K.O.(恋に落ちても)いいですか?~格闘家な年下君と、病弱薬剤師な私~
第二十三話 Side青②
調査一日目。杏子さんと別れたあと、俺は図書館に行ってみることにした。
調べものといえば図書館じゃないか? という安直な理由だけど、これまでの人生で一度も足を運んだことはない。
小学校に入ると同時に格闘技を始めたから、こういう場所は一番縁がなかった。
地図アプリで場所を調べ、ドキドキしながら都立図書館に足を踏み入れた。
(まずはどうしたらいいんだ……? あそこのカウンターで聞いてみるか)
入口すぐのところにあるカウンターに声をかける。
「あの……初めてなんすけど……」
「ご利用ありがとうございます。図書カードをお作りしますか?」
「それがあれば、ここの本を借りられるんですか?」
「はい。一回に十冊までお借りいただけます。貸出期間は二週間ですが、ネットから最大一週間延長することもできます」
「じゃあ作ります」
カードを作るために必要な書類を渡される。つい名前のところに『空谷青』と書いてしまって焦る。
訂正線を書いて提出すると、すぐにカードが発行された。
(これが俺の図書カード……!)
名刺ほどの小さなカードなのに、重さ以上の価値があるように感じられた。
館内を歩き回ってみると、驚くほど多くの本が並んでいる。
この小さなカード一枚で、ここにある本をどれでも借りられるなんて――新しい世界への切符のようにも思えた。
(……浮かれてる場合じゃない。入れ替わりの手がかりになりそうな本を探さないと)
ジャンルは……超常現象とか心霊あたりになるんだろうか?
目当ての書架を見つけ、近くの人にならって何冊かとり、机に運ぶ。どうやらここで読んでいくこともできるらしい。
一つ一つのことが新鮮だった。
閉館まで本を調べ、ひとまず三冊借りて帰宅した。
それを一晩で読み終えることができたので、翌日も引き続き図書館に足を運んだ。
「……あ。桜が綺麗だ……」
昨日は緊張のあまり目に入らなかったけど、図書館のまわりには満開の桜の木が植わっていた。
風が吹くと一気に花びらが舞い、世界を桃色に塗り替える。
図書館は静かでいい。ジムのようにミットを打つ音はしないし、コーチの怒鳴り声もない。
それぞれが自分の時間に集中し、本の世界に没頭している。
勉強している学生からただぼうっとしている高齢者まで、好きに時間を過ごしている。
(ここでは時間がゆっくり流れている気がする)
馴染みのない場所なのに居心地がよかった。
当たり前のように格闘技一本の人生を送ってきたけど、恐らく世間では自分のような人間のほうが稀なのだ。
でもこの場所では、そんなことはすべて無に帰すような感覚になる。
自分が誰であっても許される。格闘家になる前の、ただの「空谷青」に戻ったような気がした。
◇
家に帰って借りてきた本を読んでいると、ほどなく杏子さんもブルーを連れて帰ってきた。俺の代わりにトリミングサロンへ行ってくれたのだ。
でも、どこか様子がおかしい。
元気がないのに無理して笑っているというか……。なにより俺とはっきり目を合わせてくれない。
「杏子さん、元気がないっすね。……なにかありました?」
「ううん、なんでもないよ。ごめんね、今日も収穫はなかった」
「嘘つかないで。さっきから俺と目を合わせてくれないじゃないですか」
俺が何かしてしまったのなら謝りたいし、そうでないことで心を痛めているんだったら全力で不安を排除したい。
何も言わずに俺から逃げることだけはしてほしくなかった。
食い下がると、杏子さんは観念したように教えてくれた。
「あの……今日トリミングサロンに行ったでしょ。そこで安西レイラさんと一緒になって……それでちょっとね……」
――ああ。またあの女か。
俺はその名前だけで、おおよその出来事が想像できた。
知り合った日に限っては、犬の飼い方について教えてくれる親切な人だと思った。突然ブルーを拾って右も左も分からない俺にアドバイスをくれたことには感謝している。
(でも、それ以上でもそれ以下でもない)
むしろ二回目にトリミングサロンで会ったときは露骨に距離を縮めてきて不快だった。きつい香水をまとわせて身体を寄せてくるから、自分の服にも匂いが移ってしまう。サロンから帰ると服を脱いですぐ洗濯にかけていた。
熱愛報道だっていい迷惑だ。別にあの女と縁が切れたところで関係ないので、断固たる抗議を申し入れた。
俺が心底嫌なのは、俺やあの女のせいで杏子さんが悲しい顔をすることだ。
「杏子さん、まだ悲しそうな顔してる。あの人になにを言われたんですか?」
すると杏子さんは驚いたように目を見開いて、どうして分かったのかという顔をする。
俺だって自分で自分が不思議だった。他人の感情なんて分からないしどうでもよかったのに、杏子さんのことになると何一つ見逃せなくなる。一つ一つの表情や仕草から目が離せなくなってしまうのだから。
杏子さんはうなだれて、目にうっすらと涙を浮かべた。
「レイラさん、『もうわたしは用済みなの?』って言ってたんだ。青くんとの仲を疑っているわけじゃないの。またレイラさんが冗談を言ったんだと思う。でも、その言葉がずっと引っかかってて……」
あー……。
安西レイラは、完全にしていはいけないことをしてしまった。
とうてい表には出せないような黒い考えが脳裏を覆っていく。あの女をどうするかについて、身体が戻ったら並木さんとよく考えないと。
杏子さんに事情を説明して理解してもらうと、ふとあることが頭に浮かんだ。
(杏子さんがこんなに悲しんでくれるなんて。どうでもいい相手だったらそうはならないよな……?)
