息子を奪われた闇堕ち元王妃は、偽りの家族愛に絆されて真実の家族愛を取り戻す ~呪いはマナを、やぶれない~
1-11話:呪われた姿に隠された、悪意による傷跡
リコリスは、ティファレの息子が我が子と同じ色をしていたことに衝撃を受けた。
思わず言葉を失った彼女は、アネモスの姿にレンデンスを重ねるようにまじまじと凝視する。
(レンデンス……。もしあの子が生きていたら……きっとこんな風に大きく成長していたのでしょうね……。見て、みたかったわ……)
かつての息子の姿を思い出す度にリコリスの淀んだ瞳が潤みかけ、彼女は耐えるように悲し気に表情を歪めた。
一方のアネモスも、瞳を揺らして見慣れぬ侍女の姿を不安そうな表情で見つめる。
「……」
「……」
しばらくすると、再び王子が素早く叔父の後ろに隠れてしまう。
「……ぅ」
「あっ……」
我が子が成長したら今頃同じ歳だったであろう幼子から避けられ、彼女の胸がちくりと痛んだ気がした。
(……今は大人しく、この子のお世話をしましょう……。そう、すべては王と王妃に近づき、復讐するためなのよ……)
何とか衝撃から解き放たれたリコリスは、少年と同じ目線までしゃがみこんで話しかける。
「王子、お顔をお拭きしますね」
「……」
ちらりと上目遣いで不安そうに見つめてくるアネモスの頭を、叔父が優しく撫でる。
甥が少し安心した表情を見せると、公爵は彼の肩に優しく触れて、リコリスの前に押し出す。
「ほら、アネモス」
「う、うん……」
「失礼いたしますね」
リコリスは侍女として王子の世話をすべく、血と唾液と涙に塗れた彼の顔をタオルで拭おうとする。
彼女が触れようとした瞬間、アネモスが緊張するようにびくりと震えた。
表情もどこか怯えているように見え、視線も明らかにリコリスを見まいとそらしている。
(レンデンスと同じ色の子どもに拒絶されることが、こんなにも切なく感じるなんて……)
元気盛りのはずの幼い子どもの消極的な態度に悲しさを覚えた彼女は、彼の様子を見て少しずつ肌に触れていくことを決めた。
「……?」
なかなか触れようとしない彼女に、アネモスがおずおずと目線を向け、小首を傾げる。
あどけない表情を向けられた彼女は、少しは警戒心が解けたものかと内心でほっと息を吐いて王子の顔の汚れを拭い取り始めた。
「ん……」
(可愛らしい子ね……)
顔についた汚れを取り除かれてくすぐったそうにしている少年の顔は、左半分を覆うおぞましい痣を除けば、とても可愛らしい顔立ちをしていた。
呪いさえなければ、王子と言う立場もあって両親だけではなく家臣からも可愛がられていただろう。
そうして彼がもし、王子として周りからもてはやされていたとしたら……。
今のように控え目な性格ではなく、おそらくは国王のように傲慢になっていたに違いない。
そうなっていたら、我が子を喪ったリコリスは余計に腹を立てていただろう。
「お身体も濡れておられますね。お風呂に入りましょうか?」
「え……」
顔を拭き取り終わった彼女が問いかけると、王子の表情が悪くなる。
「公爵さま、浴室はございますか?」
「ああ、室内にあるよ」
「承知致しました。確認に参ります。少々お待ちください」
離宮勤めの侍女たちの態度から、設備が十分に稼働していない可能性を考えたリコリスは、公爵が指した場所へと向かい、扉を開ける。
(内装が質素だから心配だったけれども、室内の設備は使えるわね……。……ちゃんと、お湯も出るわ)
浴室が使えることを確認していると、後から王弟とその甥の二人組がやってきた。
「入っても良いかな?」
「はい、問題ございません」
「……おじうえは、おふろにする?」
「え、え? い、いや、お前だけだよ。うん。彼女に洗ってもらいなさい、アネモス」
「うん……」
アネモスの疑問に対し、一瞬だけ目を丸くしたあとに何故か顔を真っ赤に染めた公爵。反対に、その甥は何故か安堵の様子を見せていた。
「ではお召し物を脱ぎましょうね」
「……や」
リコリスが王子の衣装を脱がそうと近づくと、やはり彼はビクッと身体を震わせて怯えた反応を見せる。
顔を拭ったことで彼に触れる許可を得られたと感じていた彼女も、その瞬間に思わず心臓が跳ねるような感覚に陥った。
(……どうしてこんなにも、この子に怯えられると緊張してしまうのかしら。レンデンスと同じ色をしているから……?)
