鷹ノ眼忌譚

祇光瞭咲

5.今貫の秘密(前)

 半狂乱で泣き続ける晴珂はるかを宥め、今貫いまぬきはただちに警察と救急を呼んだ。そんなことをしても無駄だとわかってはいたけれど、他にどうすればいいかわからなかったのだ。当然、怪物を見たなどといって信じてもらえる訳もなく、今貫の話は「黒くて大きな人影」として処理された。

 そんな話を翌日、飛鷹あすたかにした。

「本当にバケモノだった……俺、バケモノを見たんだよ」

 学生食堂の賑わいは、そんな不可思議な事件とは無縁である。学生たちが笑い、話し、交友に勤しむ中で、二人のいる空間だけが重苦しく沈んでいた。
 飛鷹はいつものようにマフラーに顔を埋め、素うどんからの湯気に目を細めている。

「見間違いだろう」
「そんなことないって! それに、晴珂さんの目……真っ黒だった……」

 今も目に焼き付いて離れない。異常なほどに大きく見開かれた双眸は、完全に白目を失っていた。溢れ出す血の涙。痛みはないと言っていたが、それでもあの視覚的衝撃は今貫の精神を十分に揺さぶった。

「晴珂なら問題ない」

 飛鷹はそう言って素うどんを啜った。今貫は彼のあまりの淡白さに驚きを隠せない。

「問題ないって……目が見えなくなったんだぞ?」
「アレは恒久的なものじゃない。すぐに戻せる」
「そ、それならよかったけど……」

 ――なぜ、お前がそんなことを知っているんだ。

 今貫は込み上げた問を口にすることもできずに、コップの水を飲み干した。
 じわり、じわりと、不快感が込み上げる。昨日の恐怖は計り知れないし、晴珂のことが心配で夜も眠れなかった。それなのに、飛鷹は事件に関して何かを知っておきながら、素っ気ないこの態度。
 芽生えたのは怒りだった。今貫はコップを机に叩き付け、二人の間にプラスチック特有の甲高い音が響く。

「……飛鷹、もしかして何か知ってるんじゃないか?」
「何を?」

 ようやく目を上げた黄褐色。くっきりと浮かび上がった眼孔が今貫を射抜く。その冷淡さの裏にあるものは何か。今貫は気圧され、ごくりと唾を飲み込んだ。

 訊いてはいけないのかもしれない。
 これを訊いてしまったら、もうもとの二人には戻れないのかもしれない。
 そう思いつつも、既に口が動いてしまっていた。

「昨日……晴珂さんが襲われた時、飛鷹も近くを歩いていなかったか?」
「さあ? どうだろうな」

 飛鷹が箸を置く。彼は麺の伸び切った今貫のどんぶりを見、小さく笑った。

「食べないのか? 伸びてるぞ」
「飛鷹――」

 彼は立ち上がっていた。鞄を提げ、片手でトレイを取り上げる。彼が上体を起こす瞬間、二人は目が合った。

「よかったな、今貫。あと数分来るのが早かったら、《《襲われていたのは君だった》》」
「な……っ?」

 詳しく問い質す前に、飛鷹は行ってしまった。

 やはり、飛鷹は何かを知っている。
 信じたくない。信じられないが。

 残された今貫は。
 もう、喉も通らない。

***

 それからだ。飛鷹が今貫を避けるようになった。
 いつもなら早く来て一番前の席に座っているはずの飛鷹が、始業ギリギリに来て今貫から遠い席に着く。講義が終われば、今貫が話し掛ける間もなく退出してしまう。彼がどこに姿をくらましているのか、学内で思い当たる場所を捜し回ったが、見つけることはできなかった。そのことが余計に今貫を焦らせる。

 ある日、彼は決意した。
 今貫は次の講義を少し早めに抜け出し、教室の外で待ち構えた。

「飛鷹」

 出口を塞ぐように立ちはだかると、飛鷹は感情のない目で彼を見上げた。

「……君か」
「あのさ、最近俺のこと避けてないか?」
「忙しいんだ」
「嘘だ」

 今貫は彼を睨み付けた。迎え撃つ飛鷹の目は虚ろで、そこには感じていたはずの友情の片鱗も消えてしまっていた。

「飛鷹――」
「今貫、頼みがあるんだ」

 先手を取られ、今貫は唾を呑む。飛鷹は今貫を通して彼方を見つめながら、呟くように言った。

「もう僕に、関わらないでほしい」
「……は?」

 飛鷹はそのまま立ち去ろうとする。今貫は急いで彼の手を捕まえ、廊下の端へと引っ張っていった。

「どういう意味だよ?」
「そのままの意味だ。しばらくひとりにしてほしい」
「ひとりにって――」

 それは、友情を終わらせたいということなのか。
 飛鷹が抱える秘密はそんなにも重たいものなのか。
 今貫は逡巡した。ここで了承するわけにはいかない。それだけは駄目だと、二度と真相を知ることも、友情を修復することもできなくなると、本能的にわかっている。
 秘密があるのは今貫も同じ。それを明かさず、一方的に信用してほしいなんて虫がよすぎたのだろうか。できることは、最初からひとつしかないのかもしれない。
 話は終わりだと言わんばかりに、飛鷹が踵を返そうとする。今貫は掴んだままの腕を強く引いた。

「待ってくれ、飛鷹」

 飛鷹が振り返る。彼が腕を振り払わなかったことが、知らず知らずのうちに今貫の背を後押しした。

「もう関わらないって約束する。だからその前に、俺の話を聞いてもらえないか?」

 躊躇いの素振り。飛鷹は帽子を引き下げながら振り返った。

「……少しだけなら」

 その返事に、今貫はホッと安堵の溜息を吐く。あとは捲し立てるように言った。

「ありがとう。そしたらさ、今日このあと、飛鷹の家に行ってもいい?」
「は? 僕の家?」
「だってほら、俺の家は来ないって言われちゃったし。人に聞かれないところで話したいんだ」

