K.O.(恋に落ちても)いいですか?~格闘家な年下君と、病弱薬剤師な私~
第四十四話 Sideあの日の二人
深い意識の底で、夢を見ていた。
それは十年以上前――わたしが一度だけ病院から逃げ出した時のことだった。
◇◇◇
「もうこんな場所嫌! どうしてわたしは丈夫になれないの。どうして普通に暮らせないのよ! うわぁぁん!!」
勢いに任せて逃げ出したはいいものの、体力の「た」の字もなかった私は自宅まで戻ることができなかった。
少し走っては歩き、走っては歩きを繰り返し、倒れそうになりながら辿り着いたのは小さな神社だった。
境内の前の階段に座り込んで嗚咽していると、背後から男の子の声がした。
「ねえ、どうしたの? なんでないてるの?」
驚いて振り返ると、その子も目を真っ赤にしていた。
背中にはランドセル。わたしより年下の子が、どうしてこんな場所で泣いているんだろう。
そんな疑問によって、悲しい気持ちは波のように静かに引いていく。
「……きみは誰?」
「ぼくはあお。しょうがく一ねんせいだよ」
「わたしはきょーこ。三年生なんだけど……いまは学校にいけてないの」
「なんで? がっこう、きらいなの?」
「……わたし、病気なんだって。すぐに具合がわるくなっちゃって、病院にいなきゃいけなくなるの」
あお君はあまりピンときていないみたいだった。一年生には難しい話だったかもしれない。
でも、わたしのパジャマ姿や泣いている姿を見て、「励まさなきゃ」と思ってくれたらしかった。
「ぼく、つよいんだよ。からてを習ってるから。みて!」
彼はわたしの前に立って空手のポーズをとり始めた。架空の敵に向かってパンチをしてみたりキックをしてみたり。その顔つきはすごく真剣で、彼の優しい気持ちが伝わってきて嬉しくなる。
「あお君は強いんだね。かっこいいよ」
「うん、つよいよ! だからこんどおねえちゃんがびょーきになりそうになったら、ぼくがやっつけてあげる!」
「ほんと? 嬉しいな」
あお君は一通り架空の敵を倒し終えると、満足そうな笑顔を浮かべてまた隣に座った。
「あお君は、どうしてここにいるの?」
こんなにいい子が泣き腫らした目をしていたことが気になって質問すると、あお君は顔を曇らせる。
「からてのどうじょうがあいてなくて、おうちもあいてないの」
「そうだったんだ。……わたしと同じだね。お姉ちゃんも行く場所がないんだ」
「びょーいんからにげてきたの? おうち、かえれないのに?」
「ふふっ。そうなの。ダメだよねえ、逃げたらね」
「そうだよ、ダメだよ。ちゃんとなおさないと、ぼくのおかあさんみたいにしんじゃうから」
「えっ」
どきっと心臓が嫌な音を立てる。
あお君は取り乱すでもなく淡々とした表情だ。それが逆に不気味でもあった。
「あお君のお母さんは、病気で死んじゃったの?」
「うん、そうだよ。ぼくが三さいのときね。ぼくはあかちゃんだったから、あんまりおぼえてないんだけど」
「そうだったんだ……。そうだよね。病気はなおさないといけないよね」
「うん! でもだいじょうぶだよ。ぼくがつよくなって、おねえちゃんをまもってあげる!」
あお君は顔に笑顔を咲かせ、立ち上がってふたたび空手の動きをやり始めた。
彼にお母さんがいないと聞いて、わたしは自分が恥ずかしくなった。
自分は世界で一番不幸で可哀想だと思っていたけど、こんな小さな子にお母さんがいないなんて。そういう子もいるんだっていうことを知らなくて、はっと気づかされた気分だった。
あお君の言う通り、病気はちゃんとなおさないといけない。逃げちゃいけないんだ。
大人になったら自然と良くなるはずだって、お医者さんも言っていたし。
わたしはまだ死にたくない。生きて、楽しいことをいっぱいしたい。
「あお君ありがとう。わたし、病気に負けないよ」
「おねえちゃん、げんきになったの?」