脱がされまいと服をぎゅっと握り締め、顔を振って抵抗する姿から、少年が何かを恐れていることが分かった。
(それにしても……何かを怖がっているのかしら……? ……私が怖いの?)
しかし本人は口を開こうとしない。
理由の分からないリコリスは、王子を着替えさせることが出来ずに困惑するしかない。
(この子に、私の復讐心を悟られてしまったのかしら……。そんなことは、ないと思うけれども……)
二人の様子を見かねていた公爵が、アネモスの頭を優しく撫でて言う。
「アネモス、彼女はお前をちゃんとお世話してくれるよ」
「……」
それでも王子はふるふると顔を振り、藤色の髪を揺らすことで着替えを拒絶する。
「彼女はこれまでの侍女とは、違うだろう?」
ヴァレアキントスは口にした言葉に確信を持たせるように、リコリスが拭ったアネモスの顔に優しく触れ、問いかける。
「……ん」
叔父の手の上に自身の手を重ね、王子が戸惑うようにゆっくりと頷く。
「だからお前の姿を見ても、きっと大丈夫だよ」
王弟が王子を安心させるように、頭に手を乗せる。
アネモスは信頼する叔父を上目遣いで見つめたあと、ちらりとリコリスを見る。
「……」
「アネモスを頼むよ?」
「承知いたしました。王子、失礼してもよろしいですか?」
「でも……ぼく。ぼくね、ひとりでおきがえできるよ?」
「……!」
王族である五歳の王子が、誰の力も借りずに着替えが出来る。
その異常さを知らされた彼女は絶句した。
(つまりそれは……ここの人たちは王子の世話を、本当にしていないということね……! 本当にここの人たちは……!)
「王子、臣下の仕事を奪ってはなりません」
「え」
「王子の身の回りのお世話が、私のお仕事です。さあ、お風呂に入って、お身体を綺麗にしましょうね」
リコリスの言葉が信じられないのか、驚いて瞬きを繰り返すアネモス。
彼女はひとつ断りを入れて王子の衣装に触れた。
王子はしばらく服をぎゅっと握り締めていたが、ちらりと大人二人を見ると服から手を離し、恐る恐るリコリスの方へと歩いていく。
まだ不安そうに目の前に立ったアネモスのボタンを外して服を脱がせていくリコリス。
(……本当にやせ細っていて……。呪いのせいにしては同じ年ごろの貴族の子よりもかなり痩せているわ……まるで栄養失調のような……)
呪いのせいか、それとも他の要因によるものか。やせ細り、虚弱さの目立つ少年の姿が露わになる。
顔や手と同じく、衣装で隠されていた左半身までもが痣でびっしりと覆われていた。
「……!」
彼の全身を目の当たりにしたリコリスは、強い違和感を受けた。
それは、文字のように規則性を感じさせる紫紺色の痣とは別に、不規則に刻まれた切り傷や打撲による痣が不自然に紛れているように感じたからだ。
呪いによる痣と同じ箇所に巧妙に隠されている影響で、良く観察しなければ人為的なものに感じられる痣の存在に気付くことは難しいだろう。
(まさか……)
「王子、体に痛みを感じますか?」
「いまは……いたくない……」
「少しお身体にしみるか、確認をしますね」
リコリスはお仕着せの袖を肩の近くまで捲り上げ、くるぶしまでの長さのスカートも短くなるように端でまとめた。
そんなリコリスの様子を目にした公爵が、ぎょっとした顔をして慌てて目を背ける。
「わ、私は外で待っているよ?」
「え? お、おじうえ……」
「扉は開けておくからね」
脱衣所から逃げるように去った公爵を、王子が少し心細そうに見送る。
しかし彼はちらりとリコリスに視線を送ると、彼女の案内に従い浴室内へと足を踏み入れた。
「少しずつ、お体にお湯をかけて参りますね」
「……」
「染みたり痛みを感じたりしたら、仰ってくださいね」
「……うん」
桶に注いだお湯を自身の手のひらで掬った彼女は、それを痣の全くないアネモスの右手から肩にかけて順番に少しずつかけて慣らしていく。
特に拒否反応も見られなかったため、彼女は王子の表情を見ながら痣のある左手を手に取る。
アネモスの手に触れた瞬間、彼の肩がびくりと跳ねる。
怯えた表情は向けられたものの、手を払われることもなく、彼女は左手にも順番にお湯をかけていった。
