていない銃口である、真横に全力で走られては当たりようもない。ただ。
向かって左側に回り込もうとした倉橋は、勇作の背後から飛び出した“りこりん”の蝶断丸による一撃を、左側面で受けねばならなくなった。銃を持ち替える時間はないはず。まずは腕一本、成果を確信した“りこりん”に倉橋の左手が向けられる。握られているのはリボルバー、ニューナンブか。おそらくは元々倉橋の所持していた拳銃。
銃声より先に動き出した蝶断丸が、一発目は弾いた。距離は蝶断丸の間合いに入る。だが一度振り抜いた剣を引き金より速く元の位置に戻すのは至難の業、しかもここまでの近距離ともなれば、まず不可能。倉橋の指に力が入った。
その倉橋の左手が、稲妻の速度で蹴り上げられる。“りこりん”の足ではない。彼女の背後から伸びてきた、縞緒有希恵の足である。勇作の背後に“りこりん”を置いただけではなく、さらに背後に縞緒を配置した三段構えの策。しかも縞緒は素手。この思い切りたるや。
宙を飛ぶニューナンブが地面に落ちる前に“りこりん”の蝶断丸は突きを放ち、縞緒は両手を地について竜巻のように脚を回転させた。“りこりん”の狙いは倉橋の心臓、縞緒は右手のトカレフを叩き落とさんとする。飛んで来る銃弾ならかわせるはずの倉橋も、この至近距離からの変則的な二重攻撃には守勢に回った。
何とか二発を撃ち、大きく弧を描いてまず縞緒を狙おうとするが、“りこりん”の蝶断丸が立ちはだかる。一度刃にはじかれた弾丸は、体力の残り少ないマーニーに容易に叩き落とされた。
何とかこの二人から距離を取り、マーニーを直接狙わねばならない。倉橋の体を支配するキルデールの意識は焦った。だから足下が留守になる。大きく飛んで後退しようとしたとき、何かにつまづいてしまった。
いや、違う。つまづいたのではない。白いマルチーズが右足のかかとに噛み付いているのだ。まさかの四段構えの策だった。倉橋の体は仰向けに倒れて行く。振り下ろされる蝶断丸の先端と、縞緒のかかと落とし。
だが倉橋はそれをかわした。左足一本で地面を蹴り、ほぼ水平に飛んでトカレフを天に向けた。まだ残弾は二発ある。替えマガジンこそもうないが、戦える、勝てる、敗北などするはずがない! 空に向かって引き金を一度引いた倉橋の胸に、釜鳴のパイソンから放たれた三八口径弾が二発命中した。
キルデールは視認できただろうか、自分に猟銃を向けて構える勇作を。だが見えなくとも、曲線軌道を描いた一発の銃弾は直上からマーニーと勇作を狙う。これを防がんとマーニーが手のひらを天に突き上げたものの、もはやスタミナ切れ、僅かに軌道を歪められた銃弾が勇作の右腕を貫通した。
それでも勇作の構えは動じない。急速に感覚が失われて行く右手の指が、猟銃ミロク8000の引き金を引き絞る。
轟音と共に、倉橋の突き上げた右腕を肉片に変える散弾。その直前、空に向けて放たれた七・六二ミリトカレフ弾の最後の一発は、放物線を描いてどこか遠くへと飛び去って行った。
娘の恵には凄惨な現場を見せないよう抱き締めながら、小丸久志は修練室の窓から外を見つめている。残念だが、いま自分にできることは何もない。ほんの少しばかり疎外感を覚えたものの、それでも生きて恵の体温を感じられる幸せを噛みしめていた。
外は決着がついたようだ。イロイロ大変すぎる体験だったが、これで何とか恵と一緒に、無事に家に戻れるだろう。そう思っていた久志の顔が、ふと後ろを振り返る。誰かに呼ばれた気がしたのだ。もちろんここには自分たち以外、誰もいない。
あまりにもとんでもない話に触れすぎて、少し当てられたのかも知れない。まあ久志のような一般人には刺激の強すぎる事件だったし、仕方ない。
あれ、まただ。
「父さん、どうしたの」
怪訝な顔で振り返る久志を、恵は不思議そうに見つめている。
「いや、ちょっとね」
久志は恵を体から離し、部屋の隅へと歩いて行った。どうしても自分を呼ぶ声が聞こえる、気がする。そんなはずはないのだが。理性ではそう理解しているのに、呼びかけに逆らえない。声は黒いバックパックからしている。勇作の荷物だ。