「うん。……ねえねえ、一緒にだるまさんがころんだやらない? クラスで流行ってるみたいなの。一回やってみたくて」
「いいよ! じゃあ、おねえちゃんはあの犬さんのところからスタートだよ」
「狛犬さんね。わかった!」
――その後、病院の看護師さんが探しに来るまでわたしたちは遊び続けた。
不思議と体調は悪くならなくて、久しぶりに声を上げて笑った。
行く当てがないあお君を心配した看護師さんは、あお君のランドセルに入っていた緊急連絡カードというものを見て、彼のお父さんに電話をしてくれた。
しばらくすると慌ててお父さんが迎えに来て、あお君に「すまん青! 無事でよかった!」と謝っていた。
「じゃああお君、ばいばい。遊んでくれてありがとう」
「またね、おねえちゃん!」
それがわたしたちの最後の会話。最後にあお君が向けてくれた笑顔は、わたしの心に一つの芯をくれた気がした。
病気と向き合うと決めたから、二度と脱走はしなかった。退院と同時に親の仕事の都合で引っ越したから、その後あお君がどうなったかわからない。
数年間は時折思い出しては懐かしい気持ちになったけど、健康になるにつれてそれもなくなり、やがて記憶の彼方にしまい込まれていった。
◇◇◇
(――懐かしい。そんなこともあったな)
ずいぶん昔のことなのに、こんなに鮮明に思い出せるなんて。夢じゃなくて今起こっていることのように感じられた。
深いところに沈んでいた意識は、まどろむような心地よいところまで浮上している。
(……冷たい。なんだかプールの中にいるみたい)
思わず目を開けると、ゆらりと視界が歪んだ。
明かに地上ではない。全身はひやりとしたものに包まれ、目の前には青色が広がっている。
(――いっ、息が苦しい! ここ、ほんとうに水の中じゃない!? やだっ、死にたくない!)
命の危機を感じると、いっそう意識が鮮明になる。
わたしは夢中でもがき、光の差すほうへ懸命に手を伸ばした。
それは十年以上前――わたしが一度だけ病院から逃げ出した時のことだった。
◇◇◇
「もうこんな場所嫌! どうしてわたしは丈夫になれないの。どうして普通に暮らせないのよ! うわぁぁん!!」
勢いに任せて逃げ出したはいいものの、体力の「た」の字もなかった私は自宅まで戻ることができなかった。
少し走っては歩き、走っては歩きを繰り返し、倒れそうになりながら辿り着いたのは小さな神社だった。
境内の前の階段に座り込んで嗚咽していると、背後から男の子の声がした。
「ねえ、どうしたの? なんでないてるの?」
驚いて振り返ると、その子も目を真っ赤にしていた。
背中にはランドセル。わたしより年下の子が、どうしてこんな場所で泣いているんだろう。
そんな疑問によって、悲しい気持ちは波のように静かに引いていく。
「……きみは誰?」
「ぼくはあお。しょうがく一ねんせいだよ」
「わたしはきょーこ。三年生なんだけど……いまは学校にいけてないの」
「なんで? がっこう、きらいなの?」
「……わたし、病気なんだって。すぐに具合がわるくなっちゃって、病院にいなきゃいけなくなるの」
あお君はあまりピンときていないみたいだった。一年生には難しい話だったかもしれない。
でも、わたしのパジャマ姿や泣いている姿を見て、「励まさなきゃ」と思ってくれたらしかった。
「ぼく、つよいんだよ。からてを習ってるから。みて!」
彼はわたしの前に立って空手のポーズをとり始めた。架空の敵に向かってパンチをしてみたりキックをしてみたり。その顔つきはすごく真剣で、彼の優しい気持ちが伝わってきて嬉しくなる。
「あお君は強いんだね。かっこいいよ」
「うん、つよいよ! だからこんどおねえちゃんがびょーきになりそうになったら、ぼくがやっつけてあげる!」
「ほんと? 嬉しいな」
あお君は一通り架空の敵を倒し終えると、満足そうな笑顔を浮かべてまた隣に座った。
