K.O.(恋に落ちても)いいですか?~格闘家な年下君と、病弱薬剤師な私~
第二十五話 Side青④
(――――眠れない)
目をつぶったものの、熱と頭痛で眠れたもんじゃない。
杏子さんは季節の変わり目はいつも風邪をひくと言っていた。こんな辛い思いを年に四回もしているってことか?
小さな身体でそんな苦しみを味わっているなんて。辛抱強いという言葉で片付けるには大変すぎるだろう。
ほんの三十分も俺は我慢ができなくて、なんとなく台所へ出てみた。
「……あ。なにか作ってくれてるのか……?」
『お腹がすいたら食べてね』と付箋のついた鍋を開けると、まだ湯気が立ちのぼるお粥が入っていた。
いい匂いに誘われるように匙を取る。口に含むと優しい味が広がった。
(美味い……。俺が作るのとは全然違う味だ)
自分が作るお粥は減量の回復食なので、刻んだササミを入れて塩を振った簡単なもの。そもそもが病人食じゃなかった。
このお粥のように出汁がきいた、染み渡るような味はしない。
何口か食べると今度は冷たいものがほしくなる。冷蔵庫を開けると、切ったリンゴが入っていた。
「……ほんとうにすごいな、杏子さんは」
行動が読まれているかのような気遣いだ。
スツールに腰を下ろしてリンゴをかじると、じゅわっと蜜があふれて喉を潤した。
父子家庭だったから、と言ってしまうと親父に悪い気がするけど。食事といえば手作りじゃなくて、スーパーで買った総菜のイメージしかない。
お粥もリンゴもすごく美味しかった。
(強いっていうのは、杏子さんみたいな人のことを言うのかも)
体調がどういう状態であっても、彼女はいつも笑顔を絶やさない。
自分の体質を否定するのではなく割り切ってうまく付き合っている。不幸を嘆くのではなく、それも人生の一部として他に幸せを見出している。
昨日の、図書館からの帰り道での出来事を思い出した。
俺を杏子さんだと思った(当たり前だけど)お婆さんが「あら薬剤師さん。いつもありがとうねえ」と声をかけてきたのだ。
薬局での杏子さんは、どの患者さんにもすごく丁寧に接している。相手が男だともどかしく思うけど、一生懸命で親切で、冗談じゃなく天使のように見える。
(杏子さんと出会ってから、いろんなことを知れた気がする)
このまま格闘技しか知らずに人生が進んでいくと思っていたけど、実はそうじゃないのかもしれない。俺はまだまだ新しい世界を知ることができるのかもしれない。
杏子さんはそう思わせてくれた。
「……ありがとう」
お粥の蓋を閉めて自分の部屋に戻る。
やっぱりまだ眠れそうにないけど、心は穏やかだ。
図書館から借りてきた本を手に取り、俺は無心で文字を目で追った。
◇
十六時ころに杏子さんが帰ってきた。
「事故った交差点を見に行ったんだけど、帰りにばったり並木さんと会ってね。ちょっとだけMetubeの撮影をしてきた。ごめんね、持ち物チェックの企画だったんだけど、わたしのせいで青くんのイメージがおかしな方向に行っちゃったかも!」
話を聞いてみると、どうやら並木さんの無茶ぶりでカバンの中身をチェックされ、杏子さんの常備薬や美容品を公開することになってしまったとのこと。
俺のイメージなんてどうなったっていい。並木さんに困らされてしまったことが申し訳なかった。
「俺のほうは気にしないでください。イメージなんてそもそもないんで。それより並木さんが暴走してすいません。あの人、俺のマネジメントに命かけてるところがあるんで……」
「兄弟子みたいな感じなんだっけ? 青くんのことが大好きなのは見ていて伝わってくるよ」
「MMAに行く前はキックボクシングをやってたんですけど、俺の先々代のチャンピオンが並木さんっすね。階級同じだったんで、練習ではいつもボコボコにされてました」
「青くんをボコボコに!? 今は面白いお兄さんていうイメージが強いけど、すっごく強かったんだねえ!」
「昔はヤクザみたいに恐ろしかったですよ。怪我で競技ができなくなってから今みたいな感じになりました」
並木さんがMMAに転向して五戦目。対松井翔太戦の前だった。
松井選手と並木さんは世代も近く、ジュニアのころから勝ち負けを繰り返す因縁の仲と言われていた。
勝ったほうが初代チャンピオンになる大一番。そんな試合前の追い込み中に、並木さんは靭帯を断裂する大けがを負った。