今は痛くないというのは本当のようで、切り傷も少し後が残っているだけのようだった。
ふと、人が付けたであろう傷跡に触れながら、リコリスは王子に問いかけた。
「王子。この痣は、どうされたのですか?」
「……これ、は……」
「これは人が付けたものですね? 公爵さまはこの痣をご存知……」
公爵の名前を出した途端に、アネモスがびくりと震える。
そして勢いよく顔をあげて焦った表情を見せると、リコリスの服をぐいっと引っ張った。
「おじうえにはっ……言っちゃダメっ……!」
「え……」
王子の必死な形相には悲壮感が混じっている。
彼の叔父に告げることで、何か良くない出来事が起こりそうな……そう言った予感が脳裏に過る表情だった。
呆然とする彼女が聞いていないと思ったのか、彼は絞り出すような声色でもう一度必死に訴えかける。
「おじうえに、言わないで……!」
(まさか……この傷跡はヴァレアキントス殿下が……? いえ、そんな……まさか)
リコリスから見ても、二人の関係を親子と見紛うほどに王子から慕われている王弟に限って、虐待紛いの行為を犯すわけがない。
それよりも、公爵に痣の存在を告げられたくない誰かによって、告げ口を禁止されている可能性を考えた方が妥当だろう。
(そう言えば……)
リコリスは脱衣所に彼らが入ってきたときのアネモスの様子を思い返した。
その時、王子は確かに公爵が一緒に入るかを気にしていたようだった。
「……」
本来ならば、アネモスの保護者でもあり、リコリスの直接の雇い主にもなる公爵に告げるべきだろう。
しかし彼女の本来の目的は、王子の暗殺。
目的のためだけならば、このまま放って置いた方がリコリスにとっては都合が良い。
自分にはいない、唯一無二の息子を蔑ろにする国王と王妃。
そして王子を敬うべき家臣や使用人たちへの怒りを滾らせたまま、彼女は目的のために胸の内に秘めておくことにした。
「……承知いたしました」
リコリスが頷くと、アネモスは安堵しほっと息をつく。
リコリスはアネモスが湯に浸かっても問題のないことを確認すると、まず髪を丁寧に洗い始める。
侍女に身体を任せる王子の様子は、やはり世話をされることに慣れていないように見受けられた。
(国王と……同じ、藤色の髪……。……それにレンデンスとも、同じ色ね……。私はレンデンスの世話をほとんどしてあげられなかったのに、あの子のことを押しのけたこの子の世話をさせるなんて)
泡が入らないように目をぎゅっと瞑る王子のそばで、彼女もぎゅっと唇を噛みしめながら彼の髪を泡立てていく。
(本当に、悪趣味な悪魔ね……)
次に身体を洗うと、痣に触れた瞬間に王子がまた身体を強張らせる。どうやら彼は、あまり痣には触れられたくないようだった。
「こわくないの……?」
「え?」
レンデンスに似た瞳を不安そうに揺らして問いかけるアネモスに、我が子のことを思いながら王子の世話をしていたリコリスは瞬きを返した。
「ぼくの呪い、こわくないの?」
再びのアネモスの問いかけに、彼女は頷いた。
「怖くありませんよ」
(……きっと、他の侍女たちはこの痣を怖がって、世話から逃げ出したのでしょうね。……それにしては、この傷跡と打撲の跡は不自然だけれども……)
「ほんとうに……?」
「ええ」
リコリスの言葉に、王子の眼が大きく見開かれる。
呪われているが故に多くの人間に忌避される彼にとって、それは救いの言葉となったのだろう。
彼は涙目になると、泡のついた手で拭おうとする。リコリスが慌ててそれを静止すると、王子は潤んだ瞳を彼女に向けた。
「いけませんよ、目が痛くなってしまいます」
「う……ぅん」
「王子、本当に怖いものはですね……」
彼女は王子に付けられた、人のものによる傷跡に触れて呟いた。
少年の身体は、リコリスが思っていた以上に冷え切っている。
「呪いではありません。……人の、悪意ですから」
リコリスは決して、自分を棚に上げた訳ではない。当然その悪意を持つ者の中には、リコリス自身も含まれている。
憎しみと罪悪感に揺れながらも、彼女はしっかりと王子のお風呂の世話を完了させた。