 飛鷹はしばらく熟考していた。疑いの眼差し。今貫はそれに耐えた。真っ直ぐに見つめ返して。ついに、飛鷹は不承不承といった様子で頷いた。

「構わないけど、僕の家には何もないぞ」
「いいよ。話をするだけだから」

 その日は今貫に六限の予定があったので、改めて掲示板前で待ち合わせることにし、その場は別れた。
 これで作戦の第一段階は成功だ。
 次に必要なのは勇気だけ。今貫にとって、ここから先は何よりも勇気のいることだった。

***

 約束通り掲示板前で待ち合わせ、今貫と飛鷹は三丁目への道を歩き始めた。途中、二人が出会ったあの陸橋を通る。時刻はあの日よりも少し早いけれど、日没も随分と早くなった。既に空は黄昏色で、歩く二人の横顔を染めていた。

「夕焼け、綺麗だな」

 今貫が話し掛ける。それまでずっと二人とも無言だった。

「そういえばあの時、飛鷹は何してたんだ?」
「何って……君の方こそ。家はこっちじゃないんだろう?」
「俺? 俺はその、夕陽を見に来たんだよ。ここから見ると綺麗だから」

 改めて言うと気恥ずかしい。
 飛鷹は一呼吸空けてから答えた。

「……僕も。君と同じだ」
「そっか」

 会話はそこで途切れてしまう。けれど、二人を繋ぐ思い出の話をしたことで、沈黙は質を変容させていた。互いの存在を感じさせる心地よい静けさ。今貫はそれに励まされ、自分がこれからすることは間違っていない、と確信を持った。

 飛鷹のアパートは、この辺りにしてはいい物件のようだった。外装は褪せた水色のタイル貼り。外廊下は下から覗かれないようにきちんと壁で覆われている。その三階に、彼の部屋はあった。

 扉を開けて、驚いた。
 間取りは1Kで、入ってすぐに短い廊下。右手に台所、左手に浴室と手洗いがある。そこまではありふれているのだが、玄関にも、流しの周りにも、一切の物がなかったのだ。辛うじて冷蔵庫だけは低い唸り声で二人を迎えたが、その他の食器や調味料、電子レンジといった家電すらない。

「だから何もないって言っただろう」
「いや、なさすぎだろ」

 そう突っ込まざるを得ないほど、居室にも物が不足している。辛うじてあるのは座卓とゴミ箱、隅の方に畳まれた布団だけ。カーテンすらない代わりに、雨戸がきっちりと閉じられていた。

「え……飛鷹くん、本当にこの部屋で生活してる?」
「してる」
「騙してない?」
「騙してない」

 彼はクローゼットを開け、上着を寄越すよう手を差し出した。そこには数着の衣類が吊るされていたから、確かにここで生活しているのだろう。だが、生活感を感じられる要素がそれしか見当たらない。

「テレビもないじゃん……普段家で何してんの?」
「何もしてない」

 嘘を吐け、と言いたかったけれど、こんな部屋を見せられると否定しきれない。今貫は飛鷹の精神状態が心配になった。

「ミニマリストにも程がある」
「案外何とかなるものだぞ」

 飛鷹は座卓の前に腰を下ろし、鞄からペットボトルのお茶を二本取り出した。わざわざ買っておいてくれたのだろうか。今貫は目頭を押さえたが、それは決して感動からではなかった。

「飛鷹……今度おすすめの漫画貸してやる。ゲームもいっぱい貸してやる」
「いらない」
「その前に百均に行こう。日用雑貨を揃えないと」
「余計なお世話だ」

 ここまでで既に嫌な予感しかしていないが、念のためにもうひとつ気になることを聞いてみる。

「ちなみに、食事は?」

 飛鷹は答える代わりに台所に行くと、冷蔵庫から三玉入りのうどんと八枚切り食パンを取り出して見せた。堪らず今貫は絶叫する。

「そんなんだからガリガリなんだよ!」

 いつも学食で素うどんばかり頼むのは、てっきり節約のためかと思っていたが。今、わかった。飛鷹は食事というものに根本的に興味がないのだ。
 今貫は正面から飛鷹の肩を掴んで――凄まじく嫌な顔をされたが――言った。

「今度、手料理ご馳走するから」
「結構だ」
「だめ」

 早速棚を開けて調理器具を確認する今貫に、飛鷹は苛々と腕を組む。なお、確認できたのは片手鍋と菜箸が一膳だけだった。

「君は話をしに来たんじゃないのか?」
「そうだけど、さすがにこれはちょっと……」

 今貫は溜息を噛み殺してペットボトルに口を付けた。気持ちを仕切り直すために、一息で半分ほど飲み干してしまう。

「……今日はさ、飛鷹に俺の過去を聞いてもらおうと思って」
「死ぬほど興味ないな」
「まあそう言わずに」

 彼はスマートフォンで何かを検索しながら訊ねた。

「飛鷹は、『今貫』って名前に心当たりはないか?」
「特にないが」
「じゃあ、『ネオワールドシェアマインド』は?」

 差し出した画面には、古いネットニュースのまとめ記事が表示されている。飛鷹は受け取って目を凝らした。

『カルト教団の闇――金品横領、性交強要、児童虐待――子どもたちはどこへ消えたのか』

 そんな見出しが画面を横切っている。

「……新興宗教か」
「サークル程度の集まりだったけどね」

 今貫は自嘲するように小さく笑った。

「俺の両親、そこの教祖だったんだ」


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