リハビリによって日常生活や軽い運動に支障はないところまで持ち直したものの、二度と試合はできないと医者から通告を受けた。
真っ白な顔でジムに戻ってきた並木さんの顔は、今でもはっきりと思い出せる。
「……それで青くんのマネージャーに?」
杏子さんは神妙な顔つきだ。
「はい。『青が有名選手になれば俺も敏腕マネージャーだ!』とか言って。有名芸能人と結婚することが夢になったらしいっす」
「ふふっ。ただでは転ばないってことね」
「生命力ありますよね。一時はどうなることかと思ったっすけど、俺が勝つと並木さんも喜んでくれるんで。厳しいですけど、信頼してます」
杏子さんには茶化したものの、当時の並木さんは荒れに荒れていた。
並木さんも格闘技一本の人生を送ってきた人だから、急にそれができなくなってどうしたらいいのか分からなくなったんだと思う。
警察から「酔っぱらって帰れなくなってるんで引き取りに来てください」と電話が来るのはまだマシなほう。パチンコで全財産をすってしまったり、突然パニックを起こして暴れたり、繁華街のヤクザに喧嘩を売って流血騒ぎを起こしたり。
そのたびにジムの会長が頭を下げて回っていた。
俺はまだ高校生になったばかりで、並木さんを助けたいけどどうしたらいいかわからなかった。
だから俺の才能を認めてくれていた会長が「並木。おまえ空谷のマネージャーになれ。こいつを世界一の選手にすることがおまえの第二の人生だ」と宣言したときには、これで並木さんを支えられると内心喜んだものだ。
(それももう五年前か……。早いな)
無我夢中で戦い続けてきた。高校在学中にプロデビューして、大学に行くなんていう考えは自分にも周囲にも当たり前のように無かった。
俺は勝ち続ける必要があったから。
「……青くん、まだだいぶ顔が赤いね。熱を測ってみよう」
――だから。
大学院に行くなんて可能性に気付かせてくれた杏子さんのことをもっと好きになってしまったのは、仕方がないことだと思う。
いつか格闘技を辞めるときが来ても、俺はまだ夢を見ていられるのかもしれない。
目をつぶったものの、熱と頭痛で眠れたもんじゃない。
杏子さんは季節の変わり目はいつも風邪をひくと言っていた。こんな辛い思いを年に四回もしているってことか?
小さな身体でそんな苦しみを味わっているなんて。辛抱強いという言葉で片付けるには大変すぎるだろう。
ほんの三十分も俺は我慢ができなくて、なんとなく台所へ出てみた。
「……あ。なにか作ってくれてるのか……?」
『お腹がすいたら食べてね』と付箋のついた鍋を開けると、まだ湯気が立ちのぼるお粥が入っていた。
いい匂いに誘われるように匙を取る。口に含むと優しい味が広がった。
(美味い……。俺が作るのとは全然違う味だ)
自分が作るお粥は減量の回復食なので、刻んだササミを入れて塩を振った簡単なもの。そもそもが病人食じゃなかった。
このお粥のように出汁がきいた、染み渡るような味はしない。
何口か食べると今度は冷たいものがほしくなる。冷蔵庫を開けると、切ったリンゴが入っていた。
「……ほんとうにすごいな、杏子さんは」
行動が読まれているかのような気遣いだ。
スツールに腰を下ろしてリンゴをかじると、じゅわっと蜜があふれて喉を潤した。
父子家庭だったから、と言ってしまうと親父に悪い気がするけど。食事といえば手作りじゃなくて、スーパーで買った総菜のイメージしかない。
お粥もリンゴもすごく美味しかった。
(強いっていうのは、杏子さんみたいな人のことを言うのかも)
体調がどういう状態であっても、彼女はいつも笑顔を絶やさない。
自分の体質を否定するのではなく割り切ってうまく付き合っている。不幸を嘆くのではなく、それも人生の一部として他に幸せを見出している。
昨日の、図書館からの帰り道での出来事を思い出した。
俺を杏子さんだと思った(当たり前だけど)お婆さんが「あら薬剤師さん。いつもありがとうねえ」と声をかけてきたのだ。
薬局での杏子さんは、どの患者さんにもすごく丁寧に接している。相手が男だともどかしく思うけど、一生懸命で親切で、冗談じゃなく天使のように見える。
(杏子さんと出会ってから、いろんなことを知れた気がする)
