臨魁学園物語――転校生とガチ恋をして、二人で幸せになる話――
1章 1日目 一目惚れって、こんなんだな
「今日の予定は特にないけど、今度の木曜日は月1恒例の、プレゼン授業があるからね」
10月中旬の月曜日。中間試験が終わって少しばかり緊張が緩んだ教室で、去年この学園の大学部を卒業したばかりの春日先生が今週の日程を伝える。
ここ、臨魁学園は、小・中・高・大の一貫教育の私立校で、数多くの優秀な人材を多方面に輩出している。
僕、東条慎吾はその中の高等部二年、『教職コース1組』。名前のとおり、教師を目指す者達の為にあるコースだ。文系理系は3年で分かれるから、文系が得意な生徒、理系が得意な生徒、どちらもできる生徒、どちらもあまり得意ではないけど、頑張って食らいついている生徒とクラスメイトは色々だ。
普通、こうした教師を目指すための課程は大学しかない。が、「多方面」に優秀な人材を輩出しているだけあって、かなり多くの職種・コースが中等部から設けられていて、一般の高校にはあまり存在しない、『政経コース』や『福祉コース』、『アスリートコース』などが中等部から設けられているから、よく他校の生徒からは驚かれる。
将来の夢がハッキリしている生徒のための学校、と言いたいところだが、入学して授業を受けているうちに「あ…これは違う」と感じる生徒だって中にはいる。そうした生徒のためにも、もちろん途中の進路変更は可能だし、そのために中学部や高等部では、『普通コース』が設けられており、そこで自分探しをしてから進むべき進路を見据えて大学部へ上がっていく生徒も多いと聞いている。
もっとも、『教職コース』とは言っても実際に授業をする場面というのはなくて、どちらかと言えばプレゼンに近い形で『人前に出てしゃべる経験を増やす』授業が多い。
『教職コース』の教室での僕の席は、一番後ろの外側。外を眺めるにはもってこいの場所で、外を見るとすぐ校庭が広がり、その向こうには高層ビルが見える。
「それともう一つ…」
おっと。先生が話を追加した。何だろう?
「本日より、転校生がこのクラスに来ることになった。みんな、仲良くしてな」
(転校生?よりによって教職コースにか。珍しいな)
僕がそう思うと同時に教室の扉が開き、転校生が入ってきた。
女の子だ。背は結構高い。一六五センチはあるだろうか。着ている服は、前の学校の制服だろう、藍が基調セーラー服。
黒が基調のブレザーが制服のこの学校で、セーラー服は異質に見える。けど、出ているところは出ていて、腰も結構締まっているみたいで一瞬モデルかと思った。しゃんと背筋が通って颯爽と歩く姿に、すごく見とれてしまった。
そして、教室のみんなの方を向くと、その顔立ちがハッキリと分かる。うん、美人だ。
髪はボブカットくらいの長さだけど軽くウェーブがかかっている。ちょっと癖っ毛なのかな、とも思うけれども、ウェーブは自然な感じ。鼻すじも通っていて、口元もかわいい。しかし、何よりも僕を魅きつけたのは、彼女の瞳だ。
漆黒だけど透き通っていて、何事もまっすぐに見ようとする鋭いまなざし。しかしそれは決して冷たいものではなく、視線の先にあるもの全てを肯定的に見ようとする、前向きな、暖かい瞳。
(なんて素敵なのだろう…!)
僕の心の中で、何かが弾けた。それと同時に僕は、彼女の瞳から眼を離せなくなっていた。
教壇に立ってこちらを見ていた彼女は後ろへ振り向き、白板に黒いマーカーで自分の名前を書き始めた。
一文字ずつ、はっきりと。
『大』
『原』
『更』
『紗』
――大原更紗。
そう書いてマーカーを下ろした彼女は、僕達の方を向いた。
「はじめまして。大原更紗と言います。ここに来る前は京都ににいました。これから宜しくお願いします」
聞き取りやすい、綺麗なアルトで挨拶をして彼女は一礼した。
そして、彼女は姿勢を正す。その瞬間、僕と彼女の眼が合った…気がして、僕の意識は彼女以外の誰も認識しなくなって、時間が僕と彼女の間にしか流れていないような、夢の中にいる感覚に襲われた。
もちろん、自分に向けた視線ではないと思う。でも、彼女の瞳は、「あなたは?」と僕に問いかけてくる様にみえた。たぶん、みんなの顔を見ながら、知らない顔ばかりのこのクラスの雰囲気を感じ取って一人一人に問いかけるような感覚だったのだろう。
彼女は一瞬だけみんなから視線を逸らすように目を閉じた。それと同時に、僕の時間の流れ方が普通に戻ったように感じられた。
(惜しかったな。もっとあんな風にいたかったな・・・)
正直、僕はそう思った。
「というわけで、教職コースとしては転校生が来るのは珍しいことではあるけど、みんな、彼女のことをよろしく頼むよ。大原さんが前の学校の制服なのは、転校が急だったのと、まぁ、この学校の制服の準備が間に合わなかったということなんだ。まぁ、あまり気にしないようにな。週末には、制服が届くって聞いているし」
春日先生のいつもの口癖、「まぁ、」が時折入りながらいつものように話してくれる。気さくでいい先生。ある意味目標である。
「じゃあ、大原さん、あなたの席は・・・」
そう先生が言って教室を見回す。幸い、僕の隣には誰もいない、机もない、ただのがらんどう。あと一人、僕とは全く逆の廊下側に、僕と同じ様に隣がいないクラスメイトがいる。
(先生、頼みます!こっちに案内しろください!)
僕はそう念じた。すると、先生は僕の方を向いた。
「東条君の隣にしよう。おい、東条君。彼女の為に机と椅子を用務員室から取ってきてくれないか?昨日準備しようと思っていたんだけど、ちょっと忙しくて準備できなかったからね」
よっしゃ!僕は担任が言い終わるや否や、立ち上がって「はい、わかりました!」と大きく返事をした。クラスメイトの視線は僕の方に集中する。たぶん、僕の顔は真っ赤だったに違いない。教室の外へと駆け出すと、僕の教室からどっと笑い声が起きたのが聞こえた。多分、僕の反応を笑ったのだろうと思うけど、そんなことは今の僕には関係なかった。彼女の隣になれることが嬉しくて舞い上がっていたから。
2階から階段を駆け下り1階へ。1年の教室から生徒玄関を越えると職員室や校長室がある。さらにその先、校舎の一番端に、用務員室がある。扉の前で止まって、いったん息を整えてから
「失礼しま~す」
そう挨拶して部屋に入ると、還暦近くに見えるの作業服に身を包んだおじさんがお茶をすすっていた。
「お~、どうした?」
誰にでも気さくな語り口をするから、学校用務員という僕らと直接の接点が少ないながらも、意外と生徒からの人気がある坂居さんだった。
「うちのクラスに転入生が来て、机と椅子を運ばなくちゃなんです。春日先生に頼まれたんですが、どこにあります?」
すると、坂居さんは
「おぅ、そこにあるよ。春日先生、昨日のうちに用意しておいたのに持って行くの忘れてたみたいでさ」
なんて言ってかかっと笑う。ん?春日先生、忙しくて準備できなかったと言っていたけど…どっちが真実なんだろう?
そう内心では考えながらも、僕は坂居さんに確認する。
「じゃ、これ持って行けばいいんですね?」
「そういうことだな。気をつけて持って行くんだよ」
「あ、はい、ありがとうございます」
僕は、椅子を逆さにして「よっこいせ」と机の上に乗せ、机を持って用務員室を出た。
さっきとは違って、ゆっくりと、前を見ながら歩く。
歩く先の廊下はまだ朝のホームルームが終わっていないクラスが多く、人影はまばらといったところ。
僕、東条慎吾は数学が得意で語学は苦手…。バドミントン部で準レギュラーとは聞こえがいいが要は万年補欠(中学部に上がってから始めたので、さすがに小学校からずっとやっている連中にはなかなか勝てない)。友人もそれなりにいて、昼休みはそんな友人たちとバスケットに興じる。女の子との会話はそれなりにできるけど、気の利いた言葉がうまく言えないこともあってか、そんなにモテる訳でもない。
――そんな、普通の少年だと思っている。
机と椅子を用務員室から持ってくると、ホームルームは既に終わっており一時間目の前のインターバル。春日先生の姿はもうなかった。
肝心の彼女はというと、僕がせっかく机と椅子を運んできたというのに、教壇のところにいる。クラスメイト達、全員女子と言ったところだけど、彼女らが十重二十重と壁を作ってしまっていて、僕の声が彼女に届きそうにない。
とりあえず机と椅子を僕の隣において、僕は自分の椅子にどっかと座る。
すると、誰かが肩を叩いた。僕はそいつの姿を確認すると口を開く。
「幸弘、何だ?」
僕の肩を叩いた奴は、矢野幸弘。幼稚園の頃からの幼馴染みで、かれこれ十数年の腐れ縁だ。家族にも言えない悩み事は、いつも二人で語り合っている。信頼すべき、刎頸の交わりを結んだ生涯の友だと思っている。
顔はどちらかと言えば厳ついのだけど、笑った顔は少し幼く見える、普通に見れば結構なイケメンだ。それに、175センチしかない僕と違って185センチはある背丈、その背丈からバスケットボール部に誘われたりしていたのだが、中学部からずっと弓道部に所属している。一度、「なんで弓道なんだ?」と聞いてみたが、答えは「激しくないスポーツがいいし、袴姿って格好いいと思わないか?特に女の子。凜々しく見えるし、意外と体型も分かっちゃうんだぞ」という実はスケベ。実際モテるのだが、その本性を隠さないので女子からは少し距離を置かれている。しかし完全に嫌われているわけではない。男子からは逆に、そのスケベトークで人気を博している。
「話しかけに行かないのか?惚れた相手に」
いきなり耳元で小さい声で切り出されて、僕は思いきり焦った。しかし、なるべくそれを他の人間に気付かれないようにこらえ、僕は幸弘の方を向いた。
「よくわかったな」
「何年つきあってると思う?気付かんほうがおかしい。それに、あれだけ赤い顔していれば誰でもわかる」
「そっか…」
僕はわざとらしく、大きいため息をついた。
「どうするんだ?」
そう聞く幸弘に、僕は少し諦め気味に答えた。
「ま、あんな状態だ。待つしかない」
「そうか?彼女、大原さんだっけ、ずっと立ちっぱなしだからそろそろ座ってもらってもいいんじゃないかな?それを口実に話しかけるのもありと思うけど?」
幸弘の提案は至極最も。さらに、机を運んできた人間がするべき仕事だろ、と付け加えた。そうだな、ここは立ちん坊になっている大原さんに座ってもらうべきだ、と僕は意を決して、幸弘に
「じゃ、行ってくる」
と言うと、幸弘はにやっと笑って答えた。
「気をつけてな」
何に気をつけるんだか、と心で思いつつ、僕は教壇に向かった。そして、十重二十重の包囲網を突破しようと目論むもやはり女子が多い手前、やりにくい。でも、一番外側にクラスで一番仲のいい女子である中山和子を見つけた。
「中山さん、助けてくれない?」
と僕は彼女に声をかける。お下げ髪に下部がフレームレスになっている赤い眼鏡の中山さんは僕の方を向くと、「あ、帰ってきたんだね。お疲れ様。大原さん、呼ぼうか?」と言ってくれる。この子の気遣いには、いつも感謝している。彼女は、「ちょっとごめんなさい、通してくれないかな?」と前にいる女子一人一人に丁寧に声をかけて、そして、声をかけられた女子たちは中山さんの後ろに僕がいるのを見ると少し笑みを浮かべて僕を一瞥してから、どいてくれる。
中には、「頑張ってね」と声をかけてくれる子もいるんだけど…僕は自分の反応がわかりやすすぎたとは言え、彼女たちのその声かけに恥ずかしくなって苦笑いしながら、中山さんの先導で大原さんの元へとたどり着く。
「大木さん、お話ししているところごめんなさい。大原さん、ちょっといい?」
中山さんがクラスの副委員長で、クラス成績1位の大木さんという女子に断りを入れ、大原さんに話しかけてくれる。大木さんもできた人だから、中山さんの断りに「あ、私こそたくさん喋りすぎたみたい、ごめんね」と言って、少し体をどかしてくれる。
「はい、東条くん、私の役目はこれで終わりだよ」
と、中山さんは僕の肩を軽く叩いて、大原さんの目の前の位置を僕に譲ってくれた。僕は素直に「中山さん、ありがとう」と礼を言って、大原さんと相対する。
彼女と眼が合う。これで二回目。それも今回は間近で見る。
近ければ近いほど、すごく綺麗な眼をしていることがわかる。見るものを魅きつけてやまない、魅惑的な黒。僕の心はその瞳に吸い込まれそうになる。でも、そこは何とかこらえ、自分のすべきことを、伝えるべきことを伝えた。
「さっき先生に頼まれた東条だけど。机と椅子、持って来たよ」
「うん。ありがとう」
彼女は微笑みながら即答した。それと同時にチャイムが鳴る。
「あ、チャイム。今から授業?」
彼女の問いかけに、僕は答える。
「そうだね。1限目開始。すぐに先生来るから戻ろう」
他の連中も、僕の言葉を合図にしぶしぶ彼女から離れ、自分の席に戻る。
僕は彼女をエスコートする感じで、自分の席に戻った。
「ここだよ」
僕は自分の席に座る。大原さんも真新しい机の横に通学バッグを掛け、真新しい椅子に腰掛ける。そして、僕の方を向いて一言。
「ありがとう。これから宜しくね」
かわいい声に僕は脳が溶けるような感覚を覚えてしまった。そして、かろうじて一言、「こちらこそ」と口を開くだけだった。
僕はそのまま顔が真っ赤になるのが判ったけれど、それを止める術もなく、先生が入ってくるのを待つだけだった。
1時間目の地理の授業が終わり、休み時間になると、またも大原さんの周りには何人かの女子の塊ができる。僕は、次の授業に備えて古典の辞書を開いていた(家で予習しようと思っていたのにラノベにハマった挙げ句寝落ちしてしまい、慌てていたのは内緒だ)。
漏れ聞こえてきた内容は
「どこから来たの?」→「京都から引っ越してきたけど、元々は福岡。京都の前は広島だったし、少しずつ東に来てるなぁって」
「どうして引っ越してきたの?」→「父親の転勤で。もともと転勤族だけど、今回で一段落って聞いてる」
「どの辺に住んでいるの?」→「学校から歩いて20分ほどのところにあるアパート。でも、引っ越してきたばかりで段ボールの整頓が終わってないから、まだ誰も呼べないんだ」
「どうしてこのコースに?」→「中2の時にいい先生に巡り会えたから。理科と英語が好きだから、文系か理系かどっちにするかはまだ悩んでいるんだけど」
そして、休み時間も終わりそうな時、彼女に最後に話しかけてきたの女子の姿を確認すると目を疑った。三上夢衣。クラスの中では一番目立たないと言っていいくらいの生徒だった。背はそれほど高くないが、髪は腰近くまであるロングヘアでサイドは三つ編みを施している。でも、滅多に喋る生徒ではなくて、いつも何かしら本を読んでいるイメージ。
彼女も幸弘と同じく幼稚園の頃からの腐れ縁だ。小学部時代はクラスが違っていたけど、コースがある程度決まってくる中学部では、教職コースでクラス分けがあっても不思議とずっとクラスが同じだった。でも、その4年半の間で話をしたのは年に1回あったかどうか。同じグループになって学習をするときくらいだった。小学部の頃は結構話をしていたのに、中学部に上がってからてっきり話をしなくなった。というか、三上の方から男子に対して距離を取り始めたように感じていたんだ。だから、僕も話しかけづらくなっていて、年に1回喋るかどうかの間柄になっている。ライナーではまれにグループで接点はあるけど。
そんな三上さんが大原さんにおずおずとした態度で「本は好きですか?」と聞いていた。大原さんは、「うん、読書はそれなりにするかな。でも、最近は読めてないなぁ…」と答えていた。
すごく珍しい光景だと思った。もしかしたら、三上も僕と同じように彼女に好感を抱いたのかもしれない。
チャイムが鳴る1分前。「次は古典だから、もう戻るね」と大原さんの周りにいた女子達は席に戻る。幸弘の席のあたりでたむろしていた男子生徒もぞろぞろと自分の席に戻っていった。僕は何とか古典の予習を何とか終わらせて。大きく「ふ~」っと息をつく。
どうもそれが、大原さんにはため息に聞こえたのか、彼女は俺にちょっと僕の顔をのぞき込むかのような仕草を見せた。僕は、「?」と視線を彼女に向けると、その魅惑的な瞳で僕に目配せしながら「ごめんね、うるさかった?」と聞いてくる。
僕は、「いや、全然問題なかったよ。大丈夫。古典の予習で周りに注意を向けている場合じゃなかった(と言うのは半分嘘なんだけど)」と答えると、「ありがとう。優しいんだね。それに、こんな休み時間にも予習なんて、まじめだね」と返してくれた。そんな一言が、僕はとても嬉しかったけど、
「いやいや、まじめじゃなくて、ただ単に昨日寝落ちしてできなかっただけ。古典の先生厳しくてさ、ちょっとでも答えられないところがあったらプリント渡されて、放課後残しなんだよ。合格するまで帰ったり部活に行けないもんだから、みんな必死!」
思わずまくし立ててしまったが、この情報は絶対にこれからの授業には必要なものだから、役に立ててくれるとありがたいと思った。
「そうなんだ、教えてくれてありがとう。でも、寝落ちって、スマホの触りすぎ?」
「いや、本を読んでいるうちに、だね。スマホは基本11時過ぎたら触らないようにしてるし」
「スマホは11時までって、やっぱり真面目じゃない!?」
僕のおしゃべりにちょっと驚いた様子の彼女だったが、その目は笑っているように見えた。ちょっと幸せな瞬間を感じ取っていたところで、古典の芳埜先生――もうすぐ定年間近のおじいちゃん先生なんだけど――が入ってきた。入ってくるなり、クラスメイトはみんな居住まいを正す。厳しそうな雰囲気を感じさせながら、教卓に上がった先生が正面を向くと、学級委員長の鈴木がすぐさま「起立!」と声を上げた。みんなも一斉にすっと立ち上がり――もっとも、初めて授業を受ける大原さんは一瞬動作が遅れたのだけど――、「礼!」でちょうど始業のチャイムが鳴り授業がスタートする。
「はい、教科書117ページ5行目から。大木、読みなさい」
という芳埜先生のいきなりの指名に、大木さんは「はい」と返事をして起立し、教科書の文章を読み始めた。淀みなく文章を読む大木さん、さすがだ。ふっと横を見ると、大原さんの顔もすごい真面目で大木さんの声を集中して聞いているようだった。その顔もすごく印象的で、胸の鼓動が跳ね上がるのが、自分でも分かる。
大木さんの朗読が終わると、芳埜先生の解説が始まる。先生の話は無駄がない上に、いつ指名が飛んでくるか分からないからみんな緊張している。この先生の授業で寝るやつは、よほどの変人じゃないかといわれているくらいだ。僕も、休み時間に単語調べをしていたのは部活に行けないのが嫌だからで、古典が好きだからと言うわけではない。でも、教えるポイントは的確なので模擬試験の平均点は他のクラスよりも高いらしい。
だから、集中力のいるこの授業で大原さんのことを気にしている余裕はないのだけれど、やっぱり気になってしまうのは男の性だろうか、本当にちらっともう一回一瞬だけ彼女の横顔を拝もうとした。
そんなときに限って悪いことは起こるもので、芳埜先生から指名が来る。
「で、東条。この単語の意味はなんだ?」
「はい」
と僕は返事をして自分の教科書に目を落としてみたのだけど、え…あ…調べたはず、メモしたはずなのに、指名された単語の横には何も書いていなかった。何とかなると思って油断して書くのをサボっていた部分だった。でも、いきなり指名されて頭が真っ白になり、答えることができない。そうなると、下手にごまかしても無駄だし、残ることに関してもう覚悟を決めなくてはいけない。僕は正直に答えた。
「えっと…調べたはずですが、忘れました」
「うむ。では、大原、分かるか?」
僕のあおりを食らって、隣の大原さんが巻き込まれる。彼女はまさか当てられるとは思わなかったのだろう。かなり困惑した感じになって「分かりません」と小さな声で答える。
「はい。二人とも後でプリントを取りに来なさい」
芳埜先生にはおそらく転校生の情報は入っていただろうし、当然顔は初めて見るから分かるはずなのに、この扱い。転校初日にもかかわらず、芳埜先生は容赦しない。
「「はい・・・」」
二人の返事が力なく教室にこだました。
結局、午前中は同じような感じで休み時間は大原さんの机の周りに女子が集い、いろんな話をする。よく、話題が尽きないよな~と僕は感心する。時間を追うにつれ、大原さんへの包囲網が薄れてくれるのかなと思ったけど、全然そんなことはない。それどころか、噂を聞きつけた他のクラスの連中まで、彼女の元に現れるものだから、たまったものじゃない。
さらに言えば、転校生がめちゃくちゃ美人だとの噂を聞きつけた他のクラスの野郎達が、廊下から一目でもいいからと彼女の姿を見に来る始末だ。
「うわ、確かに美人」「美人の上に、かわいい」「あ、こっち見た!やべぇ、語彙力ない」
等と、廊下から聞こえてるぞ、おまえら!と、思わず鋭い視線を向けてしまったが、誰からも気づかれてはいないようだった。
そして昼休みになると、礼が終わった瞬間ダッシュしよう…と思ってたけど足を止めた。(大原さん、お昼はどうするの?)と思いきって聞いてみようとすると彼女は、机の横に吊ってあった通学バッグからお弁当を取り出していた。小さめだけど2段重ねのかわいい弁当箱のようだった。もう既に先約があったようで、大木さん、中山さんに三上までが俺の席が空くのを待っていた。それなら安心だ。
