致し方ないので、上司お持ち帰りしました

柚月しずく

5 雨の中に佇む影




 何事もなく数日が過ぎた頃。
 今にも雨が降り出しそうな、一面が雲に覆われた日だった。
 この日、真白さんに少し違和感を覚えた。いつもはパリッとアイロンされたしわ1つないスーツに身を包んでいるのだが。今日はスーツにしわが目立つような気がする。

 真白さんが、身だしなみに気をつけていないのは初めて見た。

 まあ、人間だから、毎日完璧ってわけでもないのかもしれない。
 そう思い、特別気にもしていなかった。

 仕事が終わるころには真っ黒な空から小雨が降り出していた。カバンに忍ばせていた折り畳み傘をさして帰り道を歩く。

 アパートが見えてきた時だった。怪しげにウロウロする人影が視界に入り、足がぴたりと止まった。嫌な予感がして物陰にさっと隠れた。じーっと見つめると見覚えのある人物だった。

「……楓くん?」

 元カレの楓くんだ。背中が少し猫背でポケットに両手を突っ込みながら歩くところは変わらない。アパートの周辺を行ったり来たりしていて、完全に怪しい。

 ドクドクと嫌な音を立てて心臓が鳴り出した。
 なんで。楓くんが――。
 私たちの関係は終わったはずなのに。もう、会いたくもないのに。

 小雨が降ってる中、傘も刺さず待ち伏せをしている楓くんの服は、雨に濡れて色が変わっていた。服の濡れ具合から、結構な時間あの場にいることが考えられた。

 家で待ち伏せされるなんて、流石に怖くて手が震え出した。ポケットに入れていたスマホに振動が伝う。

 ブ――っブ――。
 もしかして、楓くん?
 怯えながら待ち伏せする楓くんに視線を向けると、彼は手に携帯を持っていなかった。

 今、私に電話をかけているのは楓くんじゃない。
 ホッとして、スマホを手に取った。

 
 ~♪
 着信 真白さん。


 画面に表示されたのは、予想もしない真白さんだった。
 念のため交換した連絡先。
 活用されることはないと思っていた。なぜ真白さんから電話がくるのか理由が分からない。雨の音に聴力が遮られる中、通話ボタンを押した。


「もしもし」
「……」
「えっと、真白さんですよね?」
「泉さん? 助けて、」
「へ? なんて?」

 電話越しの真白さんの声があまりにもか細くて聞き取れなかった。待ちゆく人の足音、雨が降り注ぐ音。真白さんの声は簡単に掻き消されてしまう。

「……た、助けてください」

 騒音の中、小さなか細い声が耳に届いた。

「今、どこですか?」
「マンションの、向かいのコンビニに隠れています」
「隠れ? 待っていてください。今行きますから」

 通話ボタンを切ると、来た道を引き返した。小雨が降る中、待ちゆく人ごみをかき分けて走っていた。
 水たまりの水しぶきが、パシャリと音を立てて足元にかかる。自分でも分からなかった。
 なぜ、雨の中走っているのか。
 なぜ、ストッキングが汚れることを気にせずに走っているのか。無我夢中で理由を考える暇はなかった。



 真白さんのマンションが視界に入る。真白さんが隠れているであろうコンビニに足を踏み入れた。
 運動不足のくせに準備運動もせず走ったので、肩が上がって息がしずらい。ゆっくり深呼吸をして呼吸を整えながら、真白さんを探した。

「泉さんっ!」

 辺りを探していると、私を呼ぶ声が耳に届いた。現れた真白さんはひどく怯えたような顔をしていた。
 真白さんの顔を見たら、私の心も和んでいた。震える手もいつのまにか止まっていた。

「どうしたんですか? 助けてって。何があったんですか?」
「あれ、見える?」

 真白さんが指を刺したのは、コンビニから見える真白さんのマンション。マンションの目の前をうろうろと歩く人影に見覚えがあった。

「あれって、秋月さん?」
「はあー。なんで家ばれたんだろう!?」

 なんで秋月さんが真白さんのマンションに?
 状況が呑み込めない。

「秋月さん、俺のストーカーなの」
「へ? ストーカー?」
「厳密に言うと、会社の前で待ち伏せをされることが多くて……。最近は、見つからないように正面玄関じゃなくて、裏口から帰るようにしてたんだけど。まさか、家まで来るとは……」