このまま格闘技しか知らずに人生が進んでいくと思っていたけど、実はそうじゃないのかもしれない。俺はまだまだ新しい世界を知ることができるのかもしれない。
杏子さんはそう思わせてくれた。
「……ありがとう」
お粥の蓋を閉めて自分の部屋に戻る。
やっぱりまだ眠れそうにないけど、心は穏やかだ。
図書館から借りてきた本を手に取り、俺は無心で文字を目で追った。
◇
十六時ころに杏子さんが帰ってきた。
「事故った交差点を見に行ったんだけど、帰りにばったり並木さんと会ってね。ちょっとだけMetubeの撮影をしてきた。ごめんね、持ち物チェックの企画だったんだけど、わたしのせいで青くんのイメージがおかしな方向に行っちゃったかも!」
話を聞いてみると、どうやら並木さんの無茶ぶりでカバンの中身をチェックされ、杏子さんの常備薬や美容品を公開することになってしまったとのこと。
俺のイメージなんてどうなったっていい。並木さんに困らされてしまったことが申し訳なかった。
「俺のほうは気にしないでください。イメージなんてそもそもないんで。それより並木さんが暴走してすいません。あの人、俺のマネジメントに命かけてるところがあるんで……」
「兄弟子みたいな感じなんだっけ? 青くんのことが大好きなのは見ていて伝わってくるよ」
「MMAに行く前はキックボクシングをやってたんですけど、俺の先々代のチャンピオンが並木さんっすね。階級同じだったんで、練習ではいつもボコボコにされてました」
「青くんをボコボコに!? 今は面白いお兄さんていうイメージが強いけど、すっごく強かったんだねえ!」
「昔はヤクザみたいに恐ろしかったですよ。怪我で競技ができなくなってから今みたいな感じになりました」
並木さんがMMAに転向して五戦目。対松井翔太戦の前だった。
松井選手と並木さんは世代も近く、ジュニアのころから勝ち負けを繰り返す因縁の仲と言われていた。
勝ったほうが初代チャンピオンになる大一番。そんな試合前の追い込み中に、並木さんは靭帯を断裂する大けがを負った。
リハビリによって日常生活や軽い運動に支障はないところまで持ち直したものの、二度と試合はできないと医者から通告を受けた。
真っ白な顔でジムに戻ってきた並木さんの顔は、今でもはっきりと思い出せる。
「……それで青くんのマネージャーに?」
杏子さんは神妙な顔つきだ。
「はい。『青が有名選手になれば俺も敏腕マネージャーだ!』とか言って。有名芸能人と結婚することが夢になったらしいっす」
「ふふっ。ただでは転ばないってことね」
「生命力ありますよね。一時はどうなることかと思ったっすけど、俺が勝つと並木さんも喜んでくれるんで。厳しいですけど、信頼してます」
杏子さんには茶化したものの、当時の並木さんは荒れに荒れていた。
並木さんも格闘技一本の人生を送ってきた人だから、急にそれができなくなってどうしたらいいのか分からなくなったんだと思う。
警察から「酔っぱらって帰れなくなってるんで引き取りに来てください」と電話が来るのはまだマシなほう。パチンコで全財産をすってしまったり、突然パニックを起こして暴れたり、繁華街のヤクザに喧嘩を売って流血騒ぎを起こしたり。
そのたびにジムの会長が頭を下げて回っていた。
俺はまだ高校生になったばかりで、並木さんを助けたいけどどうしたらいいかわからなかった。
だから俺の才能を認めてくれていた会長が「並木。おまえ空谷のマネージャーになれ。こいつを世界一の選手にすることがおまえの第二の人生だ」と宣言したときには、これで並木さんを支えられると内心喜んだものだ。
(それももう五年前か……。早いな)
無我夢中で戦い続けてきた。高校在学中にプロデビューして、大学に行くなんていう考えは自分にも周囲にも当たり前のように無かった。
俺は勝ち続ける必要があったから。
「……青くん、まだだいぶ顔が赤いね。熱を測ってみよう」
――だから。
大学院に行くなんて可能性に気付かせてくれた杏子さんのことをもっと好きになってしまったのは、仕方がないことだと思う。
いつか格闘技を辞めるときが来ても、俺はまだ夢を見ていられるのかもしれない。
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