いかにこんな特殊な状況下だからといって、他人の荷物を勝手に漁るような真似はしたくない。したくないのだが、伸びる手を止めることができなかった。早く、早く、急がなければ。気持ちは焦り、久志は中も確認せずバックパックに勢いよく右手を突っ込んだ。
痛っ。
人差し指の先に走る痛み。しかし久志は顔を歪めながらも、その硬く鋭い物を静かに優しく手で包む。そして引き抜いてみれば、それは。
倉橋の肉体は仰向けで倒れ、原型をほぼ失った右腕から飛ばされたトカレフTT-33が少し離れた場所に落ちている。
「……どうして……どうして……どうして」
うなされるように繰り返す倉橋を放置し、地豪勇作は上下二連の猟銃の、下の銃口をトカレフに近付けた。上に入っていたのは散弾だが、下にはイノシシやクマを撃つためのスラグ弾が込められている。極至近距離から撃てば、頑丈なトカレフもお陀仏だろう。まあ仏教徒じゃないヤツにお陀仏もおかしいのかも知れないが。そんなことを考えながら、勇作は感覚を失いかけている右手の指で、引き金に力を込めた。
轟音と硬い音が入り交じり、猟銃は反動ではね上がる。トカレフは真ん中がひしゃげたスクラップになった。フレームもバレルもひん曲がった以上、もう銃弾は撃てない。ランヤードリングに付いていた小さな子グマの人形は、散弾で撃たれたときに紐がちぎれたのか、離れた場所で転がり空を仰いでいた。
「終わりやしたねえ」
釜鳴佐平の言葉に縞緒有希恵はため息で応え、白いマルチーズのボタンを抱いた“りこりん”はしゃがみ込む。
「あーあ、壊れちゃいましたぁ。でも無傷で回収しろとは依頼されてませんしぃ」
蝶断丸の先端で突いてみたが反応はない。もう完全に死んだ鉄の塊だ。
勇作はしばらく猟銃の引き金から震える指が離せなかったものの、やがて大きな息を吐き、静かに左手に持ち替えた。振り返ればマーニーが笑顔で見つめている。ニッと笑った勇作の口からこぼれるこの言葉。
「どうして」
勇作の目が見開かれ、口からは驚愕のうめき声が漏れ出す。釜鳴が、縞緒が、“りこりん”が異変に気付き、ボタンは歯を剥き出して唸った。マーニーは一人笑顔で見つめている。
「まったく命冥加なヤツよな。まだ諦めきれないのか」
頭を抱え目の焦点が合わない勇作の口は、混乱した言葉を吐き出した。
「どうして、どうして、どうしてこのワレが死ななければ、おいテメエ何で俺の中に入って、ワレが敗れるはずなど、どっから入って来やがった! さっさと、死にたくない、死にたくない、出て行けこの野郎!」
傷口から流れ出す血にまみれた勇作の右手が、尻のポケットからグロックを抜き出し、マーニーに銃口を向ける。しかし左手が咄嗟にハンマー部分に指を突っ込み押さえ込んだ。グロックを左右の手で上下させながら勇作は吼える。
「ふざけんじゃねえぞ、コイツ。かくなる上は、かくなる上は、かくなる上はじゃねえ! 一人では逝かぬ、道連れだマーニー! うるせえ黙れ! 異端者に死を! テメエが死んだんだよ!」
だがやはり腕の傷の有無が勝敗を分けたのだろうか、勇作の左手が右手をねじり上げるように引き戻し、グロックの銃口を自分に向けた。そして口元へと近付けて行く。
「待て、やめろ、何をする。何をするじゃねえよ、テメエは一人じゃ死にたくねえんだろうが。貴様正気か、馬鹿なことをするな。心配するな、俺は正気だよ。正気だから、俺の居場所なんざこの世界にないことがわかるんだ。だからやめろ、やめてくれ、一緒に死んでやる。ワレは、ワレが!」
さくり。そんな感じ。勇作の左腕に、小丸久志が持った果物ナイフが突き刺さった音は。勇作が自宅から持ってきた、柄の真っ黒に焦げた果物ナイフ。死んだ母親の唯一の思い出の品。それが突き刺さった途端、勇作の全身から力が抜け、ガックリと膝から崩れ落ちた。
「何だ、この光は、熱は」
この言葉は勇作のものか、それともキルデールのものだったか。
マーニーが真っ赤なロサンゼルス・エンゼルスのキャップを手に持ちながら、一歩近付いた。
「それが人の意思の力というものだよ」
「意思の……力?」
