空を飛べない私は嫌いですか?
結婚するはずだよね?
「ねえねえ、来週からうちの会社にニューヨーク社から偉い人が来るらしいよ。」
「コスメ事業に参入するみたいだよ。」
「すっごいイケメンが居るらしいよ。」
女性社員の情報網は課長なんかより正確で早い。一体どこから仕入れて来るのか分からないが、女子トイレの鏡の前は情報発信基地だ。彼女達が一生懸命にグロスを塗り直す姿は武士が刀を腰に差す姿と似ている気がした。
...まあ、私には関係ないけど。
「和倉さーん。このデータ入力見てもらっていいですか?」
企画課に配属されて七年。最近は忙しい人の書類チェック代行なんか引き受けてモチベーションも下がりっぱなし。
「あー。すいません。先に処理しなきゃいけないデータあるので、他の方にお願いしてもらっていいですか?てゆうか、昨日も手伝いましたよね?結構、間違えの箇所あるので自分で一度見直してください。」
「あ。すいません...。」
もう少し優しく言った方がいいのかもしれないが、手伝うのが当たり前と思われてるのも悔しい。
「和倉さん怖いよね。マジ書類ミスれない。」
若い社員がヒソヒソと噂している。そういう話は私の居ない所でしてもらいたい。こう見えても結構傷付く。
ずっと憧れていたアパレル系の会社に血を吐くほどの努力の末に入社。それまでは容姿にもまあまあ自信があった。当初はやる気も溢れていたけど、周りはもっとオシャレでコミュニケーション能力も、仕事のスキルも高い人ばかりだった。自分はここに居ていいのか疑問に思い始めていた時に、領収書のチェックやデータの入力チェックで間違いを見つけて指摘すると、嫌な顔もされるがそれなりに感謝もされた。以来、他人の書類チェックに力を入れる様になってしまった。こんな感じだと来年あたり経理部に移動になりそうだ。新人が入って来る度にやる気は段々無くなり、最近は商品企画のコンペにもほとんど参加しなくなった。一応、ファンデーション位は塗ってるけど新作のコスメや洋服なんて、もうずっと買ってない。このまま枯れ果ててしまうのかと怖くなるけれどまだ救いはある。営業部に付き合って五年の彼氏の聡がいる。今日は急に家に来たいなんて何があったのだろう。年齢的にもそろそろ結婚の話が出て来るだろうし、そうなれば寿退社して私の人生はギリギリセーフなのではないかと自分に言い聞かせていた。
「お先に失礼します。」
今日は久しぶりの彼と過ごす週末の為に急ピッチで仕事を終わらせた。
「和倉さん、今日は早いっすね。」
「まあ、私にも予定があるんです。」
隣のデスクの子と軽いやり取りをして帰ろうとした時だった。
「和倉せんぱーい。もう帰るんですね。書類チェックしてもらおうと思ったんですがぁ。」
甘ったるい声を出しながら小走りで駆け寄って来た子は姫野胡桃。恐らくこの課、いや、会社で一番と言っていいほどの可愛さだ。効果音を付けるとしたらキラキラキラリンという感じの子だ。
「あ、姫野さんごめん。別にチェックは私の仕事じゃないし他の人に頼んでくれる?」
この子の書類はまあまあ間違いがあるから時間がない時は少し厳しいのでキッパリ断った。
「僕、やってあげるね。」
隣のデスクの子が満面の笑みで引き受けてくれたのでとりあえず安心した。
「和倉先輩はデートですか?」
姫野がコソッと耳打ちしてきた。私はその距離感に少し気持ち悪くなった。
「答える必要ある?その質問。」
そう返すと姫野は泣きそうな顔で
「え、そんなつもりないんですけど...。何だか楽しそうだったし、気を悪くさせたら申し訳ないです。」
“楽しそう”ってそんな素振りは見せたつもりはなかったし、わざとなのか周りに聞こえる様なボリュームで謝るので姫野ファンクラブの男性社員の視線が冷たかった。
「和倉。あんまり若い子に突っかかるな。」
伊藤課長が少し離れた場所から注意するから注目の的になった。その時、微かにだが姫野がニヤリと笑った様に見えた。
「何でもないので、お先に失礼します。」
課長も相変わらず失礼だけど、姫野は何なの?あの子、今まで私に書類チェックなんて頼んだことないのに。何だか妙に違和感を覚えたが、彼との約束が待ち遠しくてオフィスを出ると急いで駅へ向かい、普段は買わないワインを買ってスキップ交じりで家まで帰った。
「聡!部屋に入って待っててくれても良かったのに。」
部屋の前まで来ると、合鍵を持っているはずなのに聡は律儀に玄関先に立って待っていた。
「いや、なんか悪いかなって思って。」
「何それー。別にいいよ。」
鍵を開けて彼と一緒に部屋に入ろうとすると聡が急に動かなくなった。
