臨魁学園物語――転校生とガチ恋をして、二人で幸せになる話――
12章 43週~45週 禍福はあざなえる縄のごとし~二人にとって最高で、最低な夏~
受験生であるにもかかわらず、僕と更紗は、夏休みをエンジョイした。
夏休みの前半である7月中は、午前中に補習があり午後からは一応フリーとなることから、その足でサイクリングに行ったり、ゲーセンに行ったり、更に、引退してからなかなか顔を出すことができなかった部活にも顔を出した。
その時は、南東先生に「余裕そうに見えるけど、大丈夫かい?…ま、大原は大丈夫なのは分かってるけど。ま、それは東条もか」と言われたりもしたけど、「ええ、大丈夫です。そのあたりは弁えて行動していますよ」と言って、「ま、君たちなら問題ないよな、確かに」納得してもらっていた。
サイクリングは、更紗も夏休みに入る直前にお父さんのボーナスをきっかけに自転車を買ってもらったそうで、僕のと同じようにちょっとスポーツタイプのものだった。
「かっこいい!それに、フレームの色も更紗によく似合う黄色なんだね~」
と、僕が褒めると更紗もちょっと照れながらも「ありがと、慎吾と肩並べて走るなら、こんなスポーティーな自転車じゃないとね~」って言いながら笑ってくれた。
走る先は、以前からよくジョギングで利用している河川敷のサイクリングコース。
そこを、川のせせらぎを聞きながら走って、心地よい風を浴びて、強い日差しが僕らに照りつけた。
けれど、途中でいきなり雲行きが怪しくなって、瞬く間に豪雨。夕立ちが僕らを襲った。
「更紗、急いで!あそこで雨宿りしよう!」
大粒の雨の勢いで、かなり大きな声で更紗に叫ぶけど、7割程度しか聞き取れなかったようだったが、それでも僕の言うことは分かったようで、「ええ!」と同じく大きい返事をして一気に走る。目の前100m先に国道の橋が見えたから、そこで雨宿りをしたんだ。でも当然二人ともびしょ濡れ。
「さら…さ?」
更紗に話しかけようと思って目をやったら、Tシャツの下のブラジャーが透けて見えてしまい、思わず顔を背けてしまった。
しばらくの間、心臓が動悸を打っていたのを大人になってからも、その一瞬見えた映像と共に、強烈に覚えている。
その一方で、勉強をしていなかったのかというと、そうでもない。
ちゃんと一週間のうちに何回かは、図書館なり僕の家なり更紗の家なりで、更紗と課題をこなしていたし、幸弘や夢衣も誘って勉強をしていた。
尤も、僕と更紗の二人で、僕の家で勉強したときは、二時間かそこらで終わらせて、お互いにスマホの音ゲーで遊んでいたけれど…。
更紗は音ゲーがきっかけでゲームに興味が出たみたいで、僕の部屋にある据え置きにも持ち運びにもできるゲーム機を見て「やってみたいな」と言い出してやってみることにした。
パズル、格闘、ロールプレイング、シミュレーションといったジャンルを一通りさわり程度やってみると、ロールプレイングに面白味を感じたようで、「これ、ちょっとやってみようかな」と気になったタイトルのパッケージを持って来た。最近出た、昔のRPGのリメイクだ。父さんが「思い出のRPGだから、これは俺もやりたいから買うわ」と言って買ってきたのだけど、僕も興味を持ったから父さんがクリアしたあとに借りているんだ。
という様に、内にいても外に行っても、遊んでいることには変わりがなかったわけで、
「良く遊び、良く学べ」を地で行っていたような感じがする。
でも、一番思い出に残っているのは、四人で海に行った時の事だ。
その日、八月五日は更紗の誕生日だった。
お試し期間で付き合いだして少し経った時にした誕生日の話で、「更紗の誕生日には海に行こう」と僕が提案したことは当然覚えていたから、終業式の日の帰り道で幸弘と夢衣にも声をかけて、四人で揃って海に行くことにした。
でも、折角の誕生日なのに綸子ちゃんやお父さんはいいのかなって思ったから、「せめて綸子ちゃんも一緒に行くわけにはいかないかな?」と尋ねる。すると更紗は「聞いてみるね」とライナーで連絡したら綸子ちゃんは、「できれば一緒に行けるといいけど、カップル2組の中に入るのはちょっとな~」って言っていたみたいだ。でも更紗が追撃で「花火大会あるよ」と言ったらあっさり「行く!」って。それを聞いて思わず吹き出してしまった。
商店街の入り口にあるバス停で僕たちは待ち合わせをして、バスを乗り継いで一路海へ。
春に高2最後のデートで言った水族館から更に奥に進んだところに鷹雄という海水浴場があるんだ。
「帰りは晴兄が迎えに来てくれるけど、今日は花火大会もあるから帰りは混みそうだよね」
僕はそう言って更紗を見るために後ろを見る。一番後ろに更紗と綸子ちゃん、そして夢衣が陣取り、その前の2人掛けに僕と幸弘が座っているんだ。
「いつも足にしてしまって申し訳ないなって思うんだ。特に晴城お兄さんってもう結婚して新婚さんなのに…」
更紗が済まなさそうな顔をするけど、
「そうだね。でも、晴兄もそうだけど、優來姉さんもなんだかんだ言って僕たちのことを見守っていたいんだって。この前二人で家に来た時にそんな事言ってくれたよ」
と僕は返す。事実、終業式の日にアパートに住んでいる二人が家に晩ご飯に食べに来たときに「その花火大会にも私と晴城も見に行くから、一緒に帰りましょ?」って優來姉さんから言われたから、「いいんですか?」って驚くと、「二人の仲を応援しているから、アオハルしてるところを間近で見たいんだよね~」って悪戯っぽい笑顔で言われたっけ…。
盛夏の太陽は、容赦なく僕らの肌に突き刺さる。
地球温暖化のせいか、ここ数年どんどん暑くなっているなと感じる。この日も既に気温は33度を指し、梅雨開けしてから二週間連続の真夏日になっていた上、そのうち5日は35度以上の猛暑日だった、今日も、きっと猛暑日になるだろうことは容易に想像できた。
海はそんなに大きな砂浜ではないけれども、砂の色が白くて、海の色も、景色も綺麗なので、地元民はもちろん、県外からもかなりの人が海水浴にやってくる。
この日もその例に漏れず、平日にもかかわらず親子連れがたくさん来ていた。
「うわぁ~綺麗!」
更紗はバスから降りて砂浜を見るなりそう絶句した。
白い砂に、青い海、水平線には小さく入道雲が漂っている。
左右を見渡すと、左は遠くに絶壁が、右も遠くに目をやると石油コンビナートが見えるけれども、付近は砂浜だけあって近くの人工物と言えば灯台と浜茶屋、それに百メートルくらい沖のテトラポット位だ。
こんな綺麗な海は、地元だとなかなか見当たらない。この砂浜は、地元に住む者の誇りだ。
「更紗さんって、こんな綺麗な海を見たことがないのですか?」
絶句する更紗に、夢衣が尋ねる。
「そうね。海自体、あまり行かなかったから・・・」
更紗はそう言いながら、砂浜の方に心を奪われていた。その一方で、
「うん。小学校の頃は広島にいて2年に1回くらいは行っていたけど、京都に引っ越してからは全然行ってなかったですね」
こちらも砂浜を見ながら綸子ちゃんが答えてくれていた。
「浜茶屋で場所をとろうぜ、みんな」
幸弘が僕らを促した。目の前にある浜茶屋に入り、場所代を払う。
そしてまず、浮き輪に空気を入れるところから始めた。夢衣と綸子ちゃんの為だ。
夢衣は泳げない訳ではないけれど、足のつかない場所では不安になるらしい。綸子ちゃんも問題ないらしいけど、帰宅部だったから体力的にちょっと不安とのことだ。
僕と幸弘が交互に空気を入れている間、女性陣は着替えに行った。
「覗かないでよ。覗いたら、絶交だからね」の台詞とともに、三人は脱衣所へと向かった。
「どんな水着かな?」
僕は頬を紅潮させながら浮き輪に空気を入れている幸弘に話しかけた。
幸弘は空気入れの入り口を二本の指で押さえ、僕に渡す。
僕が息を吸い込んで浮き輪に空気を入れ始めると、彼は一つ大きな息を吐いて口を開いた。
「う~ん。夢衣は、おとなし目じゃないか?おまえは、どうだ?大原は、どんな水着だと思う?俺は、わからないぞ」
「う~ん。どうかなあ」
僕は、一呼吸おいて、そう答えた。
「でも、あんまり派手じゃないんじゃないかな?」
僕はまた、浮き輪に空気を入れ始める。
浮き輪に空気を入れることなんて、あまりしたことがないから滅茶苦茶きつくて、自分の顔が紅潮してくるのがよくわかる。すこし、目の前が暗くなり、脳から酸素がなくなっている感覚に襲われる。…ちょっとやばいかも。
「幸弘すまん、代わって。脳貧血っぽい」
指を離しそうになったけどなんとかこらえて幸弘に浮き輪を渡すと、幸弘は心配そうな顔をして「おま、大丈夫か?」と聞く。「余り大丈夫じゃないから頼むんだけど。ちょっと横になるよ」「ん、了解」
それだけ会話をすると、僕は横になる。
暫く横になっていると、「あ、慎吾大丈夫?」とちょっと慌てた声がしてきた。
10分も横になってないと思うけど、少し頭がハッキリしてきた僕は、薄く目を開ける。するとその目の前には更紗の顔。そして、遠間から見ている夢衣に、幸弘、そして綸子ちゃん。
みんな、心配そうに僕を見つめている。
「大丈夫?」
更紗のかわいい口が、そう動いた。僕はやっと状況を理解すると、むくりと体を起こして、
「OK。大丈夫」
「とか言ってみんなを心配させるくらいなら、貧血なんか起こすなよ。こっちが驚くわ」
幸弘の厳しい指摘が飛ぶ。ちょっと刺のある言い方。でも、こいつはこういう言い方が普通だから、僕は気にならない。
「ああ、すまない」
でも僕は、神妙に謝った。そこで始めて、更紗と夢衣が着替えてきていたことに気付いた。
「慎吾、意外ね。大丈夫?」
その更紗の意外そうな言葉に、僕は苦笑いをすることしかできなかった。
「ホント、私も意外だと思います。運動部なのに…」
綸子ちゃんも目を丸くしてそんなことを言うものだから、正直いたたまれない…。
でも、僕の目は更紗の身体に釘付けになっていた。
黒い生地に黄色い、夏を象徴する花--ひまわり--の柄をしたビキニ。それが身体に見事なまでにフィットしている。
さらに、僕と一緒に遊び回ったせいで、褐色になった肌との対比が何とも言えない。
目のやり場に困るということは、まさしくこのことだ。
「どうしたの?」
更紗は自分の身体を隠すように、僕の目の前に無邪気な顔を持ってくる。
「うん、その水着すごく似合っているんだけど…目のやり場に困るよ。だって、更紗ナイスバディだからさ…。」
僕がそう言うなり更紗は、顔を膨らませた。
「スケベ!」
そして、持っていた白のラッシュガードで僕の目を覆う。
「わっ、ごめん。ごめんってば」
「別に、いいよ」
そう言って、更紗はぱっと手を離した。そして、続けた。
「悪い気は、しないし」
そう言われて、ホッとする。でも、周りを見ると他の団体の男性からの視線を感じるから、正直余りいい気はしない。そう言えば、浮き輪はどうなったんだろう?と思って幸弘に聞く。
「幸弘、浮き輪は?」
「大丈夫。やっておいた」
そう言われて僕は幸弘に礼を言う。
「ありがとな幸弘」「いや、礼には及ぶさ」
そんなやりとりをしながら僕はちらりと夢衣の方を覗いてみた。予想してはいたけれど、おとなしい感じのするピンクのワンピース。赤いラインが斜めに走っている。
彼女の肌は、更紗と違って雪のように真っ白。
でも彼女は、それを隠すように緑のラッシュガードとタオルを羽織り、身体を小さくしていた。
そして綸子ちゃんはと言うと、こちらはアシンメトリーで右肩から左肩にかけてフリルがついた水色のワンピース。
健康的な更紗との大胆な格好と、どこか儚げのある夢衣、そして二人の間に並ぶ個性的な綸子ちゃんと三人が並んでしまうと、良くも悪くも目立ってしまう。三人だけにしておくと、知らない男達から声をかけられてしまうかもしれないから、幸弘に先に着替えに行ってもらう事にした。
「幸弘どのくらいで戻る?」「そうだな…3分もあれば」「OK。先に行って着替えてきてくれ。僕は幸弘が戻ったら行くよ」「りょ」
いるかもしれないナンパ共に、彼女らが集られないように僕らは入れ替わりで急いで着替えた。
僕も幸弘も、どこにでもある、黒のトランクス。日焼け対策のラッシュガードは僕たちも用意していて、幸弘はさすが跳ね馬ファンだけあって赤。僕は紺色のものにしていた。
やはり、どちらかがお目付役でいたからか、視線は感じるんだけど他の男かが近づいてくる事なく、平和に着替えを終わらせる事ができた。
更紗は言い返す事ができるだろうけど、夢衣は気が小さいので、すぐに言いくるめられてしまう可能性があるから、夢衣に話しかけられないように、夢衣の近くにいるように気をつけた。
「…正直、ちょっと周りの視線が怖いですね」
と、正直な気持ちを綸子ちゃんは吐露してくれて、夢衣もそれには「同感です」と頷く。年下の綸子ちゃんにも丁寧な言葉で接する――というか、誰に対しても丁寧な言葉で夢衣は話すのだけど――と、綸子ちゃんは「前からお伝えしてますけど、もっと砕けてもらっていいですよ。こっちが緊張しちゃって…」と夢衣にそう言う。でも、「これがずっと身についてしまっていて、すぐには難しいです」と夢衣も綸子ちゃんの意図を汲みながらも、難しい顔をしてしまうから、幸弘と僕で、「まあ、これは時間が解決するのを待つしかないよね」とお互いに納得してもらう。
ただ、そんな不毛な会話に我慢できなくなった更紗が、
「そろそろ海に入らない?」
と言うことで、その話は終わり。
「こんな綺麗な海で泳ぐのなんてほぼ初めてだから、楽しみで仕方ないの」とみんなを更紗は促す。
「了解、それじゃ行こうか」
僕の言葉に、更紗は悪戯っぽい笑顔を浮かべてこくんとうなずいた。
「私も、楽しみです。こうして仲良しの友だちだけで海水浴に来るのは初めてですから」
夢衣もそう言って立ち上がろうとする。そんな彼女に幸弘が手を差し伸べた。綺麗な指が幸弘の手に絡みつき、その手とともに立ち上がる。
「紳士だね、幸弘」と言いながら、僕も同じように更紗を誘う。更紗も同じように答えてくれて、更紗は「えへへ…」とちょっと照れ笑い。そして、一人だけ相手のいない綸子ちゃんが「ぶ~全く…見せつけられてこっちが恥ずかしいんですけどっ!」と機嫌を損ねてしまう。
そんな僕たちの仕草に外野の視線が少し悔しそうに見えたのは気のせいだろうか?
「スマホ、忘れずに」
水没しないように耐水性のあるカバーに僕たちはスマホを入れ、首からかける。盗難対策を兼ね、肌身離さず持つように、だ。そして、僕と更紗はサンダルを履いて手を取り合い、海のほうへ駆けだした。
ワンテンポ遅れて、綸子ちゃん、そして幸弘と夢衣も続く。強烈な日差しの中、出て行ったのはいいのだけど、
「あっ!熱い!砂あっつい!」
幸弘が叫ぶ。そう、その強烈な日差しで熱せられた砂がサンダルに入ってきてめっちゃ熱いんだ。「ホント!」「やばいね、これ」「一旦日陰に待避だ~」
一旦浜茶屋の屋根のあるところへ戻ってどうしようかと思案し、その日陰で準備運動をしっかりやってから、ゆっくり海へ向かおうと言うことになった。
でも、やっぱり海の側に行くまではサンダルに熱い砂が入ってきてしまうわけで、みんなで「熱い、熱い!」を連呼しながらなんとか波打ち際まで出ると、海水がしみこんだ砂は比較的ぬるく、足をつけても問題がなかった。そこでようやくサンダルを脱いで波に流されないよう波打ち際の手前にサンダルを置いてから海水を足につけてみる。思っているより冷たい。その冷たさは、ほんの少しの間だったとは言え日光や砂に焼かれた肌にとっては快感だ。
「思ってた以上に冷たいね」
更紗はもう腰まで海水につかっている。そして、僕を手招きで呼んでいる。
「よっし、いくよ!」
僕も彼女に倣って、少しずつ海水に身体を沈めていく。冷たさが身体をせり上がってくる。それが、気持ちいい。
「ねえ、テトラポットまで行かない?」
「ああ、いいよ。でも、もうちょっと待とうよ。幸弘と夢衣が来るまで」
「そうね」
更紗は思わず慌てたためか、少し恥ずかしそうに笑った。
「更紗さ~ん」
後ろから、夢衣が更紗を呼ぶ声が聞こえてきた。僕らはそっちに身体を向ける。
浮き輪でじゃぶじゃぶしている夢衣の横で、彼女を支えるように幸弘が泳いでいた。
「お疲れさん」
僕と更紗、それに綸子ちゃんは笑顔で彼等を迎えた。そして、海面に漂いながらテトラポットへ少しずつ向かっていくと、
「慎吾君」
突然後ろから更紗の声が聞こえてきた。
「うん?」
と僕が返事しながら彼女の方を向こうとした矢先、僕の首に更紗の両手が絡まり、体重をかけてくる。当然、僕らは沈み始めるけどそれとともに、僕の背中に更紗の胸が当たる感触がするから、天国と地獄を同時に味わっている感じだ。
「う。うわっ!さ、更紗止めろ。し、沈む」
だから、僕の声はうわずってしまって必死さがなくなってしまう。
「い~や」
いつも以上にハイテンションな更紗は、もっと体重をかけてくる。
それなら、こちらにも考えがある。
僕は思いっきり身体を浮かせて肺一杯に空気を吸うと、勢いよく身体を沈ませた。更紗が僕の首に絡ませている手も僕は両手で握って一緒に海の中へ。
更紗の腕は首から離れようともがくけど、僕がホールドしているからなかなか外せない。きっかり10秒、沈んでから腕を離すと、彼女の体重が僕の身体から消えた。
「ごほごほっ!しんごぉ~」
先に海面から顔を出した更紗がむせている。僕も海面から顔を出して、言った。
「そんな事から、逆襲してみたんだよ。でも、大丈夫?」
僕の言葉に、更紗はちょっと表情を曇らせるけど、濡れた髪をかき上げると笑顔になって、「ごめん。はしゃぎすぎたね。やっぱりテンション上がってちょっとおかしいかも」
「確かに、お姉ちゃんいつもよりテンション高いね。私にはそんなことした事ないのに」
と、姉妹は口々に言う。
「だな、傍目から見ても、大原のテンションの高さは、いつも以上だよ」
幸弘も認めると、横に浮き輪をしている夢衣も「そうですね」と頷く。
「尤も、私もテンションは上がっていますけど」
…でもそうは見えないところが、お嬢様の夢衣たる所以なんだろうなと思う。
「さぁ、それじゃ行こうよ」
と言う更紗の言葉とともに、僕たち五人は一緒に泳ぎ始める。浮き輪で泳ぐ夢衣のペースに合わせ、ゆっくりと。綸子ちゃんもいつの間にか、持って来ていた浮き輪の中に入って、「体力温存モードなのです」と泳ぐ。
百メートル先のテトラポットは、なかなか近づいてきてくれない。
「ごめんなさい。みんなの足、引っぱってしまって・・・」
夢衣は謝る。だけど、僕らはそんなことは全く思っていない。五人で仲良く、こうして一緒にいられる時間がとても貴重だから。
「大丈夫、夢衣。時間はあるからゆっくりでいいんだよ」
幸弘はそう言って、下を向きそうな夢衣の顔を上げさせる。
「そうだよ、夢衣ちゃん。下を向かず、真っ直ぐ見ていきましょ」
更紗も励ます。おかげで、夢衣の目にも力が宿る。
「はい、頑張ります」
儚げな印象を与えがちな夢衣だけど、幸弘と更紗のおかげで精神的に強くなり、たくましさが出てきているなと感じる。やる気になって、キリッとした表情をする夢衣は、中学校時代の印象とは打って変わって何とも凜々しい。
(ああ、幸弘が彼氏になったからこそなんだな…僕がもし、あの頃両思いになっていたら、こんな顔をする日が来ただろうか?)
