要求
本質
要求とお願いに本質的な違いがあるのかどうか、鮫村は知らない。ただ、警察にあまり期待をしていないのだろうことは感じられた。
「お願いか。どんな」
「もし仮にトカレフを持ったヤツを捕まえるチャンスがあったとしても、トカレフそのものにだけは絶対に触らせないで欲しい。そんなことになったら」
「なったら、どうなる」
「あなたが部下を撃ち殺すか、あなたが部下に撃ち殺されるか、どっちかですよ」
そう言い切ると勇作は踵を返し、教会の中へ戻って行った。
「はいはいはい! 急ぐ急ぐ! さっさと出て行ってくれねえと厄介事に巻き込まれんぞ! 走れ走れ!」
勇作がグロックを振り回しながら信者たちを追い出している。いかに拳銃や麻薬を密売している連中とは言え、自分に銃口が向けられれば平然としていられないのは当たり前だ。みんな取るものも取りあえず支部教会の建物から走り出て行った。
“りこりん”が廊下の突き当たりの部屋から顔を出す。
「こっち側には誰もいませぇん」
曲がり角からはマーニーが。
「こっちにも残っておらんぞ」
玄関方向から響くのは、勇作の怒鳴り声。
「オラァッ! 戻って来んじゃねえ! 許すも許さねえもあるか! さっさと警察に保護してもらうんだよ!」
“りこりん”は呆れた顔でマーニーに歩み寄った。
「いいのかしらぁ、アレ」
「ガラの良し悪しをとやかく言っていられる場合ではないからな。早い段階で信者連中を追い出さんと、作戦もへったくれもなくなってしまう」
とは言え、確かに勇作はちょっと調子に乗り過ぎているような気もしないではない。存外、根はお調子者なのだろう。
そこに突然ピーピーと、天井から鳴り響く警報音。火災報知器のような激しさはなく、自動車の防犯アラームほどうるさくもない。何と言うか「ほどほど」の警報音だ。
「お、始まったな」
楽しげなマーニーの横顔を見つめながら、“りこりん”はため息をついている。
「似た者コンビですねぇ」
「何か言ったか」
「別にぃ。ただ間抜けな警報音だなぁって思っただけですよぉ」
その間抜けな音の出所はわかっている。事務室だ。
間抜けな警報音の響き渡る事務室では書棚のガラス扉が開かれ、久志と縞緒と釜鳴によって三冊の「散場創始録」の中身が確かめられている。だが本の中に帳簿類が隠されていたりはしなかった。
「何も、ない?」
久志のつぶやきに、さしもの縞緒も困惑した顔を見せる。
「何もないはずは」
急いでページをめくっていた手が、ふと止まった。おかしい、この違和感の正体は何だ。ページの隅々まで目を皿のようにして見回し、縞緒はようやく気付いた。手にした散場創始禄の下巻を一旦閉じ、最初のページの右下端に書かれた数字を確認する。4001。普通ならば1だが、そうではなく4001。これはもしかしたら、全三巻でページ数が通しになっているのではないか。
縞緒は久志のめくっていた中巻を奪うように取り上げると、最初のページを確認する。2001。ならば当然、最後のページは4000となるはずだ。見ればやはり。一巻当たりキッチリ二千ページで、三巻で六千ページまである訳だ。もちろん、これがわかったところで何が判明するでもないが、推理のとっかかりにはなる。と、そのとき。
「ん? 何だコイツは」
散場創始録の上巻を見ていた釜鳴が声を上げた。久志と縞緒が注目すると、老人は開いたページを二人に見せ指を差す。
「これを見ておくんなさい」
本の綴じられている部位、いわゆる「のど」の近くに、手書きの数字があった。6。ページ数は157。
「最初のページは?」
縞緒の問いに釜鳴は上巻を開き直す。
「1ページ目は381でやすね」
「30ページ目は」
「えー、75」
「最後の2000ページ目は」
「えっと、9、ですな。ただ、何でしょうなこれ。二つ目の0が縦線で消してある」
縞緒は散場創始録の中巻を物凄い勢いでめくり始めた。手書きの数字は3421ページまで見つかり、のどの数字は3、消えている数字は4。それ以降のページに手書きの数字は書かれていない。
「この数字に何か意味があるってことですか」
ようやく事態を悟った久志が、縞緒の顔をのぞき込む。釜鳴も鋭い目で見つめている。
「……四桁」
縞緒の絞り出すような言葉に、久志と釜鳴は顔を見合わせた。
「手書きの数字とページ数を並べると、常に四桁の数字になります。ページ数が四桁の場合には、縦線で消された数字以外の四桁に意味があるのでしょう。四桁の数字と言えば、銀行のパスワードかパソコンのPINコード。他には」
考えをまとめながらつぶやく縞緒の言葉を聞いて、久志は事務机の下に設置してあるPCの起動ボタンを押して回った。
「試してみましょう! 3321で通るかやってみます」
通る可能性はある。いや、もし自分がこの数字を書いた人物なら、通るように設定するだろう。そして何の情報も得られないPCを漁らせるのだ。銀行のパスワードも同様かも知れない。そう考えながら縞緒は首をひねった。
何故だ。何故こんなにも沢山、四桁の数字を用意しなくてはならないのか。見せかけのセキュリティのために頻繁にパスワードを変えている、といったところが妥当な解答なのだろうが、果たしてそれだけか。何を見落としている。何か大事なことを忘れている気がする。
「やった! 通った、通りましたよ縞緒さん!」
大喜びの久志が目をやったとき、しかしそこに縞緒の姿はなかった。
い。怖れもまた闇だからだ。この世のすべての人間には責任がある。宇宙の運命に対する責任がな。光を意識し、光に向かってひたすら進む。そういう生き方を選び、宇宙に光の力を満たすことこそが責任を果たす唯一の道だ。自分の内なる光を信じよ」
「私にも光はあるのかな」
「あるとも。すべての人間に闇があるのと同じく、すべての人間に光はある。内なる光を持たない者など誰一人いない。誰かを照らし、暖め、幸福にする光の力をみんなが持っている。お主にだって光の力は宿っているのだ。その光で世界を照らせ」
そう言って微笑んだあの子の輝くような笑顔を思い浮かべると、恵の不安が少し紛れる。
「寝よっか。またあの子に会えるかも知れないし」
