鷹ノ眼忌譚

祇光瞭咲

2.辻屋門飛鷹(前)

***

 夜道を歩く。

 コートを出すにはまだ早いけれど、少なくとももう一枚何かを羽織って来るべきだった。飲酒の火照りは歩いているうちに冷めてしまって、開いた首元に夜気が寒い。鎌辺平の秋はあってないようなものだから、すぐに衣替えを終えてしまった方がいいだろう。
 そんなことを考えながら、歩いた。
 飲食店の並びを遠く背後に見、向かう道は暗く寂しいアパート群。ぽつんぽつんと佇む街灯に、自動販売機が場違いな明るさを放っている。むーんと低い唸り声が聞こえたかと思えば、どこかの家の換気扇が回っているだけだった。

 いつもの光景だ。自宅まで、十分もない道程。

 夜道を歩くたびに、怖い話を思い返してしまうのはなぜだろうか。自分でも馬鹿だと思いながらも、いつぞやに見た心霊番組や、ホラーゲーム実況のシチュエーションを思い返してしまうのは、もはや怖がりの本能だ。

 ほら、あの角のアパートから。
 巨大な顔が覗いていたら。
 黒々と塗り潰された目玉が二つ。こちらを見つめていたら、どうだろう。
 例えばひょろりと長い人影が。人間にしてはあり得ない長さの手を振り回していたら。前方から迫ってきたら、どうだろう。

 途端にぶるりと悪寒が走り、思わず歩みを速めた。やはり、夜道で怖い話なんて思い返すものじゃない。アパートの上の方を振り返るのが怖くなったし、電柱の影を過剰に警戒するようになってしまった。

 そして、ほら。背後から足音が――……。
 足を止めそうになり、慌ててまた速度を上げた。恐怖からくる幻聴かと思ったが、この足音は本物らしい。怖いと思ったのは一瞬で、むしろ、ほっと息を吐く。ストーカーや変質者といったものも十分怖いけれど、幸いここは治安のいい大学の傍。どうせ自分と同じ飲み会帰りの学生だろうから。

 だけど――ふと、奇妙なことに気付いてしまう。

 足音が重なっている。大人数なのだろうか。歩くにしては速い気もする。運動部のランニングだ、と思いたいけれど。でも。でも。

 走っているなら、リズミカルで規則正しい足音のはずじゃあないか?
 どうしてあんな風にバラバラに、べたべた、ばたばたと音がするんだ?

 嫌な想像をしてしまった。足が沢山生えた機関車のおもちゃ。螺子を回すとぎこちない動きで進むのだ。車輪の代わりに不揃いの足を動かして。ばたばた、べたべた。べたべたべたべた――……っ。

 一度違和感を覚えたら、もう我慢できなかった。
 振り返った。
 振り返ってはいけなかった。

 目の前には異形の怪物。三日月のような黄ばんだ歯が迫る。濃厚な獣臭さが彼女を包んでいた。

「ひっ……あ、あ……あ……」

 逃げなければ。そう思うのに、足から力が抜けていく。座り込み、呆然と目の前の怪物を見上げていた。

 とても全貌を視界に収められない。こちらに向いているのは口だけで、眼球というものは見当たらなかった。代わりに目についたのは無数の黒い腕。腕。足。足。足。腕。

 その一本が伸びてくる。同時に、怪物は口を開いた。親指大の粒で覆われた、赤い、赤い舌のようなもの。喉の奥には曲線的な凹凸が見えた。その凹凸に刻まれていたのは、何十もの眼。

 嗤ったのだ。バケモノが、嬉しそうに。

「いやっ……いやああああぁぁぁぁ……ッ」

 瘤だらけの指が目の前に。
 そして、目玉に突き刺さる。

 ――今貫藤巳は眼を覚ました。


***

 後になって今貫いまぬきは、「何か運命的なものを感じた」と証言する。
 その再会は思いのほか早く、出会いから翌日のことだった。

 寝癖もそのままに一限に滑り込んだ今貫は、うつらうつらしたまま哲学概論の六十分間をやり過ごした。前の晩に見た悪夢が脳裏に貼り付いて離れない。あんなに目覚めの悪い朝は久しぶりだった。

「……あ」

 次の空きコマをどこで過ごそうかとリュックを背負い上げた時、教室の最前列に見覚えのある黒を見た。
 古風な学生帽にマフラー、全身黒尽くめの服装。あれは、昨日陸橋の上で出会った学生ではないか。
 昨日とまったく同じ服装をしていることにも驚いたが、それよりも、同じ講義を取っていたことに驚いた。なかなか目立つ容姿だと思うのだが、この半年間、その存在に気が付かなかったとは。

「概論」と名のついたこの講義を取っているということは、同じ一年生である可能性が高い。今貫はちょっとした思い付きで――曰く、運命的なものを感じて――その学生に話し掛けることにした。

「よっ」

 退路を断つようにリュックを長机の端に置く。学生は胡乱な目で彼を見上げた。

「……君は」
「昨日はヘンな勘違いしちゃってごめん。えっと、同じ講義取ってたんだな」

 学生は答えない。帽子のつばを引き下げたまま、黄褐色の瞳を逸らしている。日本人にしては珍しい色の瞳だな、と今貫はしみじみ顔を覗き込んだ。

「……僕に何か?」
「あっ、えーっと、一年?」
「そう」
「学部は?」
「人文」
「えっ。同じじゃん」

 講義が被っているどころか、学部まで同じだったとは。本当に、どうして今まで気付かなかったのだろう。
 今度こそ運命だと確信した今貫は、勇気を出してお茶に誘うことにした。

