鷹ノ眼忌譚

祇光瞭咲

1.逢魔が時、橋上で

 今貫藤巳いまぬき ふじみは足を止めて空を仰いだ。欅並木はすっかり色を落とし、枝葉の間から橙に焼ける鱗雲が窺い見えた。秋陽は、既に西へ。風が枯葉を巻き上げては、乾いた音を立てている。
 自転車の学生たちに続いて、大学循環バスが彼を追い越していった。その後ろ姿に煙たさを覚えながら、彼は少し寂しい気持ちになる。誰も、彼を振り返りはしないのだ。

 そんな時、ふと、先輩に聞いた話を思い出した。

『逢魔が時って言うでしょう?』

 今貫は思いつく。今日の夕陽を陸橋の上から見たら、さぞ綺麗に違いないと。
 郊外にある鎌辺平かまべだいら大学は、とにかく敷地面積が広い。全体は南北に縦長の形をしており、県道が大学を横断している箇所がある。そこには歩行者用の陸橋が架けられていて、その陸橋から見る夕焼けは、それはもう、見事なのだ。
 足が自然とそちらへ向いた。目的地があるぶん、今貫の孤独感も少しは慰められる。
 時刻は六限終わりの十七時過ぎ。ちょうど、アルバイトやサークルへ向かう学生たちで賑わう時間帯であった。

 軽い疲労感を覚えながら急斜面を上り終え、ようやく陸橋に差し掛かる。真下を走る県道からの騒音が耳につくようになった。西を向けば、まるで斜陽に吸い込まれるように、沢山の自動車が彼方へと走っていく。いくつかの建物以外には、見渡す限り何もなく、開けた視界を黄昏色が塗り潰していた。

 だが、残念なことに。
 中央の特等席には、先客がいた。

 すべてが赤金に染まる中、その人物だけは夜の色を先んじていた。古風な学生帽を被り、手には革の鞄を提げている。横顔は帽子のつばと襟巻に隠されているが、そうでなくとも、この鮮烈な光の中では見えなかっただろう。

 その人物は、欄干に片手を掛け。

 ――ぐらり、と上体を傾げた。

「あっ」

 叫ぶと同時に駆け出していた。細い手首を掴み、乱暴に引き寄せる。その拍子に手提げ鞄が大きく宙に弧を描いたが、今貫は握った手を離さなかった。

 一瞬消えたと思った音が、蘇ってきた。トラックの走行音。迷惑そうに声を上げる自転車のブレーキ。二人は追い立てられるように欄干に寄る。

「な……」

 すぐ傍で声がした。

「君はどうして、僕を……」

 今貫は相手の顔を覗き込んだ。
 背丈は今貫よりも頭ひとつ分小さい。見開いた目は黄昏を映し、白い頬に鼻梁が影を落としている。服装だけでなく、顔の左右を切り取る短冊のような髪も夜の色。
 綺麗な顔だと思った。性別がわからないほど精巧で、均整の取れた、まるで作り物のようだとも思った。

 視線は薄い唇に吸い寄せられる。ゆっくりと、コマ送りのように動いて。

「……放してくれないか」

 今貫はハッと我に返った。相手の語気に滲む苛立ちから、自分がとんでもない勘違いをしたらしいことに気付く。彼は慌てて一歩退いた。

「ご、ごめん! 落ちそうだったから、つい」

 相手は怪訝そうに眉を顰めた。

「落ちそう?」
「いやあの、飛び降りるつもりなのかと思って……」

 物凄く顔が熱いのは、きっと夕陽に照らされたせいだけではない。今貫は誤魔化すように手で扇ぎながら、急いで踵を返した。

「ごめんなさい。失礼しました!」

 走って逃げる今貫の背中を。鷹の眼はいつまでも、呆然と眺めていただろう。

 それが、辻屋門飛鷹つじやかど あすたかとの出会いだった。

***

今貫いまぬきくんは怪異とかって信じる?」

 内藤晴珂ないとう はるかは覗き込むように首を傾げながら言った。
 時代遅れの蛍光灯が不安定な光で二人を照らし出していた。壁の塗装が剥げた跡も、物悲しさに一役買っている。
 時刻は五限終わり。今貫が夕陽を見に陸橋へ向かう、ほんの少し前の出来事である。二人は人文講義棟にある教室のひとつで、講義が終わってからも居残ってお喋りをしていたのだ。