恵は立ち上がり、窓を閉めようと手を伸ばした。その細い手首をつかむのは、闇から突然現われた男の大きな手。
「あの子供に会わせてやろう」
窓の外で黄色いジャージの男は笑う。三階建ての一軒家の三階の窓。どうやってここまで、と思う間もなく恵は意識を失った。男の目が妖しく輝いている。
午前二時を過ぎたというのにバリバリと大きな音を立てて、報道のヘリが上空を飛んでいる。地上ではテレビ局のスタッフが放送のリハーサルをしていた。銃社会ではない日本で拳銃立てこもり事件はかなりのニュースバリューがあるが、それでもいまどき報道特番を組むほどの値打ちはないようだ。定時のニュース番組で中継が入るのだろう。
「ご覧のように住宅街から離れた小さな宗教施設の前に、警官隊が集まっています。犯人の身元や動機、要求などは現時点では不明とのことで、交渉担当者が説得を続けている模様です」
記者がカンペを読む声が聞こえる。身元や動機は不明ではないのだが、いまの段階でそれを公表する意味はない。それよりも、と鮫村課長はスマホを眺めた。
先程パトカーから逃げようとした二台の黒いワンボックスに乗っていた男たちの供述によれば、地豪勇作は連中と同じグループの移民排斥運動家だったらしい。銃の入手先は知らないと話しているとのことだが、叩けばいくらかの埃は出るだろう。
不幸中の幸いと言っていいのか、とにかく人質の中に小丸久志がいてくれたおかげで、情報は随時入ってくる。散場大黒奉賛会の銃と麻薬に関すると思われる帳簿が畳の下の金庫から見つかったことも伝わっていた。
何より地豪勇作の、情報の発信に積極的な姿勢が警察としてはありがたい。もちろん、受け取った情報をすべてマスコミに流す訳ではない。おそらく世間は、ここ数日続いた拳銃発砲事件の犯人がここにいるという前提で、このニュースを見るはずだ。他にもう一人トカレフを持って逃走している犯人がいるなどと知れたら、パニックが起こる可能性だってある。故にマスコミへの発表は慎重にしなくてはならない。
小丸久志の説明によれば、そもそも情報発信に積極的なのはトカレフの持ち主を招き寄せるための作戦の内であり、その作戦を立てたのは地豪勇作ではないらしい。ただし、では作戦を立てたのは誰なのかという問いには言葉を濁している。いまあの施設の中では特殊な人間関係が出来上がっているのだろう。
拳銃を使っての立てこもりは言わずと知れた強行犯であるから、現場を仕切るのは捜査一課である。しかし一課とて鮫村の報告に目を通していないはずもない。今回の立てこもり犯がトカレフを所持していない可能性が高い以上、こちらに総力を振り向ける訳には行かないのだ。
内部にいる小丸久志と連絡を取って地豪勇作と交渉する担当者も必要であるし、薬物銃器対策課はこれまでの経緯も事情も把握し理解している。共同戦線を張るのにこれ以上の相手はいないという判断から、鮫村は捜査一課長よりオブザーバーとしての現場指揮参加を求められた。
降任処分が下されるにせよ、早くても朝になる。それまでは課長である訳だし、成り行き上承諾しないという選択肢はなかったのだが、帰宅したら胃薬を飲まねばならんのだろうな、という程度の覚悟が必要だったのも間違いない。
とは言え、まだ迷いはある。トカレフのことだ。詳しい話はできなかったものの、トカレフが伝染病のように人から人へと渡って行く可能性を肯定するかの如き発言が、あのとき地豪勇作からあった。これは報告書には書いていない。二者択一で考えるなら書くべきだったのだろう。だが書いていたら、鮫村は判断力に問題ありと見られて、この件から外されたかも知れない。地豪勇作の言った通り、警察は幽霊退治ができるような組織ではないのだから。
そんなことをつらつら考えていた鮫村のスマホに、小丸久志からショートメッセージが入った。
――トカレフがこちらに向かっています
金庫の中には帳簿とDVD-RWが入っていた。帳簿の各ページには一番上に四桁の数字、あとは金額のみ。おそらく取引品目や取引相手についてはDVD-RWに暗号化でもして書き込んであるのだろう。なるほど、これならネットに流出することはない。しかし、この支部教会で事務を担当していた信者も警察が身柄を確保している。縞緒有希恵の仕事としてはDVD-RWだけ回収すれば、それ以外は警察に渡しても問題ないはずだ。後はお役所同士で情報交換をしてもらえばいい。
縞緒が帳簿のチェックを続けていると、小丸久志のスマホがチャイムを鳴らした。ショートメッセージが届いたのだ。
「どこからどう来る、何故わかる、と返信が来ました。どうします」
久志の言葉にマーニーは面倒臭そうな顔を浮かべた。
「天啓だとでも送っておけ」
「おい」
困り顔の勇作に、真っ赤なロサンゼルス・エンゼルスのキャップを指でクルクル回すマーニーは、ニッと歯を見せた。
「お主が困ってどうする。実際、答えようがなかろう。小娘の予言だとでも言うか?」
「そりゃまあそうだが」
「それに、こと探知能力にかけては、こちらはアレの足下にも及ばない。常に受け身で迎え撃つしかできんのだ、困ったことに。どこからどう来るかなど、こっちが聞きたい」
すると縞緒が、帳簿から顔を上げこう言った。
「現時点では回答不能。それでいいのでは」
「そうですね、そう送っておきます。後で詰められるんだろうなあ」
久志はやれやれといった風に頭を掻き、釜鳴がニヤリと笑う。
「後なんてもんが、ありゃあいいですがね」
「怖いこと言わないでください」
久志の生真面目なツッコミに他の皆は微笑んだのだが、勇作はふとマーニーに目をやった。
「そう言や、おまえが怖がってるところ見たことないな」
「おまえ言うな。お主だってそう変わるまい。と言うか、いまここに集まっている連中はみんなそんなものではないか。一人を除いて」
「いや、他の連中はどう見ても海千山千だしよ」
そんな勇作の言葉に抗議の意志を示す挙手が。
「すみませぇん、“りこりん”入れないでくださいますかぁ」
帳簿のチェックをしながら縞緒も小さく手を挙げる。
「すみません、私も以下同文」
これに釜鳴が首を振った。
「ああ怖いねえ、女は怖い」
勇作と久志は眉を寄せてジト目で見つめるしかなかった。