「お、大木さん、中山さん、三上も、俺お邪魔だな。ごめんな~。んじゃ、俺は学食行ってくる!」と今度こそダッシュする。背後から、「廊下は走らないの、気をつけて行ってらっしゃい!」といういかにも教職コースらしい大木さんの声が聞こえた気がしたが、学食は戦いなのだ。誰が先に食券を交換してもらえるのか、それが重要だ。ただ、ありがたいことに食券自体は2限目の休み時間のうちに手に入れることができる。古典のプリントを受け取ってから、急いで購買に行って買ってきたものだ。だから今は、食堂へ走るだけ。
廊下を走るな言われた手前、いつもよりちょっとゆっくりで学食に向かうが、途中の自販機コーナーで幸弘が珈琲牛乳を買って待っていてくれた。
「お、すまん。サンキュー、待っていてくれて」
「まぁ、急いでも学食は逃げないからな。ほんの1分くらい問題ない」
「だな」
そう会話して、今度こそ学食に向かう。
「おばちゃん、きつねうどん!」「俺は、カツ丼」
そう言いながら食券をカウンターに出すが、同じように「こっちラーメン!」「俺はカレー!」といった連中もいるものだから、声のでかいやつから作ってくれる。
きつねうどんは1杯250円、カツ丼は350円、今日はしてないけど大盛りは100円増し。小遣い(月3000円)とは別に、昼食代として1日500円もらっている。だから、小遣いは実質月に8千円~1万円くらいになる。そのお金はもちろん、遊興費や本代に消えるわけだけど…。なるべく安くてそれなりに腹が満たされる(満たされなくても別にかまわないけど)この学食には感謝だ。
僕と幸弘がそれぞれうどんとカツ丼を受け取り、席に座ってそれぞれ食べ始める。
「相変わらず出汁が薄いなぁ」とうどんを食べる俺。冷たい方がだし汁は濃いけど、10月に入ったこの季節柄、冷たいのはもうやってない。どうしても我慢できない時は、テーブルに備えられている醤油をかけることもある。
「慎吾よ、ちょっと様子見ていたけど、なかなか話しかけられなさそうだな」
幸弘の言葉がちょっと胸に痛い。
「そうなんだよな、やっぱり転校生って珍しいし、めちゃ美人で性格も良さそうでみんなの質問に律儀に答えるし。そんな状態でいつまでも女子の包囲が解けないんじゃ、話しかける隙がなかなかできないよ」
「そんなこと言っている割には、古典の前は結構いい感じだったと思うぞ。そして、二人仲良く課題もらっちゃって!このチャンスは逃すなよ」
幸弘は珍しく真顔で僕にそう言ってくれる。僕は、そう言われて満更ではなかった。
「そうだね。古典の課題もらったから、ある意味良いきっかけになりそうだ」
僕がそう言うと、幸弘はもっと顔を厳しくして、伝えてくれた。
「とは言えな慎吾よ、今、あの子がどんな話をしているのか、気になるんじゃないのか?今は女子と話をしているとはある意味包囲は薄くなっていると思うから、場合によっては他のクラスの男達から声をかけられるかもしれないしな」
幸弘の指摘は至極納得できた。こんなところでうどんをすすっている場合じゃないし、ましてやその後体育館へ行ってバスケットに興じるような余裕をかますわけにはいかないな。
僕は一気にうどんをすすって汁まで飲み干すと、幸弘に「すまん、先戻るわ。他の連中には…」とまで言ったところで、ぐにゃりと表情を崩した彼からクロスカウンターが来た。
「彼女とよろしくやるために戻ったって言っておくわ、心配するな」
「ちょ!」
僕はめいっぱい焦るけど、幸弘ならではの質の悪い冗談なのは重々承知しているのでふっとため息をつく。
「じゃあな」「ああ、健闘を祈る」
もう一度幸弘と短い言葉でやりとりして、僕は学食から走って教室へと戻る。その途中でのどが渇いたから、幸弘が買った珈琲牛乳を自分も買っておいた。
教室に戻ると、大原さんをはじめとする4人――大木さん、中山さん、三上――はまだ机を4つ向かい合わせにして話をしていた。僕が学食へ駆けだしてから戻ってくるまで15分もかかっていない。おしゃべりしながらお昼を食べる女の子達は、まだ食事自体終わっていなかったし、その周りには男子の影がなく、幸弘の懸念は杞憂だった。
だが、戻ってきた時には気づいていたが、他のクラスの男子が何人か、珍しく僕らの教室の前にたむろしていて、中を窺っていた。「ちょっと失礼」とそいつらに声をかけて教室に入ったのだけど、おそらく、大原さんが目当てなのだろうというのは容易に想像できた。だからいつ何時男子が声をかけてくるか分からないので、とりあえず教室で、彼女たちの近くにいようと思っていた。
ホント、たまたまだけど鞄の中に昨日の寝落ちの原因となったライトノベルを入れておいて良かった。それを鞄から取り出そうという理由を持って、彼女たちに近づく。鞄は大木さんが座っている僕の机と大原さんの机が隣り合わされていてその間にある。
「あ、大木さん、大原さんちょっとゴメンするよ。鞄から本を取らせて」
僕の声に二人は「あ、ゴメンね」と言った感じで少しだけお互い体をずらしてくれる。ただ、大木さんからは「ちょっと戻ってくるの早すぎじゃない?」と言う突っ込みをいただいたけど、「うどんの1杯くらい、すぐ食べ終わっちゃうからね。それに今日は、バスケと言うよりは本を読みたい気分だから早く戻ってきた」と本音を隠して言いながら鞄を引っ張り出してそこからライトノベルを取り出し、鞄を元に戻す。すると、
「あ、そのラノベ…」
予想外のところからか細い声がした。三上だった。
「ん?三上、知ってるの?」
彼女が僕や幸弘と幼なじみというのは大木さんも中山さんも知っている。だから、僕が三上を呼び捨てにすることに彼女たちは慣れている。
「私もちょうどそれの1巻を読み始めたところなんです。面白いよね、その作品」
「へー。三上もライトノベル読むんだ。結構意外な感じ」
「そうかもしれないですね。でも面白いもの。つい読んじゃいます」
「そっか」
そんなやりとりを見て、三上以外の女子3人のうち2人は普通に受け流している感じだったけど、大原さんは僕と三上の顔を交互に見ていた。
「結構仲が良い感じだね」
と彼女は言うから、僕は、「幼稚園からの幼馴染みだよ。でも、こうやって会話するのは久しぶりだな」と伝える。
大原さんは「そうなんだ」と言って三上に視線を移すと、三上も「私って元々引っ込み思案なところあるし、中学部に入ったあたりから男の子と話すことが苦手になったし」と大原さんに告げていた。でも、三上の大原さんに対する態度、どう考えても引っ込み思案なところじゃないんだけどな…。
でも、これ以上プチ女子会にお邪魔をするのも悪いので、「ゴメン、邪魔したね」と告げて少し離れた幸弘の席でさっき買った珈琲牛乳を飲みながらラノベを読ませてもらうことにした。もちろん、目は文章に向いているが、耳は彼女たちの話す声に集中する。
そこで聞こえてきたのは、放課後になったら連絡先を交換しようと約束したことだった。
うちの学校、スマホ持ち込みはできるけどスマホは教室に入ったら各自のロッカーに備え付けられている専用のスマホ棚に入れる決まりになっている。自分で暗証番号を決めてロックするわけだけど、一度ロックしたら基本的に放課後――正確には帰りのSHのチャイムが鳴る午後4時30分になって初めてロックが自動的に解除される。急な体調不良等で早退にすることになった時などには、暗証番号を入れて、先生が承認ボタンを押すことで初めて取り出せるといういやはや何とも、厳しいところ。
だから、連絡先を交換するにしても放課後を待たないといけないということだ。自分も彼女と連絡先を交換できれば良いのだろうけど、そんなことを今聞いてたよ、僕も混ぜてと言わんばかりに彼女たちに近づくのはあり得ないだろう。
そして、彼女たちが食事を終えて机を戻していると廊下から3人の男子生徒――うちのクラスの奴らじゃない――が入ってきて、大原さんの机の前で止まった。
誰かと見たら、アスリートコースの中田啓一とその取り巻きだった。それなりにイケメンである奴はいわゆる陽キャで、中学部に上がる時に地域の小学校から入学してきた。サッカーはさすがに上手いけど、奴は性格的に難がある。かわいい女の子の噂を聞きつけるととにかく声をかけまくることで有名だ。そして、仲良くなったとしても早ければ2週間、長くても3ヶ月くらいで「飽きた」と言わんばかりに彼女をフッてしまう、とんでもない奴。女の子を、自分のアクセサリとしてしか見ていないように思えた。
中学部1年の頃に3ヶ月だけ体育の授業で――数クラス合同で体育していたからなんだけど――、一緒な班になったけどその頃から基本的に何にも変わってない。サッカー以外のスポーツも元々の運動神経の良さでそつなくこなすけど、ちょっと話し合いの場、たとえばどうすればもっとチームとして上手くやれるかを話すことになった時とかだと、僕とは全く意見が合わない。自分が一番格好いいし上手いから、自分の意見が一番だという我を通す。それに、女の子に対して手が早いが、男にも自分と合わない人間に対して手が出るのも早く、僕もその犠牲者の一人だった。それで何度か学校側から警告は受けているから最近は大人しくしているようだけど。
そして、奴のおこぼれに預かろうと数人のアスリートコースの男子がくっついていることも有名。奴に振られた相手に言い寄って、自分の彼女にしようという連中が常に奴と行動を共にしている。こいつらも、奴と同罪だと思う。
中学部時代に殴られてからあいつからは今でも廊下ですれ違うたびに「冴えない奴」呼ばわりされて気分が悪いが、そのたび反論しても疲れるだけなので、基本スルーを決めている。そのうち奴は痛い目に遭うことになるだろうし。
僕から言わせればあいつは「自分のこと以外眼中にない、節操のない奴」だ。そんな奴だから、彼女に話しかけにいくのは当然と言えば当然か。なんて、冷静に見ている場合ではなく、彼女がどういう反応を示すのか心配で幸弘の椅子から思わず腰を浮かせて自分の席に戻る。
他のクラスメイト達も、奴が入ってきたことでその意味を察して――特に女子達は彼らを警戒のまなざしで見つめる。奴の悪評は、この教職コースの女子達にも当然知れ渡っているし、誰一人、奴を良いように思っていない。噂では、教職コースの女子も2,3人ほど中学部時代に奴とつきあってフラれたらしい。僕はその噂は未確認なんだけど。ただ、視界の隅に、奴の姿を見た三上の顔が苦しそうに歪むのを捉えた。
「君が、転校生の大原さんか。美人だね。初めまして。俺はアスリートコースの中田啓一。サッカー部だよ」
中田がそう自己紹介する。大原さんは「初めまして」と答えるが、表情はそんなに笑顔ではなさそうだ。
「声もかわいいし、気に入ったよ。どう、俺の彼女にならない?」
いきなりかよ…僕はムッとして中田を一瞥する。取り巻き二人も大原さんの方を向いていて、僕の視線には気づかなかったようだ。そして、僕は大原さんに視線を移すと両手が少しばかり震えていることに気づいた。
大原さんはちょっと考えたみたいだけど少し大きく息を吸って、奴に答える。その返答はこの午前中のクラスメイト達との会話では全く聞かなかった、とても低くて厳しい声だった。
「いきなり初対面の人に対して話す内容ではないと思います。お断りします」
まさに、一刀両断。中田は何を言われたのか一瞬理解できなかったようだけど、すぐに落ち着きを取り戻して、
「いや、俺とつきあえば色々と楽しいこと教えてあげられるからさ、悪い話じゃないと思うよ」
なんて言って言い寄る。しつこいなぁ、やっぱり僕は、こいつとは合わない、いや、ハッキリ言う、嫌いだ。今の様子を見ているだけで、彼女は奴に脈なしなのは分かったから、これ以上奴に彼女と話をさせたくない一心で、僕は思わず声を上げた。
「やっぱり節操のない奴は違うな。どれだけ何人ものかわいい娘に声をかけてるんだよ。そして悲しませて。お前はもうフラれたの、分からない?」
僕の言葉に、中田の顔は僕を認識し、紅潮して僕の方を睨む。
「お前みたいな冴えない奴が、よく言うよな!あ、大原さんこいつの言ったことは根も葉もない噂なので気にしないで」
とその場を取り繕うとする。そして取り巻き二人は「お前は黙ってろよ、啓一は彼女と話をしたいだけだろ?」と言って俺の口を塞ぎにかかるが僕だって運動部の端くれ、そう簡単に思い通りにたまるかと少し後ろにステップを踏む。そして、
「おっと、中田はやっぱり取り巻きがいないと何もできないのか?前から思っていたけど、一人じゃ何もできないよな?いつも取り巻き引き連れて。顔の良さとスポーツだけが取り柄でそれ以外には全く自信のない現れだよな」
と僕は挑発を続けた。大原さんから目を逸らすためだ。それと話しかける前に時計を確認したら5限目の始まる2分前。もうちょっとすれば授業も始まるし、それまで時間を稼げればOKと言う算段だ。
少し遠巻きに見ていたクラスメイト達も僕に加勢をしてくれる。「ホントに節操ないよな。と言うか、教職コースの僕らから見てあり得ないよな」「やっぱり中田くんって信じられないよね」「どうして下級生から人気があるのか分からない。ただ単に、本性が伝わってないだけなのかな?」とか言う声もちらほら聞こえ、中田達は完全にアウェー状態だ。
「おい、言わせておけば…」と中田が周りからの言葉も僕のせいだと言わんばかりに大原さんから離れ、僕の胸ぐらを掴んだ。奴に殴られたところで痛いは痛いだろうけど、そうなったらそうなったで、別の意味で奴には痛い目を見てもらうつもりだから全然かまわない。僕はもう一言二言、挑発してやる。
「あ、もう本性が出るんだ。沸点低いね。最近大人しかったはずだけど。
んで、僕を殴ったらどうなるか分かってる?サッカー部のエース候補が痴話喧嘩の末に相手を殴る、そんな話が学校中を駆け抜けたら、お前終わりだよ。下手したら、対外試合も出られなくなるかもな」
その言葉に中田は「だからなんだよ」というが、試合に出られなくなるという脅しが効いたのかその声にはあまり力がない。もう一押し。
「もう一つ言ってやるよ。お前はさっき根も葉もない噂なんて言っていたけど、このクラスでお前の所行について知らないのは唯一、今日転校してきた大原さんだけだ。僕たち教職コースの生徒は、お前らの言動を常日頃からあり得ないと思っている。聞こえただろ?外野の声が」
ここまで言うとさらに追い打ちをかけるように、僕の背後から聞き慣れた男子生徒の声がした。
「まぁ、こういう奴はプライドだけは一級品だからな。そんなプライドを傷つけられたらそれは怒るわ。とは言え、そんなことで怒るのは、よっぽどガキだと思うけど」
と、体育館のバスケ帰りでちょっと汗ばんでいる幸弘は中田に告げる。さらに彼は言葉を続ける。そんな幸弘の表情は、今まで見てきた中でもかなり怒っている表情だった。
「全く見苦しいな、中田よ。慎吾と合わないのは前からずっと見ていて分かるけど、簡単な挑発に乗るなんてな。俺、お前には失望しかないよ。まぁ、中学部の頃からずっと失望してるけど。スケベトークが得意な俺でも、お前のやっていることに関してはハイそうですかと認められない」
「ぐ…矢野…」
幸弘は、中田にとって天敵だと幸弘本人から聞いたことがある。それは、単純に背丈と顔、そしてその話しぶりだと僕は思っている。中田自身、幸弘には勝てないと思っているらしい。完全に戦意を喪失した中田は「また来るわ」と言って取り巻き共々そそくさと教室から出ていった。僕はその背中に「二度と来るな、大原さんに関わるな!」とストンピングをかますように大きな声をかけておいた。
「はい慎吾、お疲れ~早く戻って正解だったな。Nice move, Good jobだ」
と、幸弘は右手を僕の顔の高さに差し出す。僕も右手を挙げて、ハイタッチ。
「お前のおかげだよ。Thank you guys」
そんなことを言っていると、中山さんが話しかけてきた。
「東条くん、なかなかやるじゃない!矢野くんも、ナイスアシスト!久しぶりに溜飲を下げたわ。あの人にガツンと言ってくれて本当にありがとう!」
僕が知らないだけなのかもしれないが、もしかしたら中山さんも奴にフラれた一人だったのかもしれない。でも、そう礼を言われて嬉しくないはずがない。
「ああ、ありがとう。中田の奴には本当に前から鬱憤が溜まっていたから、言いたいことを言えて良かったよ」
そこに大原さんもちょっと顔を赤くして割り込んできた。怒り?恥ずかしさ?それとも…なにかは分からなかったけど。
「東条くん、ありがとう。実は、ちょっと怖かったんだ。初対面でいきなりあんなこと言われたことなかったから、何あの人?って思って。それにあんな軽い感じで『彼女にならない?』ってあり得なかった。本当に助けてくれてありがとう」
そんな心からの感謝に僕は気持ちが舞い上がってうまく言葉に表せなかったけど、
「うん、何もなくて本当に良かった」
とそこでチャイムが鳴った。みんな、授業の準備に席に戻る。俺のそばにいた幸弘は俺の耳元で小さく、「愛の力だな」と茶化した。でも、僕はそんなからかいに真面目に答えた。
「当たり前だろ?」
幸弘は満足そうに俺の背中を叩いてから、席に戻った。
大原さんはそんな僕たちを見て、笑顔で「仲が良いね」と言った。「ああ、自慢の幼馴染みだよ」と僕は答えたけど、もしかして、今の幸弘の言葉、聞こえてたかな?そう思ってもそれを確かめる勇気と時間が、今の僕にはなかった。
だから、5限目の物理はあんまり頭に入ってこなくて――でも、何とかついて行くことはできたんだけど――昼休みのことが頭の中で反芻していた。
もしかしたら、いや、もしかしなくても中田のような「彼女とつきあいたい連中」がこれからも押し寄せてくるのかもしれない。最初に声をかけたのが中田だったから撃退できたのだけど、今後彼女に声をかけてくるような人の中には、僕なんかよりよほど良い人がいるだろう。そんな人に、僕は勝てるのだろうか?と弱気になる。
でも、勝たなくちゃいけないんだ。今はたまたま席が隣になったから良いけど、席替えがあれば席は離れる。そうすると、当然話すきっかけがなくなる。そうなる前に、席が離れても自然に話しかけにいける関係になりたい。「彼女とつきあいたい連中」よりも彼女との距離感が縮めるためにも。これは、自分に課すべき最重要ミッションだ。
そんなことを、自分はどのように動けば良いのかを、授業より優先して考えてしまっていた。でも、考えても彼女がその気になってくれなければ意味のないことだし…と思っていると、さっきの彼女の言葉、「本当に助けてくれてありがとう」が心の中を反芻した。
そうか…まずは、彼女の味方でいればいい。すぐには簡単に話しかけられるような感じじゃないかもしれないけど、常に僕は彼女の味方として、彼女のことを肯定していこう。
急がば回れ。慌てて急速に近づこうとすると、どうしても警戒される。それこそ、中田のようにだ。だから、僕は奴の逆でいく。少しずつ、信頼関係を高められるように。
でも、チャンスが訪れたのは思いの外早く、5限目の授業の後すぐだった。
「ねぇ、東条くん、放課後、古典のプリント一緒にしてくれないかな?」
授業後わりの礼が終わってすぐ、クラスメイトに囲まれる直前に大原さんからそんな言葉をかけてくれた。
渡りに船とはこのことだから、僕はもちろん、
「うん、良いよ。芳埜システムを覚えるちょうど良い機会だし」
「芳埜システム?」
そう。芳埜先生の放課後課題は、ただプリントを出せば良いという問題ではなく、そこに書かれている部分や問題を覚えてから持って行かなくてはならない。プリントはやってくるのが当たり前で、そこからさらにプラスαを吸収したかが問われる。
そう説明すると、
「そんな厳しいんだ、芳埜先生って」
って、少し緊張した面持ちで大原さんは口を開く。
「ああ、でも、そのおかげで模試ではそれなりに良い点取れるよ」
「そうなんだね」
と話しているうちに、まだ彼女と話し足りない女子が何人か僕たちの周りに集まっている。近づいている間に、僕らの会話も聞こえたのだろう、
「あ~芳埜システムね。二人とも食らっちゃって大変だね」
「でもこのシステムは誰もが通る道だから、逆に初日にやることになって良かったかもね」
「でも、放課後に校舎案内もしたかったな~」
と口々に大原さんに話しかける女子。その言葉に彼女は笑顔で
「それなら、それはそれで良かったかも。放課後の校舎案内もお願いできる?」
と校舎案内の言葉をかけた角田さんに聞く。すると角田さんは、
「プリントやって合格もらった後だとたぶん17時回るよね?時間的に部活が始まるんだよね。だから、『したかったな~』っていうことなんだ。ごめんね」
と言う。なんでも、角田さんは茶道部で、茶道の先生が学校に来る時間は、先生の茶道教室の都合もあって放課後になって30分後つまり17時頃になるらしく、それまでじゃないと難しいということだった。
ただ、一瞬僕の方に視線を移した角田さんはひらめいたと言わんばかりに元々大きい目をさらに大きく輝かせて、グーにした右手を軽く左手の手のひらにポンと叩き彼女に提案した。
「それなら、東条くんに案内してもらったらどうかな?だって、二人で一緒に芳埜システム終わらせれば、その後案内してもらえるじゃない」
ドキッ!