 
 おそらく、真白さんと距離を詰めるために、偶然を装って待ち伏せをしているのだろう。あわよくばそのまま部屋に入り男女の関係に持ち込む――。

 普通の人ならそんな大胆な行動を考えもしないが、普段の秋月さんを思い浮かべると、やりかねないとなぜか思ってしまう。
 
「昨日もなんだ。家の前にこられたのは」
「え、昨日もですか?」
「うん。だから、昨日はビジネスホテルに泊って……」
「え、家に帰ってないんですか? なにも、ビジネスホテルに泊らなくても。秋月さんに声かけて帰ってもらえばいいじゃないですか」
「何言ってんの。秋月さんだよ?」
「へ?」
「前にも秋月さんみたいな自分に自信を持つタイプの女性に言い寄られたんだけど。大変だったんだよ。私の何がダメなの?っていうスタンスだから。普通に断っても、通じないというか……秋月さんも、なにかと文句をつけて部屋に入り込むに決まっているよ」
「あー、」

 真白さんはこの容姿だ。モテてきたのだろう。彼の言葉に苦労した過去の様子が重くのしかかっているようだった。確かに秋月さんは自分に自信を持っている。今までモテてきたので、自信もつくのだろう。

「俺が拒否したら、きっとあの場で大声で泣いて。周囲の人から白い目で見られて戸惑う俺につけこんで部屋に上がる気なんだよ」
「……」

 簡単に想像出来てしまった。あの秋月さんなら、そこまで計算済みかもしれない。深く頷いてしまう。

 
「私に助けを求めた理由ってなんですか?」
「あっ。泉さんに助けを求めてしまったな。特にこうして欲しいとかじゃなくて、気づいたら電話をしてしまったというか。俺の本性を知ってるの泉さんしかいないから……」

 眉を八の字に下げて、申し訳なさげに言葉を零した。助けを求められて嫌な気はしない。根が真面目な私は正義感が顔を出してくる。

「とりあえず、うちにきますか?」
「泉さん家に?! そんなつもりでは……」
「またビジネスホテルに泊るんですか? よれたスーツを何日も着ていたら、他の社員も不審に思いますよ? うちでアイロンかけますから!」
「で、でも。女性の家になんて……」
「そこら辺の女と一緒にしないでください。私、イケメンエリートなんて興味ありませんから」

 この場に応じてまだ躊躇する真白さんに、胸を張って言い切った。それでも納得しないようで首を縦に振らない真白さんに言葉を続ける。

「真白さんが童貞だという事実には惹かれたのは事実です。だけど、女性が苦手な童貞をどうにかしようなんて、そんな腐った女に見えますか? やましい気持ちは一切ないですよ!」
「い、泉さん……」

 わたわたと慌てる真白さんを不審に思いながら辺りを見渡すと、だいぶ注目の的になっていた。コンビニにいたお客さんの視線が集まっている。その理由はすぐに分かった。店内に流れるBGMに負けない声量で「童貞」と二度も口にしてしまったからだ。

 すごく見られている。きっと童貞という言葉と、ここにいるすらりとした高身長イケメンがマッチしないからだろう。

 どうしよう。気まずい。非常に気まずい。
 とりあえず、早くこの場から逃げたい。

 集まる視線にたじろぎながら、頭で考えている時だった。
 手首をグイっと引っ張られて、自然と足が一歩踏み出していた。

 足が自然と動いたのは、真白さんに手を引かれていたからだ。異性にいきなり手を握られても、不思議と嫌な気持ちにならなかった。目の前の真白さんは、後ろ姿しか見えないが、耳がゆでだこのように真っ赤に染まっていた。

 店内で「童貞」と言われて耳が赤くなったのか。
 手を繋いだせいで耳が赤くなったのか。
 どちらかは分からなかった。
 

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