思わず言葉を失った彼女は、アネモスの姿にレンデンスを重ねるようにまじまじと凝視する。
(レンデンス……。もしあの子が生きていたら……きっとこんな風に大きく成長していたのでしょうね……。見て、みたかったわ……)
かつての息子の姿を思い出す度にリコリスの淀んだ瞳が潤みかけ、彼女は耐えるように悲し気に表情を歪めた。
一方のアネモスも、瞳を揺らして見慣れぬ侍女の姿を不安そうな表情で見つめる。
「……」
「……」
しばらくすると、再び王子が素早く叔父の後ろに隠れてしまう。
「……ぅ」
「あっ……」
我が子が成長したら今頃同じ歳だったであろう幼子から避けられ、彼女の胸がちくりと痛んだ気がした。
(……今は大人しく、この子のお世話をしましょう……。そう、すべては王と王妃に近づき、復讐するためなのよ……)
何とか衝撃から解き放たれたリコリスは、少年と同じ目線までしゃがみこんで話しかける。
「王子、お顔をお拭きしますね」
「……」
ちらりと上目遣いで不安そうに見つめてくるアネモスの頭を、叔父が優しく撫でる。
甥が少し安心した表情を見せると、公爵は彼の肩に優しく触れて、リコリスの前に押し出す。
「ほら、アネモス」
「う、うん……」
「失礼いたしますね」
リコリスは侍女として王子の世話をすべく、血と唾液と涙に塗れた彼の顔をタオルで拭おうとする。
彼女が触れようとした瞬間、アネモスが緊張するようにびくりと震えた。
表情もどこか怯えているように見え、視線も明らかにリコリスを見まいとそらしている。
(レンデンスと同じ色の子どもに拒絶されることが、こんなにも切なく感じるなんて……)
元気盛りのはずの幼い子どもの消極的な態度に悲しさを覚えた彼女は、彼の様子を見て少しずつ肌に触れていくことを決めた。
「……?」
なかなか触れようとしない彼女に、アネモスがおずおずと目線を向け、小首を傾げる。
あどけない表情を向けられた彼女は、少しは警戒心が解けたものかと内心でほっと息を吐いて王子の顔の汚れを拭い取り始めた。
「ん……」
(可愛らしい子ね……)
顔についた汚れを取り除かれてくすぐったそうにしている少年の顔は、左半分を覆うおぞましい痣を除けば、とても可愛らしい顔立ちをしていた。
呪いさえなければ、王子と言う立場もあって両親だけではなく家臣からも可愛がられていただろう。
そうして彼がもし、王子として周りからもてはやされていたとしたら……。
今のように控え目な性格ではなく、おそらくは国王のように傲慢になっていたに違いない。
そうなっていたら、我が子を喪ったリコリスは余計に腹を立てていただろう。
「お身体も濡れておられますね。お風呂に入りましょうか?」
「え……」
顔を拭き取り終わった彼女が問いかけると、王子の表情が悪くなる。
「公爵さま、浴室はございますか?」
「ああ、室内にあるよ」
「承知致しました。確認に参ります。少々お待ちください」
離宮勤めの侍女たちの態度から、設備が十分に稼働していない可能性を考えたリコリスは、公爵が指した場所へと向かい、扉を開ける。
(内装が質素だから心配だったけれども、室内の設備は使えるわね……。……ちゃんと、お湯も出るわ)
浴室が使えることを確認していると、後から王弟とその甥の二人組がやってきた。
「入っても良いかな?」
「はい、問題ございません」
「……おじうえは、おふろにする?」
「え、え? い、いや、お前だけだよ。うん。彼女に洗ってもらいなさい、アネモス」
「うん……」
アネモスの疑問に対し、一瞬だけ目を丸くしたあとに何故か顔を真っ赤に染めた公爵。反対に、その甥は何故か安堵の様子を見せていた。
「ではお召し物を脱ぎましょうね」
「……や」
リコリスが王子の衣装を脱がそうと近づくと、やはり彼はビクッと身体を震わせて怯えた反応を見せる。
顔を拭ったことで彼に触れる許可を得られたと感じていた彼女も、その瞬間に思わず心臓が跳ねるような感覚に陥った。
(……どうしてこんなにも、この子に怯えられると緊張してしまうのかしら。レンデンスと同じ色をしているから……?)