僕は思う。おそらく、夢衣を守る事に一生懸命になってしまってこんな表情ができることを知らずに、ずっと過ごしていく事になっただろうなと思うと、正直…本当に正直言って悔しいんだけど、幸弘が夢衣の彼氏になって良かったんだろうと思わざるをえなかった。
複雑な思いを抱えながら泳いでいくうちに少しづつ、目標が近づいてくる。
テトラポットまであと10mくらいまで来て、海面から顔を沈め海底に目を向けると、水中眼鏡越しにいろいろな海草が繁っているのがよくわかる。
海底に沈んでいるテトラポットにまで海草が生えている。
(足をつくと、滑るんだろうな・・・)
慎重に足を乗せて、海面に顔を出しているテトラポットの乾いているところに手をつく。
そして、身体をよっと引き上げた。
「ふわぁ~、やっと着いたぁ。更紗、手、貸そうか?」
「うん、お願い」
更紗に右手を伸ばし、彼女の右手を掴んで、よっと引き上げる。
それに倣って、幸弘も夢衣をテトラポットに引き上げた。
「本当に、今日は天気がいいですね」
浮き輪を片手に夢衣が感慨に更けるけど本当にその通りで、今日は綺麗な夏空が水平線まで続いている。北の方に大きな雲が一つ、のどかに漂っているのが、僕達の心をいつも以上に澄み渡らせていたと思う。
すると、聞き慣れない歌を、夢衣が歌い出した。
最近の速いテンポで歌詞が流れていくような歌じゃなくて、ある程度ゆっくりとして、じっくりと聞かせてくれる歌。その旋律もなんだか胸の中にしみこんでいくような気がした。
「あ~!夢衣さん、それって…」
綸子ちゃんが夢衣に向かってとある歌手の名前と曲名を口にする。その名前に僕は全然聞き覚えがないのだけど、夢衣はにっこり微笑んで頷く。
「そうです。綸子ちゃん、よく知っていましたね。結構マイナーな方だから、知っている人がいてくれて、嬉しいです」
「私、OurTubeの動画で知ったんですよ。何となく検索していて聞いてみたら填まっちゃって…サブスクでこの人のアルバムをリストに入れてます。勉強もはかどるんですよね」
綸子ちゃんも笑顔の夢衣に対して笑顔でそう返すものだから、そこの2人の空間は、至って穏やかなものだ。僕も更紗も、この歌手の事は知らなかったから、「浜茶屋に戻ったら、早速検索だね。今でもいいけど、今は夢衣ちゃんの歌っているところを見ていたいわ」と更紗の言葉に僕は頷いて、夢衣に続きを歌ってくれるように頼むと、さっきと同じように凜々しい顔つきをして頷き、続きを歌う。
それに綸子ちゃんもユニゾンで歌う。綸子ちゃんは夢衣よりも声が低いけど夢衣と同じくらい歌が上手いから心地よい。
夢衣は中学部時代は合唱部だったから、うまいのは当り前で、さらにソプラノだったから、高い声はお手の物だ。
二人の歌が終わると、いつの間にかテトラポットに来ていた人達――親子連れや、カップルまでも――が、彼女たちの歌声に弾かれたのか、近くに来ていて一緒に拍手をしていた。
夢衣と綸子ちゃんはそれに気付くと、耳まで真っ赤にしてうつむいてしまった。
その態度に、幸弘は彼女の頭をなでながら言った。
「夢衣、うつむくことはない。あんなに綺麗に歌ったんだ。だから、みんなが拍手をしてくれた。もっと自信をもって、堂々とすること。いいね?」
彼女は、幸弘の顔を見ながらうなずいた。そして、
「ありがとう、ございます」
と大きく、はっきり言って、拍手に応えた。こうした幸弘の言葉がけが、夢衣を強くしている。
「それにしても、綸子ちゃんも歌が上手いね。カラオケで鍛えてた?」
幸弘が聞くと、綸子ちゃんは首を横に振る。
「小学校の時、合唱サークルに通っていました。だから、歌うのは得意ですよ」
とのことで、それは上手になるよな、と思う。同時に、更紗は行かなかったのかな?と彼女に聞くと、「そう、私は合唱嫌いじゃないけれど、それ以上に身体を動かす方が好きだったから、ミニバスケットのクラブ入っていたんだ」と答えてくれた。
それにしても、歌っていうのは本当にいい。僕も彼女に触発されて、何か歌いたくなった。だから、空を見上げてあるフレーズを歌い出す。それに鋭く反応したのが更紗で、
「あ~やっぱりそれ歌い出すんだ。そうじゃないかと思った」
以前、更紗と一緒に登校を始めて少し経った時に紹介した、晴兄から教えてもらった歌。こういう所で歌うにはもってこいだったから、歌いたくなったんだ。
だから、更紗の声かけに僕は笑ってうなずいて、続けた。更紗も、「私も歌うね」とそのフレーズをしっかり覚えて、合わせてくれる。
本当に、みんなの心を和ませる、いい曲だ。気付いたら、歌は終わってしまっていた。
「本当に、いい曲ね」
「そうですね、更紗さん」
「慎吾が、こんな曲を知っているとはな」
最後に幸弘が、からかうように言う。僕はちょっとドスを効かせて言った。
「どういう意味だ、幸弘よ」
「いや、別に」
あまりにも素っ気なく言われたので、毒気を抜かれてしまった。
「ま、いいか」
僕はそう呟いて、テトラポットで横になる。強い日差しが、僕たちに降り注いでいる。
「ねえ、穏やかな海だけど、この向こうは外国と繋がっているんだよね…」
更紗がそんな事を僕に言う。
「そうだね。行ってみたい?」
そう返すと、更紗はちょっと頷いて、
「どこの国かは決めているわけじゃないんだけど、機会があったら行きたいって思ってる」
「留学とかで?」
「ううん。そこまでは考えた事がなかったな。ほら、大学の卒業旅行とか、……とか」
急に更紗の声が小さくなる。顔を覗き込むと、真っ赤だ。
「なんて言ったの?」
僕は聞いてみるけど、赤い顔をしたまま「…何でもない」なんて言うから、綸子ちゃんが突っ込む。
「お姉ちゃん、私の目はごまかせないわよ。新婚旅行とかって言ってたよね?」
そう言われて更紗の顔が更に真っ赤になる。
「もう、綸子!」
と、更紗は綸子ちゃんに食って掛かるけど、僕はその言葉の意味を反芻してその真意を悟ると、恥ずかしくなってきた。
「やべ…突っ込まなきゃ良かった…でも、そうなるといいなぁと正直に思うよ」
僕は、本音でそう更紗に言うと、更紗も僕の顔を見て「そうなるといいね」と呟く。
幸弘が合いの手を入れるように口笛を吹いて僕たちをからかうから、僕は奴のボディに軽くパンチを浴びせておいた。
テトラポットから浜茶屋に戻ってスマホで時刻を確認すると、正午を少し回っていた。
「はい、じゃあ、お昼にしようよ」
私がそう言うと、みんな頷く。浜茶屋にはやっぱり私たち以外に家族連れや大学生みたいな歳の4,5人くらいの団体が同じようにお昼ご飯を食べようとしていた。
夢衣ちゃんも矢野くんの横に座って手作りのお弁当を開いていた。
私の弁当は、バスケットの中に入っていて、大きい握り飯が2つと、それより二周り小さいおにぎりが4つ。それは、私と慎吾と綸子の分。
そして、おかずはたこさんウインナーにキャベツとほうれん草のバター炒め、それに、プチトマトといつものゆでブロッコリー。
品数はそんなに多くはない。ちょっと足りないかなって思うくらいで作ってある。
夢衣ちゃんの弁当は、小さめな二段重ねの弁当箱に入っていて、下段には、鉄火とカッパ巻きといった巻き寿司。上段には卵焼きに夏野菜サラダ、肉じゃがと言ったおかずが所狭しと並んでいる。
それでも、二人分の感じで、矢野くんと食べるんだろうなと思う。矢野くん、何気にやせの大食いだから、足りないように思うんだよね。
「3人とも、お弁当ありがとう。絶対に美味しいよね」「ああ、実は楽しみにしていたんだよな」
慎吾と幸弘はお互いに弁当の感想を言う。そんな2人に私たちは、
「ええ、朝の6時半に起きて、作ったんです」
「私たちはもうちょっと遅かったけど、それでも7時だったわ」
「それで品数はちょっと少なめなんです。せっかくの浜茶屋でのお昼だから、何か頼みたいかなって」
それぞれ言うと、それを受けて夢衣ちゃんは、
「そうなんです、それを目当てで少し少なめに作ってあるんですよ」
やっぱり、夢衣ちゃんも同じことを考えてたみたい。浜茶屋なら、やっぱりいくつか頼みたいよね。
「なるほどね。だから少なめなんだ。じゃ、ラーメンとイカ焼き頼んでいいかな?」
慎吾がそう言うと、矢野くんも「俺は焼きそばにフライドポテトだな。慎吾、勿論みんなで食べるために頼むんだよな?」と言って、慎吾に張り合う。
「勿論。でも、真心を込めて作られたものは、無駄にできないからお弁当を全部平らげ手からの話だけど」「ま、そりゃそうだな」
「それじゃ、どんどん食べてね。いただきまーす!」
私の一声が合図となり、みんなは両手を合わせる。
慎吾はまず、私の作ってきたおにぎりに手を延ばして口の中に入れ、よく噛みながら、味を確かめる。私も同じおにぎりを手にとって食べると、海苔の風味に、おいしいご飯の甘さ、そして、中に詰まっていた梅干しの酸味が順番に口の中に広がっていく。種は取ってあから、きっと食べやすく感じてくれたと思う。
「慎吾、おいしい?」
私がさっそく聞くと、慎吾は満面に笑みを浮かべて、
「ああ、最高。食べやすいし」
と言ってくれた。だから私はホッとして、
「良かった」
と返す。慎吾は更に、
「次は、夢衣の作ったお寿司を戴こうかな?」
と言って、夢衣ちゃんの方に向く。
「はい、どうぞ、慎吾君」
夢衣ちゃんは前もって用意してあった紙皿の上に、お寿司を二個と、卵焼き、肉じゃがを乗せて、慎吾に手渡した。
「ありがとう。夢衣の料理を食べるの、何年ぶりだろう」
慎吾がしみじみと言うと、矢野くんは「5年ぶりくらい?あの一件の前に俺の誕生日パーティーで作ってくれたのを食べて以来だと思うぜ。だな、夢衣?」と言って、夢衣ちゃんに確認する。
「はい、そうですね。あれ以降、そう言う場面を作る事がありませんでしたから。私も、久しぶりに作るなぁと思って今日ははりきって作っていました」
夢衣ちゃんはそう言って、お弁当を愛おしそうに見る。すごく、気持ちを込めて作っていたんだな、と夢衣ちゃんの表情を見て、そんな思いを強く感じた。だから、そんな思いを込めたお弁当の味を知りたくて、
「夢衣ちゃん、私も食べていいかな?」
と夢衣ちゃんに尋ねると、夢衣ちゃんは笑顔を見せて、
「はい、更紗さんどうぞ。私も更紗さんのお弁当を戴いてもいいですか?」
と言うから、勿論返事はイエス。
「うん、どうぞ。感想を聞かせて欲しいな」
私はそう言って、夢衣ちゃんにおかずを数品渡し。夢衣ちゃんは、それを口に運んで味を確かめる。
「美味しいですよ、更紗さん。大丈夫です」
「そう?嬉しいな」
「でも、このバター炒めなんですけれど・・・」
夢衣ちゃんは、料理の味付けについてアドバイスを始める。それには綸子も身を乗り出して話を聞く。そして、夢衣ちゃんの料理の味付けにもお互い思った事を言って、「あ、そうか、この調味料の使い方があるんだね」と綸子が言えば、「なるほどです。やっぱり、それぞれの家庭の味というものは千差万別ですね。私も勉強になります」と夢衣ちゃんも言って、楽しく会話していた。
料理に関しては門外漢の慎吾と矢野くんは、私たちを呆然と、しかし暖かく見つめていた。
昼食後、またテトラポットまで行って日光浴をしたり、海辺で、ビーチボールで遊んだりして、夕方。
浜茶屋の後ろの方にある駐車場に、車がだんだん増えてきた。
当然、それとともに人も多くなってくる。
「花火大会にやってきたのですね」
水着から普段着に着替えた夢衣ちゃんが、タオルで髪を拭きながら言った。
「そうね。慎吾、晴城お兄さんと優來お姉さんとはどこで合流するの?」
私は、TシャツとGパンに着替えて慎吾に聞く。
「取りあえず、さっきライナーしたんだけど、そのままここで待っててって。ここで拾ってから、穴場へ行くんだよって返ってきた」
慎吾はそう言って、私や綸子に返事をしてくれた。
「あ、そうなんですね東条さん。穴場ってどこなんですか?」
綸子は慎吾に聞くけど、そこまでは知らなかったみたいで、
「ゴメン綸子ちゃん。僕もそこまでは知らないんだ。晴兄に聞かないと」
「わかりました。楽しみにしていますね」
申し訳なさそうに答える慎吾に、綸子は笑顔で慎吾に返した。
「あとどれくらいで晴兄さん来るんだ?」
矢野くんが慎吾に聞く。
「うんと、あと10分位って言ってる。…晴兄運転してると思うから、多分優來姉さんがスマホの文を打ってるんだろうな」
「っていうことは、パスワードとか教え合ってるってことだよな。すごいな、その信頼感」
矢野くんがそう返すと、私は、
「え?私も慎吾の知ってるよ。慎吾に私のも教えたから、いつでも開けるよ。…尤も、どっちも勝手に見た事はないけど」
と言った。すると矢野くんは目をまん丸にして、
「さすがだなぁ」
と呟くだけだった。
そんな話をしながら晴城お兄さんの車を待っているうちに、夕日は徐々に沈んでいく。橙の濃さが少しずつ確実に、燃えるような色に染まっていった。
浜茶屋は17時で店を閉める。だからもう終わりと言われてひとまず後方の駐車場で車を待つ事に。
「あ、やってきたよ。賭けは僕の勝ちだね」
どっちから来るか賭けていた私たち。結果は慎吾の予想通りとなった。
「じゃ、今度盆明けの補習の日にジュース一本ね」
そう、賭けたものは、補習開始日のジュース。綸子もちゃっかり慎吾と同じ方向に賭けていたものだから、綸子は明日ジュースを奢る事になってしまった。
「分かったわ。あ、晴城お兄さん、優來お姉さん、ありがとうございます!」
運転席を覗き込んで、私はそう挨拶する。二人は笑顔で、「乗りなよ、行くよ」と言うから、みんなでお礼を言いながら後部座席へ乗る。
「じゃ、行くよ。ここから10分くらい走ったところに小高い丘があって、そこから花火がよく見えるんだ。人でもそれなりにあるけど、ここよりはよっぽど少ないから帰りも楽ちんだしね」
と言う晴城お兄さんの言葉とともに、車は出発する。
確かに10分ほど走ったところに、花火を見るのにちょうどい場所はあった。まだ少し明るいから、車から降りて暗くなるのを待つ。
花火大会…楽しみではあるんだけど、少し悲しい思い出もある。それは、綸子も同じ。だって…。
夜の帳はかなり降ろされていた。
紺色の幕から、漆黒の幕へと空の色は変わり、その中に瞬く銀色の明りが姿を見せる。
夏の大三角もそのうちの一つ。
つい一ヵ月前に再会を果たした牽牛と織姫、そして悲しい神話を今もなお奏で続ける琴が、真上から僕らを照らしている。
会場の方に目をやると、昼間は真っ白だった砂浜が、今は真っ黒だ。勿論夜の闇、と言うのもあるのだろうけど、人の波もあるのは間違いない。
「すごい人がいる感じだね」
僕は、こういった間近なところで花火を見るのは初めてだった。
近所でこんな大規模な花火大会がないというのもその理由だけれど、やっぱりこういうところには、一人より大人数で行きたいなと思っていた。今日、その機会にやっと巡り会ったのだ。
「どんな花火が見られるのかしらね」
「どんなんだろうね」
夜の帳は、完全に降ろされた。
道路沿いの明りと広場を照らすLEDの明りだけが、僕達がいる場所がわかる目印だ。
時間は、七時半を回った。花火を上げる船が、明かりを携えてテトラポットよりも沖合いに現れた。そして――
ど~ん!