僕は、胸が早鐘を打つことを自覚し、顔が赤く染まっていく。
角田さんの言葉に、周りも同調する。
「それ、良いんじゃない?私たちも部活あるし」
「東条くんも部活あると思うけど、こんな日なんだから休んでも罰当たらないと思うよ」
と、悪戯っぽい笑みを浮かべて僕と大原さんの顔を交互に見比べる角田さんと周りの子達。
お。おいおい…人をなんだと思っているんだと思いつつも、彼女を案内できるのはとても嬉しい。
「東条くんは、どうかな?」
角田さんにいきなりそう問われて焦る僕。でも、すぐに心を決める。でも、そのことを言葉にするのはとっても恥ずかしいのだけど、「大原さんさえ良ければ、案内するよ。どう…かな?」と最後の方は小声になってしまいながらも伝える。
大原さんはちょっと真剣な顔になって考えたけど、すぐに返事をくれた。
「うん、お願いします、東条くん。迷惑かけっぱなしになるけど、ゴメンね」
そんなことをちょっと上目遣いで言われると、本当に胸がドキドキする。かなり照れ顔を自分でもしていると思ったけど、やっぱりそうなのだろう。角田さんをはじめとする女子連中は僕の顔を見てニヤニヤ笑っている。
「それじゃ、私たちは席に戻るね。東条くん、大原さんを頼んだわよ」
「了解」
と、6限目開始のチャイムが鳴って、角田さん達は自分の席に戻っていく。
正直僕は本当に照れくさくて、そして、そんな顔をしていることを見られたくなくて、しばらく大原さんの顔を見ることができなかった。
6限目は現代の国語…。正直言って苦手なんだけど、論説文なら何とかなる。理詰めが得意な方だから。でも、小説はなかなかどうして難しい。ライトノベルは好きで読んでいても、昔の小説って小難しい感じがして取っつきづらいというのも大きい。
今日はその苦手な小説で、その時の主人公の感情はどうだろう?と言う問いかけとかをされたが、何となくは分かるのだけど、いざ文章にしてみようとするとうまく言葉が出てこない。でも幸いなことにそうした少し難しい部分では当てられず、漢字の意味を答えるように当てられた。
これでも漢検2級を目指しているので(漢字だけなら好きな方だ)、その意味くらいは余裕で分かる。淀みなく答えて先生から大きく頷かれた。
そして、何となく淡々と授業は終わって、休み時間。
この日の最後の休み時間を締めくくるのはやはり大木さんと中山さん。二人は角田さんから放課後のことを聞いたらしく、「私たちも案内できれば良かったのだけど、あいにく委員会や部活で私たちも難しいの。でも、東条くんが案内してくれるなら大丈夫。彼、見た目は頼りなく見えるけど結構紳士だし、困っている人は助けたくなる性格だから、安心して任せられるわ」なんて言ってくれたのは、本気で嬉しい。頼りなく見えると言われたことに関しては仕方ないと思ったけど、安心して任せられると言われて悪い気になんかなるわけない。それも、クラスで一目置かれている存在からその様に言われるのは格別だった。
最後の7限目。最後は英語コミュニケーション。語学2時間連続は、語学系の苦手な僕にとっては地獄だ。一応予習はしているけど、これで良いか自信がないし、変な訳し方をしている気がするし、発音もあまり得意じゃない。
大原さんが列の流れで教科書の一文を読むように指示された。彼女は「はい」と返事をして教科書の一文を読む。発音がわかりやすくて、聞き取りやすい。それに、やっぱりかわいくもきれいな声。僕の脳は幸せな気分になる。あと数十分もすれば二人でプリント学習から校内案内の流れになるから、楽しみで仕方がない。僕は早く、この時間が終わってくれれば良いのにと思いながら授業を受けた。
そして、7限目終了のチャイムが鳴り、帰りのSH。
「はい、今から1枚プリント配ります。保護者と相談するように」
と渡されたのは、進路調査の紙。エスカレーター式に大学に上がる生徒は7割くらいと聞いている。どちらかと言えば、残り3割の生徒の把握なのかなぁ?
僕は、このまま大学に上がって教師になるつもりだから、迷うことはない。
幸弘はどうするのか。1年の時に幸弘は大学はここではなくて、地元の国立を目指すかもというようなことを言っていた。教師になる夢はあるようだけど、別の道を選ぶ可能性もあるから、ぎりぎりまで悩むつもりだと言っていたな。この1年で考えは変わったのだろうか?三上もどうなのだろう?
そして、今日知り合ったばかりの大原さん。彼女は、どんな進路を選ぶのだろうか。もし、聞ける雰囲気になったら聞いてみたいと思った。
帰りのSHが終わると、早速みんなスマホ棚からスマホを取り出す。大木さんと中山さん、三上は大原さんと「ふるふる」して、ライナーのID交換をした。それから、それぞれ挨拶をして、別れる。部活へ行く大木さんと三上、委員会へ行く中山さん、先生に教えを請いに職員室へ行く男子生徒、はたまた帰宅部で真っ直ぐに家に帰る生徒ももちろんいる。バイトに行く生徒もいる。この学校は、成績次第でアルバイトも許可制なのだ。もっとも、コンビニやスーパーなどの小売店か、ファミレスなどの飲食店(いずれも21時まで)、もしくは新聞配達くらいしか許可が下りないのだけど。僕はそんな中でライナーの部活グループを開き、その中のカレンダー機能の中にあるフォーム――本日の部活の出欠表をアンケート形式にしたもの――に「欠席」を入力して送信しておいた。よほど欠席が続いたりしない限り特に理由を問われることもないので、こうした機能を使って欠席の連絡ができるのは本当に気楽だ。
程なく、クラスメイト達は教室からほとんどいなくなり、教室に残るのは僕と大原さんを除いてほんの数人。僕たちは二人で机を合わせた。廊下には、他のクラスの男子生徒が数人、教室内をちらっと覗くが机を合わせた僕たちの様子を見て「ちぇっ」と舌打ちをして離れていく。
「よろしくね」「うん、こちらこそ」
差し向かいで座って彼女の顔を見る。やっぱり、僕は彼女の瞳に心を奪われる。純粋で真っ直ぐな、黒い瞳。
「ん?どうしたの?私の顔、何かついてる?」
思わず見とれてしまって、彼女が怪訝な表情で聞いてくる。僕はドギマギしてしまい、ぶっきらぼうに返事をする。
「いや、大丈夫、何でもないよ」
そんな僕に「そう」とちょっと不思議そうな顔をするけど、プリントを取り出して「始めようか」と言ってくる。僕は、「そうしよう。早めに終わらせないと、職員室に行ってから待ち時間が大変になるから」と答えて、早速プリントに目をやる。
プリント自体はそこまで難しい問題はない。ただ、その内容をしっかりと暗記しなくてはならないのだ。
二人でカリカリとプリントの空欄を埋めていく。ただ、僕自身古文は苦手なので時折手が止まって教科書やノートを見る。対して大原さんは、あまり手を止めることなくプリントを進めていた。
「古文得意なの?」
その様子を見て僕が大原さんに話しかけると、彼女は「うん、まぁ、苦手じゃないよ」と言って笑う。
その笑う顔に、やっぱり僕はドキドキする。
ドキドキしながらも、何とかプリントを終わらせる。本番は、ここからだ。
「じゃ、職員室に行こう」「うん、分かった」
僕たちは席を立って机を戻し、職員室へ急ぐ。1階へ降りて職員室を見ると、既に5,6人が職員室の芳埜先生の席に一番近い扉の前で待っているようだった。
「これが、芳埜システムの日常なんだ。その日に出されたプリントは、その日のうちに提出、合格をもらうこと。合格自体は放課後の事情もあるからと翌日までにもらえれば咎められないけど、その日のうちにプリントを提出できなかった場合は、3回で親呼び出しが待っているから、みんな必死」
職員室前なのでボソボソと小さい声で話す僕のその言葉に、さすがの大原さんの顔が少し引きつる。そんな顔も可愛い。
「そ、そうなんだ。さすがに未提出はできないなと思うけど、プリント毎回もらうとこれが日常になっちゃうのか」
「でも」
僕は、いつも芳埜先生に対して思っていることを話した。
「芳埜先生はその辺きちんと考えてくれていると思うよ。授業中に生徒を指名する回数も言うほど多くないし、指名する生徒もなんだかんだでランダムに見えるけど、考えているみたい。同じ生徒を連続で指名することはないから、毎回プリントになることもない。たぶん、喝入れのためだと思うんだ」
僕は思わず熱弁する。そう、僕はなんだかんだ言って芳埜先生を、先生として尊敬しているから。
大原さんは、僕のその話の熱量から察したのか、
「東条くんは、芳埜先生のことを尊敬しているんだね」
と言ってくれる。僕は、「うん、そうなんだ。そういう凜としたところは目指したいと思っているんだ」と答えて少しほほえんだ。
そんな僕に、大原さんも笑顔になって「すごいね。人生の目標がもうできているのって」と言った。
「そうなのかな。確かに将来は先生になりたいと思っているけど、まだどんな先生になるのかというビジョンは見えてないよ」
「それでも、まだ高校生なのに、先生のことをよく見てるなって思う。大木さんは東条くんのことを『頼りなく見える』って言っていたけど、今の言葉を聞いていて、そして、お昼のことを考えたらそんなことない。頼れる存在だってそう思う」
出会ってまだ1日も経っていないのにそんなこと言ってくれるなんて、ものすごく嬉しく思う。僕の顔は、今日何度赤くなったのだろうか、今回のこの一言が一番僕の顔を赤く染めた。
「ありがとう、大変光栄に思うよ」
そう僕は彼女に礼を言う。そして、僕たちの順番がやってきた。
「じゃ、先に行っていい?」と僕は彼女の許可を得てから、「失礼します」と言って職員室に入る。
とても整理された机。机の奥には参考書や教科書、ファイルが並んでいるけど、中央にある校務用のノートパソコンの左右には何一つものがない。その机の主こそ、芳埜先生だ。
「教職コース2年1組、東条慎吾です。お願いします」と言ってプリントを渡す。先生は、そのプリントの添削をして、僕に問いかける。
「この単語の活用形は?」「未然形です」
「この文の意味は?」「とても良いことをした、です」
「よろしい、合格」「ありがとうございました」
僕はホッと安堵の表情を浮かべて、「失礼しました」と職員室を出た。
大原さんが少し緊張して待っている。
「東条くん、どうだった?」
「うん、合格もらったよ。大原さんも頑張って、大丈夫。君なら余裕だと思う」
「ありがとう、行ってくる」「ここで待ってるから」
大原さんは、僕の「待ってる」の言葉に微笑んでくれた。彼女は職員室に「失礼します」と入っていく。
待つことだいたい2分。大原さんは職員室から「失礼しました」と出てきた。その顔は、ホッとしているように見えた。大丈夫だったみたい。出てきて僕の顔を確認するなり、右手にVサインを作って話しかけてくれた。
「東条くん、案内よろしくお願いします!」
「良かった、合格もらったんだね」
「うん、余裕だと思うって言ってくれたから、自信持って答えられたよ。ありがとう」
僕も、ホッとして「どういたしまして」と答えて教室に戻る。
教室に戻ると、廊下にいる生徒はもちろんのことクラスメイトはもう誰もいなくなっており、僕たちの鞄だけが残されていた。
「みんな、もういないね。さすがにこんな時間だとね。さぁ、どこから行きたいかな?」
僕は大原さんに問いかけた。
「そうね…じゃあ、まずはたまに使いそうな購買から。それからよく行く特別教室と体育館を教えてもらえる?」
「オッケー、了解」
僕たちは鞄を持って教室を出る。17時を過ぎた学校は、夕時で西日が校舎に入ってくる。とは言えだいぶん暗くなってきた廊下は、蛍光灯が自動的に点灯していた。人感センサーが搭載されていて、普段は暗めだが、人が通ると明るくなる。そんな廊下を二人で並んで歩く。
僕は、彼女が退屈にならないように話しかけたいと思うけど、どんな話題を切り出せば良いか分からなかった。だって、聞きたいことは休み時間に女子達がだいぶ聞いてくれたから。何度も同じことを聞かれるのって、あまり良くないよなと思って、何を話そうかと困っていた。
すると、彼女の方から話しかけてきてくれた。
「東条くんは、得意な教科はなに?」
あ、得意教科先に聞けば良かった…と後悔するも、
「うん、一番は数学。自慢じゃないけど、これだけはクラスのみんなから認めてもらってると思うよ。何せ、学年順位は常に20番以内だし」
「そういえば、1学年に何人生徒がいるの?」
「500人くらいだったと思うよ」
彼女は少し驚いた感じで、
「え?すごいすごい!トップクラスなんだね。数学はちょっと苦手だから、尊敬する!」
なんて、早口でまくし立てた。それにはさすがの僕も少し驚いて、
「いやいや、その代わり語学系は下から数える方が早かったりして…」
と少し小さい声で答えてしまう。
「そうなんだ。でも、一芸に秀でているってすごいと思うの。分からないところがあったら、教えてくれないかな?」
「うん、もちろん。いつでも声かけて」
正直、内心ではガッツポーズ!それで気をよくしたのもあるけど、彼女と話をすることについて緊張が少しずつ緩んできたのもあり、
「大原さんの方は、得意な教科って言うと、何?」
と聞くことができた。
「私は英語かな。理科も得意って程じゃないけど、好きだよ」
そういえば、そんなこと言っていたな。と思い出して。
「じゃ、逆に英語教えてほしいな。本当に英語って苦手というか、いくら予習しても自信持てないんだよね…」
「うん、東条くんも、いつでも私に聞いてね」
「そうさせてもらうよ。ありがとう」
そして、次の話題は僕から切り出した。
「大原さんは、どこかの部活に入る予定ある?」
大原さんは、少し複雑そうな顔をする。
「正直、迷ってる。2年も半ばにさしかかっている時期でこんな時に入ろうという勇気が持てないというか…」
「でも、前の学校では部活入っていたんでしょ?」
「そうね。バドミントン部に入っていたわ。高校入ってから始めたの」
え?そうなんだ。それは、僕にとってとても嬉しいこと。
「そうか。でも、それなら部活入ってくれると嬉しい。僕もバドミントン部なんだ。男女合同で練習することもあるから、一緒に打てる時もあるし」
すると、大原さんの顔はぱっと明るくなった。
「そうなんだ、だったら入っても良いかなって思うわ」
「是非そうしてもらえると僕は嬉しい。あ、ここが購買ね」
本音ダダ漏れで喋っているうちに購買に着いた。当然のことながらその扉は閉じられている上にカーテンも敷かれており中を覗くことはできない。
「だいたい何でも買えるよね?」
購買の前で僕たちは立ち止まると、大原さんは僕に問いかける。
「そうだね。文房具系はほぼ全部そろえられるし、ほら、僕が今日というか、毎日行ってる学食の食券もここで買うし、お昼のパン販売もある。あとは、靴下とか内履きとか、何でもござれという感じだね」
僕の説明に、彼女は納得して「どこも似たようなものね~」と言った。
「次はどこに行こうか?特別教室というと…理科室とか?」
「そうね、そのあたりかな」
「了解」
理科室と一言で言っても、理科って高校では物理・化学・生物・地学って細かく分かれているから、とりあえず彼女が取っている理科選択を聞いてみる。
「そういえば、大原さんの理科選択なんだっけ?」
「化学と生物ね」
「じゃ、化学室と生物室から。と言っても、そんなに離れてはないけど」
「そうなのね。それじゃ、お願いね」
そして、再び歩き出す僕たち。道すがら、何人かの生徒とすれ違う。女子生徒もそうなんだけど、男子生徒は特に彼女の顔をまじまじと見てしまっている。そりゃそうだろうな、見知らぬ生徒、それもセーラー服を着ている美人女子生徒なんて、絶対目を引く。自分はその視線が気になって仕方なかったけど、大原さんはそこまでではなかったみたいだった。
スマホで時計を確認すると、17時20分を過ぎていた。
彼女は、いつまでなら今日は学校にいられるのかな?
「そういえば、大原さんは、今日何時まで大丈夫?」
化学室に向かいながらそう問いかける。
「う~んと」
と、彼女もスマホで時間を確認しながら少し考える。少し視線を上げて物思いにふけるような表情もとても可愛くて、本当に彼女がすっとそばにいてくれたら、どんなに良いことなのだろうと考えてしまう。
「18時には学校を出たいかな。今日は夕ご飯作る担当の曜日だから」
夕ご飯作らなきゃならないなんて、大変だな。でも、それだともっと早く帰った方が良いのではないかな?そう思いながら、
「了解。でも、ご飯作らなきゃいけないのにそんな遅くて大丈夫?」
「うん、平気だよ。昨日のカレーが残っているし、1,2品簡単に作るくらいなら何とかなる」
「それなら良いんだけど」
と言いつつ、彼女の家族構成が気になった。でも、転入初日、それもようやく少し話できた程度の中で突っ込める話題じゃないから、僕はその話題はそこまでにした。
「ほい、化学室到着。中明るいな。部活中かも」
程なく、化学室に着く。どうも中では部活で実験をしているようだった。数人の男子生徒が、薬剤を扱っていた。
「邪魔したら悪いわね。次に行こう」
大原さんは、そう僕を促した。
「うん、生物室はすぐそばだし」
化学準備室を通り過ぎると、その隣が生物室だ。ここからも明かりが漏れている。中には、5人ほどの生徒が植物をスマホやタブレットで写真を撮り、何か調べているようだった。
「生物室も部活?」
大原さんの問いかけに、僕は頷く。
「非運動系の部活もかなり活発でね、物理も地学も部活あるよ。ちなみに物理と地学の教室はちょうど真上ね」
「そうなんだ、すごい。前の学校って、『科学部』の一言でまとめられていたし、部員も全然で幽霊ばっかりだって聞いたことがあるわ」
「確かに、他の学校の友達でもそんなこと聞いたことあるなぁ」
僕たちはクスッと笑って、次、体育館に向かう。
その途中で、楽器を持った生徒の集団とすれ違う。吹奏楽部の生徒達だ。おそらく、パート練習だろう。
「吹奏楽部もたくさんいるね」
ぞろぞろと歩いてすれ違う吹奏楽部の部員達を見て大原さんが呟く。
「やっぱり、この地区で1,2を争う実力校だから、ここで吹奏楽やりたくて高等部に入ってくる人もいるんだ。だからたくさんいるし、人数が決められている大会だと、オーディションしているって吹奏楽の子、って大木さんね、から聞いてる」
「大木さん、吹奏楽なんだ」
と大木さんの話をしていると、ちょうどすれ違いそうになった彼女が僕たちに気づく。大木さんは、僕たちの顔を見て顔をほころばせて僕に礼を言う。
「あ、東条くん、ちゃんと案内してるのね。ありがとう」
「いやいや、礼には及ばないよ。部活、頑張って」
軽く挨拶を交わすと、大木さんは「ありがとう」と言う。
一方で、大原さんは大木さんの持っている楽器に視線を移して質問する。
「大木さんの楽器って、クラリネット?」
「ええ、そうよ」
「楽器できる人って、良いなぁ~」
なんて大原さんは言う。これ、男の人も含めてって言うことなんだろうなぁと思うと、ちょっとした嫉妬心がわき起こるのを僕は否定できなかった。
「大原さん、吹奏楽部入る?」
なんて大木さんが何の気なしに部活に勧誘する。すると大原さんは僕の顔を見て、
「大木さん、ゴメン。私、バドミントン部に入ろうかと思ってるの」
と嬉しいことを言ってくれる。その言葉に、大木さんはちょっと残念そうに、
「そうなんだ、残念」
と言ったあと、「あれ?」と顔を僕の方に向けて続けた。
「そういえば東条くんって、バド部だよね?」
「ああ、そうだよ」
と僕が答えると、
「そうなんだ。東条くん、部活がますます楽しみになるんじゃない?」
なんてからかってくるものだから、僕はまた顔を赤くする。本当に、クラスメイトのみんなは容赦ない!
