鷹ノ眼忌譚

祇光瞭咲

11.異界渡り(中)

***

 今貫藤巳には幼少期の記憶がほとんどないが、原風景とも呼べるものがひとつある。それはこの世のどこにも存在しない、悪夢のような奇怪な映像であった。

 細い路地の端に立っている。左右の壁はどこまでも高く、その間から見える僅かな空を大小の提灯や吊り灯籠が埋め尽くしていた。空は塗り込めたように暗いから、灯篭の明かりが酷く眩しく、幻想的であった。しかし、壁を覆う無数の下品な貼り紙たちが、その神秘性を台無しにもしていた。
 藤巳は帰りたいと思うのだが、帰る先がわからない。家と呼べるものを幼い日の彼には描ききれていなかったのだ。振り返っても、そこにあるのはのっぺりとした漆喰壁。思えば、自分がどこから来たのかもわからない。

 藤巳はか細い足で歩き出す。路地は果てもなく続くように思われたが、突如としてそれは終わりを迎え、真っ暗な断崖が目の前に横たわった。下からは絶えず生ぬるい風が吹き上がる。そこに混じる鉄臭さの正体を彼はまだ知らなかった。

 シャン、と鈴の音を聞いた。右手の視界に白い龍のようなものが映る。それは子犬ほどの大きさしかないのだが、淡く光り輝いていて、宙に足を着くたびに黄金の花が咲いた。
 綺麗だ、と思う。手を伸ばしたいけれど、手を離したら転がり落ちてしまいそうで怖かった。藤巳は龍が去るのを焦がれる想いで見届ける。やがてそれは筋となって消えた。

 今度は左手から、巨大な手が生えてきた。ぶくぶくと肉を帯びて醜く、黒々とした体毛を生やしている。それは闇の底から昇って来て、藤巳のすぐ目の前を通過した。間近で見て気が付いたことだが、体毛だと思ったものは毛ではなかった。餓鬼であった。

 目の前を往来する不可思議なものに魅せられていると、背後からゴロンゴロンと耳障りな音が響いてきた。振り返れば、巨大な曝首しゃれこうべが路地の奥に転がっていた。それは藤巳と目が合った瞬間、諤々と顎を震わせて笑うような素振りを見せ、追い立てるように速度を増した。

 藤巳は恐怖に駆られ、崖から足を踏み外す。
 落下した。彼は長い間、落下し続けた。

 突如、ふわりとした感触に全身を包まれ、藤巳は恐る恐る目を開けた。尻の下で緩やかに躍動する筋肉を感じ、自分が何か大きなものの背に乗っていると気付く。
 藤巳と向き合うようにして、ひとりの僧侶が座していた。その者は真っ白い衣を纏い、真っ白い肌をしていた。そして、顔には目がひとつしかなかった。鼻も口もなく、縦に割れた巨大な眼孔がひとつだけ。髪の代わりに翼が生えていた。三対の翼がゆっくりと顔の周りで羽ばたいていた。

 不思議なことに、藤巳は彼の者を恐れなかった。本能的に、恐れる必要はないと悟っていたのだ。大人しく彼の者を見つめ返すと、それは藤巳の頭の中に直接語り掛けてきた。

『また来たのか、人の子よ』

 去ね、と彼の者は言う。すると藤巳を睡魔が襲い、彼は羽毛の中で体を丸めた。

『帰り方は知っておろう。ここは其方の来るべき理ではない』

 いつも、そこで目が覚める。


***


「だからだったんだ……」

 晴珂から話を聞いた今貫はそう一言呟いたきり、内省へと潜っていってしまった。同席する忍も顔を見合わせる。

「ネオワールドシェアマインド――今貫くんのお継父さまが開いた宗教団体は、『異界への扉を開くこと』を信仰の目的としていたの」

 彼らの言う異界とはすなわち、『神のおわす世界』。
 今貫浄信じょうしんは交霊や神託ではなく、直接神のいる場所へ赴こうとしたのだ。ネオワールドシェアマインドが行っていた儀式とは、そのための実践実験に他ならない。