一発目の大玉が白い筋を描いて虚空へと上がる。少しの間があって――
どど~ん!
赤い大輪が咲いた。真ん中は、白と黄色に彩られている。
「た~まや~」
更紗が僕の隣で歓声を上げる。彼女はまるで、子供のようだった。
次々と、花火は上がっていく。
黄色く、青く、赤く、白く、黒い夜空をキャンパスにして、一瞬の光の造形が輝く。
「奇麗ですね~」
夢衣は幸弘の隣でうっとりしていて、かなりいいムードだ。
僕は敢えて邪魔するまいと思った。邪魔するよりも、更紗の方を見たかったし。
そう思い更紗の方を向いて見る。そして、目に映った更紗の様子を見て、僕は驚いた。
彼女は悲しい顔をして、目尻に涙を溜めていた。その様子に、「なぜ?」という思いと、伝わっている悲しみで、僕の胸はこれでもかと言うくらい締め付けられて、僕まで泣きたくなってしまった。でも、何とかこらえて僕は更紗に問いかけた。
ためらいはあった。でも、どうしても聞きたかった。
「どうしたの、更紗?」
彼女は涙を拭おうともせず僕の方を向く。それと同時に、赤い花火が、大音響とともに僕らを照らして、更紗の悲しそうな顔が朱に染まる。
「ごめん…昔のことをちょっと思い出しちゃって…」
「昔のこと…?」
「うん、家族の、思い出なんだけど、あまりにも苦い記憶でね」
「家族の…?」
更紗は僕の胸元から頭を離すと、涙を拭った。
その目には、まだ悲しみはあったけれど、何かを話そうとする意思が感じられた。
「私は、元々福岡にいたのに、広島に転校してるのは、知っているよね」
その言葉に、僕は頷く。
「実はね、その転校を知らされたのが、9年前の誕生日の翌日だったんだ…9年前の誕生日は、お昼に友だちと誕生日パーティーをしてから、家族で花火大会を見に行ったんだよ」
「え…?」
そんな事あるのか…?8月入ってすぐなのに転勤ってあり得るのか?教員は年度末なのは分かるけど、一般企業って、そんなものなのだろうか?
「ひどいよね、折角の誕生日にお祝いしてもらったあとだったのに。お父さんも、その日に帰ってきた時は本当に顔色が悪くて表情も強張ってて、『申し訳ない』って私たちに謝ってたの。綸子に至っては、小学校に入ってすぐで、友達もたくさんできてきたところだったのに、すごく泣きわめいてた。今でも、あのときの事、思い出すと辛くなる…」
「…」
きらきら光る花火が僕らをしばらく照らし、消え、また照らし、消える。
「だから正直言うとね、花火大会を楽しめるか分からなくて、転校してからは行きたくなかったんだよね。でも、今年は慎吾と一緒だから、楽しめると思ったから行くことにしたんだけど、やっぱり思い出しちゃった」
更紗の台詞とはまったく逆に、花火は華麗さを増して、たくさんの花が同時に夜空に美を描いた。
「ごめんなさい…綺麗な花火を台なしにして…」
更紗は弱々しく結んだ。
「うん。でも、昔の更紗を知る事ができて良かったよ」
僕は、そう言って更紗に微笑む。そして、続けた。
「確かに、その時は辛かったと思うし、あまりにもその印象が強烈で、今でも思い出すと辛くなることはあると思う。でも、これから何度もこうやって一緒に同じ時間を、花火を見て過ごしていけばそんな記憶も少しずつ薄くなってくれるんじゃないかと思うし、そうあって欲しいと思うよ」
「…うん、そうだね。そうよ。一緒に楽しい時間を、大好きな人と暮らすことでイヤな記憶もいつかは昇華できると思う。ありがとう慎吾。そう言ってくれるの、本当に助かる。だから、私は慎吾から離れたくない。一緒にいたい」
更紗は僕の言葉に納得して、笑顔を向けてくれる。その笑顔には、まだほんのちょっとの弱さを感じるけど、でも、前向きに生きようとする姿勢がより強く出ていた。
「だからさ、今はとにかく花火を楽しもうよ」
僕の言葉に、更紗は力強く頷く。そして、僕は思わず更紗の肩を抱いて引き寄せた。すると僕は後ろから、
「お前達、何話していたかはよく聞こえなかったけど、いいアオハルしてんな」
と、晴兄の声が聞こえて、僕たちは思わず花火そっちのけで晴兄の方を向く。その反応があまりにも面白かったのか、晴兄と優來姉さんは笑ってしまい、それは幸弘に夢衣、綸子ちゃんにまで伝播してこの一体が笑い声に包まれる。
僕と更紗も最初は恥ずかしかったけど、一緒に笑って、更紗のイヤな記憶、辛い気持ちを振り払った。
ただ、当時小1だった綸子ちゃんは「あの時は確かに辛かったけど、もっと辛いことが起きてるから、そのことはもう霞んじゃった。私は花火大会にトラウマはないよ~」とあっけらかんとしていたっけ。
ナイアガラ式の花火が花火大会のフィナーレを飾る。
空中を染め上げるより幻想的な白い光の帯が、海中に走る。
「慎吾、改めてありがとう…」
突然更紗が礼を言ってきた。
「ん?何が?」
僕は彼女の方を向いて、その真意を確かめようとする。彼女の表情は取っても柔らかくて、その綺麗な瞳で僕の目を見て答えた。
「今日一日、まとめていい誕生日のプレゼントをもらった気分。辛い思い出があったこの日の記憶を吹き飛ばして、花火に、楽しい思い出を作ってくれたあなたに、ありがとう」
花火の帯はだんだん細くなっていく。でも、僕は彼女の顔を見ながら、礼を言った。
「僕からも、ありがとう。離れたくない、って言ってくれて」
その言葉に、彼女は満面の笑みを浮かべて、うなずいてくれた。
そして、すべての光が消え去り、道路の街灯と民家、そして星の明りだけの世界に戻る。
「さぁ、帰ろう。あまり混まない裏道を知っているけど、さすがにいつもよりは車通りはあるはずだから、できる限り早めに行きたいからね」
晴兄の言葉に、僕たちは「お願い」「お願いします」と口々に言って、車に乗り込む。
車に揺られながら、忘れることのできない一日が幕を閉じようとしていたけど、その前に僕はカバンの中に隠していたものを準備する。
疲れて寝てしまう前に、僕は――冬のダブルデートの時と同じように、一番後ろに二人で並んでいるんだけど――更紗に話しかける。
「更紗、誕生日、おめでとう」
「どうしたの?改まって」
僕の言葉に、更紗は笑顔で返してくれる。
「まだ、誕生日のプレゼント渡してなかったからね。こんなところでムードがなくて申し訳ないけど、受け取って欲しいんだ」
僕は、更紗にプレゼントを渡す。
「何かな?ここだと暗くて分からないから…」
「うん、ヘアバンド。更紗って、僕は黄色がすごく似合うと思うから、黄色のヘアバンド。家に帰ったら、確認してみてよ」
「ええ、ありがとう慎吾。私、黄色も好きだから嬉しいよ」
更紗は満面の笑みを浮かべて僕に抱きついてくる。そして、頬にキスをしてくれた。周りには気づかれないよう、静かに。
でも。その瞬間は晴兄がちゃっかりルームミラーで見ていたらしく、家に帰ってからメチャクチャからかわれたっけ。
更紗からは、家に帰ってからライナーで、「綸子からも『すごい似合ってる、東条さん意外とセンスいいなぁ』って言われて、確かにそう思うし、すごい嬉しい。大好き、慎吾」って言ってもらってとても嬉しかったから、からかわれたことなんて、どうでも良くなった。
すごくいい一日だった…のにな…。
翌日、私はとても気持ちの良い朝を迎えた。
昨日のことを思い出すと、自然に笑いがこみ上げてくる。
とっても楽しかった海。日焼け止めは塗っていたけど、想定以上の日差しに結構日焼けしたみたいで、昨日帰ってからお風呂に入ると結構痛かった。でも、それも含めていい思い出だし、花火大会での慎吾との話は、とても有意義で、辛い思い出が一つ吹っ切れたと思う。
そして、ヘアバンドのプレゼントはとても嬉しかった。もしかしたら、これが高じてコレクションしちゃうのかな、なんて思ってしまうくらいだった。
今日は取り立てて何かあるわけじゃなかったから、夏休みの課題でもして過ごそうかなって思いながら朝食を作る。
夏休みは時間に余裕があるから、慎吾の家にお邪魔に行くことはせず、晩ご飯も私と綸子で交代制にしたり、二人で作ったりしている。
時計が7時半を指すと、お父さんの部屋からもぞもぞとお父さんが着替えをする気配がしてきて、お父さんが顔を出す。いつもはスーツをびしっと着こなしているけど、今日はTシャツにGパンというラフな格好だ。
「お父さん、おはよ」「おはようお父さん。今日は朝食いらないんだよね?」
「おはよう、二人とも。そうだね。今日は人間ドックに行ってくるから。朝食は食べられないんだよな」
「でも、水はいいんでしょ?飲んでく?」
私はコップに軽く1杯、水を用意してテーブルに運ぶ。
「ああ。ありがとう、更紗」
そう言うお父さんの顔色は、少し悪いような気がした。昨日の夜から絶食で、お腹すいているだけなのかなぁ。
「何もないといいね」
綸子がそう言うと、お父さんは笑って、
「そうだね。何もないことを祈るよ」
と言いながらコップの水を飲み干す。
「ごちそうさま。8時から受付だから、もう行くね。夕方までには戻ると思う」
「ええ、気をつけてね」「いってらっしゃい」
私たちの言葉を背に、お父さんは手を軽く振ると玄関ドアを開けて出て行った。
「…ホント、何もないといいんだけど…」
お父さんの顔色にちょっと不安な私はそう呟いて、朝食を食べたあと、綸子と二人でお母さんに手を合わせ、それぞれ夏休みの課題に取り組んだ。
そして、お昼ご飯を食べてから暫くライナーで慎吾と課題のことについてやりとりして、お互いの進捗を話し合い、それから更に3時間ほど課題を進めてから、ちょっと15分ほどお昼寝。
目を覚ました時には16時を少し過ぎていて、いつお父さんが帰ってきてもおかしくない時間だった。
「お父さん、大丈夫だったかな?」
そう思いながら、お父さんの帰りを待つ。少しして、玄関の鍵が開く音がして、「ただいま」とお父さんが帰ってきた。でも、ただいま、と言ったお父さんの声は、全くハリがなくて、弱々しいものだった。
「お帰り、お父さん、どうだったの?」
私はリビングに出てきて、リビングの椅子に座り込んだお父さんに問いかける。
「…あとで話すよ。今暫く、部屋にいるから。申し訳ないけど、夕食の準備ができたら呼んでくれないか?」
深刻そうな顔でお父さんはそう言うと、自室へと向かっていった。
…もしかして、悪い予感が的中してしまったのかもしれない。
「綸子、ちょっといい?」
私は、綸子の部屋へ行き、彼女を呼ぶ。
「どうしたの、お姉ちゃん?」
綸子は不思議そうな顔をして私の顔を見る。
私は綸子の部屋(と言っても4.5畳の決して広くない部屋に本棚や服の収納タンスがあるから、ベッドを置くスペースがなくて、6畳ある私の部屋で、2段ベッドで寝ているんだ)に入ると、床に正座して話し出す。
「今、お父さん帰ってきたんだけど…」
私の浮かない表情を見て、綸子も何か悟ったのだろう、彼女も私の目の前で正座し、膝をつき合わせて私の話を聞く。
「明らかに表情が曇っていて、元気がないんだよね…もしかしたら、結果良くないのがあったのかも…」
「…確かに、『ただいま』の声、元気なかったもんね」
「何もなければいいんだけど、もし、そうじゃなかった時は、覚悟決めなくちゃね。できることをやるだけだよ」
「うん、賛成」
そんなことを言いながら、晩ご飯の準備を二人で始める。
今日は色々考えたけど、お父さんの体調を考えるなら、ちょっとヘルシーな方がいいと思い、寒天サラダにミニトマト、鶏胸肉を茹でてハム状にし、茹でて肉汁の出た汁を使っての味噌汁。そして、ご飯だ。
「お父さん、準備できたよ」
私が部屋の外からお父さんを呼ぶと、「分かった、ありがとう」という声がして、もぞもぞと動く気配。そして、程なくお父さんは部屋から出てきてくれた。
でも、その顔を見てハッとする。
泣きはらしたように目は赤く、腫れぼったい。唇は真一文字に噛みしめられて、まだ出てきそうな涙を必死にこらえているように見えた。
「ど、どうしたの、お父さん!」
私は思わず叫んでしまう。綸子も私の慌てた声に駆け寄ってきて、お父さんの顔を見るなりその表情が曇る。
「お父さん…」
私たちの様子に、お父さんは何とかこらえたみたいで、「大丈夫、ご飯食べよう。それから話すよ」と努めて明るく言って、リビングへと向かった。
リビングは、重苦しい雰囲気だった。
お父さんは一言も喋らずに、暗い表情のままだ。決して機嫌が悪いわけじゃないと言うことは分かっているんだけど、何か言うと、良くない気がしたんだ。
私たちは無言で晩ご飯を食べるけど、やっぱりいつもより食が進まなくていつもより食べ終わるのが遅くなってしまった。
それでも、食べ終わって食器を洗う間もお父さんは待っててくれて、洗い終わってから私と綸子はお父さんにお茶を用意してテーブルに座る。
お父さんはまだ無言だけど、私と綸子は一言も喋らずに、お父さんの言葉を待った。
「更紗、綸子、落ち着いて聞いてくれ…」
それだけ言うとまたお父さんは黙ってしまった。何か言いたかったけど、待つしかないと思った。
3分くらい待って、お父さんは私たちに話しかけてくれた。
「すまない。自分が落ち着くまで時間がかかった。不安にさせてゴメンな」
お父さんは、少しだけど柔らかな表情を見せる。
「今日のドックでな、お父さん引っかかったんだ」
ここ数年の健康診断では、悪いところはないって言っていたのに、今年は引っかかったんだって。
「胃のバリウム検査でね、おかしい部分があったんだって。それで、胃カメラでの検査もしてもらったんだけど、どうもね…」
お父さんの表情が曇る。
「癌、みたいなんだ。ステージは断言できないけど、3じゃないかと。紹介状をもらって、精密検査してもらってくださいと言われてしまったよ…」
お父さんの目に、光るものが見える。
「お父さん、それ大丈夫なの?癌って、ステージ3って?結構危ないないんじゃない?」
綸子はすっかり動揺してしまい、お父さんに問い詰める。
私は逆に、頭が真っ白になって言葉が上手く出てこない。
お父さんがいなくなってしまうかもしれない。お母さんに続いて、お父さんまでいなくなってしまったら、私たちは一体どうすればいいのだろう。さっきは「覚悟決めなくちゃね」と言っていたのに、そんな事は現実を目の前にして飛んでしまった。
「まだ、今は『かもしれない』という状況なので、どうなっているかは本当に分からない。でも、癌なのは可能性高いんだ。今にして思えば、ここに引っ越してきて暫くした辺りから、なんか疲れが溜まるよなって思ってはいたんだけど…もしかしたら、その頃から少しずつおかしかったのかもしれないんだよな」
私も綸子も、押し黙ってしまう。不安が一気に押し寄せてきて、これからどうしようとしか考えられない。
「………」
長い沈黙が流れる。でも、私は当面気になることを聞こうと思って、口を開いた。
「お父さんは、これからどこかの病院に入院するってことだよね?」
私の確認に、お父さんは頷く。
「でも、この辺りの病院で、どこが良いのかってよく知らないから、上司と話をして聞いてみようと思う。どれくらいの入院になるかも分からないしな」
「…私たちは、お父さんが家にいなくても今まで通り生活はできると思うよ。でも、入院費とか治療費でお金たくさん払わなくちゃいけないんじゃないの?」
綸子が聞くと、お父さんは再び頷いて、
「でも、そこは医療保険があるからある程度は軽減できるし、お母さんが亡くなった時に相手方からもらった事故の慰謝料があるんだ。お前達には話してなかったけど、かなりの額だから、俺が入院しても絶対に困らないだけの額だから、お金のことは心配しなくて良いよ」
と言うから、私たちは「うん、わかった」と納得するしかない。正直、お母さんの事故の賠償金の話はここで初めて聞いたけど、それよりもお父さんの一大事の方が、今は大切だ。
そんなことを話しているうちに、私はあることを思い出す。
「そう言えば、私のクラスメイトの男子に、県立病院の外科医の息子さんがいるわ。聞いてみても良いかな?」
それは、鈴木くんのことだ。既に少し年の離れたお兄さんが後継者となるために医学部へ進学し、現在は研修医をしているらしいというのはお父さんも同じ医者の紗友梨さんから聞いている。だから、鈴木くん自身は自由に進路を決められたのだろうと思う。文系というのもあったのだろうけど。
「わかった、もし教えてもらえるのなら、それはすごく助かることだからね」
私は、その時はお父さんのことしか考えられず、慎吾のことにまで頭が回っていなかった。いや、慎吾のことは頭をよぎっていたのだけれども、「余計な心配をかけたくない」と言うのが本音だったんだ。だからあえて、慎吾に黙って鈴木くんと話をしようと思った。
