K.O.(恋に落ちても)いいですか?~格闘家な年下君と、病弱薬剤師な私~
第二十一話 Side杏子④
カバンからマンションの鍵を取り出して玄関に入り、小さく声をかける。
「ただいまー……」
寝てたら悪いなと思って静かに進むと、青くんの部屋のドアは開いていた。そっと中を覗くとベッドに横になりながら本を読んでいる姿が目に入る。
「ただいま。調子はどうかな?」
「おかえりなさい。まあまあです」
図書館から借りてきたという本を小脇に置いて、青くんは上半身を起こす。雑談ののち熱を測ってもらうと八度近くあった。
「……風邪なんてひいたことがないんですけど、抗生剤? とか飲んだほうが良いんすかね」
「風邪は基本的にウイルス性だから、抗生剤は飲まなくて大丈夫だよ。安静にしていれば免疫で治っちゃうからね」
「そうなんすね。さすが薬剤師さん」
汗を浮かべながら青くんは微笑んだ。
熱が辛くて眠れないんのねとピンときたので、わたしは話し相手になるべく居候の部屋から一冊の本を持ってくる。
「これ、大学時代の教科書。化学療法論っていって、抗生剤のことだけで科目が一つあったんだ。今思うとすごいよね。他の薬はそうじゃないのにね」
「杏子さんの教科書……。見てもいいっすか?」
「もちろん。面白いかはわからないけど」
薬剤師になった今でも、仕事で分からないことがあると引っ張り出して調べている。
使い込んだ教科書はくたびれているけど、青くんは宝物のように丁寧に受け取った。
「書き込みがいっぱいありますね。……俺の知らない時代の杏子さんが書いたと思うと、なんか悔しいっす」
「あはは、なにそれ。……さっきはちょっと偉そうな言い方しちゃったけど、この科目が一番苦手だったんだよね。だから必死で勉強したの。恥ずかしいな」
パラパラとページをめくっていた青くんは、ふと手を止めた。
「大学、俺も行ってみたかったっす。ずっと格闘技ばっかしてたんで、ろくに勉強してこなくて」
「いくつのときに始めたの? 公式サイトにちょっと書いてあった気がしたけど」
「六歳っすね。小学校に入ると同時に」
「そんな早くから!? すごいんだねえ」
「そんなことないっすよ。……俺んち母親がいなかったんです。親父、放課後子供一人で家に留守番させとくのが心配だったみたいで。それで道場に放り込まれただけっす」
「あ……。そう、なんだ」
お母さんがいないということは初めて知った。まずいことを言わせてしまった気がして謝ると、青くんは「気にしないで」と目で笑う。
「病死だったらしいんですけど、ほとんど記憶にないんです。俺が三歳のときだったから。……話は戻りますけど、そんな感じで男手一つどころか道場で育ったような感じだったんで、勉強とは縁がなくて。ギリギリで高卒っす」
「高校在学中にデビューだもんね。勉強との両立はなかなか難しいよね……」
もし青くんが進学していたら、今は大学四年生か……。
改めて彼はまだ若いことを思い知り、自分がその年だったときより遥かにしっかりしているなあと感心する。
当たり前のように勉強しかしてこなかったわたしからしたら、早くから格闘技一本でやってきている青くんのほうが何倍もすごい。隣の芝は青いというやつだろうか。
「青くんはなんでも一生懸命丁寧にやる人だから、格闘技じゃなくて勉強が相手でもきっと楽しめるよね。……気が早すぎる話ではあるけど、引退したら大学院に行ってみるっていうのはどう?」
「……大学院、っすか?」
初めて聞いた、とばかりに青くんは目を丸くする。
「でもそれって、大卒じゃないとダメっすよね」
「ううん、そうじゃないところも今はあるみたいよ。経済とか健康科学とか、興味に応じて専門的なことを学べるの。社会人の生徒も増えてるって聞くよ」
「……そっか。大学院……。大学院……」
青くんは噛みしめるように何度も繰り返す。
その表情はどこか嬉しそうで、まるで大切な探し物を見つけたかのようだった。
(青くんも、実はいろいろやってみたいことがあったのかな……?)