僕が照れているうちに、大木さんは後輩から「早く行きましょう」と促されて。「あ、それじゃまたね」とパート練習の場所へと向かっていった。他のパートの部員達も他のところへ行ってしまい、廊下に僕と大原さんが取り残された。
「…体育館、行こうか?」
僕は、大木さんの言葉から来る動揺を抑えられず、それだけしか言えなかった。
「うん」
大原さんは頷いて、僕の隣に並んでくれて、体育館に向かった。
「体育館は3つと武道場があって、だいたい体育は第1体育館を使ってる。第2,3は部活はもちろんだけど、授業時間の中だと球技大会で使われるね」
気を取り直した僕の説明に、大原さんは
「あ、この学校でも球技大会があるのね」
と答える。僕は頷いて、
「期末試験の後とかって、定番でしょ?」「うんうん、前の学校もそうだった」
と、どんどん言葉遣いも話す雰囲気も、柔らかくなっているのが自分でも分かる。
「で、体育館への渡り廊下は、北校舎から第1,中央校舎から第2,南校舎から第3となっていて、体育館同士ももちろん渡り廊下があるから、どこからでも行けるよ」
そう話しながら、中央校舎から第2体育館へ入る。
そこでは、バドミントン部とハンドボール部が練習をしていた。
バドミントンのコートは4つ出ていて、男女がそれぞれ2コートずつ使っている。部員は男女で20人ほど。実のところ、本当に強い人たちは他の強豪の私立に流れていて、ここにいるのは県でベスト16に入ることができるかどうかくらい。僕に至っては出られても1回勝てるかどうかだ。
今はちょうど基礎打ちが終わって一息入れていて、もうすぐノックが始まるのだろう。
大原さんはスマホで時計をチェックすると、
「5分くらい見ても良いかな?」と僕に聞いてくる。僕もスマホで時間をチェックすると、17時45分を回ったところだったから、「うん、大丈夫だと思うよ」と言って、男子の部長である、工学コース2年の芹沢達弥に声をかけた。
「芹沢、ちょっと見学者がいるから見てて良い?」
僕から声をかけられた芹沢は僕の顔を不思議そうに見て、「あれ?お前今日休みだったんじゃ?」と言う。
「僕のクラスに転校生が来て、校内の案内をしていたんだよ」
と僕が言うと、芹沢は、僕の後ろにいる大原さんを見て驚く。
「噂の転校生か?うわ、確かにめっちゃ可愛い子!って、何?バド部入りたいの?」
「今のところ、そのつもりみたいだよ」
「オッケー、じゃ、見ててもらって良いよ。ちょうど今日は男女の合同練習日だったから良かったんじゃない?」
「お、そういえばそうだった、サンキュー」
と、軽いノリで許可をくれた芹沢に礼を言って、僕たちはコートの近くに並んで立つ。
ノックが始まる。一人がネットの前に立って少しばかり角度をつけた速い球を左右に手で投げる。投げられた方は、その球に合わせてラケットを出して、反対のコートのネット際に返す。いわゆるレシーブの練習だった。
一人頭20球。それが終わると交代して受けた側は球出しを、球出しをしていた方は返ってきたシャトルの球拾い、担当がない生徒は、コートの外で筋トレといった感じでローテーションしている。筋トレしている部員の視線は、僕たち…と言うより大原さんに向いているようだった。そりゃ、そうだよな。制服の二人組、それも美人転校生なんて言ったら目立つもの。特に、並んで筋トレしていた男女二人組――野山と五十嵐という、政経コースのカップルなんだけど――は今にも話しかけたそうにしている様子だった。
でも、そんな視線にやっぱり大原さんは動揺することなく練習を見ていた。
「基本を大切にという感じなんだね。男女合同で練習するのもなんだか新鮮」
と大原さんは言う。僕は頷いて、
「そうだね。基本なくして応用なしだから、かな。あとは偶に動画見て練習方法とか話し合うよ。体格差で男女の差はあるかもしれないけど、たまに一緒に練習すると、いつもと違う相手とするからそれはそれで勉強になるんだよ」
「それもそれで楽しそうね。でも、もう時間だから、そろそろ行かなきゃ」
なんだかんだで、時計は17時55分を指していた。5分のつもりが10分も見てしまっていた。
「それじゃ、帰ろうか。芹沢、ありがとうな~。明日はちゃんと来るから!」「ありがとうございました!」
ローテーションが1巡したのを見計らって、僕たちは挨拶をして帰る。芹沢は「おぅ、また明日な~」とやっぱり軽いノリで返してくれた。
中央校舎から生徒玄関まではほぼ一直線。その間も、部活の練習のことで少しばかり話をした。
「初心者で入ったけど上手になりたくて練習してきたから、1年半でそれなりには動けるようになったと思うんだ」とは彼女の弁。僕が「男女合同の練習日を楽しみにしてるよ」と言うと、「うん、頑張る」と言って両手で拳を握る。そんな姿も可愛い。
玄関に着いて靴を履き替え、校舎から出る。時刻は目標の18時になったところだ。太陽は都会のビル群に隠れ、夜の帳が下ろされるまであと少しのところだった。
「今日一日、どうだった?」
僕は玄関を出たところで、ポケットから自転車の鍵を取り出しながら問いかける。
「すごくいい一日だった。この学校に転校して良かったと思う」
そう嬉しいことを言ってくれる笑顔の大原さんに、僕は
「そう言ってくれて嬉しいよ。僕は自転車だけど、大原さんは歩きだよね?」
「うん、じゃ、今日はここでさよならかな?」
自転車小屋は校門から少し離れた北校舎の奥、学食のある建物と北校舎の間を抜けたところにある。さすがに「一緒に帰ろう」と直接的に言う勇気はなかったけど、それを促す言葉が出ていた。
「そうなる、かな?正直、僕は名残惜しいんだけど」
そんなことを言う自分に正直驚いていた。あまり自分の都合や考えを押しつけがましく言うのは控えるようにしている僕。でも、彼女相手には素直に自分の言いたいことが言える気がして。その僕の言葉に、
「うん、途中までなら、一緒でも良いよ。私も、校内の案内してもらってとても楽しかったし、もう少し話をしたいと思った」
と、大原さんはさらに嬉しいことを言ってくれた。僕の心は小躍りして、
「ありがとう!じゃ、すぐに追いつくから、先に校門出てて良いよ。校門出てどっちに行くの?」
「えっと、左ね」
「あ、それじゃ帰る方向は一緒だよ」
「そうなんだ。それじゃ、先に行ってるね」
と軽くやりとりしてからいったん僕たちは別れた。
早めに部活が終わる文化部や、受験勉強をしていたと思われる3年生の生徒達に混じって、僕は急いで自転車を取りに行く。
オリーブのような緑色をしたクロスバイク、トップチューブにフランス国旗をイメージした意匠、フランスの車メーカーが出している自転車だ。カゴはなくて荷物は背中に担ぐしかないんだけどデザインが良いから、高等部に入る前に入学祝いに親から買ってもらった。
ママチャリよりも加速感があって、乗っていて楽しい。
ロックを外して、ヘルメットを装着。さぁ、大原さんに追いつこう!
クンッとペダルを踏むと、その力をタイヤは前に進む力に変えてぐんっと加速する。
彼女が言ったとおりに校門を出て左へ向かう。程なく、今日一日一緒にいてもう見慣れたセーラー服を僕の目は捉えた。
「大原さ~ん!」
僕は彼女を呼んで、車道から彼女の横に並ぶ。
「東条くん、早いね」
僕は自転車からさっと降りて体は歩道に、自転車は車道にという体勢で歩き出した。
「うん、僕の相棒はスポーティだから」
と僕は言いながら車道の自転車を歩道に引き上げた。
「え?こんな格好いい自転車でもいいの?」
僕の自転車のフォルムを見た大原さんは目を丸くして僕に尋ねる。
「うん、基本的に原動機付きじゃなければ何でも良いよ。ただし、ヘルメットは必須。ちょっと前まではなくてもOKだったけど、ほら、法律できたでしょ?あのときからうちの学校はヘルメット着用義務できちゃったんだよね」
「へ~、そうなんだ。でも、ヘルメットは努力義務だよね?罰則はないって聞いたけど」
「だよね。ただ、事故で誰々が怪我したから気をつけるようになんていう集会が年に1,2回は開かれているから、学校も生徒の安全を優先しているんだと思うよ」
目の前の信号が、青から赤に変わる。また少し、彼女と話できる時間が延びることが嬉しい。
「なるほどね。私も自転車通学にしようかなぁ。自転車だと近いけど、歩きだとちょっとが遠いんだ」
「歩いて20分ほどだったっけ?朝の会話ちょっと聞こえたよ」
「そうなの。歩いて20分ってだいたい1.5キロくらいだと思うけど、ちょっと歩くのは大変かなって。まぁ、いい運動だと思えば良いのだろうけど」
大原さんはそこでクスッと笑う。その表情、あぁ、可愛い。でも、信号は青に変わってしまう。
再び歩き出しながら、大原さんは僕に問いかける。
「東条くん、ちなみにだけどその自転車はどこで買ったの?」
「城西商店街に全国展開しているチェーン店があって、そこで買ったよ。元々、その自転車店のネット通販ページを見て気に入ったから地元にもないかなと思って行ってみたんだけど、お店になかったから、通販取り寄せになったんだ」
「やっぱり、世の中ってどんどん便利になっていくのね。私の家、通販ってしたことないなそういえば」
「一回買ってその便利さに慣れると、どうしても欲しい、でもこの近辺にはないという場合は本当に使って良かったと思うよ。僕もどうしても欲しいものは、父さんか兄さんにお願いしてる」
僕がそう言うと彼女は「兄さん」の言葉に反応したみたいで、
「お兄さん、いるんだ。私、妹がいるの」
と話して、彼女のプライベートに話の流れで初めて触れることができた。
「妹さん、いくつ離れているの?」
「3つ。結構生意気になっちゃって、手を焼いてる、かな」
そう言って、大原さんはチロッと舌を出す。そんな表情も僕をドキッとさせる。
「へぇ、そうなんだ。僕は兄さんのさらに上の姉さんがいるけど、もういつもからかわれてるよ…」
こっちは心底嫌そうに呟く。
「でも、お姉さんって、長女の立場からすると憧れなんだよね。甘えたいというか」
「そうなんだね。自分は一番下だから、家族から溺愛されている…と思うよ」
「羨ましい~」
そんなことを笑って話しながらしばらく一緒に歩いたけど、僕と彼女はとうとう別れる時が来る。
城西商店街という商店街の入り口。どうも彼女の家はこの商店街を抜けた先みたい。僕の家は、この商店街に入る手前で曲がらなくてはならない。さすがに、ご飯の準備のためにスーパーに寄る彼女についていくという、図々しい選択はできなかった。
「それじゃ、今日はここで」
僕が名残惜しそうに言うと、大原さんも
「うん、今日は本当にありがとう。また明日ね」
と礼を言ってくれる。僕は連絡先を聞きたいと思ったけど、それはまたの機会にしよう。あまりにも初日からガツガツ行き過ぎたと思ったから。初日にしては上出来すぎた。こうして一緒に帰ることもできたのだから、今日はまずそれで満足だ。幸い、席は当分の間――たぶん2学期終了まで――隣同士なので、その間に聞くことができるようになればいい、そう思った。
「うん、また明日。気をつけてね」
僕は大原さんにそう声をかけて自転車にまたがり、ペダルを踏む。1速に入れてあったギアは、クンッと漕ぐ力をタイヤに伝えて颯爽と加速する。
「また明日ね!東条くんも気をつけて!」
その声にちょっとだけ後ろを振り向くと、大原さんは僕の後ろ姿を見送ってくれていた。
「ありがとう!」と言って右手を振ってから前を向き、ギアを2速、3速と入れて緩く加速し、家へと帰る。
その間も、僕の頭からは大原さんの笑顔が、話す声が離れない。もう、どれだけ夢中になっているのだろう。大原さんと別れて5分、自宅に到着する。自転車小屋に自転車を置き、ハンドルにヘルメットを掛けたら、
「ただいま~」
朗らかな声でそう言いながら玄関ドアを開ける。すると夕食の用意をしていた母さんが
「あら、慎ちゃんお帰り。何か機嫌が良さそうだけど何かあった?」
なんて言うから、さすがに自分でもかなり浮かれていたんだとようやく自覚する。
母さんには平静を装って「いや、別に」と言うけれど、さすがにお見通しだ。
「最近の慎ちゃんはそんなに機嫌の良い時はなかったから、さすがに何か良いことあったとしか思えないのよ。ほらほら、話しちゃいなさい」
「いや、それは秘密!」
僕は、まだ頭の中から消えない大原さんの姿を意識して顔が赤くなる。その様子を見逃さなかったのか、
「あ、赤くなって照れてる。もしかして、女の子に告白された?」
「そんなんじゃないって」
僕はさすがにこれ以上母さんに詮索されたくなくて自分の部屋へと逃げる。2階の一番南側の部屋、そこが僕の根城だ。隣は5つ上の兄さん、逆の隣は7つ上の姉さんの部屋だ。二人とも帰ってはいるようで、ドアの隙間から明かりが見える。でも、僕たちはいい年だから帰ってきたくらいではお互いにほとんど干渉し合わない。
鞄を置き、スマホを取り出してバフッとベッドに横たわる。
「なんて1日だったんだろう!」
と呟く一方で、
(あ~!やっぱり連絡先交換しとけば良かったかな~)
と思っても後の祭り。仕方なく僕はいつもやっている音ゲーのアプリを起動する。
しかし、起動したは良いけれど、何だか手に着かない。いつもフルコンボできる曲が、ちょっとしたズレを起こしてコンボブレークを連発する。
「やってられないなぁ」
原因はもちろん、大原さんだ。今頃、ご飯を作って家族と食べているのかなぁ、とか、もしかしたら、連絡先を交換したクラスメイト達と早速グループチャットで盛り上がっているのかなぁって、色々想像をしてしまう。
そんなことを思っている自分がすごく、なんて言うんだろう、キモイと思われそうなくらい、彼女で頭の中がいっぱいになっている。本当に、一目惚れってあるんだな、そして、こんなにも強い思いを抱くものなんだな…。
「みんな、ご飯だよ、降りておいで!」
ご飯だと僕たちを呼ぶ母さんの声に、現実に戻る。
「ほーい」
僕は兄弟の中で先頭を切って、リビングに向かった。
ご飯を食べている間もちょっと上の空で、テレビから聞こえてくるニュースの声があまり頭の中に入ってこない。それでも、ご飯はしっかりと食べて、
「ごちそうさま。じゃ、風呂入ってくる」
と一番風呂をいただく。
風呂から上がってさっぱりしてリビングに戻ると、兄と姉――晴城と伊緒奈――はニヤニヤして僕が来るのを待ち構えていた。父さんは僕と入れ替わりで風呂へ。母さんはキッチンで食器を洗っており、今リビングにいるのは3兄弟だけ。
眼鏡をかけて、生真面目そうに見える兄と、茶髪でちょっと露出の多い服をよく着ている、軽そうに見える姉。…そんな顔をする二人は珍しい。最近はそんなに構ってもらってないだけに。
「どうした、二人とも?」
「いや、慎ちゃんにも春が来たと聞いてな」「どんな子なのか聞きたいわけ」
「え…?」
もしかして母さん、さっきのやりとり話したのか?
「いやいや、そんなことはないって」
「あれれ?そう言ってる割には顔が赤くなってるぞぉ」
と、お酒が入っていつも以上に艶っぽい声で僕に迫ってくる伊緒姉。僕はその圧に負けて「うぅ…」と後ずさる。しかし、その先にはいつの間にやら晴兄が先回りしていて、「ほら、吐け~!」と後ろから羽交い締めする。
「ちょ!晴兄!」
そして、伊緒姉は僕をくすぐり出す。
「ほらほら、早くぅ~」
年上二人からの攻めには逆らえず、僕は「分かった!」と言って降参する。
僕は、今日あった出来事を順に簡単だけど話した。
「なんだか、聞いているだけだと少なくとも悪い印象は持たれてないみたいだから、もしかすると、もしかするかもね。う~ん、なんだかセーシュン!あ、今はアオハルか!いいなぁ。上手くいった暁には、もちろん私たちに紹介してくれるよね~。」
伊緒姉がそう言って背伸びする。
「伊緒姉には紹介したくないかも…」
と僕が呟くと、伊緒姉は僕の頭をいきなりわしづかみして、
「な・ん・だ・っ・て・?」
と怖い笑顔をしてくる。
「はい、すみません。紹介させていただきますです、はい」
「分かればよろしい」
だからその圧怖いんだっての!その一方で、
「聞いている限り、すごく良い娘みたいだな、ま、頑張れ!」
晴兄も応援してくれるみたいだ。
「うん、ずっと彼女の隣にいられるように頑張る。んじゃ、勉強して寝るから。お休み~」
僕は話しているうちにだいぶ時間が経っていて21時を回りそうになっていることに気づき、二人にそう言って自室へと向かう。その僕の背中に二人の声が同時にかかった。
「お休み。勉強もしっかりな」「アオハルガンバ!」
部屋に戻って明日の確認。明日は数学、化学、物理、オーラルコミュニケーション、体育に世界史、最後はもう一回数学。理系の日と言っても良いくらいだ。予習がいるのは数学とOCか。OCを中心に1時間ほど勉強してから、気分転換でスマホを覗くと幸弘からライナーが来ていた。
“今日は放課後どうだったんだ?”
と来ていたので、僕は放課後の行った先、やりとりの事実だけを大まかに返す。
ちょっと間があって、ピコっと返事が来る。
”おぉ、もう既に一緒に帰ることができたなんてな。お前にしちゃかなり上出来じゃないか?”
そして、ほぼ間なく次も来る。
“やっぱり、昼の出来事は大きかったと思うぞ”
実際そうなんだろう。僕だってまさか初日からこんなに距離が縮まるとは思っていなかったから。
「うん、でも、今日は本当に運が良かっただけ。明日以降彼女に幻滅されないように頑張ってやっていくよ」
と送ると、すぐに返事が来る。
”無理というか、自分を偽ることだけはするなよ。妙にかっこつけたりせず、自然体のお前でいれば良い。”
そうだね。全くだ。力むことはあっても、自分に嘘はつかない。それは、絶対だ。
”大原さんも、絶対お前に悪い印象は持ってないと思う。焦らずに少しずつで良いと思うぞ”
「それ、さっき伊緒姉にも言われたよ。じゃ、少し遊んだら勉強に戻る。ありがとう」
そんなメッセージの次に、「Thank you guys!」のスタンプを送る。ところが行き違いになったのか幸弘からは、
”伊緒奈さんか…相変わらずセクシー衣装で男達を悩殺してるのか?”
なんてメッセージが来る。
「まぁ、そうみたいだな。悩殺するだけして勘違いさせてる感じだけど」
そう、伊緒姉は格好が格好だけに「遊んでいる」と思われがちだけど、何気に身持ちは堅い。男の様子を観察して、つきあっても大丈夫かどうかを判断する能力に長けていると思うというのは、幸弘の弁。
確かに何人かの男性とつき合っていたけど、見た感じ真面目に見える人が多かった。
”そうか。久々に伊緒奈さんと話してみたいかな~ちょっと際どい話題でもついてきてくれる貴重な年上の女性だし”
「んじゃ、次の週末にでも遊びに来ると良いよ」
”了解。そういえば、週末楽しみだな。今度はアメリカGPっだったな”
と言うメッセージに続いて、
”Keep Pushing!!”
のスタンプが届いた。僕たちはF1が好きで――お互いの父さんの影響なんだけど――父さんが契約しているスポーツ系ライブ配信アプリを入れてもらって観戦しながらライナーで盛り上がることがある。
もちろん、応援しているチームとドライバーに対して幸弘は言っているのだろうけれども、Keep pushing――本来は、押しまくれ。レースでは、攻め続けろと言う意味――からすると、僕にもそう言っているような気がした。
そのスタンプを見て僕はふっと軽く口元を緩めてスマホをベッドに放り込み、後半の数学予習をする。
予習は30分くらいで終わって時計を確認すると、まだ時間は23時になってない。僕は再びスマホに手を伸ばし、ライナーを何の気なしに――新規メッセはないんだけど――覗く。クラスのライナーグループは作らないことになっている。なぜなら、クラスの連絡は、高等部に入る時にタブレット端末を全員購入することになり、そのタブレットに学校からの連絡や課題、クラス内での連絡ができるためのアプリが入っているため必要ないとみんなで話し合って決めた。だけど、年に1回とは言えクラス全員で遊びに行くとか、そういう連絡はさすがに学校用のアカウントではしづらいので、数人単位でのグループごとにライナーで連絡し合うになる。ただやっぱり、それはそれで不便だ。他のクラスの中には、クラス全員用のグループを作ったところもあると聞いている。
僕が所属しているライナーグループは3つだけ。部活と幸弘を中心とする男子数人の仲良しグループに加えて幸弘、三上と僕の3人からなる幼馴染みグループだ。中学部に上がってしばらくしてから、幸弘に誘われたんだ。「せっかくこうして十何年も一緒にいるから、グループくらい作っとくか?」って言われて。そのグループは作っただけで、1年に数回、誰かが休んだ時に「大丈夫?」のメッセージが来るくらいで、たいした交流じゃない。けど、男子と距離を置いている三上との、数少ない接点であることは確かだった。
男子の仲良しグループにしても、結局学校で話をしていればそれなりに楽しいから、ライナーグループは基本大人しい。たまに、宿題なんだっけ?とか、今やってるサッカーの日本代表戦面白いから、テレビつけてみろよという感じの程度だから、適度な付き合いでやりやすい。
まったく通知の来ないスマホを今度は机の上に置いてライトノベルの続きを読む。でも、ものの10分くらいで今日の疲れが押し寄せてきたのか眠くなってあえなく意識は遠ざかっていく。
――夢で大原さんに会えないかな。まぁ、会えなくても明日会えるから良いけど――
かすかに残った意識は、そんなことを思い浮かべたのを最後に、僕は眠りに落ちた。
10月中旬の月曜日。中間試験が終わって少しばかり緊張が緩んだ教室で、去年この学園の大学部を卒業したばかりの春日先生が今週の日程を伝える。
ここ、臨魁学園は、小・中・高・大の一貫教育の私立校で、数多くの優秀な人材を多方面に輩出している。
僕、東条慎吾はその中の高等部二年、『教職コース1組』。名前のとおり、教師を目指す者達の為にあるコースだ。文系理系は3年で分かれるから、文系が得意な生徒、理系が得意な生徒、どちらもできる生徒、どちらもあまり得意ではないけど、頑張って食らいついている生徒とクラスメイトは色々だ。
普通、こうした教師を目指すための課程は大学しかない。が、「多方面」に優秀な人材を輩出しているだけあって、かなり多くの職種・コースが中等部から設けられていて、一般の高校にはあまり存在しない、『政経コース』や『福祉コース』、『アスリートコース』などが中等部から設けられているから、よく他校の生徒からは驚かれる。
将来の夢がハッキリしている生徒のための学校、と言いたいところだが、入学して授業を受けているうちに「あ…これは違う」と感じる生徒だって中にはいる。そうした生徒のためにも、もちろん途中の進路変更は可能だし、そのために中学部や高等部では、『普通コース』が設けられており、そこで自分探しをしてから進むべき進路を見据えて大学部へ上がっていく生徒も多いと聞いている。
もっとも、『教職コース』とは言っても実際に授業をする場面というのはなくて、どちらかと言えばプレゼンに近い形で『人前に出てしゃべる経験を増やす』授業が多い。
『教職コース』の教室での僕の席は、一番後ろの外側。外を眺めるにはもってこいの場所で、外を見るとすぐ校庭が広がり、その向こうには高層ビルが見える。
「それともう一つ…」
おっと。先生が話を追加した。何だろう?