「『七つまでは神のうち』という言葉を聞いたことがあるかしら? 明治以前の日本では、七つまでの子どもは神の子とされ、あの世とこの世の中間に位置する存在だと考えられていたの。だから、神が望めばいつでもあの世へお返ししなければならない――そんな風に受け止めていたのよ。それを利用して……という言い方は誤りかもしれないけれど、そのことから今貫浄信は、七つまでの子どもであれば異界へ行き来できると考えたのかもしれないわ」

 晴珂は苦々しい顔で言った。今貫は困惑している。

「あの世って死後の世界のことでしょう? 父さんは死んだり蘇ったりしたかったってことですか?」
「いいえ。あの世、つまり黄泉は、常世に属する世界のひとつに過ぎないのよ。だから、必ずしも異界に渡ることが死を意味するとは限らないわ」

 ネオワールドシェアマインドが行っていた儀式の具体的方法は明かされていない。だが、子どもを異界送りにする実験なのだ、人道的なものであったはずがない。その結果として、多くの子どもが死亡または行方不明となっている。行方不明となった子どもたちの行き先は、おそらく――……。

「もしかすると今貫くんは、今貫浄信の実験をくぐり抜け、異界から生還した唯一の存在かもしれない」
「胸糞悪い話だ」

 忍が呟くが、彼は今貫の視線を受けて目を逸らした。辻屋門家だって、非道な儀式を行っているという意味では同じなのだ。

「今貫くんが奇妙な夢を見るのも、きっとその力のせいなんじゃないかしら。とにかく、今貫くんに異界の境界を開く力があるのなら、それを使って夜目繰を異界に送り返すこともできるんじゃない?」
「確かに心当たりはあるんですけど……」

 と、幼心にこびり付いた奇妙な記憶の話をする。民俗学者の晴珂は目を輝かせたが、今は詳しく分析している場合ではない。

「やり方なんかわかんないっすよ」
「飛鷹様の場合は、黄昏時の橋の上――つまり、場所も時刻も異界との境界が曖昧になるところだったわけだ。そこで今貫が何をしたか、が問題だな」
「何もしてない。誓って言えるけど、何もしてないっすよ、俺!」

 二人の視線を受けて、今貫は慌てて手を振ってみせる。忍がふんと鼻を鳴らした。


「本人がこの調子じゃあな……」
「儀式的な動作ではないのかもしれないわ。今貫くんの体や精神に刻み込まれているのなら、条件が揃うだけでいいのかも」

 晴珂は今貫を宥めるよう微笑みながら付け加えた。

「または、強く念じてみるとか?」
「強く念じる……」

 今貫は窓の外へ目をやった。
 奇しくも時刻は黄昏。三人がいる研究棟からは建物群に阻まれて夕陽を拝むことはできなかった。その幾何学的な稜線を、熔けた金属のような明るさが縁取っている。

「……寂しかったんです」
「え?」
「飛鷹と初めて出会った時。みんなが俺を追い越していくけど、誰も俺には気付いてくれない。誰もが誰かと一緒にいて、独りぼっちなのは俺だけでした」

 夕陽を見に行こうと思いたったのは、その寂しさがほんのちょっぴりでも紛らわせるかと思ったからだ。そうして訪れた橋の上には、同じく孤独を抱えた先客がいたのだけれど。

「……もしかして、飛鷹も」
「かもしれないな」

 目を伏せた忍の横顔は何も語らない。今貫は自由を奪われた友を想い、苦しさに喘いだ。

「ありがとうございます、晴珂さん」

 今貫は言った。彼女と目が合い、ふっと微笑む。

「自転車借りてもいいですか?」
「いいけど、どこに行くの?」
「陸橋です。ちょうど夕暮れですし、できるかどうか試してみるしかないでしょう?」

 晴珂はあんぐりと口を開けた。形のいい眉が上品に寄せられる。

「それはそうだけど……万が一上手くいってしまって、今貫くんに何かあったら……」
「その時はその時です。そしたら忍さん、匠眞さんに『ごめん』って伝えておいてください」
「おい待て、今貫――」

 今貫は晴珂から自転車の鍵を受け取り、退出間際に振り返った。自分でも自信なさげに、それでも笑顔で言葉を返す。

「たぶん大丈夫です。『帰り方は知ってる』って、神様みたいな人に言われたんで」
 

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