その日の入浴後、慎吾とライナーをする前に、ライナーの友達から鈴木君を探す。4月の襲われそうになったときに助けてもらったお礼もかねて連絡先交換してあるから、すぐにメッセージを送ることができる。
「急なんだけど、相談したいことがあるの。明日とか、会えないかな?」
『急な話だね。大原、どうしたんだ?』
秒で鈴木君から驚きのスタンプが送られ、それとともに質問してきた。
「う~んと、メッセージのやりとりじゃなくて、直接話を聞いて欲しいの。どう?」
しばらく返信を待つ。その間にピコン!と通知が鳴る。それは、慎吾からだった。
『課題の進捗、どう?』
私は慌てて、慎吾に返す。でも、その返事は焦っていたのか誤字だらけ。
「亜亜、未だ風呂揚がったところで間だなんだ」
『あれ?珍しいね。そんな誤字』
私はなおもテンパってしまう。
「ああ、ごめん。今日はもう疲れたからやめとこうって思ってたの」
すると、今度は鈴木君からメッセージ。
『分かった。明日の10時に、城西商店街の喫茶店『リスペクト』でどう?でも、東条も一緒にいる?』
「いいえ、慎吾に聞かれたくないから、二人で。ありがとう。明日はよろしくね」
鈴木君に「ありがとう」「よろしく」のスタンプを立て続けに送る。すると、鈴木君からの返事が速攻で来る。
『え?東条に聞かれたくないって、どういうこと?』
でも、それは直接言いたいから、
「慎吾に心配かけたくないから。だから、鈴木君も慎吾に今日は言わないで」
と返すと、鈴木君からは「わかった」とちょっと不安そうな顔をするスタンプを送ってきた。たぶん、鈴木君としては不承不承、納得は行っていないのだろう。でも、とりあえず2人で会う約束ができたことに、私はホッとした。
そして、慎吾のメッセージに対応する。
『そうか、確かに勉強ずっとやってると疲れるよね。じゃ、明日会わない?』
慎吾は、鈴木君のメッセージに対応する間に、そう送ってきてくれていた。でも、それは無理だ。
「ごめん、明日は用事があるから無理なんだ」
そして、「ごめんね」とスタンプを送る。
『了解。じゃ、また明日ライナーで』
慎吾がそうメッセージを送ってきて、会話が終了。
…大人になってから振り返った時に、この決断が実は最悪なもので、この時慎吾にきちんと相談しておけば、この後あんなことにならなかったのにってすごく後悔して慎吾を慌てさせたのは、生涯一の汚点だと思う。
翌日――私と鈴木くんは、城西商店街の喫茶店――4月に慎吾と夢衣ちゃんが矢野くんの誕生日プレゼントを選ぶために入ったお店だった――で落ちあう。
お父さんは、今回の説明に会社へ行くけど、午前中のうちに帰ってくるようだった。
喫茶店には私が先に来ていたみたいで、窓際のテーブルに座り、「癌 ステージ3 余命」をスマホで調べながら5分ほど待つと鈴木君が店に入ってきた。
私は、「こっち!」と鈴木君を呼ぶと、彼は私の対面に座る。
「ごめんね、急に呼び出して。ありがとう」
私は鈴木君にそう言って、頭を下げる。
「いやいや、大原更紗ファンクラブ会長として、当たり前だよ。でも、どうして?東条に内緒って何でさ?」
私が頭を上げると同時に、鈴木君の疑問が私の耳を打つ。
そして、今調べていたことを言おうとすると、不安と寂しさから、思わず泣きそうになって、涙がちょっと溢れてくる。
「ちょ、ちょ。いつも明るい大原がどうしたんだよ、マジで?」
私の泣きそうな顔を見て、鈴木君はすごく慌てる。
「注文して落ち着こう。な、それでいいか?」
私は「うん」と頷くけど、適当に「アイスコーヒー」と告げる。
鈴木君は少し悩んで――もしかしたら、私を落ち着かせようと時間を作ってくれたのかもしれないけど――レモンスカッシュを頼んだ。
「で、話を元に戻していい?」
鈴木君の言葉に、私は「うん」と頷くけど、やっぱり明るく振る舞えそうにない。
「ごめんね、鈴木君。あのね…」
私はスマホの画面を鈴木君に向ける。
「何…?癌…?誰が?」
鈴木君が怪訝な表情をする。そうだよね…。
「お父さん…。昨日、人間ドックに行って、胃カメラで癌と思われるって言われたの。それでね、私たちってここに来てまだ1年経ってないし、病院にかかるような病気や怪我もみんなしなかったから、この辺の病院のこと分からないの。それで、鈴木君のお父さんが外科医だって聞いたことがあるから、この近辺で胃がんに強い病院のことを教えてもらえるととってもありがたいなって思って…」
私は話していくうちにしゃべりが早くなっていくのが分かった。鈴木君に、私の思いが伝わって欲しい、助けて欲しい、そう思っていた。
「…」
鈴木君は、難しい顔をして私の顔を見る。
私の顔は、どう返事してもらえるのか分からず不安でいっぱいだったと思う。
「大原…一つだけ聞いていい?」
ああ…ダメなのかな…。と諦めるような表情になってしまう。
「東条には本当に言わなくていいのか?矢野から聞いてるけど、もう家族ぐるみの付き合いも同然なんだろ?」
…それは、正論なんだろうと思う。でも…。
「だからこそ、なの。これまで慎吾には付き合うようになってから…ううん。その前からたくさん助けてもらった。それに、私のせいで怪我させちゃったこともあったし、それに…。慎吾の家族…お母さんやお兄さんにもたくさんお世話になって、これ以上助けを求めることなんて本当に迷惑でしかないと思うの。だから、今回は、私が一人で何とかするしかないと思ってる」
そう一気にまくし立てると、鈴木君は「ふ~」っとため息をつく。でもそれは、呆れたからとか、見下していたとかそういうのではなくて、私の考えと鈴木君本人の思いが、胸の中で葛藤していたんだと思う。
そこで、「ご注文の品をお持ちしました」と店員さんがアイスコーヒーとレモンスカッシュを持ってきてくれた。でも、私と鈴木君の間に流れる空気が微妙なのを悟ったのか、飲み物を置いたらそそくさとカウンターへ去っていってしまった。
「飲もうか」
と鈴木君は私に促してくれた。彼は先にレモンスカッシュを一気に一口あおると、スマホを胸ポケットから取りだした。
「ちょっと、席を立っていい?親父に連絡してくるよ」
その言葉に、私は驚いて、
「え?」
と思わず大きな声を出してしまう。その声に店内にいる数人のお客さんがこちらを向くものだから、私は立って「すみません」と言ってから座り直して身体を小さくしてしまった。
「うん、だから紹介できる病院があるか親父に聞くよ。今日はたまたま診察は午後からで午前中は手術も入ってなくてそれなりに自由にしていられるみたいだから、今なら話を聞いてくれるよ」
鈴木君は注文表を取って席を立ち、一度店の外に出る。その前に店員さんに、「すぐ戻ってくるんですが、先にお代払っておきます」と、私たちの飲み物代を払っていた…スマホ決済で。
そして、鈴木君は外で、どうも、入り口近くの植木のあたりで電話をしている様子が見えた。
「…」
今の私は、黙って待つことしかできない。でもその間も、色々な不安が、私の胸に去来する。
待つこと3分、鈴木君は戻ってきた。
「おまたせ。結論から先に言うな」
鈴木君は、真剣な顔をして私に向き直った。一瞬緊張が私たちの間に走ったように見えた。
「父さんが看てくれるってさ。ステージ3かもしれないけど、きちんと精密検査してみないと分からない。それにさ、まだ希望を捨てちゃダメだってさ。幸いここしばらくは余裕があるから、受け入れる余地があるって」
そう言われて、私はホッとしてしまった。それと同時に、涙腺が崩壊した。
「お、おい、泣くなって。まだ治るって保証はないんだし」
そう言いながらも鈴木君はおたおたしてしまう。
「あ、ありがとう、ありがとう、鈴木君。でも、そんなにしてもらえると思ってなかったから安心しちゃったら…」
私は涙で顔はぐちゃぐちゃになってしまったんだけど、鈴木君の手を取ってお礼を言う。
「そ、そりゃ、大原…だからだよ…。大原更紗ファンクラブ会長なんだから、何とかしたい一心だったよ」
鈴木君はそう言って、私の手からするっと両手を離して、私の肩に右手をポンポンしてくれた。
「でも、そこまで取り乱す大原を初めて見たよ。お父さんが病気だと言っても、お母さんいるんじゃ?」
…その事実は、慎吾と矢野くん以外の男子生徒はほぼ知らないこと。
「…私ね、父子家庭なんだ。お母さん、3年以上前に、事故で亡くなってるの」
だから、そのことを話した鈴木君は一瞬ぽかんとした表情になる。
「だからね、お父さんいなくなったら、私と妹の二人ぽっちになっちゃうから、不安で仕方ないんだ」
私は、頭を下に向けて、肩を震わせる。
そんな私に、鈴木君は一旦肩から離していた右手をまた肩にかけて、今度は少し力を込めてポンポンと叩く。
「…親父には、くれぐれも頼むと言っておくわ。憧れの存在にそんな悲しい顔をして欲しくないから」
鈴木君は私を元気づけようとそう言ってくれた。
「うん、ありがとう」
私は謝意を伝えるとともに、鈴木くんの右手を握る。
「どうするといいかは、後で親父に聞いて、夜にでもライナーでメッセージ送るから。ただ…」
そこで言葉を停める鈴木君に、私は「ん?」と顔を上げると、そこには取っても真剣な鈴木君の顔。
「東条には、この事は絶対に話した方が良い。なるべく早くに。あいつに心配させたくないとか、迷惑かけるとか、そんなことを考えちゃダメだ。後で知ったら、東条怒るぞ。『何で真っ先に知らせてくれなかった?』って。あいつ、大原のこと本当に好きなんだから、隠し事はしちゃいけないよ」
その言葉は、すごく重たく、私の胸に響いてきた。だから私は、
「うん、分かった。お父さん入院したら、すぐにでも話すわ」
と真剣な顔で頷いた。
話はまとまった。私は、飲み物を飲み干すと、鈴木君に私のアイスコーヒーの代金を無理矢理受け取ってもらってから、喫茶店を出た。
入る前は薄暗かった視界が、この時は明るく感じた。
その日の朝、公園にラジオ体操に行ってから2度寝していた僕は、9時前に起きる。起き抜けに考えていたのは、更紗に昨日出かける提案をして振られてしまったこと。
「用事って、なんなのかな…」
最初の返事も誤字ばっかりだったのも気になる。
なんだか、嫌な感じがした。
一昨日あんなに楽しい思い出を作ったばかりなのに、何かおかしい違和感。
何なんだろう、一体…と思いながら朝食を食べる。すると、母さんが何か感じたようで、
「慎ちゃん、どうしたの?」
と聞いてくるけど、僕もこの漫然とした不安がなんなのか確信がなかったので、
「ううん、何でもないよ」
とはぐらかしておいた。
とは言え、一度感じてしまった不安をそのままにしておくのは、今の僕にはできなくて、夏休みの課題に手をつけて忘れようと思ったんだけど、やっぱりできなかった。
「ふぅ~っ!やっぱりダメだ!出かけよう」
僕は、蹴るように椅子から立ち上がると、スマホに財布の入ったウェストポーチを掴むと、「ゴメン、ちょっと出かけてくる」と母さんに言って、返事も待たず家から出た。
愛車を引っ張り出して、立ち漕ぎを2,3回してから商店街へと向かって疾走する。
その間も、胸のモヤモヤは収まらない。そのモヤモヤを忘れられるのは何だろう?
まずは、ゲーセンだな、音ゲーだ。
ゲーセンに着いて、いつもの音ゲーに。今日は平日。時間もまだ9時半を過ぎたあたりと言うこともあり、社会人の社さんは勿論いない。他の常連さんたちもだいたいは大学生で、8月になって夏休みに入ったばかりの先輩学生のみんなは、地元は他県の人が多くて帰省していたり、バイトしていたりとやっぱり筐体には誰も張り付いていなかった。
「ホントなら、更紗とここに来て楽しむはずだったんだけどなぁ~」
と軽くため息をついて、カードを読み取り機にかざす。
軽くレベル11からと思ったけど、いつもやり慣れているはずの好きな曲なのに、いつも通りのリズムが取れない。全然判定が光ってくれない。クリアはかろうじてできたけど、いつもよりもスコアは激悪で、それだけでやる気がごっそりと削がれ、高難度に挑戦する気持ちはこれっぽっちもなかった。
「はぁ~調子悪い…」
数クレジット投入したけど、難易度を徹底的に落として簡単な曲をやっても、全然スコアが出なくて頭を抱えるばかりになったから、もう諦めざるをえなかった。
「はぁ、出よう」
僕はゲーセンを出る。時計を確認すると、10時を15分ほど過ぎていた。次はどこへ行こうかな…と思って少し思案すると、
「あ」
と思い出したことがあった。
「そうじゃん、今日はあのラノベの最新刊が出るんじゃないか」
僕は本屋に向かうことにした。
ゲーセンからさほど離れていないけど、自転車はちゃんと引いて交差点の端にある本屋の前に停める。
やっぱり僕の記憶は間違っていなくて、ラノベはちゃんとラノベ新刊のコーナーに置かれていたから、無事確保できてちょっと満足した。
本屋を出た僕の気持ちは、これで少しだけ晴れたんだけど、やっぱり心のどこかから出てくる不安というのはそう簡単に吹っ切れそうになかった。
「…ふぅ…」
ちょっとため息をついて自転車の鍵を外して発車させようと周りを見回す。すると、たまたま交差点の反対側にある喫茶店――4ヶ月近く前に、夢衣と話をした『リスペクト』だ――が目についた。
「…?」
見ようと思ったわけじゃないんだけど、視線がある一点を差して、僕は固まる。
「さ、さら、さ…???」
窓際の席で、更紗が誰かと話している。その誰かは、更紗の左の肩に右手を伸ばしていた。
「…誰…だ?」
僕はその相手を確認しようと少し近づこうとたまたま青になっていた信号を走って渡る。
幸か不幸か、更紗は僕に気づいていない。
そして、少し店から離れた、歩道の隅で視界を確保すると、相手の姿を確認する。
「す、鈴木…なんで?」
確かに同じクラスだし、佐々のあの一件がある前から、更紗と鈴木はそれなりに仲は良いけれど、こうやって二人だけで会うということは今までなかったはずだし、そうなる時は更紗のことだから、僕に一言断っていたと思う。
でも、この画を見てしまってから、不意に昨日の更紗の不自然なレスを思い出した。
「え?あの誤字ってもしかして、焦ってたのかな…?」
おそらく、鈴木と会うやりとりをしているところで、僕からメッセが入ったから慌ててしまったのだろうか?だとしても、あんな取り乱したレスを打つなんて、彼女らしくない。
「でも、なんで…」
頭の中で思っていることが、口からついて出てくる。正直、更紗が僕に対して隠れてこそこそするように鈴木と会うなんて、思ってもいなかったから、正直ショックだ。
そうショックを受けている間に、更紗は左肩に置かれていた鈴木の右手を握り返すかのように持つ。
それはまるで、鈴木が更紗に告白してそれに対して「お願いします」と言っているように見えてしまった。
「…」
僕は、なぜかその瞬間を写真に収めていた。
それからの記憶は、殆どない。
気づけば、僕は家に帰って、自分の部屋のベッドに横になっていた。
昼ご飯も食べずに、ずっと呆けていたようだ。もう、日は西にかなり傾いている。
スマホを抱えていたけど、持っていたはずのライトノベルは手元にない。
おそらく、帰る道中のどこかで落としてしまったのだろう。でも、そんなことはどうでも良かった。
そんなことよりも、更紗の手ひどい裏切り行為に見えたあの喫茶店での出来事が、頭から離れない。
「離れないよ」と言ってくれたことは、嘘だったのだろうか…?
「…」
僕は、スマホの写真アプリを起動する。
一昨日の海と花火大会に始まり、修学旅行、インターハイ予選…幸弘のバースデイパーティーに、水族館デート…。
下へスクロールするたび、一つ一つ、更紗との思い出が蘇る。
でもそれは、すべてが幻だったんだ。すべてが、嘘だったんだ。だったら、今までの僕は、一体何だったんだろう…?更紗の手のひらの上で踊らされた、ただの道化師だったのだろうか?
更紗には、全幅の信頼を置いていた。心から、好きだった。
でも、そんな思いは、自分の一方通行だったのか…。僕に「好き」って言ってくれたことは、本心ではなかったのか?
僕の心は混乱し、摩耗した。
たった一回の気の迷いなのかもしれない。でも、僕は見てしまった。それを「いいよ」と見逃せるような広い心は持っていなかった。
あのあと、更紗は鈴木とどこへ行ったんだろう…?
よりによって、ホテルまで行ってしまったのだろうか?