それって少しは脈があるってことなんじゃ……?
告白したとき杏子さんは「自分で自分の気持ちが分からないから、返事は待ってほしい」と言っていた。
そのときより、少しは俺のことを男として見てくれてるんだろうか……。
杏子さんを傷つけた安西レイラは許せないけど、じわじわと嬉しさが込み上げてくる。
(俺に嫉妬してくれた……?)
ひとたびそう思ってしまったら、一気に気持ちがあふれていく。
「可愛い、杏子さん。……抱きしめてもいいですか」
返事を聞く前に俺の身体は動いていた。
一瞬あの女の匂いがしたけど、すぐに杏子さんを感じた。
(温かい……。ここにいると、安らいだ気持ちになる)
身体の力が抜けて、ぽかぽかとして眠たくなってくる。
二十二年間、駆け抜けるように生きてきた。
杏子さんは俺にとって休憩所のようなもので、息をついたらまた毎日を頑張れるような、そんな存在。
人生って捨てたもんじゃないなと――「幸せ」ってこいういうことなのかと、俺はまた一つ新しい感情を知ったのだった。
調べものといえば図書館じゃないか? という安直な理由だけど、これまでの人生で一度も足を運んだことはない。
小学校に入ると同時に格闘技を始めたから、こういう場所は一番縁がなかった。
地図アプリで場所を調べ、ドキドキしながら都立図書館に足を踏み入れた。
(まずはどうしたらいいんだ……? あそこのカウンターで聞いてみるか)
入口すぐのところにあるカウンターに声をかける。
「あの……初めてなんすけど……」
「ご利用ありがとうございます。図書カードをお作りしますか?」
「それがあれば、ここの本を借りられるんですか?」
「はい。一回に十冊までお借りいただけます。貸出期間は二週間ですが、ネットから最大一週間延長することもできます」
「じゃあ作ります」
カードを作るために必要な書類を渡される。つい名前のところに『空谷青』と書いてしまって焦る。
訂正線を書いて提出すると、すぐにカードが発行された。
(これが俺の図書カード……!)
名刺ほどの小さなカードなのに、重さ以上の価値があるように感じられた。
館内を歩き回ってみると、驚くほど多くの本が並んでいる。
この小さなカード一枚で、ここにある本をどれでも借りられるなんて――新しい世界への切符のようにも思えた。
(……浮かれてる場合じゃない。入れ替わりの手がかりになりそうな本を探さないと)
ジャンルは……超常現象とか心霊あたりになるんだろうか?