「どうしたの?お腹空いたでしょ。ご飯、早く作る...」
私がそこまで言いかけると聡が遮った。
「ごめん。別れて欲しい。」
私は突然の事に思考回路が停止した。
「え?ご飯何食べたい?」
何かの聞き間違いに違いない。きっとおかずのリクエストだ。うん。そうだ。
「緑子!きちんと聞いて。もう別れたいんだ。ごめん。」
急ぐように別れ話をする聡に私は答える事が出来ないまま黙り込んだ。せめて家に入って膝突き合わせて目を見て話して欲しかった。
「こんな玄関先で言う?別れたい理由を説明して欲しいから上がって。」
声を震わせながら聡の顔を見てお願いしても、目を背けたままだった。
「他に好きな人が出来た。」
私以上に震えた小さな声だった。
「その人と付き合うから別れてほしいの?」
「...うん。」
「二股ではないの?その人と付き合える可能性はあるの?私と別れてまでその人と付き合いたいの?」
私は聞きたいことが溢れて来て責めずにはいられなかった。聡は黙ってしまった。僅かに残る冷静な気持ちを奮い立たせた。言い逃げなんてさせるか。
「家に上がってきちんと説明してくれたら別れるよ。」
聡の顔を見るともう私に気持ちがないのがひしひしと伝わって来る。でもどうしてもこのまま帰したくはなかった。
「二股ではないけど一度そういう関係になってしまったんだ。もう、俺が好きになってしまって気持ちが止められなくて。それからもその子とは連絡だけは取ってて今日もこれから会うから家には上がれない。」
一度寝た?これから会う?こいつは何を語ってるの?ワインまで買ってもうすぐ結婚かもなんて思ってた私は周りから見たらどれだけ惨めなのだろうか。そしてこういう時に限って女の勘が冴えるものだ。何故かその相手が近くに居る様な気がしてしまった。
「うちの会社の子じゃないよね?もし付き合うのなら話は入るだろうから正直に言ってね。」
どうか同じ会社だけではあって欲しくない。今のメンタルだとそいつを殺してしまうかもしれない。
「緑子と同じ課の姫野胡桃ちゃん。」
私はその瞬間に頭の中で何かがブチッと切れた気がした。ハイヒールを思い切り投げつけると大きく振りかぶって平手打ちをした。こんなに泣いたのはいつぶりだろうという位に大声で泣いた。聡は慌てて合鍵をそのへんにポイっと置くと、急いで逃げるように帰って行った。姫野さんの所へ別れた報告をしに飛んで行ったのだろうか。
私は少し冷静になり聡の荷物を片そうと思い部屋に入ると血の気が引いた。聡は自分の荷物は疎か、二人でお金を出し合って買った物も既に持ち出していたのだ。玄関の前で待っていた様に見えたのは荷物を取りに来て運び終わった時だったという事に気付いた。さっきまでは悲しさもあったけど今は怒りしかない。この右手に持ったワインで殴ってやればよかった。
私はどうにもならない腹立たしさを抑えようと、冷蔵庫からビールを取り出しグラスにも注がずそのまま一気に飲み干した。こんな気持ちでお酒を飲んでしまうのはかなり危険だが飲まずにはいられなかった。つまみもそこそこにワインも結構なペースで飲んでしまってもうヘロヘロだ。それでも失恋の傷は深すぎて消えない。涙も枯れ果てるのではないかと思うほど出尽くした。
聡とは同期で、仕事の事を話していくうちに仲良くなり、聡からの告白され付き合う事になった。大して上手でもない私の料理を褒めてくれたり優しい人だと思っていたのに、この仕打ちは酷すぎる。確かに、ここ最近は何となくよそよそしい感じはあったかもしれない。忙しいせいなんだろうと思い余り気に留めて居なかった。その時期に姫野さんとそういう関係になったのだろう。でも姫野さんはなぜ聡なんだろう。聡は特別イケメンの部類ではないし、成績も真ん中辺り。うちの会社の営業部は花形部署でもっとハイスペックなイケメンはたくさんいる。他の男性社員にも誘われているはずなのに何だか腑に落ちない。それに姫野はなぜ私が帰る時に「デートですか?」とわざわざ聞いて来たのか。そんなプライベートな事を話す仲でもないし不自然だ。それに聡と会う予定がある訳で私達の事を知らないとも思えないし、まさか私への当てつけなのか?何より帰る時の姫野のあの顔を思い出すと裏があるのではと勘ぐってしまう。思い出せば思い出すほどに腹が立って来る。ワインのボトルも空けてしまいフラフラになりながらもずっと恨み節を呟いていたがいつの間にか寝てしまっていた。
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