「本日より、転校生がこのクラスに来ることになった。みんな、仲良くしてな」
(転校生?よりによって教職コースにか。珍しいな)
僕がそう思うと同時に教室の扉が開き、転校生が入ってきた。
女の子だ。背は結構高い。一六五センチはあるだろうか。着ている服は、前の学校の制服だろう、藍が基調セーラー服。
黒が基調のブレザーが制服のこの学校で、セーラー服は異質に見える。けど、出ているところは出ていて、腰も結構締まっているみたいで一瞬モデルかと思った。しゃんと背筋が通って颯爽と歩く姿に、すごく見とれてしまった。
そして、教室のみんなの方を向くと、その顔立ちがハッキリと分かる。うん、美人だ。
髪はボブカットくらいの長さだけど軽くウェーブがかかっている。ちょっと癖っ毛なのかな、とも思うけれども、ウェーブは自然な感じ。鼻すじも通っていて、口元もかわいい。しかし、何よりも僕を魅きつけたのは、彼女の瞳だ。
漆黒だけど透き通っていて、何事もまっすぐに見ようとする鋭いまなざし。しかしそれは決して冷たいものではなく、視線の先にあるもの全てを肯定的に見ようとする、前向きな、暖かい瞳。
(なんて素敵なのだろう…!)
僕の心の中で、何かが弾けた。それと同時に僕は、彼女の瞳から眼を離せなくなっていた。
教壇に立ってこちらを見ていた彼女は後ろへ振り向き、白板に黒いマーカーで自分の名前を書き始めた。
一文字ずつ、はっきりと。
『大』
『原』
『更』
『紗』
――大原更紗。
そう書いてマーカーを下ろした彼女は、僕達の方を向いた。
「はじめまして。大原更紗と言います。ここに来る前は京都ににいました。これから宜しくお願いします」
聞き取りやすい、綺麗なアルトで挨拶をして彼女は一礼した。
そして、彼女は姿勢を正す。その瞬間、僕と彼女の眼が合った…気がして、僕の意識は彼女以外の誰も認識しなくなって、時間が僕と彼女の間にしか流れていないような、夢の中にいる感覚に襲われた。
もちろん、自分に向けた視線ではないと思う。でも、彼女の瞳は、「あなたは?」と僕に問いかけてくる様にみえた。たぶん、みんなの顔を見ながら、知らない顔ばかりのこのクラスの雰囲気を感じ取って一人一人に問いかけるような感覚だったのだろう。
彼女は一瞬だけみんなから視線を逸らすように目を閉じた。それと同時に、僕の時間の流れ方が普通に戻ったように感じられた。
(惜しかったな。もっとあんな風にいたかったな・・・)
正直、僕はそう思った。
「というわけで、教職コースとしては転校生が来るのは珍しいことではあるけど、みんな、彼女のことをよろしく頼むよ。大原さんが前の学校の制服なのは、転校が急だったのと、まぁ、この学校の制服の準備が間に合わなかったということなんだ。まぁ、あまり気にしないようにな。週末には、制服が届くって聞いているし」
春日先生のいつもの口癖、「まぁ、」が時折入りながらいつものように話してくれる。気さくでいい先生。ある意味目標である。
「じゃあ、大原さん、あなたの席は・・・」
そう先生が言って教室を見回す。幸い、僕の隣には誰もいない、机もない、ただのがらんどう。あと一人、僕とは全く逆の廊下側に、僕と同じ様に隣がいないクラスメイトがいる。
(先生、頼みます!こっちに案内しろください!)
僕はそう念じた。すると、先生は僕の方を向いた。
「東条君の隣にしよう。おい、東条君。彼女の為に机と椅子を用務員室から取ってきてくれないか?昨日準備しようと思っていたんだけど、ちょっと忙しくて準備できなかったからね」
よっしゃ!僕は担任が言い終わるや否や、立ち上がって「はい、わかりました!」と大きく返事をした。クラスメイトの視線は僕の方に集中する。たぶん、僕の顔は真っ赤だったに違いない。教室の外へと駆け出すと、僕の教室からどっと笑い声が起きたのが聞こえた。多分、僕の反応を笑ったのだろうと思うけど、そんなことは今の僕には関係なかった。彼女の隣になれることが嬉しくて舞い上がっていたから。
2階から階段を駆け下り1階へ。1年の教室から生徒玄関を越えると職員室や校長室がある。さらにその先、校舎の一番端に、用務員室がある。扉の前で止まって、いったん息を整えてから
「失礼しま~す」
そう挨拶して部屋に入ると、還暦近くに見えるの作業服に身を包んだおじさんがお茶をすすっていた。
「お~、どうした?」
誰にでも気さくな語り口をするから、学校用務員という僕らと直接の接点が少ないながらも、意外と生徒からの人気がある坂居さんだった。
「うちのクラスに転入生が来て、机と椅子を運ばなくちゃなんです。春日先生に頼まれたんですが、どこにあります?」
すると、坂居さんは
「おぅ、そこにあるよ。春日先生、昨日のうちに用意しておいたのに持って行くの忘れてたみたいでさ」
なんて言ってかかっと笑う。ん?春日先生、忙しくて準備できなかったと言っていたけど…どっちが真実なんだろう?
そう内心では考えながらも、僕は坂居さんに確認する。
「じゃ、これ持って行けばいいんですね?」
「そういうことだな。気をつけて持って行くんだよ」
「あ、はい、ありがとうございます」
僕は、椅子を逆さにして「よっこいせ」と机の上に乗せ、机を持って用務員室を出た。
さっきとは違って、ゆっくりと、前を見ながら歩く。
歩く先の廊下はまだ朝のホームルームが終わっていないクラスが多く、人影はまばらといったところ。
僕、東条慎吾は数学が得意で語学は苦手…。バドミントン部で準レギュラーとは聞こえがいいが要は万年補欠(中学部に上がってから始めたので、さすがに小学校からずっとやっている連中にはなかなか勝てない)。友人もそれなりにいて、昼休みはそんな友人たちとバスケットに興じる。女の子との会話はそれなりにできるけど、気の利いた言葉がうまく言えないこともあってか、そんなにモテる訳でもない。
――そんな、普通の少年だと思っている。
机と椅子を用務員室から持ってくると、ホームルームは既に終わっており一時間目の前のインターバル。春日先生の姿はもうなかった。
肝心の彼女はというと、僕がせっかく机と椅子を運んできたというのに、教壇のところにいる。クラスメイト達、全員女子と言ったところだけど、彼女らが十重二十重と壁を作ってしまっていて、僕の声が彼女に届きそうにない。
とりあえず机と椅子を僕の隣において、僕は自分の椅子にどっかと座る。
すると、誰かが肩を叩いた。僕はそいつの姿を確認すると口を開く。
「幸弘、何だ?」
僕の肩を叩いた奴は、矢野幸弘。幼稚園の頃からの幼馴染みで、かれこれ十数年の腐れ縁だ。家族にも言えない悩み事は、いつも二人で語り合っている。信頼すべき、刎頸の交わりを結んだ生涯の友だと思っている。
顔はどちらかと言えば厳ついのだけど、笑った顔は少し幼く見える、普通に見れば結構なイケメンだ。それに、175センチしかない僕と違って185センチはある背丈、その背丈からバスケットボール部に誘われたりしていたのだが、中学部からずっと弓道部に所属している。一度、「なんで弓道なんだ?」と聞いてみたが、答えは「激しくないスポーツがいいし、袴姿って格好いいと思わないか?特に女の子。凜々しく見えるし、意外と体型も分かっちゃうんだぞ」という実はスケベ。実際モテるのだが、その本性を隠さないので女子からは少し距離を置かれている。しかし完全に嫌われているわけではない。男子からは逆に、そのスケベトークで人気を博している。
「話しかけに行かないのか?惚れた相手に」
いきなり耳元で小さい声で切り出されて、僕は思いきり焦った。しかし、なるべくそれを他の人間に気付かれないようにこらえ、僕は幸弘の方を向いた。
「よくわかったな」
「何年つきあってると思う?気付かんほうがおかしい。それに、あれだけ赤い顔していれば誰でもわかる」
「そっか…」
僕はわざとらしく、大きいため息をついた。
「どうするんだ?」
そう聞く幸弘に、僕は少し諦め気味に答えた。
「ま、あんな状態だ。待つしかない」
「そうか?彼女、大原さんだっけ、ずっと立ちっぱなしだからそろそろ座ってもらってもいいんじゃないかな?それを口実に話しかけるのもありと思うけど?」
幸弘の提案は至極最も。さらに、机を運んできた人間がするべき仕事だろ、と付け加えた。そうだな、ここは立ちん坊になっている大原さんに座ってもらうべきだ、と僕は意を決して、幸弘に
「じゃ、行ってくる」
と言うと、幸弘はにやっと笑って答えた。
「気をつけてな」
何に気をつけるんだか、と心で思いつつ、僕は教壇に向かった。そして、十重二十重の包囲網を突破しようと目論むもやはり女子が多い手前、やりにくい。でも、一番外側にクラスで一番仲のいい女子である中山和子を見つけた。
「中山さん、助けてくれない?」
と僕は彼女に声をかける。お下げ髪に下部がフレームレスになっている赤い眼鏡の中山さんは僕の方を向くと、「あ、帰ってきたんだね。お疲れ様。大原さん、呼ぼうか?」と言ってくれる。この子の気遣いには、いつも感謝している。彼女は、「ちょっとごめんなさい、通してくれないかな?」と前にいる女子一人一人に丁寧に声をかけて、そして、声をかけられた女子たちは中山さんの後ろに僕がいるのを見ると少し笑みを浮かべて僕を一瞥してから、どいてくれる。
中には、「頑張ってね」と声をかけてくれる子もいるんだけど…僕は自分の反応がわかりやすすぎたとは言え、彼女たちのその声かけに恥ずかしくなって苦笑いしながら、中山さんの先導で大原さんの元へとたどり着く。
「大木さん、お話ししているところごめんなさい。大原さん、ちょっといい?」
中山さんがクラスの副委員長で、クラス成績1位の大木さんという女子に断りを入れ、大原さんに話しかけてくれる。大木さんもできた人だから、中山さんの断りに「あ、私こそたくさん喋りすぎたみたい、ごめんね」と言って、少し体をどかしてくれる。
「はい、東条くん、私の役目はこれで終わりだよ」
と、中山さんは僕の肩を軽く叩いて、大原さんの目の前の位置を僕に譲ってくれた。僕は素直に「中山さん、ありがとう」と礼を言って、大原さんと相対する。
彼女と眼が合う。これで二回目。それも今回は間近で見る。
近ければ近いほど、すごく綺麗な眼をしていることがわかる。見るものを魅きつけてやまない、魅惑的な黒。僕の心はその瞳に吸い込まれそうになる。でも、そこは何とかこらえ、自分のすべきことを、伝えるべきことを伝えた。
「さっき先生に頼まれた東条だけど。机と椅子、持って来たよ」
「うん。ありがとう」
彼女は微笑みながら即答した。それと同時にチャイムが鳴る。
「あ、チャイム。今から授業?」
彼女の問いかけに、僕は答える。
「そうだね。1限目開始。すぐに先生来るから戻ろう」
他の連中も、僕の言葉を合図にしぶしぶ彼女から離れ、自分の席に戻る。
僕は彼女をエスコートする感じで、自分の席に戻った。
「ここだよ」
僕は自分の席に座る。大原さんも真新しい机の横に通学バッグを掛け、真新しい椅子に腰掛ける。そして、僕の方を向いて一言。
「ありがとう。これから宜しくね」
かわいい声に僕は脳が溶けるような感覚を覚えてしまった。そして、かろうじて一言、「こちらこそ」と口を開くだけだった。
僕はそのまま顔が真っ赤になるのが判ったけれど、それを止める術もなく、先生が入ってくるのを待つだけだった。
1時間目の地理の授業が終わり、休み時間になると、またも大原さんの周りには何人かの女子の塊ができる。僕は、次の授業に備えて古典の辞書を開いていた(家で予習しようと思っていたのにラノベにハマった挙げ句寝落ちしてしまい、慌てていたのは内緒だ)。
漏れ聞こえてきた内容は
「どこから来たの?」→「京都から引っ越してきたけど、元々は福岡。京都の前は広島だったし、少しずつ東に来てるなぁって」
「どうして引っ越してきたの?」→「父親の転勤で。もともと転勤族だけど、今回で一段落って聞いてる」
「どの辺に住んでいるの?」→「学校から歩いて20分ほどのところにあるアパート。でも、引っ越してきたばかりで段ボールの整頓が終わってないから、まだ誰も呼べないんだ」
「どうしてこのコースに?」→「中2の時にいい先生に巡り会えたから。理科と英語が好きだから、文系か理系かどっちにするかはまだ悩んでいるんだけど」
そして、休み時間も終わりそうな時、彼女に最後に話しかけてきたの女子の姿を確認すると目を疑った。三上夢衣。クラスの中では一番目立たないと言っていいくらいの生徒だった。背はそれほど高くないが、髪は腰近くまであるロングヘアでサイドは三つ編みを施している。でも、滅多に喋る生徒ではなくて、いつも何かしら本を読んでいるイメージ。
彼女も幸弘と同じく幼稚園の頃からの腐れ縁だ。小学部時代はクラスが違っていたけど、コースがある程度決まってくる中学部では、教職コースでクラス分けがあっても不思議とずっとクラスが同じだった。でも、その4年半の間で話をしたのは年に1回あったかどうか。同じグループになって学習をするときくらいだった。小学部の頃は結構話をしていたのに、中学部に上がってからてっきり話をしなくなった。というか、三上の方から男子に対して距離を取り始めたように感じていたんだ。だから、僕も話しかけづらくなっていて、年に1回喋るかどうかの間柄になっている。ライナーではまれにグループで接点はあるけど。
そんな三上さんが大原さんにおずおずとした態度で「本は好きですか?」と聞いていた。大原さんは、「うん、読書はそれなりにするかな。でも、最近は読めてないなぁ…」と答えていた。
すごく珍しい光景だと思った。もしかしたら、三上も僕と同じように彼女に好感を抱いたのかもしれない。
チャイムが鳴る1分前。「次は古典だから、もう戻るね」と大原さんの周りにいた女子達は席に戻る。幸弘の席のあたりでたむろしていた男子生徒もぞろぞろと自分の席に戻っていった。僕は何とか古典の予習を何とか終わらせて。大きく「ふ~」っと息をつく。
どうもそれが、大原さんにはため息に聞こえたのか、彼女は俺にちょっと僕の顔をのぞき込むかのような仕草を見せた。僕は、「?」と視線を彼女に向けると、その魅惑的な瞳で僕に目配せしながら「ごめんね、うるさかった?」と聞いてくる。
僕は、「いや、全然問題なかったよ。大丈夫。古典の予習で周りに注意を向けている場合じゃなかった(と言うのは半分嘘なんだけど)」と答えると、「ありがとう。優しいんだね。それに、こんな休み時間にも予習なんて、まじめだね」と返してくれた。そんな一言が、僕はとても嬉しかったけど、
「いやいや、まじめじゃなくて、ただ単に昨日寝落ちしてできなかっただけ。古典の先生厳しくてさ、ちょっとでも答えられないところがあったらプリント渡されて、放課後残しなんだよ。合格するまで帰ったり部活に行けないもんだから、みんな必死!」
思わずまくし立ててしまったが、この情報は絶対にこれからの授業には必要なものだから、役に立ててくれるとありがたいと思った。
「そうなんだ、教えてくれてありがとう。でも、寝落ちって、スマホの触りすぎ?」
「いや、本を読んでいるうちに、だね。スマホは基本11時過ぎたら触らないようにしてるし」
「スマホは11時までって、やっぱり真面目じゃない!?」
僕のおしゃべりにちょっと驚いた様子の彼女だったが、その目は笑っているように見えた。ちょっと幸せな瞬間を感じ取っていたところで、古典の芳埜先生――もうすぐ定年間近のおじいちゃん先生なんだけど――が入ってきた。入ってくるなり、クラスメイトはみんな居住まいを正す。厳しそうな雰囲気を感じさせながら、教卓に上がった先生が正面を向くと、学級委員長の鈴木がすぐさま「起立!」と声を上げた。みんなも一斉にすっと立ち上がり――もっとも、初めて授業を受ける大原さんは一瞬動作が遅れたのだけど――、「礼!」でちょうど始業のチャイムが鳴り授業がスタートする。
「はい、教科書117ページ5行目から。大木、読みなさい」
という芳埜先生のいきなりの指名に、大木さんは「はい」と返事をして起立し、教科書の文章を読み始めた。淀みなく文章を読む大木さん、さすがだ。ふっと横を見ると、大原さんの顔もすごい真面目で大木さんの声を集中して聞いているようだった。その顔もすごく印象的で、胸の鼓動が跳ね上がるのが、自分でも分かる。
大木さんの朗読が終わると、芳埜先生の解説が始まる。先生の話は無駄がない上に、いつ指名が飛んでくるか分からないからみんな緊張している。この先生の授業で寝るやつは、よほどの変人じゃないかといわれているくらいだ。僕も、休み時間に単語調べをしていたのは部活に行けないのが嫌だからで、古典が好きだからと言うわけではない。でも、教えるポイントは的確なので模擬試験の平均点は他のクラスよりも高いらしい。
だから、集中力のいるこの授業で大原さんのことを気にしている余裕はないのだけれど、やっぱり気になってしまうのは男の性だろうか、本当にちらっともう一回一瞬だけ彼女の横顔を拝もうとした。
そんなときに限って悪いことは起こるもので、芳埜先生から指名が来る。
「で、東条。この単語の意味はなんだ?」
「はい」
と僕は返事をして自分の教科書に目を落としてみたのだけど、え…あ…調べたはず、メモしたはずなのに、指名された単語の横には何も書いていなかった。何とかなると思って油断して書くのをサボっていた部分だった。でも、いきなり指名されて頭が真っ白になり、答えることができない。そうなると、下手にごまかしても無駄だし、残ることに関してもう覚悟を決めなくてはいけない。僕は正直に答えた。
「えっと…調べたはずですが、忘れました」
「うむ。では、大原、分かるか?」
僕のあおりを食らって、隣の大原さんが巻き込まれる。彼女はまさか当てられるとは思わなかったのだろう。かなり困惑した感じになって「分かりません」と小さな声で答える。
「はい。二人とも後でプリントを取りに来なさい」
芳埜先生にはおそらく転校生の情報は入っていただろうし、当然顔は初めて見るから分かるはずなのに、この扱い。転校初日にもかかわらず、芳埜先生は容赦しない。
「「はい・・・」」
二人の返事が力なく教室にこだました。
結局、午前中は同じような感じで休み時間は大原さんの机の周りに女子が集い、いろんな話をする。よく、話題が尽きないよな~と僕は感心する。時間を追うにつれ、大原さんへの包囲網が薄れてくれるのかなと思ったけど、全然そんなことはない。それどころか、噂を聞きつけた他のクラスの連中まで、彼女の元に現れるものだから、たまったものじゃない。
さらに言えば、転校生がめちゃくちゃ美人だとの噂を聞きつけた他のクラスの野郎達が、廊下から一目でもいいからと彼女の姿を見に来る始末だ。
「うわ、確かに美人」「美人の上に、かわいい」「あ、こっち見た!やべぇ、語彙力ない」
等と、廊下から聞こえてるぞ、おまえら!と、思わず鋭い視線を向けてしまったが、誰からも気づかれてはいないようだった。
そして昼休みになると、礼が終わった瞬間ダッシュしよう…と思ってたけど足を止めた。(大原さん、お昼はどうするの?)と思いきって聞いてみようとすると彼女は、机の横に吊ってあった通学バッグからお弁当を取り出していた。小さめだけど2段重ねのかわいい弁当箱のようだった。もう既に先約があったようで、大木さん、中山さんに三上までが俺の席が空くのを待っていた。それなら安心だ。
「お、大木さん、中山さん、三上も、俺お邪魔だな。ごめんな~。んじゃ、俺は学食行ってくる!」と今度こそダッシュする。背後から、「廊下は走らないの、気をつけて行ってらっしゃい!」といういかにも教職コースらしい大木さんの声が聞こえた気がしたが、学食は戦いなのだ。誰が先に食券を交換してもらえるのか、それが重要だ。ただ、ありがたいことに食券自体は2限目の休み時間のうちに手に入れることができる。古典のプリントを受け取ってから、急いで購買に行って買ってきたものだ。だから今は、食堂へ走るだけ。
廊下を走るな言われた手前、いつもよりちょっとゆっくりで学食に向かうが、途中の自販機コーナーで幸弘が珈琲牛乳を買って待っていてくれた。
「お、すまん。サンキュー、待っていてくれて」
「まぁ、急いでも学食は逃げないからな。ほんの1分くらい問題ない」
「だな」
そう会話して、今度こそ学食に向かう。