脱がされまいと服をぎゅっと握り締め、顔を振って抵抗する姿から、少年が何かを恐れていることが分かった。
(それにしても……何かを怖がっているのかしら……? ……私が怖いの?)
しかし本人は口を開こうとしない。
理由の分からないリコリスは、王子を着替えさせることが出来ずに困惑するしかない。
(この子に、私の復讐心を悟られてしまったのかしら……。そんなことは、ないと思うけれども……)
二人の様子を見かねていた公爵が、アネモスの頭を優しく撫でて言う。
「アネモス、彼女はお前をちゃんとお世話してくれるよ」
「……」
それでも王子はふるふると顔を振り、藤色の髪を揺らすことで着替えを拒絶する。
「彼女はこれまでの侍女とは、違うだろう?」
ヴァレアキントスは口にした言葉に確信を持たせるように、リコリスが拭ったアネモスの顔に優しく触れ、問いかける。
「……ん」
叔父の手の上に自身の手を重ね、王子が戸惑うようにゆっくりと頷く。
「だからお前の姿を見ても、きっと大丈夫だよ」
王弟が王子を安心させるように、頭に手を乗せる。
アネモスは信頼する叔父を上目遣いで見つめたあと、ちらりとリコリスを見る。
「……」
「アネモスを頼むよ?」
「承知いたしました。王子、失礼してもよろしいですか?」
「でも……ぼく。ぼくね、ひとりでおきがえできるよ?」
「……!」
王族である五歳の王子が、誰の力も借りずに着替えが出来る。
その異常さを知らされた彼女は絶句した。
(つまりそれは……ここの人たちは王子の世話を、本当にしていないということね……! 本当にここの人たちは……!)
「王子、臣下の仕事を奪ってはなりません」
「え」
「王子の身の回りのお世話が、私のお仕事です。さあ、お風呂に入って、お身体を綺麗にしましょうね」
リコリスの言葉が信じられないのか、驚いて瞬きを繰り返すアネモス。
彼女はひとつ断りを入れて王子の衣装に触れた。
王子はしばらく服をぎゅっと握り締めていたが、ちらりと大人二人を見ると服から手を離し、恐る恐るリコリスの方へと歩いていく。
まだ不安そうに目の前に立ったアネモスのボタンを外して服を脱がせていくリコリス。
(……本当にやせ細っていて……。呪いのせいにしては同じ年ごろの貴族の子よりもかなり痩せているわ……まるで栄養失調のような……)
呪いのせいか、それとも他の要因によるものか。やせ細り、虚弱さの目立つ少年の姿が露わになる。
顔や手と同じく、衣装で隠されていた左半身までもが痣でびっしりと覆われていた。
「……!」
彼の全身を目の当たりにしたリコリスは、強い違和感を受けた。
それは、文字のように規則性を感じさせる紫紺色の痣とは別に、不規則に刻まれた切り傷や打撲による痣が不自然に紛れているように感じたからだ。
呪いによる痣と同じ箇所に巧妙に隠されている影響で、良く観察しなければ人為的なものに感じられる痣の存在に気付くことは難しいだろう。
(まさか……)
「王子、体に痛みを感じますか?」
「いまは……いたくない……」
「少しお身体にしみるか、確認をしますね」
リコリスはお仕着せの袖を肩の近くまで捲り上げ、くるぶしまでの長さのスカートも短くなるように端でまとめた。
そんなリコリスの様子を目にした公爵が、ぎょっとした顔をして慌てて目を背ける。
「わ、私は外で待っているよ?」
「え? お、おじうえ……」
「扉は開けておくからね」
脱衣所から逃げるように去った公爵を、王子が少し心細そうに見送る。
しかし彼はちらりとリコリスに視線を送ると、彼女の案内に従い浴室内へと足を踏み入れた。
「少しずつ、お体にお湯をかけて参りますね」
「……」
「染みたり痛みを感じたりしたら、仰ってくださいね」
「……うん」
桶に注いだお湯を自身の手のひらで掬った彼女は、それを痣の全くないアネモスの右手から肩にかけて順番に少しずつかけて慣らしていく。
特に拒否反応も見られなかったため、彼女は王子の表情を見ながら痣のある左手を手に取る。
アネモスの手に触れた瞬間、彼の肩がびくりと跳ねる。
怯えた表情は向けられたものの、手を払われることもなく、彼女は左手にも順番にお湯をかけていった。