「まあ何はともあれ、人はそれぞれだ。怖がらないくらい、どうということもない」
と、マーニーは言うが、勇作は納得しかねる。
「ガキがそれを言うかね。ガキってのは大人に守られるもんだろう。素直に怖がってりゃいいと思うんだが」
「これでも、かなり素直なつもりなのだけれどな」
「だから余計に気に入らねえんだよ」
そんな二人の様子を笑顔で見つめながら、久志はつぶやいた。
「でも、あの伝説の教祖マーニーの記憶が、もしすべて残っているのなら、怖れるものなんてないのも理解できなくはないですけどね」
確かに普通の人間一人分以上の濃密な人生経験がそのまま頭に残っていれば、そうそう怖いものなどないかも知れない。だがマーニーはキョトンとした顔でこう返す。
「すべては残っていないぞ。残っているはずもない。キルデールの顔だってもう忘れているくらいだしな。人間の記憶なんぞ、そんなものだよ。だが、それが人間の強みでもある。忘却なくして進歩なし、だ」
「それはそうなんでしょうけど、でも」
久志はふっと遠い目をした。
「忘れちゃうのは、ちょっと寂しいかも知れないですね」
人間の記憶とは厄介な物で、覚えていることがすべて忘れたくない事実ではないし、忘れ去ってしまったことがすべて嫌な記憶でもないのだ。忘れたいのに残り続ける、あるいは忘れたくないのに薄れてしまう記憶もある。
だが。
「寂しさに囚われるな」
はっと顔を上げた久志に、マーニーは諭すように話した。
「過去に縛られてはいけない。人は未来に進むのではない、人が進む方向が未来になるのだ。過去にばかり顔を向けていたら、未来に進む意味がなくなる。感傷で自分の未来を閉ざすのは、もったいないぞ」
その笑顔に、この世のものならざる輝きが見えたのは気のせいか。久志は全身から何か重く硬い物が、外れて落ちたように感じた。
だが次の瞬間、マーニーの顔に緊張が走る。
「来たぞ」
勇作がグロック17を尻のポケットにしまい、猟銃のミロク8000を手に立ち上がった。釜鳴はコルト・パイソンを取り出し、“りこりん”の手にはいつの間にか蝶断丸、足下でマルチーズのボタンがワウと吼える。マーニーはキャップをかぶり、準備は万端整った。後は待ち構えるだけである。
「待て!」
しかしマーニーの発した鋭い声に、一同は驚きの視線を向ける。
「どうした」
勇作の問いに、マーニーはすぐ答えられない。赤いキャップはうつむいたまま。それは異常事態のサイン。勇作の背に冷たいモノが走った。
「おい、マーニー」
「これは……厄介だぞ」
マーニーはしばし勇作を見つめ、そして無言で久志に顔を向けた。久志がその意味を察するまでに要した時間は数秒。
警官隊は動揺していた。言わんやマスコミも野次馬も。投光器の光が煌々と照らす中を、パジャマ姿で裸足の十歳くらいの女の子が、泣きじゃくりながら散場大黒奉賛会の支部教会へと歩いて行く。警官は止めない。止められない。何故なら女の子のすぐ背後を黄色いジャージの男が歩き、後頭部に銃口を突きつけているからだ。黒いトカレフTT-33の銃口を。
こんな展開は鮫村も想定していなかった。あまりにも常軌を逸している。しかしこのトカレフが、ムスリムを虐殺し、連続発砲事件を起こしたあの拳銃であることは疑いようもない。伝染病のように人から人へと渡って行く、まるで意思を持っているかの如き不幸の拳銃だ。
ただもし仮に、本当にこのトカレフに意思の主体があって肉体は従属しているだけなのだとしたら、何のために人質が必要なのか。衆目に晒されることが平気な理由はわからないでもない。肉体など使い捨てれば良いのだから。だが同じ理由で、警官隊に狙撃されてもたいした問題はないはず。人質の存在意義が不明に過ぎる。鮫村はまるで死ぬことを怖れているかのようだと感じた。
「マーニー!」
警官隊に右側面を向けた黄色ジャージの男は、大声で叫ぶ。
「気付いているのだろう。聞こえているのだろう。さあ出て来るがいい」
そのとき支部教会の玄関に現われた人影。
「恵ぃいいっ!」
半泣きでわめくのは小丸久志だ。飛び出そうとする彼を何人かが懸命に引き留めているらしい。「小丸さん、落ち着きなせえ!」と声が聞こえる。
だが久志はそれを振り切らんばかりに前進した。
「恵! 恵! 無事なのか!」
「父さん!」
恵と呼ばれた娘は顔をくしゃくしゃにして悲鳴を上げる。
「父さん、助けて! 助けて!」
だが体の自由が利かないかのように、小丸恵は立ち尽くしたまま。それを見た久志がさらに目を釣り上げる。
「何をした! 娘に何をした! この野郎許さんぞ!」
怒り狂い絶叫する久志の顔に、ポン、と小さな手が触れられた。すると久志は全身の力が抜けたかのようにへたり込む。その横を通って十二、三歳だろうか、赤いキャップをかぶった、半袖のパーカーにハーフパンツ姿の少女が表に出て来た。地豪勇作を従者の如く引き連れて。
勇作の右手にはグロック、肩には猟銃を背負い、たすき掛けのガンベルトには猟銃弾らしき物が見えた。戦争をするつもりなのだ、とは鮫村の印象だが、いったい誰と。おそらく警官隊とではあるまい。
マスコミと野次馬はどよめき、警官隊にも緊張が走る。しかし勇作はそちらを見ていない。凄まじい殺気を放ちながら黄色いジャージの男だけをにらみつけている。一方、黄色ジャージの視線は赤いキャップの少女から動かない。この少女が、さっき名前の出たマーニーなのだろうか。
投光器の光に包まれ鮫村たちの視線を集める中、赤いロサンゼルス・エンゼルスのキャップをかぶった少女は黄色ジャージから十メートルほど距離を取り、立ち止まって口を開いた。
「よく来たなキルデール。他人のことは言えないが、人質とは汚いやり方だ。ザラスシュトラが泣いているぞ」
「黙れ異端者。その穢けがれた口でザラスシュトラの名を呼ぶ冒涜は許されない。そもそも私はいまザラスシュトラ教徒ではない」
少女は鼻先で嗤う。
「鉄砲だものな。鉄の塊に信仰されてもアフラ・マズダが困るに違いない。と言うか、小丸久志に聞いたのだが、そなたザラスシュトラ教徒にも嫌われているらしいではないか。公式の記録がほとんど残っていないそうだぞ」