「二限暇? よかったらちょっと喋らない?」

 ほんのりと顔に熱が昇っていくのを感じながら、返事を待つ。相手は目を上げて今貫を見つめていた。探るような、躊躇うような、そんな素振り。あまりにも返事が遅いので諦めようかと思った矢先、学生は言った。

「……構わない」
「あ、えっ? あ、やった! じゃあ、学食でも行くか」

 すっかり断られると思っていた今貫は、なんだか挙動不審のまま先導した。
 学生の名前は辻屋門飛鷹つじやかど あすたかといった。この時まで今貫は彼の性別を計りかねていたが、名前を聞いて男性であると認識した。それくらい、この少年は中性的な容姿を持っていた。

「渋い名前だな。由緒正しい家柄って感じ」
「地主みたいなものだ」
「へぇー、すげー」
「君の名前も大概珍しいと思うが」

 今貫が心の籠らない賞賛を送ると、飛鷹もどこか不機嫌そうに言った。彼は席についても寛ぐ様子を一切見せず、背中を丸めてマフラーに顔を埋めていた。

「ああ、藤巳ふじみ? 死ななそうだよな」
「苗字の方だ」

 今貫はビクリと肩を縮めたが、指摘に気付かなかったふりをして、学食内を見回した。今貫たちの他にも数組の学生が暇を潰している。時刻はまだ十時前。食堂は三限にならないと開かないので、この時間は給茶機も稼働していない。今貫はペットボトルのお茶を取り出して一口飲んだ。

「飛鷹の専攻は?」
「呼び捨てか」

 と言いつつ、「哲学」とぶっきらぼうに返事を返してくれる。

「俺は民俗学。なあ、他に何の講義取ってる?」

 飛鷹は答える代わりに手帳を取り出して見せた。意外にも、結構な数の講義が被っている。内藤晴珂ないとう はるかがTAを務めるもうひとつの講義、民俗学総論も取っていた。

「あれ? これも一緒なんだ」

 今貫は怪訝そうに飛鷹を見る。

「本当にいた?」
「いた」
「今学期から転入してきたとかじゃなく?」
「じゃない」

 飛鷹は奪うように手帳を取り上げた。

「どれも大教室の講義だから、気付かないとしても不思議はないだろう。それとも君は、すべての学生を覚えているとでも言うのか?」
「いや、そんなことはないけどさぁ……」

 飛鷹って目立つじゃん。と言ったら彼は怒るだろうか。
 今貫は肩を竦めて話を変えた。

「そうそう。先週の哲学概論、寝過ごしちゃってさ。レジュメ持ってたらコピーさせてくれない?」
「……僕に近付いたのはそれが狙いか」

 その口調は鋭かった。意外な指摘に今貫は目を丸くする。

「え? いや、別にそうじゃないけど……」
「だったら何が狙いだ?」

 今や、黄褐色の眼光は射抜くように今貫を見ていた。あからさまな警戒心。今貫はゴクリと唾を呑み、誤魔化すように後頭部を掻いた。

「あー、いやー、それもあるけど……なんて言うか……」

 ちらり、飛鷹を見る。相変わらずの眼差し。今貫は溜息とも咳払いともつかないものを交えながら、言った。

「……友だち、ほしくて。恥ずかしながら、未だに大学で友だちできてないんだよね、俺」

 気まずい沈黙が流れる。
 今貫は頭に手をついて突っ伏した。やはり気持ち悪かったか。ある意味ではこれも立派な下心だし、マルチとか宗教とか、そういうものだと思われたかもしれない。大人になればなるほど、新しくできた友人に嫌われれば嫌われるほど、友だちのつくり方がわからなくなっていく。

 諦めて、潔く謝ろうとした時だった。

「――も」
「ごめん――」

 今貫は目を瞬いた。

「え?」

 飛鷹はそっぽを向いていて、その表情は窺えない。それでも、「僕も」と聞こえたのは、単なる今貫の願望だったのだろうか?
 派手な音を立てて机に叩き付けられたファイル。飛鷹は今貫を睨みながら言った。

「初回分からすべて入っている。好きなのを使え」

 今貫は一瞬間誤付いたが、パッと笑顔になった。

「うわー! ありがとう、飛鷹くん! すぐ返します!」
「……君は感情表現がうるさいな」

 斯く言う飛鷹の耳がほんのりと赤いのはなぜだろう。
 今貫は込み上げる感情を抑えきれずに笑いだした。誰かと親しく話せる喜びや楽しさ、飛鷹の態度のいじらしさ。そういったものがすべてごちゃ混ぜになっていた。

「なんなんだ」

 一方の飛鷹は忌々しげに睨んでいる。いや、もとの目付きが鋭いからそう見えるだけなのかもしれない。今貫はいやいやと手を振り、上目遣いに彼を見た。

「飛鷹くん、もうひとつお願いが」
「……東洋思想か」
「いや、それも貸してほしいけど――」

 取り出したのはスマートフォン。正真正銘勇気を出して、今貫は言った。

「連絡先、交換しない?」

 斯くして、二人は。

「うわっ。もしかして飛鷹、ガラケー……?」
「悪いか」

 などというやり取りを交えつつ。
 正式に友人と呼べる間柄になったのだった。


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