どんどん、考えは悪い方へ、悪い方へと進んでいく。
つい昨日まで、こんな思いを抱えることなんかなかったのに。
こんな思いになるなら、更紗を好きになるんじゃなかったのに。
出会った日の、視線が絡まった瞬間に感じた胸の高鳴りを思い出すけど、それはもう、黒く塗りつぶされていく。
悪い方へ進む憶測は、僕の涙腺を決壊させるに十分だった。
「あ、ああ…」
ひとしきり、静かに、啼いた。
どれくらい啼いただろう…。もう、窓の外は真っ暗だった。
「慎ちゃん、ご飯よ」
母さんが下から僕を呼んだ気がしたけど、その声は僕の耳には届いていても心に届かず、食べようという思いは全くなかった。
僕は、返事をすることなくもう一度、写真アプリを見る。
そこにいるのは、とっても楽しそうな、水着姿の二人の笑顔、夕方の藻岩山で撮ったとっても綺麗な更紗の横顔、インターハイ予選の後で母さんの迎えに合流したときに撮った、僕の後ろから抱きついてピースサインをする更紗、水族館で、おどけた表情でウィンクする更紗…。
「でも、全部、楽し、かったなぁ…」
そう言いながら、また、涙が溢れてくる。だから消せないし、消したくない。
でも、その中で一つ、決断する。
僕は、ライナーを起動し、更紗とのトークをタップする。
そこには、たわいのない会話。これも、思い出だ。楽しかった、思い出だ。
だから、残しておく。でも、もう話すことはない。
「さようなら、大好きだった人…」
右上の横三本のボタンをタップし、メニューを呼び出す。
そして、迷うことなく「ブロック」をタップした――
夏休みの前半である7月中は、午前中に補習があり午後からは一応フリーとなることから、その足でサイクリングに行ったり、ゲーセンに行ったり、更に、引退してからなかなか顔を出すことができなかった部活にも顔を出した。
その時は、南東先生に「余裕そうに見えるけど、大丈夫かい?…ま、大原は大丈夫なのは分かってるけど。ま、それは東条もか」と言われたりもしたけど、「ええ、大丈夫です。そのあたりは弁えて行動していますよ」と言って、「ま、君たちなら問題ないよな、確かに」納得してもらっていた。
サイクリングは、更紗も夏休みに入る直前にお父さんのボーナスをきっかけに自転車を買ってもらったそうで、僕のと同じようにちょっとスポーツタイプのものだった。
「かっこいい!それに、フレームの色も更紗によく似合う黄色なんだね~」
と、僕が褒めると更紗もちょっと照れながらも「ありがと、慎吾と肩並べて走るなら、こんなスポーティーな自転車じゃないとね~」って言いながら笑ってくれた。
走る先は、以前からよくジョギングで利用している河川敷のサイクリングコース。
そこを、川のせせらぎを聞きながら走って、心地よい風を浴びて、強い日差しが僕らに照りつけた。
けれど、途中でいきなり雲行きが怪しくなって、瞬く間に豪雨。夕立ちが僕らを襲った。
「更紗、急いで!あそこで雨宿りしよう!」
大粒の雨の勢いで、かなり大きな声で更紗に叫ぶけど、7割程度しか聞き取れなかったようだったが、それでも僕の言うことは分かったようで、「ええ!」と同じく大きい返事をして一気に走る。目の前100m先に国道の橋が見えたから、そこで雨宿りをしたんだ。でも当然二人ともびしょ濡れ。
「さら…さ?」
更紗に話しかけようと思って目をやったら、Tシャツの下のブラジャーが透けて見えてしまい、思わず顔を背けてしまった。
しばらくの間、心臓が動悸を打っていたのを大人になってからも、その一瞬見えた映像と共に、強烈に覚えている。
その一方で、勉強をしていなかったのかというと、そうでもない。
ちゃんと一週間のうちに何回かは、図書館なり僕の家なり更紗の家なりで、更紗と課題をこなしていたし、幸弘や夢衣も誘って勉強をしていた。
尤も、僕と更紗の二人で、僕の家で勉強したときは、二時間かそこらで終わらせて、お互いにスマホの音ゲーで遊んでいたけれど…。
更紗は音ゲーがきっかけでゲームに興味が出たみたいで、僕の部屋にある据え置きにも持ち運びにもできるゲーム機を見て「やってみたいな」と言い出してやってみることにした。
パズル、格闘、ロールプレイング、シミュレーションといったジャンルを一通りさわり程度やってみると、ロールプレイングに面白味を感じたようで、「これ、ちょっとやってみようかな」と気になったタイトルのパッケージを持って来た。最近出た、昔のRPGのリメイクだ。父さんが「思い出のRPGだから、これは俺もやりたいから買うわ」と言って買ってきたのだけど、僕も興味を持ったから父さんがクリアしたあとに借りているんだ。
という様に、内にいても外に行っても、遊んでいることには変わりがなかったわけで、
「良く遊び、良く学べ」を地で行っていたような感じがする。
でも、一番思い出に残っているのは、四人で海に行った時の事だ。
その日、八月五日は更紗の誕生日だった。
お試し期間で付き合いだして少し経った時にした誕生日の話で、「更紗の誕生日には海に行こう」と僕が提案したことは当然覚えていたから、終業式の日の帰り道で幸弘と夢衣にも声をかけて、四人で揃って海に行くことにした。
でも、折角の誕生日なのに綸子ちゃんやお父さんはいいのかなって思ったから、「せめて綸子ちゃんも一緒に行くわけにはいかないかな?」と尋ねる。すると更紗は「聞いてみるね」とライナーで連絡したら綸子ちゃんは、「できれば一緒に行けるといいけど、カップル2組の中に入るのはちょっとな~」って言っていたみたいだ。でも更紗が追撃で「花火大会あるよ」と言ったらあっさり「行く!」って。それを聞いて思わず吹き出してしまった。
商店街の入り口にあるバス停で僕たちは待ち合わせをして、バスを乗り継いで一路海へ。
春に高2最後のデートで言った水族館から更に奥に進んだところに鷹雄という海水浴場があるんだ。
「帰りは晴兄が迎えに来てくれるけど、今日は花火大会もあるから帰りは混みそうだよね」
僕はそう言って更紗を見るために後ろを見る。一番後ろに更紗と綸子ちゃん、そして夢衣が陣取り、その前の2人掛けに僕と幸弘が座っているんだ。
「いつも足にしてしまって申し訳ないなって思うんだ。特に晴城お兄さんってもう結婚して新婚さんなのに…」
更紗が済まなさそうな顔をするけど、
「そうだね。でも、晴兄もそうだけど、優來姉さんもなんだかんだ言って僕たちのことを見守っていたいんだって。この前二人で家に来た時にそんな事言ってくれたよ」
と僕は返す。事実、終業式の日にアパートに住んでいる二人が家に晩ご飯に食べに来たときに「その花火大会にも私と晴城も見に行くから、一緒に帰りましょ?」って優來姉さんから言われたから、「いいんですか?」って驚くと、「二人の仲を応援しているから、アオハルしてるところを間近で見たいんだよね~」って悪戯っぽい笑顔で言われたっけ…。
盛夏の太陽は、容赦なく僕らの肌に突き刺さる。
地球温暖化のせいか、ここ数年どんどん暑くなっているなと感じる。この日も既に気温は33度を指し、梅雨開けしてから二週間連続の真夏日になっていた上、そのうち5日は35度以上の猛暑日だった、今日も、きっと猛暑日になるだろうことは容易に想像できた。
海はそんなに大きな砂浜ではないけれども、砂の色が白くて、海の色も、景色も綺麗なので、地元民はもちろん、県外からもかなりの人が海水浴にやってくる。
この日もその例に漏れず、平日にもかかわらず親子連れがたくさん来ていた。
「うわぁ~綺麗!」
更紗はバスから降りて砂浜を見るなりそう絶句した。
白い砂に、青い海、水平線には小さく入道雲が漂っている。
左右を見渡すと、左は遠くに絶壁が、右も遠くに目をやると石油コンビナートが見えるけれども、付近は砂浜だけあって近くの人工物と言えば灯台と浜茶屋、それに百メートルくらい沖のテトラポット位だ。
こんな綺麗な海は、地元だとなかなか見当たらない。この砂浜は、地元に住む者の誇りだ。
「更紗さんって、こんな綺麗な海を見たことがないのですか?」
絶句する更紗に、夢衣が尋ねる。
「そうね。海自体、あまり行かなかったから・・・」
更紗はそう言いながら、砂浜の方に心を奪われていた。その一方で、
「うん。小学校の頃は広島にいて2年に1回くらいは行っていたけど、京都に引っ越してからは全然行ってなかったですね」
こちらも砂浜を見ながら綸子ちゃんが答えてくれていた。
「浜茶屋で場所をとろうぜ、みんな」
幸弘が僕らを促した。目の前にある浜茶屋に入り、場所代を払う。
そしてまず、浮き輪に空気を入れるところから始めた。夢衣と綸子ちゃんの為だ。
夢衣は泳げない訳ではないけれど、足のつかない場所では不安になるらしい。綸子ちゃんも問題ないらしいけど、帰宅部だったから体力的にちょっと不安とのことだ。
僕と幸弘が交互に空気を入れている間、女性陣は着替えに行った。
「覗かないでよ。覗いたら、絶交だからね」の台詞とともに、三人は脱衣所へと向かった。
「どんな水着かな?」
僕は頬を紅潮させながら浮き輪に空気を入れている幸弘に話しかけた。
幸弘は空気入れの入り口を二本の指で押さえ、僕に渡す。
僕が息を吸い込んで浮き輪に空気を入れ始めると、彼は一つ大きな息を吐いて口を開いた。
「う~ん。夢衣は、おとなし目じゃないか?おまえは、どうだ?大原は、どんな水着だと思う?俺は、わからないぞ」
「う~ん。どうかなあ」
僕は、一呼吸おいて、そう答えた。
「でも、あんまり派手じゃないんじゃないかな?」
僕はまた、浮き輪に空気を入れ始める。
浮き輪に空気を入れることなんて、あまりしたことがないから滅茶苦茶きつくて、自分の顔が紅潮してくるのがよくわかる。すこし、目の前が暗くなり、脳から酸素がなくなっている感覚に襲われる。…ちょっとやばいかも。
「幸弘すまん、代わって。脳貧血っぽい」
指を離しそうになったけどなんとかこらえて幸弘に浮き輪を渡すと、幸弘は心配そうな顔をして「おま、大丈夫か?」と聞く。「余り大丈夫じゃないから頼むんだけど。ちょっと横になるよ」「ん、了解」
それだけ会話をすると、僕は横になる。
暫く横になっていると、「あ、慎吾大丈夫?」とちょっと慌てた声がしてきた。
10分も横になってないと思うけど、少し頭がハッキリしてきた僕は、薄く目を開ける。するとその目の前には更紗の顔。そして、遠間から見ている夢衣に、幸弘、そして綸子ちゃん。
みんな、心配そうに僕を見つめている。
「大丈夫?」
更紗のかわいい口が、そう動いた。僕はやっと状況を理解すると、むくりと体を起こして、
「OK。大丈夫」
「とか言ってみんなを心配させるくらいなら、貧血なんか起こすなよ。こっちが驚くわ」
幸弘の厳しい指摘が飛ぶ。ちょっと刺のある言い方。でも、こいつはこういう言い方が普通だから、僕は気にならない。
「ああ、すまない」
でも僕は、神妙に謝った。そこで始めて、更紗と夢衣が着替えてきていたことに気付いた。
「慎吾、意外ね。大丈夫?」
その更紗の意外そうな言葉に、僕は苦笑いをすることしかできなかった。
「ホント、私も意外だと思います。運動部なのに…」
綸子ちゃんも目を丸くしてそんなことを言うものだから、正直いたたまれない…。
でも、僕の目は更紗の身体に釘付けになっていた。
黒い生地に黄色い、夏を象徴する花--ひまわり--の柄をしたビキニ。それが身体に見事なまでにフィットしている。
さらに、僕と一緒に遊び回ったせいで、褐色になった肌との対比が何とも言えない。
目のやり場に困るということは、まさしくこのことだ。
「どうしたの?」
更紗は自分の身体を隠すように、僕の目の前に無邪気な顔を持ってくる。
「うん、その水着すごく似合っているんだけど…目のやり場に困るよ。だって、更紗ナイスバディだからさ…。」
僕がそう言うなり更紗は、顔を膨らませた。
「スケベ!」
そして、持っていた白のラッシュガードで僕の目を覆う。
「わっ、ごめん。ごめんってば」
「別に、いいよ」
そう言って、更紗はぱっと手を離した。そして、続けた。
「悪い気は、しないし」
そう言われて、ホッとする。でも、周りを見ると他の団体の男性からの視線を感じるから、正直余りいい気はしない。そう言えば、浮き輪はどうなったんだろう?と思って幸弘に聞く。
「幸弘、浮き輪は?」
「大丈夫。やっておいた」
そう言われて僕は幸弘に礼を言う。
「ありがとな幸弘」「いや、礼には及ぶさ」
そんなやりとりをしながら僕はちらりと夢衣の方を覗いてみた。予想してはいたけれど、おとなしい感じのするピンクのワンピース。赤いラインが斜めに走っている。
彼女の肌は、更紗と違って雪のように真っ白。
でも彼女は、それを隠すように緑のラッシュガードとタオルを羽織り、身体を小さくしていた。
そして綸子ちゃんはと言うと、こちらはアシンメトリーで右肩から左肩にかけてフリルがついた水色のワンピース。
健康的な更紗との大胆な格好と、どこか儚げのある夢衣、そして二人の間に並ぶ個性的な綸子ちゃんと三人が並んでしまうと、良くも悪くも目立ってしまう。三人だけにしておくと、知らない男達から声をかけられてしまうかもしれないから、幸弘に先に着替えに行ってもらう事にした。
「幸弘どのくらいで戻る?」「そうだな…3分もあれば」「OK。先に行って着替えてきてくれ。僕は幸弘が戻ったら行くよ」「りょ」
いるかもしれないナンパ共に、彼女らが集られないように僕らは入れ替わりで急いで着替えた。
僕も幸弘も、どこにでもある、黒のトランクス。日焼け対策のラッシュガードは僕たちも用意していて、幸弘はさすが跳ね馬ファンだけあって赤。僕は紺色のものにしていた。
やはり、どちらかがお目付役でいたからか、視線は感じるんだけど他の男かが近づいてくる事なく、平和に着替えを終わらせる事ができた。
更紗は言い返す事ができるだろうけど、夢衣は気が小さいので、すぐに言いくるめられてしまう可能性があるから、夢衣に話しかけられないように、夢衣の近くにいるように気をつけた。
「…正直、ちょっと周りの視線が怖いですね」
と、正直な気持ちを綸子ちゃんは吐露してくれて、夢衣もそれには「同感です」と頷く。年下の綸子ちゃんにも丁寧な言葉で接する――というか、誰に対しても丁寧な言葉で夢衣は話すのだけど――と、綸子ちゃんは「前からお伝えしてますけど、もっと砕けてもらっていいですよ。こっちが緊張しちゃって…」と夢衣にそう言う。でも、「これがずっと身についてしまっていて、すぐには難しいです」と夢衣も綸子ちゃんの意図を汲みながらも、難しい顔をしてしまうから、幸弘と僕で、「まあ、これは時間が解決するのを待つしかないよね」とお互いに納得してもらう。
ただ、そんな不毛な会話に我慢できなくなった更紗が、
「そろそろ海に入らない?」
と言うことで、その話は終わり。
「こんな綺麗な海で泳ぐのなんてほぼ初めてだから、楽しみで仕方ないの」とみんなを更紗は促す。
「了解、それじゃ行こうか」
僕の言葉に、更紗は悪戯っぽい笑顔を浮かべてこくんとうなずいた。
「私も、楽しみです。こうして仲良しの友だちだけで海水浴に来るのは初めてですから」
夢衣もそう言って立ち上がろうとする。そんな彼女に幸弘が手を差し伸べた。綺麗な指が幸弘の手に絡みつき、その手とともに立ち上がる。
「紳士だね、幸弘」と言いながら、僕も同じように更紗を誘う。更紗も同じように答えてくれて、更紗は「えへへ…」とちょっと照れ笑い。そして、一人だけ相手のいない綸子ちゃんが「ぶ~全く…見せつけられてこっちが恥ずかしいんですけどっ!」と機嫌を損ねてしまう。
そんな僕たちの仕草に外野の視線が少し悔しそうに見えたのは気のせいだろうか?
「スマホ、忘れずに」
水没しないように耐水性のあるカバーに僕たちはスマホを入れ、首からかける。盗難対策を兼ね、肌身離さず持つように、だ。そして、僕と更紗はサンダルを履いて手を取り合い、海のほうへ駆けだした。
ワンテンポ遅れて、綸子ちゃん、そして幸弘と夢衣も続く。強烈な日差しの中、出て行ったのはいいのだけど、
「あっ!熱い!砂あっつい!」
幸弘が叫ぶ。そう、その強烈な日差しで熱せられた砂がサンダルに入ってきてめっちゃ熱いんだ。「ホント!」「やばいね、これ」「一旦日陰に待避だ~」
一旦浜茶屋の屋根のあるところへ戻ってどうしようかと思案し、その日陰で準備運動をしっかりやってから、ゆっくり海へ向かおうと言うことになった。
でも、やっぱり海の側に行くまではサンダルに熱い砂が入ってきてしまうわけで、みんなで「熱い、熱い!」を連呼しながらなんとか波打ち際まで出ると、海水がしみこんだ砂は比較的ぬるく、足をつけても問題がなかった。そこでようやくサンダルを脱いで波に流されないよう波打ち際の手前にサンダルを置いてから海水を足につけてみる。思っているより冷たい。その冷たさは、ほんの少しの間だったとは言え日光や砂に焼かれた肌にとっては快感だ。
「思ってた以上に冷たいね」
更紗はもう腰まで海水につかっている。そして、僕を手招きで呼んでいる。
「よっし、いくよ!」
僕も彼女に倣って、少しずつ海水に身体を沈めていく。冷たさが身体をせり上がってくる。それが、気持ちいい。
「ねえ、テトラポットまで行かない?」
「ああ、いいよ。でも、もうちょっと待とうよ。幸弘と夢衣が来るまで」
「そうね」
更紗は思わず慌てたためか、少し恥ずかしそうに笑った。
「更紗さ~ん」
後ろから、夢衣が更紗を呼ぶ声が聞こえてきた。僕らはそっちに身体を向ける。
浮き輪でじゃぶじゃぶしている夢衣の横で、彼女を支えるように幸弘が泳いでいた。
「お疲れさん」
僕と更紗、それに綸子ちゃんは笑顔で彼等を迎えた。そして、海面に漂いながらテトラポットへ少しずつ向かっていくと、
「慎吾君」
突然後ろから更紗の声が聞こえてきた。
「うん?」
と僕が返事しながら彼女の方を向こうとした矢先、僕の首に更紗の両手が絡まり、体重をかけてくる。当然、僕らは沈み始めるけどそれとともに、僕の背中に更紗の胸が当たる感触がするから、天国と地獄を同時に味わっている感じだ。
「う。うわっ!さ、更紗止めろ。し、沈む」
だから、僕の声はうわずってしまって必死さがなくなってしまう。
「い~や」
いつも以上にハイテンションな更紗は、もっと体重をかけてくる。
それなら、こちらにも考えがある。
僕は思いっきり身体を浮かせて肺一杯に空気を吸うと、勢いよく身体を沈ませた。更紗が僕の首に絡ませている手も僕は両手で握って一緒に海の中へ。
更紗の腕は首から離れようともがくけど、僕がホールドしているからなかなか外せない。きっかり10秒、沈んでから腕を離すと、彼女の体重が僕の身体から消えた。
「ごほごほっ!しんごぉ~」
先に海面から顔を出した更紗がむせている。僕も海面から顔を出して、言った。
「そんな事から、逆襲してみたんだよ。でも、大丈夫?」
僕の言葉に、更紗はちょっと表情を曇らせるけど、濡れた髪をかき上げると笑顔になって、「ごめん。はしゃぎすぎたね。やっぱりテンション上がってちょっとおかしいかも」
「確かに、お姉ちゃんいつもよりテンション高いね。私にはそんなことした事ないのに」
と、姉妹は口々に言う。
「だな、傍目から見ても、大原のテンションの高さは、いつも以上だよ」
幸弘も認めると、横に浮き輪をしている夢衣も「そうですね」と頷く。
「尤も、私もテンションは上がっていますけど」
…でもそうは見えないところが、お嬢様の夢衣たる所以なんだろうなと思う。
「さぁ、それじゃ行こうよ」
と言う更紗の言葉とともに、僕たち五人は一緒に泳ぎ始める。浮き輪で泳ぐ夢衣のペースに合わせ、ゆっくりと。綸子ちゃんもいつの間にか、持って来ていた浮き輪の中に入って、「体力温存モードなのです」と泳ぐ。
百メートル先のテトラポットは、なかなか近づいてきてくれない。
「ごめんなさい。みんなの足、引っぱってしまって・・・」
夢衣は謝る。だけど、僕らはそんなことは全く思っていない。五人で仲良く、こうして一緒にいられる時間がとても貴重だから。
「大丈夫、夢衣。時間はあるからゆっくりでいいんだよ」
幸弘はそう言って、下を向きそうな夢衣の顔を上げさせる。
「そうだよ、夢衣ちゃん。下を向かず、真っ直ぐ見ていきましょ」
更紗も励ます。おかげで、夢衣の目にも力が宿る。
「はい、頑張ります」
儚げな印象を与えがちな夢衣だけど、幸弘と更紗のおかげで精神的に強くなり、たくましさが出てきているなと感じる。やる気になって、キリッとした表情をする夢衣は、中学校時代の印象とは打って変わって何とも凜々しい。
(ああ、幸弘が彼氏になったからこそなんだな…僕がもし、あの頃両思いになっていたら、こんな顔をする日が来ただろうか?)