「おばちゃん、きつねうどん!」「俺は、カツ丼」
そう言いながら食券をカウンターに出すが、同じように「こっちラーメン!」「俺はカレー!」といった連中もいるものだから、声のでかいやつから作ってくれる。
きつねうどんは1杯250円、カツ丼は350円、今日はしてないけど大盛りは100円増し。小遣い(月3000円)とは別に、昼食代として1日500円もらっている。だから、小遣いは実質月に8千円~1万円くらいになる。そのお金はもちろん、遊興費や本代に消えるわけだけど…。なるべく安くてそれなりに腹が満たされる(満たされなくても別にかまわないけど)この学食には感謝だ。
僕と幸弘がそれぞれうどんとカツ丼を受け取り、席に座ってそれぞれ食べ始める。
「相変わらず出汁が薄いなぁ」とうどんを食べる俺。冷たい方がだし汁は濃いけど、10月に入ったこの季節柄、冷たいのはもうやってない。どうしても我慢できない時は、テーブルに備えられている醤油をかけることもある。
「慎吾よ、ちょっと様子見ていたけど、なかなか話しかけられなさそうだな」
幸弘の言葉がちょっと胸に痛い。
「そうなんだよな、やっぱり転校生って珍しいし、めちゃ美人で性格も良さそうでみんなの質問に律儀に答えるし。そんな状態でいつまでも女子の包囲が解けないんじゃ、話しかける隙がなかなかできないよ」
「そんなこと言っている割には、古典の前は結構いい感じだったと思うぞ。そして、二人仲良く課題もらっちゃって!このチャンスは逃すなよ」
幸弘は珍しく真顔で僕にそう言ってくれる。僕は、そう言われて満更ではなかった。
「そうだね。古典の課題もらったから、ある意味良いきっかけになりそうだ」
僕がそう言うと、幸弘はもっと顔を厳しくして、伝えてくれた。
「とは言えな慎吾よ、今、あの子がどんな話をしているのか、気になるんじゃないのか?今は女子と話をしているとはある意味包囲は薄くなっていると思うから、場合によっては他のクラスの男達から声をかけられるかもしれないしな」
幸弘の指摘は至極納得できた。こんなところでうどんをすすっている場合じゃないし、ましてやその後体育館へ行ってバスケットに興じるような余裕をかますわけにはいかないな。
僕は一気にうどんをすすって汁まで飲み干すと、幸弘に「すまん、先戻るわ。他の連中には…」とまで言ったところで、ぐにゃりと表情を崩した彼からクロスカウンターが来た。
「彼女とよろしくやるために戻ったって言っておくわ、心配するな」
「ちょ!」
僕はめいっぱい焦るけど、幸弘ならではの質の悪い冗談なのは重々承知しているのでふっとため息をつく。
「じゃあな」「ああ、健闘を祈る」
もう一度幸弘と短い言葉でやりとりして、僕は学食から走って教室へと戻る。その途中でのどが渇いたから、幸弘が買った珈琲牛乳を自分も買っておいた。
教室に戻ると、大原さんをはじめとする4人――大木さん、中山さん、三上――はまだ机を4つ向かい合わせにして話をしていた。僕が学食へ駆けだしてから戻ってくるまで15分もかかっていない。おしゃべりしながらお昼を食べる女の子達は、まだ食事自体終わっていなかったし、その周りには男子の影がなく、幸弘の懸念は杞憂だった。
だが、戻ってきた時には気づいていたが、他のクラスの男子が何人か、珍しく僕らの教室の前にたむろしていて、中を窺っていた。「ちょっと失礼」とそいつらに声をかけて教室に入ったのだけど、おそらく、大原さんが目当てなのだろうというのは容易に想像できた。だからいつ何時男子が声をかけてくるか分からないので、とりあえず教室で、彼女たちの近くにいようと思っていた。
ホント、たまたまだけど鞄の中に昨日の寝落ちの原因となったライトノベルを入れておいて良かった。それを鞄から取り出そうという理由を持って、彼女たちに近づく。鞄は大木さんが座っている僕の机と大原さんの机が隣り合わされていてその間にある。
「あ、大木さん、大原さんちょっとゴメンするよ。鞄から本を取らせて」
僕の声に二人は「あ、ゴメンね」と言った感じで少しだけお互い体をずらしてくれる。ただ、大木さんからは「ちょっと戻ってくるの早すぎじゃない?」と言う突っ込みをいただいたけど、「うどんの1杯くらい、すぐ食べ終わっちゃうからね。それに今日は、バスケと言うよりは本を読みたい気分だから早く戻ってきた」と本音を隠して言いながら鞄を引っ張り出してそこからライトノベルを取り出し、鞄を元に戻す。すると、
「あ、そのラノベ…」
予想外のところからか細い声がした。三上だった。
「ん?三上、知ってるの?」
彼女が僕や幸弘と幼なじみというのは大木さんも中山さんも知っている。だから、僕が三上を呼び捨てにすることに彼女たちは慣れている。
「私もちょうどそれの1巻を読み始めたところなんです。面白いよね、その作品」
「へー。三上もライトノベル読むんだ。結構意外な感じ」
「そうかもしれないですね。でも面白いもの。つい読んじゃいます」
「そっか」
そんなやりとりを見て、三上以外の女子3人のうち2人は普通に受け流している感じだったけど、大原さんは僕と三上の顔を交互に見ていた。
「結構仲が良い感じだね」
と彼女は言うから、僕は、「幼稚園からの幼馴染みだよ。でも、こうやって会話するのは久しぶりだな」と伝える。
大原さんは「そうなんだ」と言って三上に視線を移すと、三上も「私って元々引っ込み思案なところあるし、中学部に入ったあたりから男の子と話すことが苦手になったし」と大原さんに告げていた。でも、三上の大原さんに対する態度、どう考えても引っ込み思案なところじゃないんだけどな…。
でも、これ以上プチ女子会にお邪魔をするのも悪いので、「ゴメン、邪魔したね」と告げて少し離れた幸弘の席でさっき買った珈琲牛乳を飲みながらラノベを読ませてもらうことにした。もちろん、目は文章に向いているが、耳は彼女たちの話す声に集中する。
そこで聞こえてきたのは、放課後になったら連絡先を交換しようと約束したことだった。
うちの学校、スマホ持ち込みはできるけどスマホは教室に入ったら各自のロッカーに備え付けられている専用のスマホ棚に入れる決まりになっている。自分で暗証番号を決めてロックするわけだけど、一度ロックしたら基本的に放課後――正確には帰りのSHのチャイムが鳴る午後4時30分になって初めてロックが自動的に解除される。急な体調不良等で早退にすることになった時などには、暗証番号を入れて、先生が承認ボタンを押すことで初めて取り出せるといういやはや何とも、厳しいところ。
だから、連絡先を交換するにしても放課後を待たないといけないということだ。自分も彼女と連絡先を交換できれば良いのだろうけど、そんなことを今聞いてたよ、僕も混ぜてと言わんばかりに彼女たちに近づくのはあり得ないだろう。
そして、彼女たちが食事を終えて机を戻していると廊下から3人の男子生徒――うちのクラスの奴らじゃない――が入ってきて、大原さんの机の前で止まった。
誰かと見たら、アスリートコースの中田啓一とその取り巻きだった。それなりにイケメンである奴はいわゆる陽キャで、中学部に上がる時に地域の小学校から入学してきた。サッカーはさすがに上手いけど、奴は性格的に難がある。かわいい女の子の噂を聞きつけるととにかく声をかけまくることで有名だ。そして、仲良くなったとしても早ければ2週間、長くても3ヶ月くらいで「飽きた」と言わんばかりに彼女をフッてしまう、とんでもない奴。女の子を、自分のアクセサリとしてしか見ていないように思えた。
中学部1年の頃に3ヶ月だけ体育の授業で――数クラス合同で体育していたからなんだけど――、一緒な班になったけどその頃から基本的に何にも変わってない。サッカー以外のスポーツも元々の運動神経の良さでそつなくこなすけど、ちょっと話し合いの場、たとえばどうすればもっとチームとして上手くやれるかを話すことになった時とかだと、僕とは全く意見が合わない。自分が一番格好いいし上手いから、自分の意見が一番だという我を通す。それに、女の子に対して手が早いが、男にも自分と合わない人間に対して手が出るのも早く、僕もその犠牲者の一人だった。それで何度か学校側から警告は受けているから最近は大人しくしているようだけど。
そして、奴のおこぼれに預かろうと数人のアスリートコースの男子がくっついていることも有名。奴に振られた相手に言い寄って、自分の彼女にしようという連中が常に奴と行動を共にしている。こいつらも、奴と同罪だと思う。
中学部時代に殴られてからあいつからは今でも廊下ですれ違うたびに「冴えない奴」呼ばわりされて気分が悪いが、そのたび反論しても疲れるだけなので、基本スルーを決めている。そのうち奴は痛い目に遭うことになるだろうし。
僕から言わせればあいつは「自分のこと以外眼中にない、節操のない奴」だ。そんな奴だから、彼女に話しかけにいくのは当然と言えば当然か。なんて、冷静に見ている場合ではなく、彼女がどういう反応を示すのか心配で幸弘の椅子から思わず腰を浮かせて自分の席に戻る。
他のクラスメイト達も、奴が入ってきたことでその意味を察して――特に女子達は彼らを警戒のまなざしで見つめる。奴の悪評は、この教職コースの女子達にも当然知れ渡っているし、誰一人、奴を良いように思っていない。噂では、教職コースの女子も2,3人ほど中学部時代に奴とつきあってフラれたらしい。僕はその噂は未確認なんだけど。ただ、視界の隅に、奴の姿を見た三上の顔が苦しそうに歪むのを捉えた。
「君が、転校生の大原さんか。美人だね。初めまして。俺はアスリートコースの中田啓一。サッカー部だよ」
中田がそう自己紹介する。大原さんは「初めまして」と答えるが、表情はそんなに笑顔ではなさそうだ。
「声もかわいいし、気に入ったよ。どう、俺の彼女にならない?」
いきなりかよ…僕はムッとして中田を一瞥する。取り巻き二人も大原さんの方を向いていて、僕の視線には気づかなかったようだ。そして、僕は大原さんに視線を移すと両手が少しばかり震えていることに気づいた。
大原さんはちょっと考えたみたいだけど少し大きく息を吸って、奴に答える。その返答はこの午前中のクラスメイト達との会話では全く聞かなかった、とても低くて厳しい声だった。
「いきなり初対面の人に対して話す内容ではないと思います。お断りします」
まさに、一刀両断。中田は何を言われたのか一瞬理解できなかったようだけど、すぐに落ち着きを取り戻して、
「いや、俺とつきあえば色々と楽しいこと教えてあげられるからさ、悪い話じゃないと思うよ」
なんて言って言い寄る。しつこいなぁ、やっぱり僕は、こいつとは合わない、いや、ハッキリ言う、嫌いだ。今の様子を見ているだけで、彼女は奴に脈なしなのは分かったから、これ以上奴に彼女と話をさせたくない一心で、僕は思わず声を上げた。
「やっぱり節操のない奴は違うな。どれだけ何人ものかわいい娘に声をかけてるんだよ。そして悲しませて。お前はもうフラれたの、分からない?」
僕の言葉に、中田の顔は僕を認識し、紅潮して僕の方を睨む。
「お前みたいな冴えない奴が、よく言うよな!あ、大原さんこいつの言ったことは根も葉もない噂なので気にしないで」
とその場を取り繕うとする。そして取り巻き二人は「お前は黙ってろよ、啓一は彼女と話をしたいだけだろ?」と言って俺の口を塞ぎにかかるが僕だって運動部の端くれ、そう簡単に思い通りにたまるかと少し後ろにステップを踏む。そして、
「おっと、中田はやっぱり取り巻きがいないと何もできないのか?前から思っていたけど、一人じゃ何もできないよな?いつも取り巻き引き連れて。顔の良さとスポーツだけが取り柄でそれ以外には全く自信のない現れだよな」
と僕は挑発を続けた。大原さんから目を逸らすためだ。それと話しかける前に時計を確認したら5限目の始まる2分前。もうちょっとすれば授業も始まるし、それまで時間を稼げればOKと言う算段だ。
少し遠巻きに見ていたクラスメイト達も僕に加勢をしてくれる。「ホントに節操ないよな。と言うか、教職コースの僕らから見てあり得ないよな」「やっぱり中田くんって信じられないよね」「どうして下級生から人気があるのか分からない。ただ単に、本性が伝わってないだけなのかな?」とか言う声もちらほら聞こえ、中田達は完全にアウェー状態だ。
「おい、言わせておけば…」と中田が周りからの言葉も僕のせいだと言わんばかりに大原さんから離れ、僕の胸ぐらを掴んだ。奴に殴られたところで痛いは痛いだろうけど、そうなったらそうなったで、別の意味で奴には痛い目を見てもらうつもりだから全然かまわない。僕はもう一言二言、挑発してやる。
「あ、もう本性が出るんだ。沸点低いね。最近大人しかったはずだけど。
んで、僕を殴ったらどうなるか分かってる?サッカー部のエース候補が痴話喧嘩の末に相手を殴る、そんな話が学校中を駆け抜けたら、お前終わりだよ。下手したら、対外試合も出られなくなるかもな」
その言葉に中田は「だからなんだよ」というが、試合に出られなくなるという脅しが効いたのかその声にはあまり力がない。もう一押し。
「もう一つ言ってやるよ。お前はさっき根も葉もない噂なんて言っていたけど、このクラスでお前の所行について知らないのは唯一、今日転校してきた大原さんだけだ。僕たち教職コースの生徒は、お前らの言動を常日頃からあり得ないと思っている。聞こえただろ?外野の声が」
ここまで言うとさらに追い打ちをかけるように、僕の背後から聞き慣れた男子生徒の声がした。
「まぁ、こういう奴はプライドだけは一級品だからな。そんなプライドを傷つけられたらそれは怒るわ。とは言え、そんなことで怒るのは、よっぽどガキだと思うけど」
と、体育館のバスケ帰りでちょっと汗ばんでいる幸弘は中田に告げる。さらに彼は言葉を続ける。そんな幸弘の表情は、今まで見てきた中でもかなり怒っている表情だった。
「全く見苦しいな、中田よ。慎吾と合わないのは前からずっと見ていて分かるけど、簡単な挑発に乗るなんてな。俺、お前には失望しかないよ。まぁ、中学部の頃からずっと失望してるけど。スケベトークが得意な俺でも、お前のやっていることに関してはハイそうですかと認められない」
「ぐ…矢野…」
幸弘は、中田にとって天敵だと幸弘本人から聞いたことがある。それは、単純に背丈と顔、そしてその話しぶりだと僕は思っている。中田自身、幸弘には勝てないと思っているらしい。完全に戦意を喪失した中田は「また来るわ」と言って取り巻き共々そそくさと教室から出ていった。僕はその背中に「二度と来るな、大原さんに関わるな!」とストンピングをかますように大きな声をかけておいた。
「はい慎吾、お疲れ~早く戻って正解だったな。Nice move, Good jobだ」
と、幸弘は右手を僕の顔の高さに差し出す。僕も右手を挙げて、ハイタッチ。
「お前のおかげだよ。Thank you guys」
そんなことを言っていると、中山さんが話しかけてきた。
「東条くん、なかなかやるじゃない!矢野くんも、ナイスアシスト!久しぶりに溜飲を下げたわ。あの人にガツンと言ってくれて本当にありがとう!」
僕が知らないだけなのかもしれないが、もしかしたら中山さんも奴にフラれた一人だったのかもしれない。でも、そう礼を言われて嬉しくないはずがない。
「ああ、ありがとう。中田の奴には本当に前から鬱憤が溜まっていたから、言いたいことを言えて良かったよ」
そこに大原さんもちょっと顔を赤くして割り込んできた。怒り?恥ずかしさ?それとも…なにかは分からなかったけど。
「東条くん、ありがとう。実は、ちょっと怖かったんだ。初対面でいきなりあんなこと言われたことなかったから、何あの人?って思って。それにあんな軽い感じで『彼女にならない?』ってあり得なかった。本当に助けてくれてありがとう」
そんな心からの感謝に僕は気持ちが舞い上がってうまく言葉に表せなかったけど、
「うん、何もなくて本当に良かった」
とそこでチャイムが鳴った。みんな、授業の準備に席に戻る。俺のそばにいた幸弘は俺の耳元で小さく、「愛の力だな」と茶化した。でも、僕はそんなからかいに真面目に答えた。
「当たり前だろ?」
幸弘は満足そうに俺の背中を叩いてから、席に戻った。
大原さんはそんな僕たちを見て、笑顔で「仲が良いね」と言った。「ああ、自慢の幼馴染みだよ」と僕は答えたけど、もしかして、今の幸弘の言葉、聞こえてたかな?そう思ってもそれを確かめる勇気と時間が、今の僕にはなかった。
だから、5限目の物理はあんまり頭に入ってこなくて――でも、何とかついて行くことはできたんだけど――昼休みのことが頭の中で反芻していた。
もしかしたら、いや、もしかしなくても中田のような「彼女とつきあいたい連中」がこれからも押し寄せてくるのかもしれない。最初に声をかけたのが中田だったから撃退できたのだけど、今後彼女に声をかけてくるような人の中には、僕なんかよりよほど良い人がいるだろう。そんな人に、僕は勝てるのだろうか?と弱気になる。
でも、勝たなくちゃいけないんだ。今はたまたま席が隣になったから良いけど、席替えがあれば席は離れる。そうすると、当然話すきっかけがなくなる。そうなる前に、席が離れても自然に話しかけにいける関係になりたい。「彼女とつきあいたい連中」よりも彼女との距離感が縮めるためにも。これは、自分に課すべき最重要ミッションだ。
そんなことを、自分はどのように動けば良いのかを、授業より優先して考えてしまっていた。でも、考えても彼女がその気になってくれなければ意味のないことだし…と思っていると、さっきの彼女の言葉、「本当に助けてくれてありがとう」が心の中を反芻した。
そうか…まずは、彼女の味方でいればいい。すぐには簡単に話しかけられるような感じじゃないかもしれないけど、常に僕は彼女の味方として、彼女のことを肯定していこう。
急がば回れ。慌てて急速に近づこうとすると、どうしても警戒される。それこそ、中田のようにだ。だから、僕は奴の逆でいく。少しずつ、信頼関係を高められるように。
でも、チャンスが訪れたのは思いの外早く、5限目の授業の後すぐだった。
「ねぇ、東条くん、放課後、古典のプリント一緒にしてくれないかな?」
授業後わりの礼が終わってすぐ、クラスメイトに囲まれる直前に大原さんからそんな言葉をかけてくれた。
渡りに船とはこのことだから、僕はもちろん、
「うん、良いよ。芳埜システムを覚えるちょうど良い機会だし」
「芳埜システム?」
そう。芳埜先生の放課後課題は、ただプリントを出せば良いという問題ではなく、そこに書かれている部分や問題を覚えてから持って行かなくてはならない。プリントはやってくるのが当たり前で、そこからさらにプラスαを吸収したかが問われる。
そう説明すると、
「そんな厳しいんだ、芳埜先生って」
って、少し緊張した面持ちで大原さんは口を開く。
「ああ、でも、そのおかげで模試ではそれなりに良い点取れるよ」
「そうなんだね」
と話しているうちに、まだ彼女と話し足りない女子が何人か僕たちの周りに集まっている。近づいている間に、僕らの会話も聞こえたのだろう、
「あ~芳埜システムね。二人とも食らっちゃって大変だね」
「でもこのシステムは誰もが通る道だから、逆に初日にやることになって良かったかもね」
「でも、放課後に校舎案内もしたかったな~」
と口々に大原さんに話しかける女子。その言葉に彼女は笑顔で
「それなら、それはそれで良かったかも。放課後の校舎案内もお願いできる?」
と校舎案内の言葉をかけた角田さんに聞く。すると角田さんは、
「プリントやって合格もらった後だとたぶん17時回るよね?時間的に部活が始まるんだよね。だから、『したかったな~』っていうことなんだ。ごめんね」
と言う。なんでも、角田さんは茶道部で、茶道の先生が学校に来る時間は、先生の茶道教室の都合もあって放課後になって30分後つまり17時頃になるらしく、それまでじゃないと難しいということだった。
ただ、一瞬僕の方に視線を移した角田さんはひらめいたと言わんばかりに元々大きい目をさらに大きく輝かせて、グーにした右手を軽く左手の手のひらにポンと叩き彼女に提案した。
「それなら、東条くんに案内してもらったらどうかな?だって、二人で一緒に芳埜システム終わらせれば、その後案内してもらえるじゃない」
ドキッ!