「知ったことか。我が神は我が内にあり。他人の思惑などどうでもいい」
「なら私のことも、どうでもよくはならんものか」
「ならぬ。害虫は駆除せねば民が飢える。異端者の存在を許せば、正義に迷いを持つ人々が苦しむ。貴様は流行病はやりやまいの病原菌にも等しい」
「病原菌そのものみたいなヤツがよく言う」
苦笑を見せると、赤いキャップの少女は小丸恵に視線を向けて微笑んだ。
「すまんな、恵。ちょっと待っていろ、すぐコイツをぶっ飛ばしてやるから」
目を丸くして見つめていた小丸恵は、ややぎこちなくはあったが、それでも少し安心した顔を見せる。
「はい」
「ふん、逃げ回るしか能のないマーニー教徒が、いつから暴力を容認するようになった」
自分の事を棚に上げた黄色ジャージの見下すような言葉に、しかしマーニーと呼ばれるらしい少女は明るい笑顔で答えた。
「もちろん暴力は絶対禁止だ。ただし、助けを求める無辜なる者へ手を差し伸べることを、我らは暴力とは呼ばないのだ。そなたの神がどうかは知らんが」
「利いた風な口を叩くな、真なる神を知らぬ異端者が」
「とは言うがな、そなたの理屈通りなら、いまのこの世界は異端者だらけだぞ。何十億もの異端者が暮らしている。この大地の上で信仰を持つ者のほとんどが異端者なのだ。そなたの言う真なる神の教えは、何故こうも力が弱いのか」
「滅ぼされた貴様が言うことか。ザラスシュトラの教えはまだいまも生きている」
「その生きている教えを滅ぼしかねない悪しき病巣こそが、そなたの存在なのだがな」
「黙れ、悪魔アーリマンの使いめ!」
トカレフの銃口がマーニーに向くと同時に、勇作は向かって左側に走り出す。もちろん、こんなあからさまな陽動に引っかかるはずはない。黄色ジャージは視線すら動かさず、マーニーに弾丸を二発撃ち込んだ。だがそこに目に見えない壁でもあるのか、火花を上げて弾かれ地面をえぐる。
すると黄色ジャージは、まるで見当違いの方向に銃を向け、三発連続で撃った。その意味するところは不明だったが、鮫村課長は大声を上げる。
「何をしている! トカレフの男を取り押さえろ!」
これに捜査一課の現場を仕切る、倉橋警部補が異議を唱えた。
「人質がいるんですよ」
「人質はまだ大丈夫だ。いまのうちに刺股で押さえ込め。私が責任を取る」
「でも坊主頭は」
「後でいい! トカレフをここで逃がしたら取り返しが付かないことになる、ヤツが最重要対象なんだ。急げ!」
事態が急転しているのは一課の連中にもわかっているはずだ。一課長に連絡して判断を仰ぐような余裕ある状況ではない。しかもマスコミがこれだけ注目している中で、内輪揉めはしたくないだろう。鮫村の怒鳴り声は勝算ありの計算であった。
「刺股持ってこい!」
不承不承という顔だったが、倉橋の声で一課が動いた。あとはどれだけ被害を出さずに取り押さえられるか。人質の小丸恵が大丈夫だと思ったのは、トカレフの弾がマーニーに当たらなかったことに起因する根拠のない直感である。しかしいま目の前にいるのは、普通に理性的に常識的に考えれば存在するはずのない怪物なのだ。迷えばこちらの命が危ないどころか、どんな大規模な惨劇が起きても不思議はない。鮫村はさらに怒鳴った。
「マスコミは下がれ! 流れ弾を食らうぞ!」
先程トカレフから放たれた三発の弾丸は、当然の如くまだ死んでいないはずだ。投光器の光から外れた暗い空を舞い、次の機会をうかがっているに違いない。
キルデールは銃口をマーニーに向けながらも、不用意に六発目を撃たなかった。いかに化け物じみたトカレフであれ、弾数は無限ではない。普通に考えてマガジンにはあと三発。他に八発入りの替えマガジンが最低一つはあるだろうか。全弾撃ち尽くさせ、それをすべて叩き落とすまで安心はできない。マーニーは突き出した両手に意識を集中した。体力が持つかどうかが心配だ。
そのマーニーと黄色ジャージ、そして小丸恵の周囲を、防弾ベストを身に着け刺股を手にした刑事たちがグルリと囲んでいる。隙あらば取り押さえてくれようと。だが、肝心の隙が見つからない。トカレフは構えているが、力を込めず自然体で立っているだけに見える黄色ジャージに、正面は元より、左右や背後からも、誰一人として近寄ることができずにいた。
近付けば自分が最初に撃たれることは自明の理。いかな訓練を積んだ警官であれど、職業意識だけでは乗り越え得ない壁もある。しかしその壁を越え、均衡を破ったのはまだ若い刑事。怖いもの知らずの未熟さが、ここでは力を発揮した。
「おおりゃぁああっ!」
うわずった声と共に突き出された刺股が黄色ジャージの腰を捉えた、かに思えたのだが。
上空から音もなく飛来した「何か」が刺股の柄を叩き折り、その勢いで若い刑事は地面に突っ込んだ。それでも切っ掛けを得た他の刑事たちは、雪崩を打って黄色ジャージに襲いかかる。
二発の銃声。しかし、これは二人が撃たれたことを意味しない。先の三発にプラス二発の合計五発の銃弾が空中で渦を巻き、押し寄せた十数本の刺股の柄をことごとく打ち砕いた。刑事たちの足も思わず止まる。だがこの状況、動きを止めることが意味するところは一つ。
死、あるのみ。
黄色いジャージの男の口元に笑みがこぼれた。
そのとき、急停止したために前のめりに倒れた刑事たちの、背中の向こう側から跳ね上がるように飛び出した地豪勇作が、猟銃を頭上高くに振りかぶる。
この程度の幼稚なトリックに引っかかるものか。キルデールは飛び回る五発の銃弾を、すべて小丸恵に向けた。おそらくマーニーは恵を守らんと飛び出すだろう。そこに僅かな時間差で八発目の銃弾を叩き込めば、いかなマーニーとてかわし切れまい。
黄色ジャージの表情に浮かぶ自信。だがそれは慢心であり、これこそが隙である。勇作の動きはトリックでも何でもない、ただ視線を向けさせるための型通りの陽動だということに、すなわちいま、真後ろから妖刀蝶断丸が迫っていることに気付かなかったのだ。
“りこりん”の一太刀はトカレフを持っていた敵の右腕を断つ。宙を飛んだ五発の銃弾は勢いを失い、マーニーに簡単に叩き落とされた。そして勇作が猟銃の台尻で、黄色ジャージの頭を殴りつける。