目当ての書架を見つけ、近くの人にならって何冊かとり、机に運ぶ。どうやらここで読んでいくこともできるらしい。
一つ一つのことが新鮮だった。
閉館まで本を調べ、ひとまず三冊借りて帰宅した。
それを一晩で読み終えることができたので、翌日も引き続き図書館に足を運んだ。
「……あ。桜が綺麗だ……」
昨日は緊張のあまり目に入らなかったけど、図書館のまわりには満開の桜の木が植わっていた。
風が吹くと一気に花びらが舞い、世界を桃色に塗り替える。
図書館は静かでいい。ジムのようにミットを打つ音はしないし、コーチの怒鳴り声もない。
それぞれが自分の時間に集中し、本の世界に没頭している。
勉強している学生からただぼうっとしている高齢者まで、好きに時間を過ごしている。
(ここでは時間がゆっくり流れている気がする)
馴染みのない場所なのに居心地がよかった。
当たり前のように格闘技一本の人生を送ってきたけど、恐らく世間では自分のような人間のほうが稀なのだ。
でもこの場所では、そんなことはすべて無に帰すような感覚になる。
自分が誰であっても許される。格闘家になる前の、ただの「空谷青」に戻ったような気がした。
◇
家に帰って借りてきた本を読んでいると、ほどなく杏子さんもブルーを連れて帰ってきた。俺の代わりにトリミングサロンへ行ってくれたのだ。
でも、どこか様子がおかしい。
元気がないのに無理して笑っているというか……。なにより俺とはっきり目を合わせてくれない。
「杏子さん、元気がないっすね。……なにかありました?」
「ううん、なんでもないよ。ごめんね、今日も収穫はなかった」
「嘘つかないで。さっきから俺と目を合わせてくれないじゃないですか」
俺が何かしてしまったのなら謝りたいし、そうでないことで心を痛めているんだったら全力で不安を排除したい。
何も言わずに俺から逃げることだけはしてほしくなかった。
食い下がると、杏子さんは観念したように教えてくれた。
「あの……今日トリミングサロンに行ったでしょ。そこで安西レイラさんと一緒になって……それでちょっとね……」
――ああ。またあの女か。
俺はその名前だけで、おおよその出来事が想像できた。
知り合った日に限っては、犬の飼い方について教えてくれる親切な人だと思った。突然ブルーを拾って右も左も分からない俺にアドバイスをくれたことには感謝している。
(でも、それ以上でもそれ以下でもない)
むしろ二回目にトリミングサロンで会ったときは露骨に距離を縮めてきて不快だった。きつい香水をまとわせて身体を寄せてくるから、自分の服にも匂いが移ってしまう。サロンから帰ると服を脱いですぐ洗濯にかけていた。
熱愛報道だっていい迷惑だ。別にあの女と縁が切れたところで関係ないので、断固たる抗議を申し入れた。
俺が心底嫌なのは、俺やあの女のせいで杏子さんが悲しい顔をすることだ。
「杏子さん、まだ悲しそうな顔してる。あの人になにを言われたんですか?」
すると杏子さんは驚いたように目を見開いて、どうして分かったのかという顔をする。
俺だって自分で自分が不思議だった。他人の感情なんて分からないしどうでもよかったのに、杏子さんのことになると何一つ見逃せなくなる。一つ一つの表情や仕草から目が離せなくなってしまうのだから。
杏子さんはうなだれて、目にうっすらと涙を浮かべた。
「レイラさん、『もうわたしは用済みなの?』って言ってたんだ。青くんとの仲を疑っているわけじゃないの。またレイラさんが冗談を言ったんだと思う。でも、その言葉がずっと引っかかってて……」
あー……。
安西レイラは、完全にしていはいけないことをしてしまった。
とうてい表には出せないような黒い考えが脳裏を覆っていく。あの女をどうするかについて、身体が戻ったら並木さんとよく考えないと。
杏子さんに事情を説明して理解してもらうと、ふとあることが頭に浮かんだ。
(杏子さんがこんなに悲しんでくれるなんて。どうでもいい相手だったらそうはならないよな……?)
それって少しは脈があるってことなんじゃ……?
告白したとき杏子さんは「自分で自分の気持ちが分からないから、返事は待ってほしい」と言っていた。
そのときより、少しは俺のことを男として見てくれてるんだろうか……。
杏子さんを傷つけた安西レイラは許せないけど、じわじわと嬉しさが込み上げてくる。
(俺に嫉妬してくれた……?)
ひとたびそう思ってしまったら、一気に気持ちがあふれていく。
「可愛い、杏子さん。……抱きしめてもいいですか」
返事を聞く前に俺の身体は動いていた。
一瞬あの女の匂いがしたけど、すぐに杏子さんを感じた。
(温かい……。ここにいると、安らいだ気持ちになる)
身体の力が抜けて、ぽかぽかとして眠たくなってくる。
二十二年間、駆け抜けるように生きてきた。
杏子さんは俺にとって休憩所のようなもので、息をついたらまた毎日を頑張れるような、そんな存在。
人生って捨てたもんじゃないなと――「幸せ」ってこいういうことなのかと、俺はまた一つ新しい感情を知ったのだった。
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