今は痛くないというのは本当のようで、切り傷も少し後が残っているだけのようだった。
ふと、人が付けたであろう傷跡に触れながら、リコリスは王子に問いかけた。
「王子。この痣は、どうされたのですか?」
「……これ、は……」
「これは人が付けたものですね? 公爵さまはこの痣をご存知……」
公爵の名前を出した途端に、アネモスがびくりと震える。
そして勢いよく顔をあげて焦った表情を見せると、リコリスの服をぐいっと引っ張った。
「おじうえにはっ……言っちゃダメっ……!」
「え……」
王子の必死な形相には悲壮感が混じっている。
彼の叔父に告げることで、何か良くない出来事が起こりそうな……そう言った予感が脳裏に過る表情だった。
呆然とする彼女が聞いていないと思ったのか、彼は絞り出すような声色でもう一度必死に訴えかける。
「おじうえに、言わないで……!」
(まさか……この傷跡はヴァレアキントス殿下が……? いえ、そんな……まさか)
リコリスから見ても、二人の関係を親子と見紛うほどに王子から慕われている王弟に限って、虐待紛いの行為を犯すわけがない。
それよりも、公爵に痣の存在を告げられたくない誰かによって、告げ口を禁止されている可能性を考えた方が妥当だろう。
(そう言えば……)
リコリスは脱衣所に彼らが入ってきたときのアネモスの様子を思い返した。
その時、王子は確かに公爵が一緒に入るかを気にしていたようだった。
「……」
本来ならば、アネモスの保護者でもあり、リコリスの直接の雇い主にもなる公爵に告げるべきだろう。
しかし彼女の本来の目的は、王子の暗殺。
目的のためだけならば、このまま放って置いた方がリコリスにとっては都合が良い。
自分にはいない、唯一無二の息子を蔑ろにする国王と王妃。
そして王子を敬うべき家臣や使用人たちへの怒りを滾らせたまま、彼女は目的のために胸の内に秘めておくことにした。
「……承知いたしました」
リコリスが頷くと、アネモスは安堵しほっと息をつく。
リコリスはアネモスが湯に浸かっても問題のないことを確認すると、まず髪を丁寧に洗い始める。
侍女に身体を任せる王子の様子は、やはり世話をされることに慣れていないように見受けられた。
(国王と……同じ、藤色の髪……。……それにレンデンスとも、同じ色ね……。私はレンデンスの世話をほとんどしてあげられなかったのに、あの子のことを押しのけたこの子の世話をさせるなんて)
泡が入らないように目をぎゅっと瞑る王子のそばで、彼女もぎゅっと唇を噛みしめながら彼の髪を泡立てていく。
(本当に、悪趣味な悪魔ね……)
次に身体を洗うと、痣に触れた瞬間に王子がまた身体を強張らせる。どうやら彼は、あまり痣には触れられたくないようだった。
「こわくないの……?」
「え?」
レンデンスに似た瞳を不安そうに揺らして問いかけるアネモスに、我が子のことを思いながら王子の世話をしていたリコリスは瞬きを返した。
「ぼくの呪い、こわくないの?」
再びのアネモスの問いかけに、彼女は頷いた。
「怖くありませんよ」
(……きっと、他の侍女たちはこの痣を怖がって、世話から逃げ出したのでしょうね。……それにしては、この傷跡と打撲の跡は不自然だけれども……)
「ほんとうに……?」
「ええ」
リコリスの言葉に、王子の眼が大きく見開かれる。
呪われているが故に多くの人間に忌避される彼にとって、それは救いの言葉となったのだろう。
彼は涙目になると、泡のついた手で拭おうとする。リコリスが慌ててそれを静止すると、王子は潤んだ瞳を彼女に向けた。
「いけませんよ、目が痛くなってしまいます」
「う……ぅん」
「王子、本当に怖いものはですね……」
彼女は王子に付けられた、人のものによる傷跡に触れて呟いた。
少年の身体は、リコリスが思っていた以上に冷え切っている。
「呪いではありません。……人の、悪意ですから」
リコリスは決して、自分を棚に上げた訳ではない。当然その悪意を持つ者の中には、リコリス自身も含まれている。
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