「お願いか。どんな」
「もし仮にトカレフを持ったヤツを捕まえるチャンスがあったとしても、トカレフそのものにだけは絶対に触らせないで欲しい。そんなことになったら」
「なったら、どうなる」
「あなたが部下を撃ち殺すか、あなたが部下に撃ち殺されるか、どっちかですよ」
そう言い切ると勇作は踵を返し、教会の中へ戻って行った。
「はいはいはい! 急ぐ急ぐ! さっさと出て行ってくれねえと厄介事に巻き込まれんぞ! 走れ走れ!」
勇作がグロックを振り回しながら信者たちを追い出している。いかに拳銃や麻薬を密売している連中とは言え、自分に銃口が向けられれば平然としていられないのは当たり前だ。みんな取るものも取りあえず支部教会の建物から走り出て行った。
“りこりん”が廊下の突き当たりの部屋から顔を出す。
「こっち側には誰もいませぇん」
曲がり角からはマーニーが。
「こっちにも残っておらんぞ」
玄関方向から響くのは、勇作の怒鳴り声。
「オラァッ! 戻って来んじゃねえ! 許すも許さねえもあるか! さっさと警察に保護してもらうんだよ!」
“りこりん”は呆れた顔でマーニーに歩み寄った。
「いいのかしらぁ、アレ」
「ガラの良し悪しをとやかく言っていられる場合ではないからな。早い段階で信者連中を追い出さんと、作戦もへったくれもなくなってしまう」
とは言え、確かに勇作はちょっと調子に乗り過ぎているような気もしないではない。存外、根はお調子者なのだろう。
そこに突然ピーピーと、天井から鳴り響く警報音。火災報知器のような激しさはなく、自動車の防犯アラームほどうるさくもない。何と言うか「ほどほど」の警報音だ。
「お、始まったな」
楽しげなマーニーの横顔を見つめながら、“りこりん”はため息をついている。
「似た者コンビですねぇ」
「何か言ったか」
「別にぃ。ただ間抜けな警報音だなぁって思っただけですよぉ」
その間抜けな音の出所はわかっている。事務室だ。
間抜けな警報音の響き渡る事務室では書棚のガラス扉が開かれ、久志と縞緒と釜鳴によって三冊の「散場創始録」の中身が確かめられている。だが本の中に帳簿類が隠されていたりはしなかった。
「何も、ない?」
久志のつぶやきに、さしもの縞緒も困惑した顔を見せる。
「何もないはずは」
急いでページをめくっていた手が、ふと止まった。おかしい、この違和感の正体は何だ。ページの隅々まで目を皿のようにして見回し、縞緒はようやく気付いた。手にした散場創始禄の下巻を一旦閉じ、最初のページの右下端に書かれた数字を確認する。4001。普通ならば1だが、そうではなく4001。これはもしかしたら、全三巻でページ数が通しになっているのではないか。
縞緒は久志のめくっていた中巻を奪うように取り上げると、最初のページを確認する。2001。ならば当然、最後のページは4000となるはずだ。見ればやはり。一巻当たりキッチリ二千ページで、三巻で六千ページまである訳だ。もちろん、これがわかったところで何が判明するでもないが、推理のとっかかりにはなる。と、そのとき。
「ん? 何だコイツは」
散場創始録の上巻を見ていた釜鳴が声を上げた。久志と縞緒が注目すると、老人は開いたページを二人に見せ指を差す。
「これを見ておくんなさい」
本の綴じられている部位、いわゆる「のど」の近くに、手書きの数字があった。6。ページ数は157。
「最初のページは?」
縞緒の問いに釜鳴は上巻を開き直す。
「1ページ目は381でやすね」
「30ページ目は」
「えー、75」
「最後の2000ページ目は」
「えっと、9、ですな。ただ、何でしょうなこれ。二つ目の0が縦線で消してある」
縞緒は散場創始録の中巻を物凄い勢いでめくり始めた。手書きの数字は3421ページまで見つかり、のどの数字は3、消えている数字は4。それ以降のページに手書きの数字は書かれていない。
「この数字に何か意味があるってことですか」
ようやく事態を悟った久志が、縞緒の顔をのぞき込む。釜鳴も鋭い目で見つめている。
「……四桁」
縞緒の絞り出すような言葉に、久志と釜鳴は顔を見合わせた。
「手書きの数字とページ数を並べると、常に四桁の数字になります。ページ数が四桁の場合には、縦線で消された数字以外の四桁に意味があるのでしょう。四桁の数字と言えば、銀行のパスワードかパソコンのPINコード。他には」
考えをまとめながらつぶやく縞緒の言葉を聞いて、久志は事務机の下に設置してあるPCの起動ボタンを押して回った。
「試してみましょう! 3321で通るかやってみます」
通る可能性はある。いや、もし自分がこの数字を書いた人物なら、通るように設定するだろう。そして何の情報も得られないPCを漁らせるのだ。銀行のパスワードも同様かも知れない。そう考えながら縞緒は首をひねった。
何故だ。何故こんなにも沢山、四桁の数字を用意しなくてはならないのか。見せかけのセキュリティのために頻繁にパスワードを変えている、といったところが妥当な解答なのだろうが、果たしてそれだけか。何を見落としている。何か大事なことを忘れている気がする。
「やった! 通った、通りましたよ縞緒さん!」
大喜びの久志が目をやったとき、しかしそこに縞緒の姿はなかった。
い。怖れもまた闇だからだ。この世のすべての人間には責任がある。宇宙の運命に対する責任がな。光を意識し、光に向かってひたすら進む。そういう生き方を選び、宇宙に光の力を満たすことこそが責任を果たす唯一の道だ。自分の内なる光を信じよ」
「私にも光はあるのかな」
「あるとも。すべての人間に闇があるのと同じく、すべての人間に光はある。内なる光を持たない者など誰一人いない。誰かを照らし、暖め、幸福にする光の力をみんなが持っている。お主にだって光の力は宿っているのだ。その光で世界を照らせ」
そう言って微笑んだあの子の輝くような笑顔を思い浮かべると、恵の不安が少し紛れる。
「寝よっか。またあの子に会えるかも知れないし」
恵は立ち上がり、窓を閉めようと手を伸ばした。その細い手首をつかむのは、闇から突然現われた男の大きな手。
「あの子供に会わせてやろう」