僕は思う。おそらく、夢衣を守る事に一生懸命になってしまってこんな表情ができることを知らずに、ずっと過ごしていく事になっただろうなと思うと、正直…本当に正直言って悔しいんだけど、幸弘が夢衣の彼氏になって良かったんだろうと思わざるをえなかった。
複雑な思いを抱えながら泳いでいくうちに少しづつ、目標が近づいてくる。
テトラポットまであと10mくらいまで来て、海面から顔を沈め海底に目を向けると、水中眼鏡越しにいろいろな海草が繁っているのがよくわかる。
海底に沈んでいるテトラポットにまで海草が生えている。
(足をつくと、滑るんだろうな・・・)
慎重に足を乗せて、海面に顔を出しているテトラポットの乾いているところに手をつく。
そして、身体をよっと引き上げた。
「ふわぁ~、やっと着いたぁ。更紗、手、貸そうか?」
「うん、お願い」
更紗に右手を伸ばし、彼女の右手を掴んで、よっと引き上げる。
それに倣って、幸弘も夢衣をテトラポットに引き上げた。
「本当に、今日は天気がいいですね」
浮き輪を片手に夢衣が感慨に更けるけど本当にその通りで、今日は綺麗な夏空が水平線まで続いている。北の方に大きな雲が一つ、のどかに漂っているのが、僕達の心をいつも以上に澄み渡らせていたと思う。
すると、聞き慣れない歌を、夢衣が歌い出した。
最近の速いテンポで歌詞が流れていくような歌じゃなくて、ある程度ゆっくりとして、じっくりと聞かせてくれる歌。その旋律もなんだか胸の中にしみこんでいくような気がした。
「あ~!夢衣さん、それって…」
綸子ちゃんが夢衣に向かってとある歌手の名前と曲名を口にする。その名前に僕は全然聞き覚えがないのだけど、夢衣はにっこり微笑んで頷く。
「そうです。綸子ちゃん、よく知っていましたね。結構マイナーな方だから、知っている人がいてくれて、嬉しいです」
「私、OurTubeの動画で知ったんですよ。何となく検索していて聞いてみたら填まっちゃって…サブスクでこの人のアルバムをリストに入れてます。勉強もはかどるんですよね」
綸子ちゃんも笑顔の夢衣に対して笑顔でそう返すものだから、そこの2人の空間は、至って穏やかなものだ。僕も更紗も、この歌手の事は知らなかったから、「浜茶屋に戻ったら、早速検索だね。今でもいいけど、今は夢衣ちゃんの歌っているところを見ていたいわ」と更紗の言葉に僕は頷いて、夢衣に続きを歌ってくれるように頼むと、さっきと同じように凜々しい顔つきをして頷き、続きを歌う。
それに綸子ちゃんもユニゾンで歌う。綸子ちゃんは夢衣よりも声が低いけど夢衣と同じくらい歌が上手いから心地よい。
夢衣は中学部時代は合唱部だったから、うまいのは当り前で、さらにソプラノだったから、高い声はお手の物だ。
二人の歌が終わると、いつの間にかテトラポットに来ていた人達――親子連れや、カップルまでも――が、彼女たちの歌声に弾かれたのか、近くに来ていて一緒に拍手をしていた。
夢衣と綸子ちゃんはそれに気付くと、耳まで真っ赤にしてうつむいてしまった。
その態度に、幸弘は彼女の頭をなでながら言った。
「夢衣、うつむくことはない。あんなに綺麗に歌ったんだ。だから、みんなが拍手をしてくれた。もっと自信をもって、堂々とすること。いいね?」
彼女は、幸弘の顔を見ながらうなずいた。そして、
「ありがとう、ございます」
と大きく、はっきり言って、拍手に応えた。こうした幸弘の言葉がけが、夢衣を強くしている。
「それにしても、綸子ちゃんも歌が上手いね。カラオケで鍛えてた?」
幸弘が聞くと、綸子ちゃんは首を横に振る。
「小学校の時、合唱サークルに通っていました。だから、歌うのは得意ですよ」
とのことで、それは上手になるよな、と思う。同時に、更紗は行かなかったのかな?と彼女に聞くと、「そう、私は合唱嫌いじゃないけれど、それ以上に身体を動かす方が好きだったから、ミニバスケットのクラブ入っていたんだ」と答えてくれた。
それにしても、歌っていうのは本当にいい。僕も彼女に触発されて、何か歌いたくなった。だから、空を見上げてあるフレーズを歌い出す。それに鋭く反応したのが更紗で、
「あ~やっぱりそれ歌い出すんだ。そうじゃないかと思った」
以前、更紗と一緒に登校を始めて少し経った時に紹介した、晴兄から教えてもらった歌。こういう所で歌うにはもってこいだったから、歌いたくなったんだ。
だから、更紗の声かけに僕は笑ってうなずいて、続けた。更紗も、「私も歌うね」とそのフレーズをしっかり覚えて、合わせてくれる。
本当に、みんなの心を和ませる、いい曲だ。気付いたら、歌は終わってしまっていた。
「本当に、いい曲ね」
「そうですね、更紗さん」
「慎吾が、こんな曲を知っているとはな」
最後に幸弘が、からかうように言う。僕はちょっとドスを効かせて言った。
「どういう意味だ、幸弘よ」
「いや、別に」
あまりにも素っ気なく言われたので、毒気を抜かれてしまった。
「ま、いいか」
僕はそう呟いて、テトラポットで横になる。強い日差しが、僕たちに降り注いでいる。
「ねえ、穏やかな海だけど、この向こうは外国と繋がっているんだよね…」
更紗がそんな事を僕に言う。
「そうだね。行ってみたい?」
そう返すと、更紗はちょっと頷いて、
「どこの国かは決めているわけじゃないんだけど、機会があったら行きたいって思ってる」
「留学とかで?」
「ううん。そこまでは考えた事がなかったな。ほら、大学の卒業旅行とか、……とか」
急に更紗の声が小さくなる。顔を覗き込むと、真っ赤だ。
「なんて言ったの?」
僕は聞いてみるけど、赤い顔をしたまま「…何でもない」なんて言うから、綸子ちゃんが突っ込む。
「お姉ちゃん、私の目はごまかせないわよ。新婚旅行とかって言ってたよね?」
そう言われて更紗の顔が更に真っ赤になる。
「もう、綸子!」
と、更紗は綸子ちゃんに食って掛かるけど、僕はその言葉の意味を反芻してその真意を悟ると、恥ずかしくなってきた。
「やべ…突っ込まなきゃ良かった…でも、そうなるといいなぁと正直に思うよ」
僕は、本音でそう更紗に言うと、更紗も僕の顔を見て「そうなるといいね」と呟く。
幸弘が合いの手を入れるように口笛を吹いて僕たちをからかうから、僕は奴のボディに軽くパンチを浴びせておいた。
テトラポットから浜茶屋に戻ってスマホで時刻を確認すると、正午を少し回っていた。
「はい、じゃあ、お昼にしようよ」
私がそう言うと、みんな頷く。浜茶屋にはやっぱり私たち以外に家族連れや大学生みたいな歳の4,5人くらいの団体が同じようにお昼ご飯を食べようとしていた。
夢衣ちゃんも矢野くんの横に座って手作りのお弁当を開いていた。
私の弁当は、バスケットの中に入っていて、大きい握り飯が2つと、それより二周り小さいおにぎりが4つ。それは、私と慎吾と綸子の分。
そして、おかずはたこさんウインナーにキャベツとほうれん草のバター炒め、それに、プチトマトといつものゆでブロッコリー。
品数はそんなに多くはない。ちょっと足りないかなって思うくらいで作ってある。
夢衣ちゃんの弁当は、小さめな二段重ねの弁当箱に入っていて、下段には、鉄火とカッパ巻きといった巻き寿司。上段には卵焼きに夏野菜サラダ、肉じゃがと言ったおかずが所狭しと並んでいる。
それでも、二人分の感じで、矢野くんと食べるんだろうなと思う。矢野くん、何気にやせの大食いだから、足りないように思うんだよね。
「3人とも、お弁当ありがとう。絶対に美味しいよね」「ああ、実は楽しみにしていたんだよな」
慎吾と幸弘はお互いに弁当の感想を言う。そんな2人に私たちは、
「ええ、朝の6時半に起きて、作ったんです」
「私たちはもうちょっと遅かったけど、それでも7時だったわ」
「それで品数はちょっと少なめなんです。せっかくの浜茶屋でのお昼だから、何か頼みたいかなって」
それぞれ言うと、それを受けて夢衣ちゃんは、
「そうなんです、それを目当てで少し少なめに作ってあるんですよ」
やっぱり、夢衣ちゃんも同じことを考えてたみたい。浜茶屋なら、やっぱりいくつか頼みたいよね。
「なるほどね。だから少なめなんだ。じゃ、ラーメンとイカ焼き頼んでいいかな?」
慎吾がそう言うと、矢野くんも「俺は焼きそばにフライドポテトだな。慎吾、勿論みんなで食べるために頼むんだよな?」と言って、慎吾に張り合う。
「勿論。でも、真心を込めて作られたものは、無駄にできないからお弁当を全部平らげ手からの話だけど」「ま、そりゃそうだな」
「それじゃ、どんどん食べてね。いただきまーす!」
私の一声が合図となり、みんなは両手を合わせる。
慎吾はまず、私の作ってきたおにぎりに手を延ばして口の中に入れ、よく噛みながら、味を確かめる。私も同じおにぎりを手にとって食べると、海苔の風味に、おいしいご飯の甘さ、そして、中に詰まっていた梅干しの酸味が順番に口の中に広がっていく。種は取ってあから、きっと食べやすく感じてくれたと思う。
「慎吾、おいしい?」
私がさっそく聞くと、慎吾は満面に笑みを浮かべて、
「ああ、最高。食べやすいし」
と言ってくれた。だから私はホッとして、
「良かった」
と返す。慎吾は更に、
「次は、夢衣の作ったお寿司を戴こうかな?」
と言って、夢衣ちゃんの方に向く。
「はい、どうぞ、慎吾君」
夢衣ちゃんは前もって用意してあった紙皿の上に、お寿司を二個と、卵焼き、肉じゃがを乗せて、慎吾に手渡した。
「ありがとう。夢衣の料理を食べるの、何年ぶりだろう」
慎吾がしみじみと言うと、矢野くんは「5年ぶりくらい?あの一件の前に俺の誕生日パーティーで作ってくれたのを食べて以来だと思うぜ。だな、夢衣?」と言って、夢衣ちゃんに確認する。
「はい、そうですね。あれ以降、そう言う場面を作る事がありませんでしたから。私も、久しぶりに作るなぁと思って今日ははりきって作っていました」
夢衣ちゃんはそう言って、お弁当を愛おしそうに見る。すごく、気持ちを込めて作っていたんだな、と夢衣ちゃんの表情を見て、そんな思いを強く感じた。だから、そんな思いを込めたお弁当の味を知りたくて、
「夢衣ちゃん、私も食べていいかな?」
と夢衣ちゃんに尋ねると、夢衣ちゃんは笑顔を見せて、
「はい、更紗さんどうぞ。私も更紗さんのお弁当を戴いてもいいですか?」
と言うから、勿論返事はイエス。
「うん、どうぞ。感想を聞かせて欲しいな」
私はそう言って、夢衣ちゃんにおかずを数品渡し。夢衣ちゃんは、それを口に運んで味を確かめる。
「美味しいですよ、更紗さん。大丈夫です」
「そう?嬉しいな」
「でも、このバター炒めなんですけれど・・・」
夢衣ちゃんは、料理の味付けについてアドバイスを始める。それには綸子も身を乗り出して話を聞く。そして、夢衣ちゃんの料理の味付けにもお互い思った事を言って、「あ、そうか、この調味料の使い方があるんだね」と綸子が言えば、「なるほどです。やっぱり、それぞれの家庭の味というものは千差万別ですね。私も勉強になります」と夢衣ちゃんも言って、楽しく会話していた。
料理に関しては門外漢の慎吾と矢野くんは、私たちを呆然と、しかし暖かく見つめていた。
昼食後、またテトラポットまで行って日光浴をしたり、海辺で、ビーチボールで遊んだりして、夕方。
浜茶屋の後ろの方にある駐車場に、車がだんだん増えてきた。
当然、それとともに人も多くなってくる。
「花火大会にやってきたのですね」
水着から普段着に着替えた夢衣ちゃんが、タオルで髪を拭きながら言った。
「そうね。慎吾、晴城お兄さんと優來お姉さんとはどこで合流するの?」
私は、TシャツとGパンに着替えて慎吾に聞く。
「取りあえず、さっきライナーしたんだけど、そのままここで待っててって。ここで拾ってから、穴場へ行くんだよって返ってきた」
慎吾はそう言って、私や綸子に返事をしてくれた。
「あ、そうなんですね東条さん。穴場ってどこなんですか?」
綸子は慎吾に聞くけど、そこまでは知らなかったみたいで、
「ゴメン綸子ちゃん。僕もそこまでは知らないんだ。晴兄に聞かないと」
「わかりました。楽しみにしていますね」
申し訳なさそうに答える慎吾に、綸子は笑顔で慎吾に返した。
「あとどれくらいで晴兄さん来るんだ?」
矢野くんが慎吾に聞く。
「うんと、あと10分位って言ってる。…晴兄運転してると思うから、多分優來姉さんがスマホの文を打ってるんだろうな」
「っていうことは、パスワードとか教え合ってるってことだよな。すごいな、その信頼感」
矢野くんがそう返すと、私は、
「え?私も慎吾の知ってるよ。慎吾に私のも教えたから、いつでも開けるよ。…尤も、どっちも勝手に見た事はないけど」
と言った。すると矢野くんは目をまん丸にして、
「さすがだなぁ」
と呟くだけだった。
そんな話をしながら晴城お兄さんの車を待っているうちに、夕日は徐々に沈んでいく。橙の濃さが少しずつ確実に、燃えるような色に染まっていった。
浜茶屋は17時で店を閉める。だからもう終わりと言われてひとまず後方の駐車場で車を待つ事に。
「あ、やってきたよ。賭けは僕の勝ちだね」
どっちから来るか賭けていた私たち。結果は慎吾の予想通りとなった。
「じゃ、今度盆明けの補習の日にジュース一本ね」
そう、賭けたものは、補習開始日のジュース。綸子もちゃっかり慎吾と同じ方向に賭けていたものだから、綸子は明日ジュースを奢る事になってしまった。
「分かったわ。あ、晴城お兄さん、優來お姉さん、ありがとうございます!」
運転席を覗き込んで、私はそう挨拶する。二人は笑顔で、「乗りなよ、行くよ」と言うから、みんなでお礼を言いながら後部座席へ乗る。
「じゃ、行くよ。ここから10分くらい走ったところに小高い丘があって、そこから花火がよく見えるんだ。人でもそれなりにあるけど、ここよりはよっぽど少ないから帰りも楽ちんだしね」
と言う晴城お兄さんの言葉とともに、車は出発する。
確かに10分ほど走ったところに、花火を見るのにちょうどい場所はあった。まだ少し明るいから、車から降りて暗くなるのを待つ。
花火大会…楽しみではあるんだけど、少し悲しい思い出もある。それは、綸子も同じ。だって…。
夜の帳はかなり降ろされていた。
紺色の幕から、漆黒の幕へと空の色は変わり、その中に瞬く銀色の明りが姿を見せる。
夏の大三角もそのうちの一つ。
つい一ヵ月前に再会を果たした牽牛と織姫、そして悲しい神話を今もなお奏で続ける琴が、真上から僕らを照らしている。
会場の方に目をやると、昼間は真っ白だった砂浜が、今は真っ黒だ。勿論夜の闇、と言うのもあるのだろうけど、人の波もあるのは間違いない。
「すごい人がいる感じだね」
僕は、こういった間近なところで花火を見るのは初めてだった。
近所でこんな大規模な花火大会がないというのもその理由だけれど、やっぱりこういうところには、一人より大人数で行きたいなと思っていた。今日、その機会にやっと巡り会ったのだ。
「どんな花火が見られるのかしらね」
「どんなんだろうね」
夜の帳は、完全に降ろされた。
道路沿いの明りと広場を照らすLEDの明りだけが、僕達がいる場所がわかる目印だ。
時間は、七時半を回った。花火を上げる船が、明かりを携えてテトラポットよりも沖合いに現れた。そして――
ど~ん!