不思議そうな顔を上げる勇作に、しゃがみ込んだマーニーは言う。
「まだわからないのか、キルデール。これこそが神のご意向。そなたは人の世界に与えられた試練そのもの、そなたの存在こそが奇跡なのだ。人の手で倒され、乗り越えられて初めて価値を持つ厄災。その役目をそなたは見事に成し遂げた」
「ワレ、が、成し遂げた……?」
両膝をつく勇作の頭に、マーニーは赤いキャップを乗せる。
「いまそなたには『彼女』の姿が見えていよう。その者と共に、胸を張って天界に戻るがいい」
「天に、戻る」
勇作の顔は空を振り仰いだ。ずっとずっと遠くを見つめるような目で。
「戻れるのか、このワレが」
「念じろ、そして信じろ。そなたが生まれ、生きて来た奇跡と意味を」
勇作は静かに目を閉じ沈黙した。静寂。そして輝き。東の空が白み始めた。夜が明けるのだ。
「さて、行ったようだな」
空を見上げるマーニーの言葉に、勇作は目を開けて「らしいな」と答える。
「お主も一緒に行きたかったか」
しゃがんで見上げたままのマーニーを、勇作は横目でチラリと見やった。そして腕に果物ナイフが刺さったままの左手で赤いキャップを自分の頭から取り、マーニーの頭に静かに乗せる。
「思い出したよ」
「何を」
「匂いを」
「匂い?」
「髪や服の燃えたニオイだけじゃない、もっと優しかった匂いをな」
「なるほど」
キャップを目深にかぶったマーニーが周囲を見回せば、生き残った刑事やマスコミ関係者たちは、憔悴し困惑しきった顔で遠巻きに眺めている。
勇作はたずねた。
「おまえ、俺のことを最初から知ってたのか」
立ち上がったマーニーはフンと鼻を鳴らす。
「おまえ言うな。知ってはいたさ、地上に来る前にイロイロと頼まれたからな、天界で」
「……そうか」
「誰に頼まれたのか、聞かなくてもいいのか」
勇作は震える血まみれの右手で、左腕に刺さった果物ナイフを何とか抜いた。
「それくらいはわかる」
「それを知ってもまだ死にたいか」
「俺はどうせ死刑だぞ、普通に考えて。何だかんだで五人殺してる凶悪犯だからな」
「なら、普通に考えられなくしてやろう」
そう言うとマーニーは右手のひらを、高く天に向ける。
「え、おいちょっと待て!」
勇作が立ち上がるより早く、マーニーの手の中で光が弾けた。
負傷した鮫村を病院に見舞った小丸久志は大変に感謝され、かえって恐縮してしまった。散場大黒奉賛会の銃と麻薬の密輸・密売の証拠を探し出してくれたと鮫村は言うが、実際に活躍したのは縞緒有希恵と釜鳴佐平、そして“りこりん”こと花房璃々子の三人である。自分はただの連絡係に過ぎない、と久志は思っていた。
支部教会に立てこもった散場大黒奉賛会との激しい銃撃戦は、県警側に大勢の殉職者を出し、現場に駆けつけたマスコミ関係者にも多大な被害が出た。まるで戦場さながらだったという。これに久志が申し訳なさを感じる必要はないのだが、現場指揮者としての責任を取らされて鮫村が降任処分となっていることもある。人間そうそう理屈通りには考えられないものだ。
久志は直接関与していないものの、ムスリムの大量殺人事件や、その後に起きた連続発砲事件にも鮫村は携わっていた。これらの事件は後任者が解決に当たるそうだが、散場大黒奉賛会との関係を疑う声が世間では日増しに高まっているらしい。いずれ真相が明らかになるときが来るのだろうかと久志は思う。
縞緒と釜鳴、“りこりん”の三人は行方も告げずに久志の前から姿を消した。もう二度と会うこともないのかも知れない。できればもう一度会ってお礼が言いたかったな、連絡先くらい交換してもよかったのではないかと久志は思ったのだが、「卒業式の中学生じゃあるまいし」と笑われただろうか。
さあて、休暇は今日までだ。久志は気分を切り替えた。最後の一日、恵と大切に過ごそう。そう言えば恵は最近、夢の中で会った少女のことを話さなくなった。もうすぐ十一歳になるのだ、精神的な成長の証あかしなのだろう、きっと。よし、何かプレゼントを買って帰るかな。何がいいだろう。無難にケーキにするか。それとも、うーん、安月給ではなかなかいい選択肢がない。そうだ、プレゼントと言うのもおかしいけど、幸から連絡があったことは話しておこう。恵さえ良ければ会って食事をするくらいはできるかも知れない。いまさら過去は取り戻せないけど、人間は未来に進む訳じゃない。人間の進む先が未来になるのだから。