窓の外で黄色いジャージの男は笑う。三階建ての一軒家の三階の窓。どうやってここまで、と思う間もなく恵は意識を失った。男の目が妖しく輝いている。
午前二時を過ぎたというのにバリバリと大きな音を立てて、報道のヘリが上空を飛んでいる。地上ではテレビ局のスタッフが放送のリハーサルをしていた。銃社会ではない日本で拳銃立てこもり事件はかなりのニュースバリューがあるが、それでもいまどき報道特番を組むほどの値打ちはないようだ。定時のニュース番組で中継が入るのだろう。
「ご覧のように住宅街から離れた小さな宗教施設の前に、警官隊が集まっています。犯人の身元や動機、要求などは現時点では不明とのことで、交渉担当者が説得を続けている模様です」
記者がカンペを読む声が聞こえる。身元や動機は不明ではないのだが、いまの段階でそれを公表する意味はない。それよりも、と鮫村課長はスマホを眺めた。
先程パトカーから逃げようとした二台の黒いワンボックスに乗っていた男たちの供述によれば、地豪勇作は連中と同じグループの移民排斥運動家だったらしい。銃の入手先は知らないと話しているとのことだが、叩けばいくらかの埃は出るだろう。
不幸中の幸いと言っていいのか、とにかく人質の中に小丸久志がいてくれたおかげで、情報は随時入ってくる。散場大黒奉賛会の銃と麻薬に関すると思われる帳簿が畳の下の金庫から見つかったことも伝わっていた。
何より地豪勇作の、情報の発信に積極的な姿勢が警察としてはありがたい。もちろん、受け取った情報をすべてマスコミに流す訳ではない。おそらく世間は、ここ数日続いた拳銃発砲事件の犯人がここにいるという前提で、このニュースを見るはずだ。他にもう一人トカレフを持って逃走している犯人がいるなどと知れたら、パニックが起こる可能性だってある。故にマスコミへの発表は慎重にしなくてはならない。
小丸久志の説明によれば、そもそも情報発信に積極的なのはトカレフの持ち主を招き寄せるための作戦の内であり、その作戦を立てたのは地豪勇作ではないらしい。ただし、では作戦を立てたのは誰なのかという問いには言葉を濁している。いまあの施設の中では特殊な人間関係が出来上がっているのだろう。
拳銃を使っての立てこもりは言わずと知れた強行犯であるから、現場を仕切るのは捜査一課である。しかし一課とて鮫村の報告に目を通していないはずもない。今回の立てこもり犯がトカレフを所持していない可能性が高い以上、こちらに総力を振り向ける訳には行かないのだ。
内部にいる小丸久志と連絡を取って地豪勇作と交渉する担当者も必要であるし、薬物銃器対策課はこれまでの経緯も事情も把握し理解している。共同戦線を張るのにこれ以上の相手はいないという判断から、鮫村は捜査一課長よりオブザーバーとしての現場指揮参加を求められた。
降任処分が下されるにせよ、早くても朝になる。それまでは課長である訳だし、成り行き上承諾しないという選択肢はなかったのだが、帰宅したら胃薬を飲まねばならんのだろうな、という程度の覚悟が必要だったのも間違いない。
とは言え、まだ迷いはある。トカレフのことだ。詳しい話はできなかったものの、トカレフが伝染病のように人から人へと渡って行く可能性を肯定するかの如き発言が、あのとき地豪勇作からあった。これは報告書には書いていない。二者択一で考えるなら書くべきだったのだろう。だが書いていたら、鮫村は判断力に問題ありと見られて、この件から外されたかも知れない。地豪勇作の言った通り、警察は幽霊退治ができるような組織ではないのだから。
そんなことをつらつら考えていた鮫村のスマホに、小丸久志からショートメッセージが入った。
――トカレフがこちらに向かっています
金庫の中には帳簿とDVD-RWが入っていた。帳簿の各ページには一番上に四桁の数字、あとは金額のみ。おそらく取引品目や取引相手についてはDVD-RWに暗号化でもして書き込んであるのだろう。なるほど、これならネットに流出することはない。しかし、この支部教会で事務を担当していた信者も警察が身柄を確保している。縞緒有希恵の仕事としてはDVD-RWだけ回収すれば、それ以外は警察に渡しても問題ないはずだ。後はお役所同士で情報交換をしてもらえばいい。
縞緒が帳簿のチェックを続けていると、小丸久志のスマホがチャイムを鳴らした。ショートメッセージが届いたのだ。
「どこからどう来る、何故わかる、と返信が来ました。どうします」
久志の言葉にマーニーは面倒臭そうな顔を浮かべた。
「天啓だとでも送っておけ」
「おい」
困り顔の勇作に、真っ赤なロサンゼルス・エンゼルスのキャップを指でクルクル回すマーニーは、ニッと歯を見せた。
「お主が困ってどうする。実際、答えようがなかろう。小娘の予言だとでも言うか?」
「そりゃまあそうだが」
「それに、こと探知能力にかけては、こちらはアレの足下にも及ばない。常に受け身で迎え撃つしかできんのだ、困ったことに。どこからどう来るかなど、こっちが聞きたい」
すると縞緒が、帳簿から顔を上げこう言った。
「現時点では回答不能。それでいいのでは」
「そうですね、そう送っておきます。後で詰められるんだろうなあ」
久志はやれやれといった風に頭を掻き、釜鳴がニヤリと笑う。
「後なんてもんが、ありゃあいいですがね」
「怖いこと言わないでください」
久志の生真面目なツッコミに他の皆は微笑んだのだが、勇作はふとマーニーに目をやった。
「そう言や、おまえが怖がってるところ見たことないな」
「おまえ言うな。お主だってそう変わるまい。と言うか、いまここに集まっている連中はみんなそんなものではないか。一人を除いて」
「いや、他の連中はどう見ても海千山千だしよ」
そんな勇作の言葉に抗議の意志を示す挙手が。
「すみませぇん、“りこりん”入れないでくださいますかぁ」
帳簿のチェックをしながら縞緒も小さく手を挙げる。
「すみません、私も以下同文」
これに釜鳴が首を振った。
「ああ怖いねえ、女は怖い」
勇作と久志は眉を寄せてジト目で見つめるしかなかった。
「まあ何はともあれ、人はそれぞれだ。怖がらないくらい、どうということもない」