「あお君は、どうしてここにいるの?」
こんなにいい子が泣き腫らした目をしていたことが気になって質問すると、あお君は顔を曇らせる。
「からてのどうじょうがあいてなくて、おうちもあいてないの」
「そうだったんだ。……わたしと同じだね。お姉ちゃんも行く場所がないんだ」
「びょーいんからにげてきたの? おうち、かえれないのに?」
「ふふっ。そうなの。ダメだよねえ、逃げたらね」
「そうだよ、ダメだよ。ちゃんとなおさないと、ぼくのおかあさんみたいにしんじゃうから」
「えっ」
どきっと心臓が嫌な音を立てる。
あお君は取り乱すでもなく淡々とした表情だ。それが逆に不気味でもあった。
「あお君のお母さんは、病気で死んじゃったの?」
「うん、そうだよ。ぼくが三さいのときね。ぼくはあかちゃんだったから、あんまりおぼえてないんだけど」
「そうだったんだ……。そうだよね。病気はなおさないといけないよね」
「うん! でもだいじょうぶだよ。ぼくがつよくなって、おねえちゃんをまもってあげる!」
あお君は顔に笑顔を咲かせ、立ち上がってふたたび空手の動きをやり始めた。
彼にお母さんがいないと聞いて、わたしは自分が恥ずかしくなった。
自分は世界で一番不幸で可哀想だと思っていたけど、こんな小さな子にお母さんがいないなんて。そういう子もいるんだっていうことを知らなくて、はっと気づかされた気分だった。
あお君の言う通り、病気はちゃんとなおさないといけない。逃げちゃいけないんだ。
大人になったら自然と良くなるはずだって、お医者さんも言っていたし。
わたしはまだ死にたくない。生きて、楽しいことをいっぱいしたい。
「あお君ありがとう。わたし、病気に負けないよ」
「おねえちゃん、げんきになったの?」
「うん。……ねえねえ、一緒にだるまさんがころんだやらない? クラスで流行ってるみたいなの。一回やってみたくて」
「いいよ! じゃあ、おねえちゃんはあの犬さんのところからスタートだよ」
「狛犬さんね。わかった!」
――その後、病院の看護師さんが探しに来るまでわたしたちは遊び続けた。
不思議と体調は悪くならなくて、久しぶりに声を上げて笑った。
行く当てがないあお君を心配した看護師さんは、あお君のランドセルに入っていた緊急連絡カードというものを見て、彼のお父さんに電話をしてくれた。
しばらくすると慌ててお父さんが迎えに来て、あお君に「すまん青! 無事でよかった!」と謝っていた。
「じゃああお君、ばいばい。遊んでくれてありがとう」
「またね、おねえちゃん!」
それがわたしたちの最後の会話。最後にあお君が向けてくれた笑顔は、わたしの心に一つの芯をくれた気がした。
病気と向き合うと決めたから、二度と脱走はしなかった。退院と同時に親の仕事の都合で引っ越したから、その後あお君がどうなったかわからない。
数年間は時折思い出しては懐かしい気持ちになったけど、健康になるにつれてそれもなくなり、やがて記憶の彼方にしまい込まれていった。
◇◇◇
(――懐かしい。そんなこともあったな)
ずいぶん昔のことなのに、こんなに鮮明に思い出せるなんて。夢じゃなくて今起こっていることのように感じられた。
深いところに沈んでいた意識は、まどろむような心地よいところまで浮上している。
(……冷たい。なんだかプールの中にいるみたい)
思わず目を開けると、ゆらりと視界が歪んだ。
明かに地上ではない。全身はひやりとしたものに包まれ、目の前には青色が広がっている。
(――いっ、息が苦しい! ここ、ほんとうに水の中じゃない!? やだっ、死にたくない!)
命の危機を感じると、いっそう意識が鮮明になる。
わたしは夢中でもがき、光の差すほうへ懸命に手を伸ばした。
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