僕は、胸が早鐘を打つことを自覚し、顔が赤く染まっていく。
角田さんの言葉に、周りも同調する。
「それ、良いんじゃない?私たちも部活あるし」
「東条くんも部活あると思うけど、こんな日なんだから休んでも罰当たらないと思うよ」
と、悪戯っぽい笑みを浮かべて僕と大原さんの顔を交互に見比べる角田さんと周りの子達。
お。おいおい…人をなんだと思っているんだと思いつつも、彼女を案内できるのはとても嬉しい。
「東条くんは、どうかな?」
角田さんにいきなりそう問われて焦る僕。でも、すぐに心を決める。でも、そのことを言葉にするのはとっても恥ずかしいのだけど、「大原さんさえ良ければ、案内するよ。どう…かな?」と最後の方は小声になってしまいながらも伝える。
大原さんはちょっと真剣な顔になって考えたけど、すぐに返事をくれた。
「うん、お願いします、東条くん。迷惑かけっぱなしになるけど、ゴメンね」
そんなことをちょっと上目遣いで言われると、本当に胸がドキドキする。かなり照れ顔を自分でもしていると思ったけど、やっぱりそうなのだろう。角田さんをはじめとする女子連中は僕の顔を見てニヤニヤ笑っている。
「それじゃ、私たちは席に戻るね。東条くん、大原さんを頼んだわよ」
「了解」
と、6限目開始のチャイムが鳴って、角田さん達は自分の席に戻っていく。
正直僕は本当に照れくさくて、そして、そんな顔をしていることを見られたくなくて、しばらく大原さんの顔を見ることができなかった。
6限目は現代の国語…。正直言って苦手なんだけど、論説文なら何とかなる。理詰めが得意な方だから。でも、小説はなかなかどうして難しい。ライトノベルは好きで読んでいても、昔の小説って小難しい感じがして取っつきづらいというのも大きい。
今日はその苦手な小説で、その時の主人公の感情はどうだろう?と言う問いかけとかをされたが、何となくは分かるのだけど、いざ文章にしてみようとするとうまく言葉が出てこない。でも幸いなことにそうした少し難しい部分では当てられず、漢字の意味を答えるように当てられた。
これでも漢検2級を目指しているので(漢字だけなら好きな方だ)、その意味くらいは余裕で分かる。淀みなく答えて先生から大きく頷かれた。
そして、何となく淡々と授業は終わって、休み時間。
この日の最後の休み時間を締めくくるのはやはり大木さんと中山さん。二人は角田さんから放課後のことを聞いたらしく、「私たちも案内できれば良かったのだけど、あいにく委員会や部活で私たちも難しいの。でも、東条くんが案内してくれるなら大丈夫。彼、見た目は頼りなく見えるけど結構紳士だし、困っている人は助けたくなる性格だから、安心して任せられるわ」なんて言ってくれたのは、本気で嬉しい。頼りなく見えると言われたことに関しては仕方ないと思ったけど、安心して任せられると言われて悪い気になんかなるわけない。それも、クラスで一目置かれている存在からその様に言われるのは格別だった。
最後の7限目。最後は英語コミュニケーション。語学2時間連続は、語学系の苦手な僕にとっては地獄だ。一応予習はしているけど、これで良いか自信がないし、変な訳し方をしている気がするし、発音もあまり得意じゃない。
大原さんが列の流れで教科書の一文を読むように指示された。彼女は「はい」と返事をして教科書の一文を読む。発音がわかりやすくて、聞き取りやすい。それに、やっぱりかわいくもきれいな声。僕の脳は幸せな気分になる。あと数十分もすれば二人でプリント学習から校内案内の流れになるから、楽しみで仕方がない。僕は早く、この時間が終わってくれれば良いのにと思いながら授業を受けた。
そして、7限目終了のチャイムが鳴り、帰りのSH。
「はい、今から1枚プリント配ります。保護者と相談するように」
と渡されたのは、進路調査の紙。エスカレーター式に大学に上がる生徒は7割くらいと聞いている。どちらかと言えば、残り3割の生徒の把握なのかなぁ?
僕は、このまま大学に上がって教師になるつもりだから、迷うことはない。
幸弘はどうするのか。1年の時に幸弘は大学はここではなくて、地元の国立を目指すかもというようなことを言っていた。教師になる夢はあるようだけど、別の道を選ぶ可能性もあるから、ぎりぎりまで悩むつもりだと言っていたな。この1年で考えは変わったのだろうか?三上もどうなのだろう?
そして、今日知り合ったばかりの大原さん。彼女は、どんな進路を選ぶのだろうか。もし、聞ける雰囲気になったら聞いてみたいと思った。
帰りのSHが終わると、早速みんなスマホ棚からスマホを取り出す。大木さんと中山さん、三上は大原さんと「ふるふる」して、ライナーのID交換をした。それから、それぞれ挨拶をして、別れる。部活へ行く大木さんと三上、委員会へ行く中山さん、先生に教えを請いに職員室へ行く男子生徒、はたまた帰宅部で真っ直ぐに家に帰る生徒ももちろんいる。バイトに行く生徒もいる。この学校は、成績次第でアルバイトも許可制なのだ。もっとも、コンビニやスーパーなどの小売店か、ファミレスなどの飲食店(いずれも21時まで)、もしくは新聞配達くらいしか許可が下りないのだけど。僕はそんな中でライナーの部活グループを開き、その中のカレンダー機能の中にあるフォーム――本日の部活の出欠表をアンケート形式にしたもの――に「欠席」を入力して送信しておいた。よほど欠席が続いたりしない限り特に理由を問われることもないので、こうした機能を使って欠席の連絡ができるのは本当に気楽だ。
程なく、クラスメイト達は教室からほとんどいなくなり、教室に残るのは僕と大原さんを除いてほんの数人。僕たちは二人で机を合わせた。廊下には、他のクラスの男子生徒が数人、教室内をちらっと覗くが机を合わせた僕たちの様子を見て「ちぇっ」と舌打ちをして離れていく。
「よろしくね」「うん、こちらこそ」
差し向かいで座って彼女の顔を見る。やっぱり、僕は彼女の瞳に心を奪われる。純粋で真っ直ぐな、黒い瞳。
「ん?どうしたの?私の顔、何かついてる?」
思わず見とれてしまって、彼女が怪訝な表情で聞いてくる。僕はドギマギしてしまい、ぶっきらぼうに返事をする。
「いや、大丈夫、何でもないよ」
そんな僕に「そう」とちょっと不思議そうな顔をするけど、プリントを取り出して「始めようか」と言ってくる。僕は、「そうしよう。早めに終わらせないと、職員室に行ってから待ち時間が大変になるから」と答えて、早速プリントに目をやる。
プリント自体はそこまで難しい問題はない。ただ、その内容をしっかりと暗記しなくてはならないのだ。
二人でカリカリとプリントの空欄を埋めていく。ただ、僕自身古文は苦手なので時折手が止まって教科書やノートを見る。対して大原さんは、あまり手を止めることなくプリントを進めていた。
「古文得意なの?」
その様子を見て僕が大原さんに話しかけると、彼女は「うん、まぁ、苦手じゃないよ」と言って笑う。
その笑う顔に、やっぱり僕はドキドキする。
ドキドキしながらも、何とかプリントを終わらせる。本番は、ここからだ。
「じゃ、職員室に行こう」「うん、分かった」
僕たちは席を立って机を戻し、職員室へ急ぐ。1階へ降りて職員室を見ると、既に5,6人が職員室の芳埜先生の席に一番近い扉の前で待っているようだった。
「これが、芳埜システムの日常なんだ。その日に出されたプリントは、その日のうちに提出、合格をもらうこと。合格自体は放課後の事情もあるからと翌日までにもらえれば咎められないけど、その日のうちにプリントを提出できなかった場合は、3回で親呼び出しが待っているから、みんな必死」
職員室前なのでボソボソと小さい声で話す僕のその言葉に、さすがの大原さんの顔が少し引きつる。そんな顔も可愛い。
「そ、そうなんだ。さすがに未提出はできないなと思うけど、プリント毎回もらうとこれが日常になっちゃうのか」
「でも」
僕は、いつも芳埜先生に対して思っていることを話した。
「芳埜先生はその辺きちんと考えてくれていると思うよ。授業中に生徒を指名する回数も言うほど多くないし、指名する生徒もなんだかんだでランダムに見えるけど、考えているみたい。同じ生徒を連続で指名することはないから、毎回プリントになることもない。たぶん、喝入れのためだと思うんだ」
僕は思わず熱弁する。そう、僕はなんだかんだ言って芳埜先生を、先生として尊敬しているから。
大原さんは、僕のその話の熱量から察したのか、
「東条くんは、芳埜先生のことを尊敬しているんだね」
と言ってくれる。僕は、「うん、そうなんだ。そういう凜としたところは目指したいと思っているんだ」と答えて少しほほえんだ。
そんな僕に、大原さんも笑顔になって「すごいね。人生の目標がもうできているのって」と言った。
「そうなのかな。確かに将来は先生になりたいと思っているけど、まだどんな先生になるのかというビジョンは見えてないよ」
「それでも、まだ高校生なのに、先生のことをよく見てるなって思う。大木さんは東条くんのことを『頼りなく見える』って言っていたけど、今の言葉を聞いていて、そして、お昼のことを考えたらそんなことない。頼れる存在だってそう思う」
出会ってまだ1日も経っていないのにそんなこと言ってくれるなんて、ものすごく嬉しく思う。僕の顔は、今日何度赤くなったのだろうか、今回のこの一言が一番僕の顔を赤く染めた。
「ありがとう、大変光栄に思うよ」
そう僕は彼女に礼を言う。そして、僕たちの順番がやってきた。
「じゃ、先に行っていい?」と僕は彼女の許可を得てから、「失礼します」と言って職員室に入る。
とても整理された机。机の奥には参考書や教科書、ファイルが並んでいるけど、中央にある校務用のノートパソコンの左右には何一つものがない。その机の主こそ、芳埜先生だ。
「教職コース2年1組、東条慎吾です。お願いします」と言ってプリントを渡す。先生は、そのプリントの添削をして、僕に問いかける。
「この単語の活用形は?」「未然形です」
「この文の意味は?」「とても良いことをした、です」
「よろしい、合格」「ありがとうございました」
僕はホッと安堵の表情を浮かべて、「失礼しました」と職員室を出た。
大原さんが少し緊張して待っている。
「東条くん、どうだった?」
「うん、合格もらったよ。大原さんも頑張って、大丈夫。君なら余裕だと思う」
「ありがとう、行ってくる」「ここで待ってるから」
大原さんは、僕の「待ってる」の言葉に微笑んでくれた。彼女は職員室に「失礼します」と入っていく。
待つことだいたい2分。大原さんは職員室から「失礼しました」と出てきた。その顔は、ホッとしているように見えた。大丈夫だったみたい。出てきて僕の顔を確認するなり、右手にVサインを作って話しかけてくれた。
「東条くん、案内よろしくお願いします!」
「良かった、合格もらったんだね」
「うん、余裕だと思うって言ってくれたから、自信持って答えられたよ。ありがとう」
僕も、ホッとして「どういたしまして」と答えて教室に戻る。
教室に戻ると、廊下にいる生徒はもちろんのことクラスメイトはもう誰もいなくなっており、僕たちの鞄だけが残されていた。
「みんな、もういないね。さすがにこんな時間だとね。さぁ、どこから行きたいかな?」
僕は大原さんに問いかけた。
「そうね…じゃあ、まずはたまに使いそうな購買から。それからよく行く特別教室と体育館を教えてもらえる?」
「オッケー、了解」
僕たちは鞄を持って教室を出る。17時を過ぎた学校は、夕時で西日が校舎に入ってくる。とは言えだいぶん暗くなってきた廊下は、蛍光灯が自動的に点灯していた。人感センサーが搭載されていて、普段は暗めだが、人が通ると明るくなる。そんな廊下を二人で並んで歩く。
僕は、彼女が退屈にならないように話しかけたいと思うけど、どんな話題を切り出せば良いか分からなかった。だって、聞きたいことは休み時間に女子達がだいぶ聞いてくれたから。何度も同じことを聞かれるのって、あまり良くないよなと思って、何を話そうかと困っていた。
すると、彼女の方から話しかけてきてくれた。
「東条くんは、得意な教科はなに?」
あ、得意教科先に聞けば良かった…と後悔するも、
「うん、一番は数学。自慢じゃないけど、これだけはクラスのみんなから認めてもらってると思うよ。何せ、学年順位は常に20番以内だし」
「そういえば、1学年に何人生徒がいるの?」
「500人くらいだったと思うよ」
彼女は少し驚いた感じで、
「え?すごいすごい!トップクラスなんだね。数学はちょっと苦手だから、尊敬する!」
なんて、早口でまくし立てた。それにはさすがの僕も少し驚いて、
「いやいや、その代わり語学系は下から数える方が早かったりして…」
と少し小さい声で答えてしまう。
「そうなんだ。でも、一芸に秀でているってすごいと思うの。分からないところがあったら、教えてくれないかな?」
「うん、もちろん。いつでも声かけて」
正直、内心ではガッツポーズ!それで気をよくしたのもあるけど、彼女と話をすることについて緊張が少しずつ緩んできたのもあり、
「大原さんの方は、得意な教科って言うと、何?」
と聞くことができた。
「私は英語かな。理科も得意って程じゃないけど、好きだよ」
そういえば、そんなこと言っていたな。と思い出して。
「じゃ、逆に英語教えてほしいな。本当に英語って苦手というか、いくら予習しても自信持てないんだよね…」
「うん、東条くんも、いつでも私に聞いてね」
「そうさせてもらうよ。ありがとう」
そして、次の話題は僕から切り出した。
「大原さんは、どこかの部活に入る予定ある?」
大原さんは、少し複雑そうな顔をする。
「正直、迷ってる。2年も半ばにさしかかっている時期でこんな時に入ろうという勇気が持てないというか…」
「でも、前の学校では部活入っていたんでしょ?」
「そうね。バドミントン部に入っていたわ。高校入ってから始めたの」
え?そうなんだ。それは、僕にとってとても嬉しいこと。
「そうか。でも、それなら部活入ってくれると嬉しい。僕もバドミントン部なんだ。男女合同で練習することもあるから、一緒に打てる時もあるし」
すると、大原さんの顔はぱっと明るくなった。
「そうなんだ、だったら入っても良いかなって思うわ」
「是非そうしてもらえると僕は嬉しい。あ、ここが購買ね」
本音ダダ漏れで喋っているうちに購買に着いた。当然のことながらその扉は閉じられている上にカーテンも敷かれており中を覗くことはできない。
「だいたい何でも買えるよね?」
購買の前で僕たちは立ち止まると、大原さんは僕に問いかける。
「そうだね。文房具系はほぼ全部そろえられるし、ほら、僕が今日というか、毎日行ってる学食の食券もここで買うし、お昼のパン販売もある。あとは、靴下とか内履きとか、何でもござれという感じだね」
僕の説明に、彼女は納得して「どこも似たようなものね~」と言った。
「次はどこに行こうか?特別教室というと…理科室とか?」
「そうね、そのあたりかな」
「了解」
理科室と一言で言っても、理科って高校では物理・化学・生物・地学って細かく分かれているから、とりあえず彼女が取っている理科選択を聞いてみる。
「そういえば、大原さんの理科選択なんだっけ?」
「化学と生物ね」
「じゃ、化学室と生物室から。と言っても、そんなに離れてはないけど」
「そうなのね。それじゃ、お願いね」
そして、再び歩き出す僕たち。道すがら、何人かの生徒とすれ違う。女子生徒もそうなんだけど、男子生徒は特に彼女の顔をまじまじと見てしまっている。そりゃそうだろうな、見知らぬ生徒、それもセーラー服を着ている美人女子生徒なんて、絶対目を引く。自分はその視線が気になって仕方なかったけど、大原さんはそこまでではなかったみたいだった。
スマホで時計を確認すると、17時20分を過ぎていた。
彼女は、いつまでなら今日は学校にいられるのかな?
「そういえば、大原さんは、今日何時まで大丈夫?」
化学室に向かいながらそう問いかける。
「う~んと」
と、彼女もスマホで時間を確認しながら少し考える。少し視線を上げて物思いにふけるような表情もとても可愛くて、本当に彼女がすっとそばにいてくれたら、どんなに良いことなのだろうと考えてしまう。
「18時には学校を出たいかな。今日は夕ご飯作る担当の曜日だから」
夕ご飯作らなきゃならないなんて、大変だな。でも、それだともっと早く帰った方が良いのではないかな?そう思いながら、
「了解。でも、ご飯作らなきゃいけないのにそんな遅くて大丈夫?」
「うん、平気だよ。昨日のカレーが残っているし、1,2品簡単に作るくらいなら何とかなる」
「それなら良いんだけど」
と言いつつ、彼女の家族構成が気になった。でも、転入初日、それもようやく少し話できた程度の中で突っ込める話題じゃないから、僕はその話題はそこまでにした。
「ほい、化学室到着。中明るいな。部活中かも」
程なく、化学室に着く。どうも中では部活で実験をしているようだった。数人の男子生徒が、薬剤を扱っていた。
「邪魔したら悪いわね。次に行こう」
大原さんは、そう僕を促した。
「うん、生物室はすぐそばだし」
化学準備室を通り過ぎると、その隣が生物室だ。ここからも明かりが漏れている。中には、5人ほどの生徒が植物をスマホやタブレットで写真を撮り、何か調べているようだった。
「生物室も部活?」
大原さんの問いかけに、僕は頷く。
「非運動系の部活もかなり活発でね、物理も地学も部活あるよ。ちなみに物理と地学の教室はちょうど真上ね」
「そうなんだ、すごい。前の学校って、『科学部』の一言でまとめられていたし、部員も全然で幽霊ばっかりだって聞いたことがあるわ」
「確かに、他の学校の友達でもそんなこと聞いたことあるなぁ」
僕たちはクスッと笑って、次、体育館に向かう。
その途中で、楽器を持った生徒の集団とすれ違う。吹奏楽部の生徒達だ。おそらく、パート練習だろう。
「吹奏楽部もたくさんいるね」
ぞろぞろと歩いてすれ違う吹奏楽部の部員達を見て大原さんが呟く。
「やっぱり、この地区で1,2を争う実力校だから、ここで吹奏楽やりたくて高等部に入ってくる人もいるんだ。だからたくさんいるし、人数が決められている大会だと、オーディションしているって吹奏楽の子、って大木さんね、から聞いてる」
「大木さん、吹奏楽なんだ」
と大木さんの話をしていると、ちょうどすれ違いそうになった彼女が僕たちに気づく。大木さんは、僕たちの顔を見て顔をほころばせて僕に礼を言う。
「あ、東条くん、ちゃんと案内してるのね。ありがとう」
「いやいや、礼には及ばないよ。部活、頑張って」
軽く挨拶を交わすと、大木さんは「ありがとう」と言う。
一方で、大原さんは大木さんの持っている楽器に視線を移して質問する。
「大木さんの楽器って、クラリネット?」
「ええ、そうよ」
「楽器できる人って、良いなぁ~」
なんて大原さんは言う。これ、男の人も含めてって言うことなんだろうなぁと思うと、ちょっとした嫉妬心がわき起こるのを僕は否定できなかった。
「大原さん、吹奏楽部入る?」
なんて大木さんが何の気なしに部活に勧誘する。すると大原さんは僕の顔を見て、
「大木さん、ゴメン。私、バドミントン部に入ろうかと思ってるの」
と嬉しいことを言ってくれる。その言葉に、大木さんはちょっと残念そうに、
「そうなんだ、残念」
と言ったあと、「あれ?」と顔を僕の方に向けて続けた。
「そういえば東条くんって、バド部だよね?」
「ああ、そうだよ」
と僕が答えると、
「そうなんだ。東条くん、部活がますます楽しみになるんじゃない?」
なんてからかってくるものだから、僕はまた顔を赤くする。本当に、クラスメイトのみんなは容赦ない!