一発目の大玉が白い筋を描いて虚空へと上がる。少しの間があって――
どど~ん!
赤い大輪が咲いた。真ん中は、白と黄色に彩られている。
「た~まや~」
更紗が僕の隣で歓声を上げる。彼女はまるで、子供のようだった。
次々と、花火は上がっていく。
黄色く、青く、赤く、白く、黒い夜空をキャンパスにして、一瞬の光の造形が輝く。
「奇麗ですね~」
夢衣は幸弘の隣でうっとりしていて、かなりいいムードだ。
僕は敢えて邪魔するまいと思った。邪魔するよりも、更紗の方を見たかったし。
そう思い更紗の方を向いて見る。そして、目に映った更紗の様子を見て、僕は驚いた。
彼女は悲しい顔をして、目尻に涙を溜めていた。その様子に、「なぜ?」という思いと、伝わっている悲しみで、僕の胸はこれでもかと言うくらい締め付けられて、僕まで泣きたくなってしまった。でも、何とかこらえて僕は更紗に問いかけた。
ためらいはあった。でも、どうしても聞きたかった。
「どうしたの、更紗?」
彼女は涙を拭おうともせず僕の方を向く。それと同時に、赤い花火が、大音響とともに僕らを照らして、更紗の悲しそうな顔が朱に染まる。
「ごめん…昔のことをちょっと思い出しちゃって…」
「昔のこと…?」
「うん、家族の、思い出なんだけど、あまりにも苦い記憶でね」
「家族の…?」
更紗は僕の胸元から頭を離すと、涙を拭った。
その目には、まだ悲しみはあったけれど、何かを話そうとする意思が感じられた。
「私は、元々福岡にいたのに、広島に転校してるのは、知っているよね」
その言葉に、僕は頷く。
「実はね、その転校を知らされたのが、9年前の誕生日の翌日だったんだ…9年前の誕生日は、お昼に友だちと誕生日パーティーをしてから、家族で花火大会を見に行ったんだよ」
「え…?」
そんな事あるのか…?8月入ってすぐなのに転勤ってあり得るのか?教員は年度末なのは分かるけど、一般企業って、そんなものなのだろうか?
「ひどいよね、折角の誕生日にお祝いしてもらったあとだったのに。お父さんも、その日に帰ってきた時は本当に顔色が悪くて表情も強張ってて、『申し訳ない』って私たちに謝ってたの。綸子に至っては、小学校に入ってすぐで、友達もたくさんできてきたところだったのに、すごく泣きわめいてた。今でも、あのときの事、思い出すと辛くなる…」
「…」
きらきら光る花火が僕らをしばらく照らし、消え、また照らし、消える。
「だから正直言うとね、花火大会を楽しめるか分からなくて、転校してからは行きたくなかったんだよね。でも、今年は慎吾と一緒だから、楽しめると思ったから行くことにしたんだけど、やっぱり思い出しちゃった」
更紗の台詞とはまったく逆に、花火は華麗さを増して、たくさんの花が同時に夜空に美を描いた。
「ごめんなさい…綺麗な花火を台なしにして…」
更紗は弱々しく結んだ。
「うん。でも、昔の更紗を知る事ができて良かったよ」
僕は、そう言って更紗に微笑む。そして、続けた。
「確かに、その時は辛かったと思うし、あまりにもその印象が強烈で、今でも思い出すと辛くなることはあると思う。でも、これから何度もこうやって一緒に同じ時間を、花火を見て過ごしていけばそんな記憶も少しずつ薄くなってくれるんじゃないかと思うし、そうあって欲しいと思うよ」
「…うん、そうだね。そうよ。一緒に楽しい時間を、大好きな人と暮らすことでイヤな記憶もいつかは昇華できると思う。ありがとう慎吾。そう言ってくれるの、本当に助かる。だから、私は慎吾から離れたくない。一緒にいたい」
更紗は僕の言葉に納得して、笑顔を向けてくれる。その笑顔には、まだほんのちょっとの弱さを感じるけど、でも、前向きに生きようとする姿勢がより強く出ていた。
「だからさ、今はとにかく花火を楽しもうよ」
僕の言葉に、更紗は力強く頷く。そして、僕は思わず更紗の肩を抱いて引き寄せた。すると僕は後ろから、
「お前達、何話していたかはよく聞こえなかったけど、いいアオハルしてんな」
と、晴兄の声が聞こえて、僕たちは思わず花火そっちのけで晴兄の方を向く。その反応があまりにも面白かったのか、晴兄と優來姉さんは笑ってしまい、それは幸弘に夢衣、綸子ちゃんにまで伝播してこの一体が笑い声に包まれる。
僕と更紗も最初は恥ずかしかったけど、一緒に笑って、更紗のイヤな記憶、辛い気持ちを振り払った。
ただ、当時小1だった綸子ちゃんは「あの時は確かに辛かったけど、もっと辛いことが起きてるから、そのことはもう霞んじゃった。私は花火大会にトラウマはないよ~」とあっけらかんとしていたっけ。
ナイアガラ式の花火が花火大会のフィナーレを飾る。
空中を染め上げるより幻想的な白い光の帯が、海中に走る。
「慎吾、改めてありがとう…」
突然更紗が礼を言ってきた。
「ん?何が?」
僕は彼女の方を向いて、その真意を確かめようとする。彼女の表情は取っても柔らかくて、その綺麗な瞳で僕の目を見て答えた。
「今日一日、まとめていい誕生日のプレゼントをもらった気分。辛い思い出があったこの日の記憶を吹き飛ばして、花火に、楽しい思い出を作ってくれたあなたに、ありがとう」
花火の帯はだんだん細くなっていく。でも、僕は彼女の顔を見ながら、礼を言った。
「僕からも、ありがとう。離れたくない、って言ってくれて」
その言葉に、彼女は満面の笑みを浮かべて、うなずいてくれた。
そして、すべての光が消え去り、道路の街灯と民家、そして星の明りだけの世界に戻る。
「さぁ、帰ろう。あまり混まない裏道を知っているけど、さすがにいつもよりは車通りはあるはずだから、できる限り早めに行きたいからね」
晴兄の言葉に、僕たちは「お願い」「お願いします」と口々に言って、車に乗り込む。
車に揺られながら、忘れることのできない一日が幕を閉じようとしていたけど、その前に僕はカバンの中に隠していたものを準備する。
疲れて寝てしまう前に、僕は――冬のダブルデートの時と同じように、一番後ろに二人で並んでいるんだけど――更紗に話しかける。
「更紗、誕生日、おめでとう」
「どうしたの?改まって」
僕の言葉に、更紗は笑顔で返してくれる。
「まだ、誕生日のプレゼント渡してなかったからね。こんなところでムードがなくて申し訳ないけど、受け取って欲しいんだ」
僕は、更紗にプレゼントを渡す。
「何かな?ここだと暗くて分からないから…」
「うん、ヘアバンド。更紗って、僕は黄色がすごく似合うと思うから、黄色のヘアバンド。家に帰ったら、確認してみてよ」
「ええ、ありがとう慎吾。私、黄色も好きだから嬉しいよ」
更紗は満面の笑みを浮かべて僕に抱きついてくる。そして、頬にキスをしてくれた。周りには気づかれないよう、静かに。
でも。その瞬間は晴兄がちゃっかりルームミラーで見ていたらしく、家に帰ってからメチャクチャからかわれたっけ。
更紗からは、家に帰ってからライナーで、「綸子からも『すごい似合ってる、東条さん意外とセンスいいなぁ』って言われて、確かにそう思うし、すごい嬉しい。大好き、慎吾」って言ってもらってとても嬉しかったから、からかわれたことなんて、どうでも良くなった。
すごくいい一日だった…のにな…。
翌日、私はとても気持ちの良い朝を迎えた。
昨日のことを思い出すと、自然に笑いがこみ上げてくる。
とっても楽しかった海。日焼け止めは塗っていたけど、想定以上の日差しに結構日焼けしたみたいで、昨日帰ってからお風呂に入ると結構痛かった。でも、それも含めていい思い出だし、花火大会での慎吾との話は、とても有意義で、辛い思い出が一つ吹っ切れたと思う。
そして、ヘアバンドのプレゼントはとても嬉しかった。もしかしたら、これが高じてコレクションしちゃうのかな、なんて思ってしまうくらいだった。
今日は取り立てて何かあるわけじゃなかったから、夏休みの課題でもして過ごそうかなって思いながら朝食を作る。
夏休みは時間に余裕があるから、慎吾の家にお邪魔に行くことはせず、晩ご飯も私と綸子で交代制にしたり、二人で作ったりしている。
時計が7時半を指すと、お父さんの部屋からもぞもぞとお父さんが着替えをする気配がしてきて、お父さんが顔を出す。いつもはスーツをびしっと着こなしているけど、今日はTシャツにGパンというラフな格好だ。
「お父さん、おはよ」「おはようお父さん。今日は朝食いらないんだよね?」
「おはよう、二人とも。そうだね。今日は人間ドックに行ってくるから。朝食は食べられないんだよな」
「でも、水はいいんでしょ?飲んでく?」
私はコップに軽く1杯、水を用意してテーブルに運ぶ。
「ああ。ありがとう、更紗」
そう言うお父さんの顔色は、少し悪いような気がした。昨日の夜から絶食で、お腹すいているだけなのかなぁ。
「何もないといいね」
綸子がそう言うと、お父さんは笑って、
「そうだね。何もないことを祈るよ」
と言いながらコップの水を飲み干す。
「ごちそうさま。8時から受付だから、もう行くね。夕方までには戻ると思う」
「ええ、気をつけてね」「いってらっしゃい」
私たちの言葉を背に、お父さんは手を軽く振ると玄関ドアを開けて出て行った。
「…ホント、何もないといいんだけど…」
お父さんの顔色にちょっと不安な私はそう呟いて、朝食を食べたあと、綸子と二人でお母さんに手を合わせ、それぞれ夏休みの課題に取り組んだ。
そして、お昼ご飯を食べてから暫くライナーで慎吾と課題のことについてやりとりして、お互いの進捗を話し合い、それから更に3時間ほど課題を進めてから、ちょっと15分ほどお昼寝。
目を覚ました時には16時を少し過ぎていて、いつお父さんが帰ってきてもおかしくない時間だった。
「お父さん、大丈夫だったかな?」
そう思いながら、お父さんの帰りを待つ。少しして、玄関の鍵が開く音がして、「ただいま」とお父さんが帰ってきた。でも、ただいま、と言ったお父さんの声は、全くハリがなくて、弱々しいものだった。
「お帰り、お父さん、どうだったの?」
私はリビングに出てきて、リビングの椅子に座り込んだお父さんに問いかける。
「…あとで話すよ。今暫く、部屋にいるから。申し訳ないけど、夕食の準備ができたら呼んでくれないか?」
深刻そうな顔でお父さんはそう言うと、自室へと向かっていった。
…もしかして、悪い予感が的中してしまったのかもしれない。
「綸子、ちょっといい?」
私は、綸子の部屋へ行き、彼女を呼ぶ。
「どうしたの、お姉ちゃん?」
綸子は不思議そうな顔をして私の顔を見る。
私は綸子の部屋(と言っても4.5畳の決して広くない部屋に本棚や服の収納タンスがあるから、ベッドを置くスペースがなくて、6畳ある私の部屋で、2段ベッドで寝ているんだ)に入ると、床に正座して話し出す。
「今、お父さん帰ってきたんだけど…」
私の浮かない表情を見て、綸子も何か悟ったのだろう、彼女も私の目の前で正座し、膝をつき合わせて私の話を聞く。
「明らかに表情が曇っていて、元気がないんだよね…もしかしたら、結果良くないのがあったのかも…」
「…確かに、『ただいま』の声、元気なかったもんね」
「何もなければいいんだけど、もし、そうじゃなかった時は、覚悟決めなくちゃね。できることをやるだけだよ」
「うん、賛成」
そんなことを言いながら、晩ご飯の準備を二人で始める。
今日は色々考えたけど、お父さんの体調を考えるなら、ちょっとヘルシーな方がいいと思い、寒天サラダにミニトマト、鶏胸肉を茹でてハム状にし、茹でて肉汁の出た汁を使っての味噌汁。そして、ご飯だ。
「お父さん、準備できたよ」
私が部屋の外からお父さんを呼ぶと、「分かった、ありがとう」という声がして、もぞもぞと動く気配。そして、程なくお父さんは部屋から出てきてくれた。
でも、その顔を見てハッとする。
泣きはらしたように目は赤く、腫れぼったい。唇は真一文字に噛みしめられて、まだ出てきそうな涙を必死にこらえているように見えた。
「ど、どうしたの、お父さん!」
私は思わず叫んでしまう。綸子も私の慌てた声に駆け寄ってきて、お父さんの顔を見るなりその表情が曇る。
「お父さん…」
私たちの様子に、お父さんは何とかこらえたみたいで、「大丈夫、ご飯食べよう。それから話すよ」と努めて明るく言って、リビングへと向かった。
リビングは、重苦しい雰囲気だった。
お父さんは一言も喋らずに、暗い表情のままだ。決して機嫌が悪いわけじゃないと言うことは分かっているんだけど、何か言うと、良くない気がしたんだ。
私たちは無言で晩ご飯を食べるけど、やっぱりいつもより食が進まなくていつもより食べ終わるのが遅くなってしまった。
それでも、食べ終わって食器を洗う間もお父さんは待っててくれて、洗い終わってから私と綸子はお父さんにお茶を用意してテーブルに座る。
お父さんはまだ無言だけど、私と綸子は一言も喋らずに、お父さんの言葉を待った。
「更紗、綸子、落ち着いて聞いてくれ…」
それだけ言うとまたお父さんは黙ってしまった。何か言いたかったけど、待つしかないと思った。
3分くらい待って、お父さんは私たちに話しかけてくれた。
「すまない。自分が落ち着くまで時間がかかった。不安にさせてゴメンな」
お父さんは、少しだけど柔らかな表情を見せる。
「今日のドックでな、お父さん引っかかったんだ」
ここ数年の健康診断では、悪いところはないって言っていたのに、今年は引っかかったんだって。
「胃のバリウム検査でね、おかしい部分があったんだって。それで、胃カメラでの検査もしてもらったんだけど、どうもね…」
お父さんの表情が曇る。
「癌、みたいなんだ。ステージは断言できないけど、3じゃないかと。紹介状をもらって、精密検査してもらってくださいと言われてしまったよ…」
お父さんの目に、光るものが見える。
「お父さん、それ大丈夫なの?癌って、ステージ3って?結構危ないないんじゃない?」
綸子はすっかり動揺してしまい、お父さんに問い詰める。
私は逆に、頭が真っ白になって言葉が上手く出てこない。
お父さんがいなくなってしまうかもしれない。お母さんに続いて、お父さんまでいなくなってしまったら、私たちは一体どうすればいいのだろう。さっきは「覚悟決めなくちゃね」と言っていたのに、そんな事は現実を目の前にして飛んでしまった。
「まだ、今は『かもしれない』という状況なので、どうなっているかは本当に分からない。でも、癌なのは可能性高いんだ。今にして思えば、ここに引っ越してきて暫くした辺りから、なんか疲れが溜まるよなって思ってはいたんだけど…もしかしたら、その頃から少しずつおかしかったのかもしれないんだよな」
私も綸子も、押し黙ってしまう。不安が一気に押し寄せてきて、これからどうしようとしか考えられない。
「………」
長い沈黙が流れる。でも、私は当面気になることを聞こうと思って、口を開いた。
「お父さんは、これからどこかの病院に入院するってことだよね?」
私の確認に、お父さんは頷く。
「でも、この辺りの病院で、どこが良いのかってよく知らないから、上司と話をして聞いてみようと思う。どれくらいの入院になるかも分からないしな」
「…私たちは、お父さんが家にいなくても今まで通り生活はできると思うよ。でも、入院費とか治療費でお金たくさん払わなくちゃいけないんじゃないの?」
綸子が聞くと、お父さんは再び頷いて、
「でも、そこは医療保険があるからある程度は軽減できるし、お母さんが亡くなった時に相手方からもらった事故の慰謝料があるんだ。お前達には話してなかったけど、かなりの額だから、俺が入院しても絶対に困らないだけの額だから、お金のことは心配しなくて良いよ」
と言うから、私たちは「うん、わかった」と納得するしかない。正直、お母さんの事故の賠償金の話はここで初めて聞いたけど、それよりもお父さんの一大事の方が、今は大切だ。
そんなことを話しているうちに、私はあることを思い出す。
「そう言えば、私のクラスメイトの男子に、県立病院の外科医の息子さんがいるわ。聞いてみても良いかな?」
それは、鈴木くんのことだ。既に少し年の離れたお兄さんが後継者となるために医学部へ進学し、現在は研修医をしているらしいというのはお父さんも同じ医者の紗友梨さんから聞いている。だから、鈴木くん自身は自由に進路を決められたのだろうと思う。文系というのもあったのだろうけど。
「わかった、もし教えてもらえるのなら、それはすごく助かることだからね」
私は、その時はお父さんのことしか考えられず、慎吾のことにまで頭が回っていなかった。いや、慎吾のことは頭をよぎっていたのだけれども、「余計な心配をかけたくない」と言うのが本音だったんだ。だからあえて、慎吾に黙って鈴木くんと話をしようと思った。
その日の入浴後、慎吾とライナーをする前に、ライナーの友達から鈴木君を探す。4月の襲われそうになったときに助けてもらったお礼もかねて連絡先交換してあるから、すぐにメッセージを送ることができる。
「急なんだけど、相談したいことがあるの。明日とか、会えないかな?」
『急な話だね。大原、どうしたんだ?』
秒で鈴木君から驚きのスタンプが送られ、それとともに質問してきた。
「う~んと、メッセージのやりとりじゃなくて、直接話を聞いて欲しいの。どう?」
しばらく返信を待つ。その間にピコン!と通知が鳴る。それは、慎吾からだった。
『課題の進捗、どう?』
私は慌てて、慎吾に返す。でも、その返事は焦っていたのか誤字だらけ。
「亜亜、未だ風呂揚がったところで間だなんだ」
『あれ?珍しいね。そんな誤字』
私はなおもテンパってしまう。
「ああ、ごめん。今日はもう疲れたからやめとこうって思ってたの」
すると、今度は鈴木君からメッセージ。
『分かった。明日の10時に、城西商店街の喫茶店『リスペクト』でどう?でも、東条も一緒にいる?』
「いいえ、慎吾に聞かれたくないから、二人で。ありがとう。明日はよろしくね」