 内藤晴珂は民俗学を主専攻とする院生で、人文学部一年生の今貫にとっては先輩にあたる。彼女は五限の講義、伝承文化学概論のティーチングアシスタントTAを務めている関係から、今貫のことを気に掛けてくれるようになったのだった。

「怪異ですか?」

 今貫は考え込む素振りを見せる。質問の内容を検討していたのではなく、実際は晴珂が求めている答えを当てようとしていた。

「幽霊だったら信じるかなぁ」
「どうして幽霊は信じるの?」
「幽霊はほら、見える人がいるらしいじゃないっすか。でも、怪異は見たことがないし、見たって人にも会ったことがないんで」

 すると晴珂は不満げに唇を尖らせる。

「不思議よね。コモドオオトカゲだって日本で実物を見たことがある人はほとんどいないのに、誰も実在を疑っていないのよ。なのに、どうして怪異は信じないのかしら?」

 言われてみれば一理あるかもしれない。今貫はうーんと天井を見上げ、そもそも自分は怪異というものをよくわかっていないことに気が付いた。

「そもそも怪異ってなんなんです?」
「異界より現世うつしよへ境界を越えしもの。また、侵略されたその境界そのもののこと」
「……はぁ」

 今貫が早くも理解を諦めた顔をするので、晴珂は上品に目を細めて笑った。

「逢魔が時って言うでしょう?」

 日没、黄昏時。日が暮れる時間帯には魔のモノたちが紛れ込みやすいのだと、昔の日本では信じられていた。それは夕方という時間帯が、昼と夜の境界であるからだ。

「現代のようにオカルトや都市伝説が娯楽として楽しまれるようになる以前から、日本人は『異界』という存在をとても身近に感じていたのよ。逢魔が時という呼び方もそのひとつ。他にも沢山その痕跡を見ることができるわ」

 例えば、と彼女は頬に指をついて例を挙げる。

「道祖神というものがある。道の交差する場所や、集落の入口に置かれた石碑のようなものを見たことがないかしら? あれは昔の人々が、道の交差する場所や集落の入口といった『境界』が、そのまま異界との『境界』に結びついていると考えていたからなの」
「それ、民俗の講義でもやりましたよ」

 今貫は晴珂が熱心に頷いてくれるのが嬉しく、得意になって語った。

「村の境目に、しめ縄とかお札と草履を置くのも似たような風習ですか?」
「そう。よく覚えていたわね、今貫くん。ああいったものは、村の外からわざわい――つまり、疫病や悪霊と言ったものが入り込まないようにするために飾られているのよ。この場合の村の『外』というのは、常世とこよのことも含まれている」

 晴珂はうっとりと宙を見つめ、民俗学的な事例の数々に酔い痴れている。唇に微笑を浮かべ、微かに頬を染めた表情は、まるで憧れの異性を目の前にしているかのようであった。

「そういった風習が当たり前になるくらい、異界の存在も当たり前だったの。そして、異界の住人である怪異たちもね」

 そんな晴珂の表情がなんとなく面白くなくて、今貫は水を差すようなことを言いたくなった。

「でも、伝承で伝えられていることの多くは、現代なら説明がつくようなことばっかりなんですよね?」
「……あら。やっぱり今貫くんは信じてないのね?」

 晴珂は含み笑いのような、少し意地悪な顔をしてみせた。

「今貫くんはまだ入学して半年だから知らないと思うけど、この大学にもオカルトチックな噂はたーくさんあるんだから。今貫くんだってそのうち何かに出くわすかもしれないわ」

 その時は是非教えてね。内藤晴珂は朗らかに笑った。


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