そんな思いを顔に浮かべながら、久志は繁華街を歩いていた。その後ろ姿を見ている人影が二つあることに気付きもしないで。
「ホントにいいのかね、これで」
大きなバックパックを担いだ勇作が、チューリップハットを目深にかぶり直す。
「細かいヤツよな。そんな心配など要らんと言うに」
お揃いのチューリップハットをかぶった、半袖のパーカーにハーフパンツ姿のマーニーが苦笑した。
「あやつらの記憶は、ちょうど都合のいいようにパーツが組み合わさって、理性と常識で判断しやすい『事実』が出来上がっておるのだ。余程のことがなければ、それに疑問を持つ者などおらんよ」
「そういう話じゃねえだろう。何つーかよ、その、道義的に」
しかしマーニーは鼻先で笑う。
「ハッ、道義をどうこう言えるような生き方などしておるまい」
「いや、俺はそうだが」
困惑している勇作を尻目に、マーニーはスタスタ歩き出した。小丸久志とは反対方向へと。
「人間は自分に火の粉が直接降りかからない限り、実際の事件もおとぎ話も感覚的に大差ない。そういう者が世界の大半を占めているのだ。ならば陰惨な事実より綺麗なおとぎ話を見せてやるのも悪いことではあるまいて」
「そんなに綺麗じゃねえ気もするが。て言うか、こんなことができるんなら」
勇作が大股で後を追いかけるが、マーニーは止まらない。
「最初からやれというのか。こんな手品、キルデールには通じんぞ。アレの殺戮を手助けするようなものだ。そんな趣味はない」
「実際のところ、どうなんだ」
隣に追いついた勇作を、マーニーは見上げる。
「何が」
「あの最後にキルデールに言ったこと、本当なのか。神の意向とか何とか」
あんなことをしたヤツを神が許すのなら納得が行かない、とその顔は告げていた。マーニーは苦笑するしかない。
「この国には素晴らしい言葉があるだろう。『嘘も方便』とな。キルデールが本当に天界に戻ったのかどうかは私にもわからん。だがこの地上を離れてもいいという気持ちにアレがなったのなら、それで十分ではないか」
この返答に勇作は呆れ顔だ。
「まさか教祖やってたときも、こんな感じだったのかよ」
「さあ、どうだったかな」
マーニーが微笑んだとき。不意に歩みが遅くなった。前方からやって来る女には見覚えがある。縞緒有希恵だ。マーニーも勇作も何も言わない。いま、向こうはこちらを知らないはずなのだ、それが当然である。しかし無言ですれ違うかに思えたその瞬間、縞緒が小さな笑みを浮かべてささやいた。
「またいずれ」
歩き去って行く後ろ姿を、愕然とした顔で見送るマーニーと勇作。
「ただ者ではないと思っていたが、あの女」
「なるほど、効かねえヤツはいるんだな」
やがてマーニーは小さくため息をつき、「まあいい」とつぶやいた。
「いずれやって来る日のことは、いずれ考えるさ。今日はとにかく今日のことを考えよう」
勇作もうなずく。
「そうだな、まず昼飯か」
「なあ勇作」
マーニーはチューリップハット越しに見上げている。
「まだ外国人は嫌いか」
勇作は、ほんの一瞬躊躇した。
「……頑張って好きになるのも何か違うだろ」
「まったく、どこまでも馬鹿正直なヤツよな」
今度はマーニーが呆れたように笑い、勇作も微笑み返す。
「とにかく今日は醤油ラーメンにしようぜ」
「メロンを置いてる店ならいいぞ。昼食と言ったらメロンに決まってるからな」
マーニーはまた早足で進む。勇作は負けじとそれを追いかける。
「決まってる訳あるか。だいたい、そんな金ばっかり使ってられねえだろ」
「だったらお主は仕事を早く見つけろ」
「世の中そんな簡単じゃねえんだよ。不景気ってものを理解しろ、おまえは」
「おまえ言うなーっ!」
ジリジリと空気が焼けるように暑い夏の日、デコボココンビの進む先には、真っ青な空。白くて大きな入道雲が立ち上っていた。

コメント
コメントを書く