鈴木君に「ありがとう」「よろしく」のスタンプを立て続けに送る。すると、鈴木君からの返事が速攻で来る。
『え?東条に聞かれたくないって、どういうこと?』
でも、それは直接言いたいから、
「慎吾に心配かけたくないから。だから、鈴木君も慎吾に今日は言わないで」
と返すと、鈴木君からは「わかった」とちょっと不安そうな顔をするスタンプを送ってきた。たぶん、鈴木君としては不承不承、納得は行っていないのだろう。でも、とりあえず2人で会う約束ができたことに、私はホッとした。
そして、慎吾のメッセージに対応する。
『そうか、確かに勉強ずっとやってると疲れるよね。じゃ、明日会わない?』
慎吾は、鈴木君のメッセージに対応する間に、そう送ってきてくれていた。でも、それは無理だ。
「ごめん、明日は用事があるから無理なんだ」
そして、「ごめんね」とスタンプを送る。
『了解。じゃ、また明日ライナーで』
慎吾がそうメッセージを送ってきて、会話が終了。
…大人になってから振り返った時に、この決断が実は最悪なもので、この時慎吾にきちんと相談しておけば、この後あんなことにならなかったのにってすごく後悔して慎吾を慌てさせたのは、生涯一の汚点だと思う。
翌日――私と鈴木くんは、城西商店街の喫茶店――4月に慎吾と夢衣ちゃんが矢野くんの誕生日プレゼントを選ぶために入ったお店だった――で落ちあう。
お父さんは、今回の説明に会社へ行くけど、午前中のうちに帰ってくるようだった。
喫茶店には私が先に来ていたみたいで、窓際のテーブルに座り、「癌 ステージ3 余命」をスマホで調べながら5分ほど待つと鈴木君が店に入ってきた。
私は、「こっち!」と鈴木君を呼ぶと、彼は私の対面に座る。
「ごめんね、急に呼び出して。ありがとう」
私は鈴木君にそう言って、頭を下げる。
「いやいや、大原更紗ファンクラブ会長として、当たり前だよ。でも、どうして?東条に内緒って何でさ?」
私が頭を上げると同時に、鈴木君の疑問が私の耳を打つ。
そして、今調べていたことを言おうとすると、不安と寂しさから、思わず泣きそうになって、涙がちょっと溢れてくる。
「ちょ、ちょ。いつも明るい大原がどうしたんだよ、マジで?」
私の泣きそうな顔を見て、鈴木君はすごく慌てる。
「注文して落ち着こう。な、それでいいか?」
私は「うん」と頷くけど、適当に「アイスコーヒー」と告げる。
鈴木君は少し悩んで――もしかしたら、私を落ち着かせようと時間を作ってくれたのかもしれないけど――レモンスカッシュを頼んだ。
「で、話を元に戻していい?」
鈴木君の言葉に、私は「うん」と頷くけど、やっぱり明るく振る舞えそうにない。
「ごめんね、鈴木君。あのね…」
私はスマホの画面を鈴木君に向ける。
「何…?癌…?誰が?」
鈴木君が怪訝な表情をする。そうだよね…。
「お父さん…。昨日、人間ドックに行って、胃カメラで癌と思われるって言われたの。それでね、私たちってここに来てまだ1年経ってないし、病院にかかるような病気や怪我もみんなしなかったから、この辺の病院のこと分からないの。それで、鈴木君のお父さんが外科医だって聞いたことがあるから、この近辺で胃がんに強い病院のことを教えてもらえるととってもありがたいなって思って…」
私は話していくうちにしゃべりが早くなっていくのが分かった。鈴木君に、私の思いが伝わって欲しい、助けて欲しい、そう思っていた。
「…」
鈴木君は、難しい顔をして私の顔を見る。
私の顔は、どう返事してもらえるのか分からず不安でいっぱいだったと思う。
「大原…一つだけ聞いていい?」
ああ…ダメなのかな…。と諦めるような表情になってしまう。
「東条には本当に言わなくていいのか?矢野から聞いてるけど、もう家族ぐるみの付き合いも同然なんだろ?」
…それは、正論なんだろうと思う。でも…。
「だからこそ、なの。これまで慎吾には付き合うようになってから…ううん。その前からたくさん助けてもらった。それに、私のせいで怪我させちゃったこともあったし、それに…。慎吾の家族…お母さんやお兄さんにもたくさんお世話になって、これ以上助けを求めることなんて本当に迷惑でしかないと思うの。だから、今回は、私が一人で何とかするしかないと思ってる」
そう一気にまくし立てると、鈴木君は「ふ~」っとため息をつく。でもそれは、呆れたからとか、見下していたとかそういうのではなくて、私の考えと鈴木君本人の思いが、胸の中で葛藤していたんだと思う。
そこで、「ご注文の品をお持ちしました」と店員さんがアイスコーヒーとレモンスカッシュを持ってきてくれた。でも、私と鈴木君の間に流れる空気が微妙なのを悟ったのか、飲み物を置いたらそそくさとカウンターへ去っていってしまった。
「飲もうか」
と鈴木君は私に促してくれた。彼は先にレモンスカッシュを一気に一口あおると、スマホを胸ポケットから取りだした。
「ちょっと、席を立っていい?親父に連絡してくるよ」
その言葉に、私は驚いて、
「え?」
と思わず大きな声を出してしまう。その声に店内にいる数人のお客さんがこちらを向くものだから、私は立って「すみません」と言ってから座り直して身体を小さくしてしまった。
「うん、だから紹介できる病院があるか親父に聞くよ。今日はたまたま診察は午後からで午前中は手術も入ってなくてそれなりに自由にしていられるみたいだから、今なら話を聞いてくれるよ」
鈴木君は注文表を取って席を立ち、一度店の外に出る。その前に店員さんに、「すぐ戻ってくるんですが、先にお代払っておきます」と、私たちの飲み物代を払っていた…スマホ決済で。
そして、鈴木君は外で、どうも、入り口近くの植木のあたりで電話をしている様子が見えた。
「…」
今の私は、黙って待つことしかできない。でもその間も、色々な不安が、私の胸に去来する。
待つこと3分、鈴木君は戻ってきた。
「おまたせ。結論から先に言うな」
鈴木君は、真剣な顔をして私に向き直った。一瞬緊張が私たちの間に走ったように見えた。
「父さんが看てくれるってさ。ステージ3かもしれないけど、きちんと精密検査してみないと分からない。それにさ、まだ希望を捨てちゃダメだってさ。幸いここしばらくは余裕があるから、受け入れる余地があるって」
そう言われて、私はホッとしてしまった。それと同時に、涙腺が崩壊した。
「お、おい、泣くなって。まだ治るって保証はないんだし」
そう言いながらも鈴木君はおたおたしてしまう。
「あ、ありがとう、ありがとう、鈴木君。でも、そんなにしてもらえると思ってなかったから安心しちゃったら…」
私は涙で顔はぐちゃぐちゃになってしまったんだけど、鈴木君の手を取ってお礼を言う。
「そ、そりゃ、大原…だからだよ…。大原更紗ファンクラブ会長なんだから、何とかしたい一心だったよ」
鈴木君はそう言って、私の手からするっと両手を離して、私の肩に右手をポンポンしてくれた。
「でも、そこまで取り乱す大原を初めて見たよ。お父さんが病気だと言っても、お母さんいるんじゃ?」
…その事実は、慎吾と矢野くん以外の男子生徒はほぼ知らないこと。
「…私ね、父子家庭なんだ。お母さん、3年以上前に、事故で亡くなってるの」
だから、そのことを話した鈴木君は一瞬ぽかんとした表情になる。
「だからね、お父さんいなくなったら、私と妹の二人ぽっちになっちゃうから、不安で仕方ないんだ」
私は、頭を下に向けて、肩を震わせる。
そんな私に、鈴木君は一旦肩から離していた右手をまた肩にかけて、今度は少し力を込めてポンポンと叩く。
「…親父には、くれぐれも頼むと言っておくわ。憧れの存在にそんな悲しい顔をして欲しくないから」
鈴木君は私を元気づけようとそう言ってくれた。
「うん、ありがとう」
私は謝意を伝えるとともに、鈴木くんの右手を握る。
「どうするといいかは、後で親父に聞いて、夜にでもライナーでメッセージ送るから。ただ…」
そこで言葉を停める鈴木君に、私は「ん?」と顔を上げると、そこには取っても真剣な鈴木君の顔。
「東条には、この事は絶対に話した方が良い。なるべく早くに。あいつに心配させたくないとか、迷惑かけるとか、そんなことを考えちゃダメだ。後で知ったら、東条怒るぞ。『何で真っ先に知らせてくれなかった?』って。あいつ、大原のこと本当に好きなんだから、隠し事はしちゃいけないよ」
その言葉は、すごく重たく、私の胸に響いてきた。だから私は、
「うん、分かった。お父さん入院したら、すぐにでも話すわ」
と真剣な顔で頷いた。
話はまとまった。私は、飲み物を飲み干すと、鈴木君に私のアイスコーヒーの代金を無理矢理受け取ってもらってから、喫茶店を出た。
入る前は薄暗かった視界が、この時は明るく感じた。
その日の朝、公園にラジオ体操に行ってから2度寝していた僕は、9時前に起きる。起き抜けに考えていたのは、更紗に昨日出かける提案をして振られてしまったこと。
「用事って、なんなのかな…」
最初の返事も誤字ばっかりだったのも気になる。
なんだか、嫌な感じがした。
一昨日あんなに楽しい思い出を作ったばかりなのに、何かおかしい違和感。
何なんだろう、一体…と思いながら朝食を食べる。すると、母さんが何か感じたようで、
「慎ちゃん、どうしたの?」
と聞いてくるけど、僕もこの漫然とした不安がなんなのか確信がなかったので、
「ううん、何でもないよ」
とはぐらかしておいた。
とは言え、一度感じてしまった不安をそのままにしておくのは、今の僕にはできなくて、夏休みの課題に手をつけて忘れようと思ったんだけど、やっぱりできなかった。
「ふぅ~っ!やっぱりダメだ!出かけよう」
僕は、蹴るように椅子から立ち上がると、スマホに財布の入ったウェストポーチを掴むと、「ゴメン、ちょっと出かけてくる」と母さんに言って、返事も待たず家から出た。
愛車を引っ張り出して、立ち漕ぎを2,3回してから商店街へと向かって疾走する。
その間も、胸のモヤモヤは収まらない。そのモヤモヤを忘れられるのは何だろう?
まずは、ゲーセンだな、音ゲーだ。
ゲーセンに着いて、いつもの音ゲーに。今日は平日。時間もまだ9時半を過ぎたあたりと言うこともあり、社会人の社さんは勿論いない。他の常連さんたちもだいたいは大学生で、8月になって夏休みに入ったばかりの先輩学生のみんなは、地元は他県の人が多くて帰省していたり、バイトしていたりとやっぱり筐体には誰も張り付いていなかった。
「ホントなら、更紗とここに来て楽しむはずだったんだけどなぁ~」
と軽くため息をついて、カードを読み取り機にかざす。
軽くレベル11からと思ったけど、いつもやり慣れているはずの好きな曲なのに、いつも通りのリズムが取れない。全然判定が光ってくれない。クリアはかろうじてできたけど、いつもよりもスコアは激悪で、それだけでやる気がごっそりと削がれ、高難度に挑戦する気持ちはこれっぽっちもなかった。
「はぁ~調子悪い…」
数クレジット投入したけど、難易度を徹底的に落として簡単な曲をやっても、全然スコアが出なくて頭を抱えるばかりになったから、もう諦めざるをえなかった。
「はぁ、出よう」
僕はゲーセンを出る。時計を確認すると、10時を15分ほど過ぎていた。次はどこへ行こうかな…と思って少し思案すると、
「あ」
と思い出したことがあった。
「そうじゃん、今日はあのラノベの最新刊が出るんじゃないか」
僕は本屋に向かうことにした。
ゲーセンからさほど離れていないけど、自転車はちゃんと引いて交差点の端にある本屋の前に停める。
やっぱり僕の記憶は間違っていなくて、ラノベはちゃんとラノベ新刊のコーナーに置かれていたから、無事確保できてちょっと満足した。
本屋を出た僕の気持ちは、これで少しだけ晴れたんだけど、やっぱり心のどこかから出てくる不安というのはそう簡単に吹っ切れそうになかった。
「…ふぅ…」
ちょっとため息をついて自転車の鍵を外して発車させようと周りを見回す。すると、たまたま交差点の反対側にある喫茶店――4ヶ月近く前に、夢衣と話をした『リスペクト』だ――が目についた。
「…?」
見ようと思ったわけじゃないんだけど、視線がある一点を差して、僕は固まる。
「さ、さら、さ…???」
窓際の席で、更紗が誰かと話している。その誰かは、更紗の左の肩に右手を伸ばしていた。
「…誰…だ?」
僕はその相手を確認しようと少し近づこうとたまたま青になっていた信号を走って渡る。
幸か不幸か、更紗は僕に気づいていない。
そして、少し店から離れた、歩道の隅で視界を確保すると、相手の姿を確認する。
「す、鈴木…なんで?」
確かに同じクラスだし、佐々のあの一件がある前から、更紗と鈴木はそれなりに仲は良いけれど、こうやって二人だけで会うということは今までなかったはずだし、そうなる時は更紗のことだから、僕に一言断っていたと思う。
でも、この画を見てしまってから、不意に昨日の更紗の不自然なレスを思い出した。
「え?あの誤字ってもしかして、焦ってたのかな…?」
おそらく、鈴木と会うやりとりをしているところで、僕からメッセが入ったから慌ててしまったのだろうか?だとしても、あんな取り乱したレスを打つなんて、彼女らしくない。
「でも、なんで…」
頭の中で思っていることが、口からついて出てくる。正直、更紗が僕に対して隠れてこそこそするように鈴木と会うなんて、思ってもいなかったから、正直ショックだ。
そうショックを受けている間に、更紗は左肩に置かれていた鈴木の右手を握り返すかのように持つ。
それはまるで、鈴木が更紗に告白してそれに対して「お願いします」と言っているように見えてしまった。
「…」
僕は、なぜかその瞬間を写真に収めていた。
それからの記憶は、殆どない。
気づけば、僕は家に帰って、自分の部屋のベッドに横になっていた。
昼ご飯も食べずに、ずっと呆けていたようだ。もう、日は西にかなり傾いている。
スマホを抱えていたけど、持っていたはずのライトノベルは手元にない。
おそらく、帰る道中のどこかで落としてしまったのだろう。でも、そんなことはどうでも良かった。
そんなことよりも、更紗の手ひどい裏切り行為に見えたあの喫茶店での出来事が、頭から離れない。
「離れないよ」と言ってくれたことは、嘘だったのだろうか…?
「…」
僕は、スマホの写真アプリを起動する。
一昨日の海と花火大会に始まり、修学旅行、インターハイ予選…幸弘のバースデイパーティーに、水族館デート…。
下へスクロールするたび、一つ一つ、更紗との思い出が蘇る。
でもそれは、すべてが幻だったんだ。すべてが、嘘だったんだ。だったら、今までの僕は、一体何だったんだろう…?更紗の手のひらの上で踊らされた、ただの道化師だったのだろうか?
更紗には、全幅の信頼を置いていた。心から、好きだった。
でも、そんな思いは、自分の一方通行だったのか…。僕に「好き」って言ってくれたことは、本心ではなかったのか?
僕の心は混乱し、摩耗した。
たった一回の気の迷いなのかもしれない。でも、僕は見てしまった。それを「いいよ」と見逃せるような広い心は持っていなかった。
あのあと、更紗は鈴木とどこへ行ったんだろう…?
よりによって、ホテルまで行ってしまったのだろうか?
どんどん、考えは悪い方へ、悪い方へと進んでいく。
つい昨日まで、こんな思いを抱えることなんかなかったのに。
こんな思いになるなら、更紗を好きになるんじゃなかったのに。
出会った日の、視線が絡まった瞬間に感じた胸の高鳴りを思い出すけど、それはもう、黒く塗りつぶされていく。
悪い方へ進む憶測は、僕の涙腺を決壊させるに十分だった。
「あ、ああ…」
ひとしきり、静かに、啼いた。
どれくらい啼いただろう…。もう、窓の外は真っ暗だった。
「慎ちゃん、ご飯よ」
母さんが下から僕を呼んだ気がしたけど、その声は僕の耳には届いていても心に届かず、食べようという思いは全くなかった。
僕は、返事をすることなくもう一度、写真アプリを見る。
そこにいるのは、とっても楽しそうな、水着姿の二人の笑顔、夕方の藻岩山で撮ったとっても綺麗な更紗の横顔、インターハイ予選の後で母さんの迎えに合流したときに撮った、僕の後ろから抱きついてピースサインをする更紗、水族館で、おどけた表情でウィンクする更紗…。
「でも、全部、楽し、かったなぁ…」
そう言いながら、また、涙が溢れてくる。だから消せないし、消したくない。
でも、その中で一つ、決断する。
僕は、ライナーを起動し、更紗とのトークをタップする。
そこには、たわいのない会話。これも、思い出だ。楽しかった、思い出だ。
だから、残しておく。でも、もう話すことはない。
「さようなら、大好きだった人…」
右上の横三本のボタンをタップし、メニューを呼び出す。
そして、迷うことなく「ブロック」をタップした――
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コメント
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1
コメントを書く鳥原波
いつもありがとうございます!水着はそんなに描写できてないかもしれませんが、萌えていただいたようで何よりです! そして後半…ね、二人で考えればいいことを、一人で突っ走った結果のすれ違い…ここからどう仲直りしていくか、次章をお待ちください♪ だって、この物語はハッピーエンドで終わりますから。
ノベルバユーザー617419
即投稿ありがとうございます。水着回も萌えましたぁ♪(モンモン)
ですが予告通り「あんな事」になりましたね…
皆がその時その瞬間の精一杯の行動のはずが、こんな大きなすれ違いを起こすなんて
主人公の崩れて行く感情が切に、辛く、伝わってくる。次回も楽しみに待っています。