陽炎輝夜 ~真夏のかぐや姫~

月親

05.『君』はもういない

 美月、俺も明日の朝には帰ると言ったな。あれは嘘だ。


「父さん、急患。三丁目の青山さん家の犬」


 ここは、木原動物病院。またの名を木原泉の実家と言う。
 夏休み期間中の火木土曜日は、十一時から実家の手伝いをすることになっていた。朝からいたなら、そりゃあ時間を繰り上げられるわな。迂闊だった。
 実家は今住んでいるアパートから歩いて数分と近い。バイト先としては良い場所だ。が、俺に一言の相談もなく、助手としてシフトを組まれていたことが問題だ。
 「月水金は清水さんとこの家庭教師だろう? だからこの曜日な」と根本的に何処か間違えている父さんに抗議するも、「お前、昔、大人になったら父さんの手伝いをしてくれるって言ったじゃないか」と、当時の可愛い子供心を盾に取られて終了ときたもんだ。
 そりゃまあ獣医学科に行ってて、「やっぱり宇宙飛行士になりたい」とか言い出すつもりはないが、時間を割く身としては一言都合を聞いてもらいたい。


「君もこんなやる気ナッシングな俺に、手当てなんてして欲しくないはずだ」


 猫にも愚痴りたくなる。けれど、人懐っこいのが定評な武田さん家のタケは「ナァ」と手に擦り寄るばかりで、俺の話を聞いてくれてない様子。


「くっ、俺の人生、孤軍奮闘記だ」


 包帯を巻いた方とは逆の前足をむやみやたらに触ってみても、嫌がる素振りひとつ見せやしない。我が道を行く猫の誇りは、何処へ行ったのか?


「飼い主にとっては喜ぶべきことなんだろうけどな」


 可愛がれば懐いてくれる。懐いてくれるのが可愛くてもっと大事にする。悪いことだとは言わない。寧ろ獣医にとって喜ぶべきことだ。けれど俺は、そのことに随分昔から疑問を感じている。
 手当てが終わり手を離しても、タケは俺に「身体を撫でて」と言わんばかりの甘える声と仕種で、なおも催促してくる。なんとも甘え上手な奴だ。


「君のご主人は幸せだろうな。でも……」


 言いかけて言葉を呑み込む。
 俺の疑問は俺だけの……俺が犯した過ちだけに起こりうる疑問なのかもしれない。だったら、誰に尋ねようと意味の無いことだ。


「ま、そうじゃなくても君に尋ねたところで人語なんてわかりゃしないよな」


 催促に観念して首をくしゃくしゃと撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めるタケ。


「悪かったな。つまらない人間の愚痴なんて聞かせて」


 最後にポンポンと軽く背中を叩いてやり、俺はタケを抱えてキャリーケースに入れた。
 『でも……君は幸せなのか?』
 呑み込んだはずの言葉が不意に頭を過り、軽く頭を振る。
 本当に意味の無いことだ。
 尋ねたい『君』は、もういないのだから――



「恋愛」の人気作品

コメント

コメントを書く