と、マーニーは言うが、勇作は納得しかねる。
「ガキがそれを言うかね。ガキってのは大人に守られるもんだろう。素直に怖がってりゃいいと思うんだが」
「これでも、かなり素直なつもりなのだけれどな」
「だから余計に気に入らねえんだよ」
そんな二人の様子を笑顔で見つめながら、久志はつぶやいた。
「でも、あの伝説の教祖マーニーの記憶が、もしすべて残っているのなら、怖れるものなんてないのも理解できなくはないですけどね」
確かに普通の人間一人分以上の濃密な人生経験がそのまま頭に残っていれば、そうそう怖いものなどないかも知れない。だがマーニーはキョトンとした顔でこう返す。
「すべては残っていないぞ。残っているはずもない。キルデールの顔だってもう忘れているくらいだしな。人間の記憶なんぞ、そんなものだよ。だが、それが人間の強みでもある。忘却なくして進歩なし、だ」
「それはそうなんでしょうけど、でも」
久志はふっと遠い目をした。
「忘れちゃうのは、ちょっと寂しいかも知れないですね」
人間の記憶とは厄介な物で、覚えていることがすべて忘れたくない事実ではないし、忘れ去ってしまったことがすべて嫌な記憶でもないのだ。忘れたいのに残り続ける、あるいは忘れたくないのに薄れてしまう記憶もある。
だが。
「寂しさに囚われるな」
はっと顔を上げた久志に、マーニーは諭すように話した。
「過去に縛られてはいけない。人は未来に進むのではない、人が進む方向が未来になるのだ。過去にばかり顔を向けていたら、未来に進む意味がなくなる。感傷で自分の未来を閉ざすのは、もったいないぞ」
その笑顔に、この世のものならざる輝きが見えたのは気のせいか。久志は全身から何か重く硬い物が、外れて落ちたように感じた。
だが次の瞬間、マーニーの顔に緊張が走る。
「来たぞ」
勇作がグロック17を尻のポケットにしまい、猟銃のミロク8000を手に立ち上がった。釜鳴はコルト・パイソンを取り出し、“りこりん”の手にはいつの間にか蝶断丸、足下でマルチーズのボタンがワウと吼える。マーニーはキャップをかぶり、準備は万端整った。後は待ち構えるだけである。
「待て!」
しかしマーニーの発した鋭い声に、一同は驚きの視線を向ける。
「どうした」
勇作の問いに、マーニーはすぐ答えられない。赤いキャップはうつむいたまま。それは異常事態のサイン。勇作の背に冷たいモノが走った。
「おい、マーニー」
「これは……厄介だぞ」
マーニーはしばし勇作を見つめ、そして無言で久志に顔を向けた。久志がその意味を察するまでに要した時間は数秒。
警官隊は動揺していた。言わんやマスコミも野次馬も。投光器の光が煌々と照らす中を、パジャマ姿で裸足の十歳くらいの女の子が、泣きじゃくりながら散場大黒奉賛会の支部教会へと歩いて行く。警官は止めない。止められない。何故なら女の子のすぐ背後を黄色いジャージの男が歩き、後頭部に銃口を突きつけているからだ。黒いトカレフTT-33の銃口を。
こんな展開は鮫村も想定していなかった。あまりにも常軌を逸している。しかしこのトカレフが、ムスリムを虐殺し、連続発砲事件を起こしたあの拳銃であることは疑いようもない。伝染病のように人から人へと渡って行く、まるで意思を持っているかの如き不幸の拳銃だ。
ただもし仮に、本当にこのトカレフに意思の主体があって肉体は従属しているだけなのだとしたら、何のために人質が必要なのか。衆目に晒されることが平気な理由はわからないでもない。肉体など使い捨てれば良いのだから。だが同じ理由で、警官隊に狙撃されてもたいした問題はないはず。人質の存在意義が不明に過ぎる。鮫村はまるで死ぬことを怖れているかのようだと感じた。
「マーニー!」
警官隊に右側面を向けた黄色ジャージの男は、大声で叫ぶ。
「気付いているのだろう。聞こえているのだろう。さあ出て来るがいい」
そのとき支部教会の玄関に現われた人影。
「恵ぃいいっ!」
半泣きでわめくのは小丸久志だ。飛び出そうとする彼を何人かが懸命に引き留めているらしい。「小丸さん、落ち着きなせえ!」と声が聞こえる。
だが久志はそれを振り切らんばかりに前進した。
「恵! 恵! 無事なのか!」
「父さん!」
恵と呼ばれた娘は顔をくしゃくしゃにして悲鳴を上げる。
「父さん、助けて! 助けて!」
だが体の自由が利かないかのように、小丸恵は立ち尽くしたまま。それを見た久志がさらに目を釣り上げる。
「何をした! 娘に何をした! この野郎許さんぞ!」
怒り狂い絶叫する久志の顔に、ポン、と小さな手が触れられた。すると久志は全身の力が抜けたかのようにへたり込む。その横を通って十二、三歳だろうか、赤いキャップをかぶった、半袖のパーカーにハーフパンツ姿の少女が表に出て来た。地豪勇作を従者の如く引き連れて。
勇作の右手にはグロック、肩には猟銃を背負い、たすき掛けのガンベルトには猟銃弾らしき物が見えた。戦争をするつもりなのだ、とは鮫村の印象だが、いったい誰と。おそらく警官隊とではあるまい。
マスコミと野次馬はどよめき、警官隊にも緊張が走る。しかし勇作はそちらを見ていない。凄まじい殺気を放ちながら黄色いジャージの男だけをにらみつけている。一方、黄色ジャージの視線は赤いキャップの少女から動かない。この少女が、さっき名前の出たマーニーなのだろうか。
投光器の光に包まれ鮫村たちの視線を集める中、赤いロサンゼルス・エンゼルスのキャップをかぶった少女は黄色ジャージから十メートルほど距離を取り、立ち止まって口を開いた。
「よく来たなキルデール。他人のことは言えないが、人質とは汚いやり方だ。ザラスシュトラが泣いているぞ」
「黙れ異端者。その穢けがれた口でザラスシュトラの名を呼ぶ冒涜は許されない。そもそも私はいまザラスシュトラ教徒ではない」
少女は鼻先で嗤う。
「鉄砲だものな。鉄の塊に信仰されてもアフラ・マズダが困るに違いない。と言うか、小丸久志に聞いたのだが、そなたザラスシュトラ教徒にも嫌われているらしいではないか。公式の記録がほとんど残っていないそうだぞ」
「知ったことか。我が神は我が内にあり。他人の思惑などどうでもいい」
「なら私のことも、どうでもよくはならんものか」