僕が照れているうちに、大木さんは後輩から「早く行きましょう」と促されて。「あ、それじゃまたね」とパート練習の場所へと向かっていった。他のパートの部員達も他のところへ行ってしまい、廊下に僕と大原さんが取り残された。
「…体育館、行こうか?」
僕は、大木さんの言葉から来る動揺を抑えられず、それだけしか言えなかった。
「うん」
大原さんは頷いて、僕の隣に並んでくれて、体育館に向かった。
「体育館は3つと武道場があって、だいたい体育は第1体育館を使ってる。第2,3は部活はもちろんだけど、授業時間の中だと球技大会で使われるね」
気を取り直した僕の説明に、大原さんは
「あ、この学校でも球技大会があるのね」
と答える。僕は頷いて、
「期末試験の後とかって、定番でしょ?」「うんうん、前の学校もそうだった」
と、どんどん言葉遣いも話す雰囲気も、柔らかくなっているのが自分でも分かる。
「で、体育館への渡り廊下は、北校舎から第1,中央校舎から第2,南校舎から第3となっていて、体育館同士ももちろん渡り廊下があるから、どこからでも行けるよ」
そう話しながら、中央校舎から第2体育館へ入る。
そこでは、バドミントン部とハンドボール部が練習をしていた。
バドミントンのコートは4つ出ていて、男女がそれぞれ2コートずつ使っている。部員は男女で20人ほど。実のところ、本当に強い人たちは他の強豪の私立に流れていて、ここにいるのは県でベスト16に入ることができるかどうかくらい。僕に至っては出られても1回勝てるかどうかだ。
今はちょうど基礎打ちが終わって一息入れていて、もうすぐノックが始まるのだろう。
大原さんはスマホで時計をチェックすると、
「5分くらい見ても良いかな?」と僕に聞いてくる。僕もスマホで時間をチェックすると、17時45分を回ったところだったから、「うん、大丈夫だと思うよ」と言って、男子の部長である、工学コース2年の芹沢達弥に声をかけた。
「芹沢、ちょっと見学者がいるから見てて良い?」
僕から声をかけられた芹沢は僕の顔を不思議そうに見て、「あれ?お前今日休みだったんじゃ?」と言う。
「僕のクラスに転校生が来て、校内の案内をしていたんだよ」
と僕が言うと、芹沢は、僕の後ろにいる大原さんを見て驚く。
「噂の転校生か?うわ、確かにめっちゃ可愛い子!って、何?バド部入りたいの?」
「今のところ、そのつもりみたいだよ」
「オッケー、じゃ、見ててもらって良いよ。ちょうど今日は男女の合同練習日だったから良かったんじゃない?」
「お、そういえばそうだった、サンキュー」
と、軽いノリで許可をくれた芹沢に礼を言って、僕たちはコートの近くに並んで立つ。
ノックが始まる。一人がネットの前に立って少しばかり角度をつけた速い球を左右に手で投げる。投げられた方は、その球に合わせてラケットを出して、反対のコートのネット際に返す。いわゆるレシーブの練習だった。
一人頭20球。それが終わると交代して受けた側は球出しを、球出しをしていた方は返ってきたシャトルの球拾い、担当がない生徒は、コートの外で筋トレといった感じでローテーションしている。筋トレしている部員の視線は、僕たち…と言うより大原さんに向いているようだった。そりゃ、そうだよな。制服の二人組、それも美人転校生なんて言ったら目立つもの。特に、並んで筋トレしていた男女二人組――野山と五十嵐という、政経コースのカップルなんだけど――は今にも話しかけたそうにしている様子だった。
でも、そんな視線にやっぱり大原さんは動揺することなく練習を見ていた。
「基本を大切にという感じなんだね。男女合同で練習するのもなんだか新鮮」
と大原さんは言う。僕は頷いて、
「そうだね。基本なくして応用なしだから、かな。あとは偶に動画見て練習方法とか話し合うよ。体格差で男女の差はあるかもしれないけど、たまに一緒に練習すると、いつもと違う相手とするからそれはそれで勉強になるんだよ」
「それもそれで楽しそうね。でも、もう時間だから、そろそろ行かなきゃ」
なんだかんだで、時計は17時55分を指していた。5分のつもりが10分も見てしまっていた。
「それじゃ、帰ろうか。芹沢、ありがとうな~。明日はちゃんと来るから!」「ありがとうございました!」
ローテーションが1巡したのを見計らって、僕たちは挨拶をして帰る。芹沢は「おぅ、また明日な~」とやっぱり軽いノリで返してくれた。
中央校舎から生徒玄関まではほぼ一直線。その間も、部活の練習のことで少しばかり話をした。
「初心者で入ったけど上手になりたくて練習してきたから、1年半でそれなりには動けるようになったと思うんだ」とは彼女の弁。僕が「男女合同の練習日を楽しみにしてるよ」と言うと、「うん、頑張る」と言って両手で拳を握る。そんな姿も可愛い。
玄関に着いて靴を履き替え、校舎から出る。時刻は目標の18時になったところだ。太陽は都会のビル群に隠れ、夜の帳が下ろされるまであと少しのところだった。
「今日一日、どうだった?」
僕は玄関を出たところで、ポケットから自転車の鍵を取り出しながら問いかける。
「すごくいい一日だった。この学校に転校して良かったと思う」
そう嬉しいことを言ってくれる笑顔の大原さんに、僕は
「そう言ってくれて嬉しいよ。僕は自転車だけど、大原さんは歩きだよね?」
「うん、じゃ、今日はここでさよならかな?」
自転車小屋は校門から少し離れた北校舎の奥、学食のある建物と北校舎の間を抜けたところにある。さすがに「一緒に帰ろう」と直接的に言う勇気はなかったけど、それを促す言葉が出ていた。
「そうなる、かな?正直、僕は名残惜しいんだけど」
そんなことを言う自分に正直驚いていた。あまり自分の都合や考えを押しつけがましく言うのは控えるようにしている僕。でも、彼女相手には素直に自分の言いたいことが言える気がして。その僕の言葉に、
「うん、途中までなら、一緒でも良いよ。私も、校内の案内してもらってとても楽しかったし、もう少し話をしたいと思った」
と、大原さんはさらに嬉しいことを言ってくれた。僕の心は小躍りして、
「ありがとう!じゃ、すぐに追いつくから、先に校門出てて良いよ。校門出てどっちに行くの?」
「えっと、左ね」
「あ、それじゃ帰る方向は一緒だよ」
「そうなんだ。それじゃ、先に行ってるね」
と軽くやりとりしてからいったん僕たちは別れた。
早めに部活が終わる文化部や、受験勉強をしていたと思われる3年生の生徒達に混じって、僕は急いで自転車を取りに行く。
オリーブのような緑色をしたクロスバイク、トップチューブにフランス国旗をイメージした意匠、フランスの車メーカーが出している自転車だ。カゴはなくて荷物は背中に担ぐしかないんだけどデザインが良いから、高等部に入る前に入学祝いに親から買ってもらった。
ママチャリよりも加速感があって、乗っていて楽しい。
ロックを外して、ヘルメットを装着。さぁ、大原さんに追いつこう!
クンッとペダルを踏むと、その力をタイヤは前に進む力に変えてぐんっと加速する。
彼女が言ったとおりに校門を出て左へ向かう。程なく、今日一日一緒にいてもう見慣れたセーラー服を僕の目は捉えた。
「大原さ~ん!」
僕は彼女を呼んで、車道から彼女の横に並ぶ。
「東条くん、早いね」
僕は自転車からさっと降りて体は歩道に、自転車は車道にという体勢で歩き出した。
「うん、僕の相棒はスポーティだから」
と僕は言いながら車道の自転車を歩道に引き上げた。
「え?こんな格好いい自転車でもいいの?」
僕の自転車のフォルムを見た大原さんは目を丸くして僕に尋ねる。
「うん、基本的に原動機付きじゃなければ何でも良いよ。ただし、ヘルメットは必須。ちょっと前まではなくてもOKだったけど、ほら、法律できたでしょ?あのときからうちの学校はヘルメット着用義務できちゃったんだよね」
「へ~、そうなんだ。でも、ヘルメットは努力義務だよね?罰則はないって聞いたけど」
「だよね。ただ、事故で誰々が怪我したから気をつけるようになんていう集会が年に1,2回は開かれているから、学校も生徒の安全を優先しているんだと思うよ」
目の前の信号が、青から赤に変わる。また少し、彼女と話できる時間が延びることが嬉しい。
「なるほどね。私も自転車通学にしようかなぁ。自転車だと近いけど、歩きだとちょっとが遠いんだ」
「歩いて20分ほどだったっけ?朝の会話ちょっと聞こえたよ」
「そうなの。歩いて20分ってだいたい1.5キロくらいだと思うけど、ちょっと歩くのは大変かなって。まぁ、いい運動だと思えば良いのだろうけど」
大原さんはそこでクスッと笑う。その表情、あぁ、可愛い。でも、信号は青に変わってしまう。
再び歩き出しながら、大原さんは僕に問いかける。
「東条くん、ちなみにだけどその自転車はどこで買ったの?」
「城西商店街に全国展開しているチェーン店があって、そこで買ったよ。元々、その自転車店のネット通販ページを見て気に入ったから地元にもないかなと思って行ってみたんだけど、お店になかったから、通販取り寄せになったんだ」
「やっぱり、世の中ってどんどん便利になっていくのね。私の家、通販ってしたことないなそういえば」
「一回買ってその便利さに慣れると、どうしても欲しい、でもこの近辺にはないという場合は本当に使って良かったと思うよ。僕もどうしても欲しいものは、父さんか兄さんにお願いしてる」
僕がそう言うと彼女は「兄さん」の言葉に反応したみたいで、
「お兄さん、いるんだ。私、妹がいるの」
と話して、彼女のプライベートに話の流れで初めて触れることができた。
「妹さん、いくつ離れているの?」
「3つ。結構生意気になっちゃって、手を焼いてる、かな」
そう言って、大原さんはチロッと舌を出す。そんな表情も僕をドキッとさせる。
「へぇ、そうなんだ。僕は兄さんのさらに上の姉さんがいるけど、もういつもからかわれてるよ…」
こっちは心底嫌そうに呟く。
「でも、お姉さんって、長女の立場からすると憧れなんだよね。甘えたいというか」
「そうなんだね。自分は一番下だから、家族から溺愛されている…と思うよ」
「羨ましい~」
そんなことを笑って話しながらしばらく一緒に歩いたけど、僕と彼女はとうとう別れる時が来る。
城西商店街という商店街の入り口。どうも彼女の家はこの商店街を抜けた先みたい。僕の家は、この商店街に入る手前で曲がらなくてはならない。さすがに、ご飯の準備のためにスーパーに寄る彼女についていくという、図々しい選択はできなかった。
「それじゃ、今日はここで」
僕が名残惜しそうに言うと、大原さんも
「うん、今日は本当にありがとう。また明日ね」
と礼を言ってくれる。僕は連絡先を聞きたいと思ったけど、それはまたの機会にしよう。あまりにも初日からガツガツ行き過ぎたと思ったから。初日にしては上出来すぎた。こうして一緒に帰ることもできたのだから、今日はまずそれで満足だ。幸い、席は当分の間――たぶん2学期終了まで――隣同士なので、その間に聞くことができるようになればいい、そう思った。
「うん、また明日。気をつけてね」
僕は大原さんにそう声をかけて自転車にまたがり、ペダルを踏む。1速に入れてあったギアは、クンッと漕ぐ力をタイヤに伝えて颯爽と加速する。
「また明日ね!東条くんも気をつけて!」
その声にちょっとだけ後ろを振り向くと、大原さんは僕の後ろ姿を見送ってくれていた。
「ありがとう!」と言って右手を振ってから前を向き、ギアを2速、3速と入れて緩く加速し、家へと帰る。
その間も、僕の頭からは大原さんの笑顔が、話す声が離れない。もう、どれだけ夢中になっているのだろう。大原さんと別れて5分、自宅に到着する。自転車小屋に自転車を置き、ハンドルにヘルメットを掛けたら、
「ただいま~」
朗らかな声でそう言いながら玄関ドアを開ける。すると夕食の用意をしていた母さんが
「あら、慎ちゃんお帰り。何か機嫌が良さそうだけど何かあった?」
なんて言うから、さすがに自分でもかなり浮かれていたんだとようやく自覚する。
母さんには平静を装って「いや、別に」と言うけれど、さすがにお見通しだ。
「最近の慎ちゃんはそんなに機嫌の良い時はなかったから、さすがに何か良いことあったとしか思えないのよ。ほらほら、話しちゃいなさい」
「いや、それは秘密!」
僕は、まだ頭の中から消えない大原さんの姿を意識して顔が赤くなる。その様子を見逃さなかったのか、
「あ、赤くなって照れてる。もしかして、女の子に告白された?」
「そんなんじゃないって」
僕はさすがにこれ以上母さんに詮索されたくなくて自分の部屋へと逃げる。2階の一番南側の部屋、そこが僕の根城だ。隣は5つ上の兄さん、逆の隣は7つ上の姉さんの部屋だ。二人とも帰ってはいるようで、ドアの隙間から明かりが見える。でも、僕たちはいい年だから帰ってきたくらいではお互いにほとんど干渉し合わない。
鞄を置き、スマホを取り出してバフッとベッドに横たわる。
「なんて1日だったんだろう!」
と呟く一方で、
(あ~!やっぱり連絡先交換しとけば良かったかな~)
と思っても後の祭り。仕方なく僕はいつもやっている音ゲーのアプリを起動する。
しかし、起動したは良いけれど、何だか手に着かない。いつもフルコンボできる曲が、ちょっとしたズレを起こしてコンボブレークを連発する。
「やってられないなぁ」
原因はもちろん、大原さんだ。今頃、ご飯を作って家族と食べているのかなぁ、とか、もしかしたら、連絡先を交換したクラスメイト達と早速グループチャットで盛り上がっているのかなぁって、色々想像をしてしまう。
そんなことを思っている自分がすごく、なんて言うんだろう、キモイと思われそうなくらい、彼女で頭の中がいっぱいになっている。本当に、一目惚れってあるんだな、そして、こんなにも強い思いを抱くものなんだな…。
「みんな、ご飯だよ、降りておいで!」
ご飯だと僕たちを呼ぶ母さんの声に、現実に戻る。
「ほーい」
僕は兄弟の中で先頭を切って、リビングに向かった。
ご飯を食べている間もちょっと上の空で、テレビから聞こえてくるニュースの声があまり頭の中に入ってこない。それでも、ご飯はしっかりと食べて、
「ごちそうさま。じゃ、風呂入ってくる」
と一番風呂をいただく。
風呂から上がってさっぱりしてリビングに戻ると、兄と姉――晴城と伊緒奈――はニヤニヤして僕が来るのを待ち構えていた。父さんは僕と入れ替わりで風呂へ。母さんはキッチンで食器を洗っており、今リビングにいるのは3兄弟だけ。
眼鏡をかけて、生真面目そうに見える兄と、茶髪でちょっと露出の多い服をよく着ている、軽そうに見える姉。…そんな顔をする二人は珍しい。最近はそんなに構ってもらってないだけに。
「どうした、二人とも?」
「いや、慎ちゃんにも春が来たと聞いてな」「どんな子なのか聞きたいわけ」
「え…?」
もしかして母さん、さっきのやりとり話したのか?
「いやいや、そんなことはないって」
「あれれ?そう言ってる割には顔が赤くなってるぞぉ」
と、お酒が入っていつも以上に艶っぽい声で僕に迫ってくる伊緒姉。僕はその圧に負けて「うぅ…」と後ずさる。しかし、その先にはいつの間にやら晴兄が先回りしていて、「ほら、吐け~!」と後ろから羽交い締めする。
「ちょ!晴兄!」
そして、伊緒姉は僕をくすぐり出す。
「ほらほら、早くぅ~」
年上二人からの攻めには逆らえず、僕は「分かった!」と言って降参する。
僕は、今日あった出来事を順に簡単だけど話した。
「なんだか、聞いているだけだと少なくとも悪い印象は持たれてないみたいだから、もしかすると、もしかするかもね。う~ん、なんだかセーシュン!あ、今はアオハルか!いいなぁ。上手くいった暁には、もちろん私たちに紹介してくれるよね~。」
伊緒姉がそう言って背伸びする。
「伊緒姉には紹介したくないかも…」
と僕が呟くと、伊緒姉は僕の頭をいきなりわしづかみして、
「な・ん・だ・っ・て・?」
と怖い笑顔をしてくる。
「はい、すみません。紹介させていただきますです、はい」
「分かればよろしい」
だからその圧怖いんだっての!その一方で、
「聞いている限り、すごく良い娘みたいだな、ま、頑張れ!」
晴兄も応援してくれるみたいだ。
「うん、ずっと彼女の隣にいられるように頑張る。んじゃ、勉強して寝るから。お休み~」
僕は話しているうちにだいぶ時間が経っていて21時を回りそうになっていることに気づき、二人にそう言って自室へと向かう。その僕の背中に二人の声が同時にかかった。
「お休み。勉強もしっかりな」「アオハルガンバ!」
部屋に戻って明日の確認。明日は数学、化学、物理、オーラルコミュニケーション、体育に世界史、最後はもう一回数学。理系の日と言っても良いくらいだ。予習がいるのは数学とOCか。OCを中心に1時間ほど勉強してから、気分転換でスマホを覗くと幸弘からライナーが来ていた。
“今日は放課後どうだったんだ?”
と来ていたので、僕は放課後の行った先、やりとりの事実だけを大まかに返す。
ちょっと間があって、ピコっと返事が来る。
”おぉ、もう既に一緒に帰ることができたなんてな。お前にしちゃかなり上出来じゃないか?”
そして、ほぼ間なく次も来る。
“やっぱり、昼の出来事は大きかったと思うぞ”
実際そうなんだろう。僕だってまさか初日からこんなに距離が縮まるとは思っていなかったから。
「うん、でも、今日は本当に運が良かっただけ。明日以降彼女に幻滅されないように頑張ってやっていくよ」
と送ると、すぐに返事が来る。
”無理というか、自分を偽ることだけはするなよ。妙にかっこつけたりせず、自然体のお前でいれば良い。”
そうだね。全くだ。力むことはあっても、自分に嘘はつかない。それは、絶対だ。
”大原さんも、絶対お前に悪い印象は持ってないと思う。焦らずに少しずつで良いと思うぞ”
「それ、さっき伊緒姉にも言われたよ。じゃ、少し遊んだら勉強に戻る。ありがとう」
そんなメッセージの次に、「Thank you guys!」のスタンプを送る。ところが行き違いになったのか幸弘からは、
”伊緒奈さんか…相変わらずセクシー衣装で男達を悩殺してるのか?”
なんてメッセージが来る。
「まぁ、そうみたいだな。悩殺するだけして勘違いさせてる感じだけど」
そう、伊緒姉は格好が格好だけに「遊んでいる」と思われがちだけど、何気に身持ちは堅い。男の様子を観察して、つきあっても大丈夫かどうかを判断する能力に長けていると思うというのは、幸弘の弁。
確かに何人かの男性とつき合っていたけど、見た感じ真面目に見える人が多かった。
”そうか。久々に伊緒奈さんと話してみたいかな~ちょっと際どい話題でもついてきてくれる貴重な年上の女性だし”
「んじゃ、次の週末にでも遊びに来ると良いよ」
”了解。そういえば、週末楽しみだな。今度はアメリカGPっだったな”
と言うメッセージに続いて、
”Keep Pushing!!”
のスタンプが届いた。僕たちはF1が好きで――お互いの父さんの影響なんだけど――父さんが契約しているスポーツ系ライブ配信アプリを入れてもらって観戦しながらライナーで盛り上がることがある。
もちろん、応援しているチームとドライバーに対して幸弘は言っているのだろうけれども、Keep pushing――本来は、押しまくれ。レースでは、攻め続けろと言う意味――からすると、僕にもそう言っているような気がした。
そのスタンプを見て僕はふっと軽く口元を緩めてスマホをベッドに放り込み、後半の数学予習をする。
予習は30分くらいで終わって時計を確認すると、まだ時間は23時になってない。僕は再びスマホに手を伸ばし、ライナーを何の気なしに――新規メッセはないんだけど――覗く。クラスのライナーグループは作らないことになっている。なぜなら、クラスの連絡は、高等部に入る時にタブレット端末を全員購入することになり、そのタブレットに学校からの連絡や課題、クラス内での連絡ができるためのアプリが入っているため必要ないとみんなで話し合って決めた。だけど、年に1回とは言えクラス全員で遊びに行くとか、そういう連絡はさすがに学校用のアカウントではしづらいので、数人単位でのグループごとにライナーで連絡し合うになる。ただやっぱり、それはそれで不便だ。他のクラスの中には、クラス全員用のグループを作ったところもあると聞いている。
僕が所属しているライナーグループは3つだけ。部活と幸弘を中心とする男子数人の仲良しグループに加えて幸弘、三上と僕の3人からなる幼馴染みグループだ。中学部に上がってしばらくしてから、幸弘に誘われたんだ。「せっかくこうして十何年も一緒にいるから、グループくらい作っとくか?」って言われて。そのグループは作っただけで、1年に数回、誰かが休んだ時に「大丈夫?」のメッセージが来るくらいで、たいした交流じゃない。けど、男子と距離を置いている三上との、数少ない接点であることは確かだった。
男子の仲良しグループにしても、結局学校で話をしていればそれなりに楽しいから、ライナーグループは基本大人しい。たまに、宿題なんだっけ?とか、今やってるサッカーの日本代表戦面白いから、テレビつけてみろよという感じの程度だから、適度な付き合いでやりやすい。
まったく通知の来ないスマホを今度は机の上に置いてライトノベルの続きを読む。でも、ものの10分くらいで今日の疲れが押し寄せてきたのか眠くなってあえなく意識は遠ざかっていく。
――夢で大原さんに会えないかな。まぁ、会えなくても明日会えるから良いけど――
かすかに残った意識は、そんなことを思い浮かべたのを最後に、僕は眠りに落ちた。
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コメント
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コメントを書くノベルバユーザー617419
まだ始まりなのに続きが気になる良い作品♪
…学生時代の【あるある】がいっぱいあってのめり込みました
次の更新がまってまぁ~す☆