「ならぬ。害虫は駆除せねば民が飢える。異端者の存在を許せば、正義に迷いを持つ人々が苦しむ。貴様は流行病はやりやまいの病原菌にも等しい」
「病原菌そのものみたいなヤツがよく言う」
苦笑を見せると、赤いキャップの少女は小丸恵に視線を向けて微笑んだ。
「すまんな、恵。ちょっと待っていろ、すぐコイツをぶっ飛ばしてやるから」
目を丸くして見つめていた小丸恵は、ややぎこちなくはあったが、それでも少し安心した顔を見せる。
「はい」
「ふん、逃げ回るしか能のないマーニー教徒が、いつから暴力を容認するようになった」
自分の事を棚に上げた黄色ジャージの見下すような言葉に、しかしマーニーと呼ばれるらしい少女は明るい笑顔で答えた。
「もちろん暴力は絶対禁止だ。ただし、助けを求める無辜なる者へ手を差し伸べることを、我らは暴力とは呼ばないのだ。そなたの神がどうかは知らんが」
「利いた風な口を叩くな、真なる神を知らぬ異端者が」
「とは言うがな、そなたの理屈通りなら、いまのこの世界は異端者だらけだぞ。何十億もの異端者が暮らしている。この大地の上で信仰を持つ者のほとんどが異端者なのだ。そなたの言う真なる神の教えは、何故こうも力が弱いのか」
「滅ぼされた貴様が言うことか。ザラスシュトラの教えはまだいまも生きている」
「その生きている教えを滅ぼしかねない悪しき病巣こそが、そなたの存在なのだがな」
「黙れ、悪魔アーリマンの使いめ!」
トカレフの銃口がマーニーに向くと同時に、勇作は向かって左側に走り出す。もちろん、こんなあからさまな陽動に引っかかるはずはない。黄色ジャージは視線すら動かさず、マーニーに弾丸を二発撃ち込んだ。だがそこに目に見えない壁でもあるのか、火花を上げて弾かれ地面をえぐる。
すると黄色ジャージは、まるで見当違いの方向に銃を向け、三発連続で撃った。その意味するところは不明だったが、鮫村課長は大声を上げる。
「何をしている! トカレフの男を取り押さえろ!」
これに捜査一課の現場を仕切る、倉橋警部補が異議を唱えた。
「人質がいるんですよ」
「人質はまだ大丈夫だ。いまのうちに刺股で押さえ込め。私が責任を取る」
「でも坊主頭は」
「後でいい! トカレフをここで逃がしたら取り返しが付かないことになる、ヤツが最重要対象なんだ。急げ!」
事態が急転しているのは一課の連中にもわかっているはずだ。一課長に連絡して判断を仰ぐような余裕ある状況ではない。しかもマスコミがこれだけ注目している中で、内輪揉めはしたくないだろう。鮫村の怒鳴り声は勝算ありの計算であった。
「刺股持ってこい!」
不承不承という顔だったが、倉橋の声で一課が動いた。あとはどれだけ被害を出さずに取り押さえられるか。人質の小丸恵が大丈夫だと思ったのは、トカレフの弾がマーニーに当たらなかったことに起因する根拠のない直感である。しかしいま目の前にいるのは、普通に理性的に常識的に考えれば存在するはずのない怪物なのだ。迷えばこちらの命が危ないどころか、どんな大規模な惨劇が起きても不思議はない。鮫村はさらに怒鳴った。
「マスコミは下がれ! 流れ弾を食らうぞ!」
先程トカレフから放たれた三発の弾丸は、当然の如くまだ死んでいないはずだ。投光器の光から外れた暗い空を舞い、次の機会をうかがっているに違いない。
キルデールは銃口をマーニーに向けながらも、不用意に六発目を撃たなかった。いかに化け物じみたトカレフであれ、弾数は無限ではない。普通に考えてマガジンにはあと三発。他に八発入りの替えマガジンが最低一つはあるだろうか。全弾撃ち尽くさせ、それをすべて叩き落とすまで安心はできない。マーニーは突き出した両手に意識を集中した。体力が持つかどうかが心配だ。
そのマーニーと黄色ジャージ、そして小丸恵の周囲を、防弾ベストを身に着け刺股を手にした刑事たちがグルリと囲んでいる。隙あらば取り押さえてくれようと。だが、肝心の隙が見つからない。トカレフは構えているが、力を込めず自然体で立っているだけに見える黄色ジャージに、正面は元より、左右や背後からも、誰一人として近寄ることができずにいた。
近付けば自分が最初に撃たれることは自明の理。いかな訓練を積んだ警官であれど、職業意識だけでは乗り越え得ない壁もある。しかしその壁を越え、均衡を破ったのはまだ若い刑事。怖いもの知らずの未熟さが、ここでは力を発揮した。
「おおりゃぁああっ!」
うわずった声と共に突き出された刺股が黄色ジャージの腰を捉えた、かに思えたのだが。
上空から音もなく飛来した「何か」が刺股の柄を叩き折り、その勢いで若い刑事は地面に突っ込んだ。それでも切っ掛けを得た他の刑事たちは、雪崩を打って黄色ジャージに襲いかかる。
二発の銃声。しかし、これは二人が撃たれたことを意味しない。先の三発にプラス二発の合計五発の銃弾が空中で渦を巻き、押し寄せた十数本の刺股の柄をことごとく打ち砕いた。刑事たちの足も思わず止まる。だがこの状況、動きを止めることが意味するところは一つ。
死、あるのみ。
黄色いジャージの男の口元に笑みがこぼれた。
そのとき、急停止したために前のめりに倒れた刑事たちの、背中の向こう側から跳ね上がるように飛び出した地豪勇作が、猟銃を頭上高くに振りかぶる。
この程度の幼稚なトリックに引っかかるものか。キルデールは飛び回る五発の銃弾を、すべて小丸恵に向けた。おそらくマーニーは恵を守らんと飛び出すだろう。そこに僅かな時間差で八発目の銃弾を叩き込めば、いかなマーニーとてかわし切れまい。
黄色ジャージの表情に浮かぶ自信。だがそれは慢心であり、これこそが隙である。勇作の動きはトリックでも何でもない、ただ視線を向けさせるための型通りの陽動だということに、すなわちいま、真後ろから妖刀蝶断丸が迫っていることに気付かなかったのだ。
“りこりん”の一太刀はトカレフを持っていた敵の右腕を断つ。宙を飛んだ五発の銃弾は勢いを失い、マーニーに簡単に叩き落とされた。そして勇作が猟銃の台尻で、黄色ジャージの頭を殴りつける。
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