彼が格闘技に人生を捧げていることについて深く考えたことはなかった。強くてカッコいいなあ、厳しい練習を積んでいてすごいなあと、そういうふうにしか捉えてこなかった。
でもほんとうの青くんは、もっと複雑な想いを抱えて生きているのかもしれない。
きちんと勉強したかったし、高校や大学で友達とワイワイ過ごしてみたかったのかもしれない。
小さいころ、病院のベッドで『強い身体になりたい。学校に行ってお友達と遊びたい』と泣きじゃくっていた自分の姿が重なる。
(なんだか、青くんとの距離が縮まった気がする)
ふふっ、と笑みがこぼれる。別世界の人だと思っていたけど、実はそうじゃないのかも。
振り返ってみても、わたしたちは交わることのない人生を送ってきたと思う。
それがどういうわけか知り合って、身体が入れ替わり、一つ屋根の下に住んでいる。
そんな運命のいたずらが、ほんの一瞬だけ、粋なものに思えてしまったのだった。
「ただいまー……」
寝てたら悪いなと思って静かに進むと、青くんの部屋のドアは開いていた。そっと中を覗くとベッドに横になりながら本を読んでいる姿が目に入る。
「ただいま。調子はどうかな?」
「おかえりなさい。まあまあです」
図書館から借りてきたという本を小脇に置いて、青くんは上半身を起こす。雑談ののち熱を測ってもらうと八度近くあった。
「……風邪なんてひいたことがないんですけど、抗生剤? とか飲んだほうが良いんすかね」
「風邪は基本的にウイルス性だから、抗生剤は飲まなくて大丈夫だよ。安静にしていれば免疫で治っちゃうからね」
「そうなんすね。さすが薬剤師さん」
汗を浮かべながら青くんは微笑んだ。
熱が辛くて眠れないんのねとピンときたので、わたしは話し相手になるべく居候の部屋から一冊の本を持ってくる。
「これ、大学時代の教科書。化学療法論っていって、抗生剤のことだけで科目が一つあったんだ。今思うとすごいよね。他の薬はそうじゃないのにね」
「杏子さんの教科書……。見てもいいっすか?」
「もちろん。面白いかはわからないけど」
薬剤師になった今でも、仕事で分からないことがあると引っ張り出して調べている。
使い込んだ教科書はくたびれているけど、青くんは宝物のように丁寧に受け取った。
「書き込みがいっぱいありますね。……俺の知らない時代の杏子さんが書いたと思うと、なんか悔しいっす」
「あはは、なにそれ。……さっきはちょっと偉そうな言い方しちゃったけど、この科目が一番苦手だったんだよね。だから必死で勉強したの。恥ずかしいな」
パラパラとページをめくっていた青くんは、ふと手を止めた。
「大学、俺も行ってみたかったっす。ずっと格闘技ばっかしてたんで、ろくに勉強してこなくて」
「いくつのときに始めたの? 公式サイトにちょっと書いてあった気がしたけど」
「六歳っすね。小学校に入ると同時に」
「そんな早くから!? すごいんだねえ」
「そんなことないっすよ。……俺んち母親がいなかったんです。親父、放課後子供一人で家に留守番させとくのが心配だったみたいで。それで道場に放り込まれただけっす」
「あ……。そう、なんだ」
お母さんがいないということは初めて知った。まずいことを言わせてしまった気がして謝ると、青くんは「気にしないで」と目で笑う。
「病死だったらしいんですけど、ほとんど記憶にないんです。俺が三歳のときだったから。……話は戻りますけど、そんな感じで男手一つどころか道場で育ったような感じだったんで、勉強とは縁がなくて。ギリギリで高卒っす」
「高校在学中にデビューだもんね。勉強との両立はなかなか難しいよね……」
もし青くんが進学していたら、今は大学四年生か……。
改めて彼はまだ若いことを思い知り、自分がその年だったときより遥かにしっかりしているなあと感心する。
当たり前のように勉強しかしてこなかったわたしからしたら、早くから格闘技一本でやってきている青くんのほうが何倍もすごい。隣の芝は青いというやつだろうか。
「青くんはなんでも一生懸命丁寧にやる人だから、格闘技じゃなくて勉強が相手でもきっと楽しめるよね。……気が早すぎる話ではあるけど、引退したら大学院に行ってみるっていうのはどう?」
「……大学院、っすか?」
初めて聞いた、とばかりに青くんは目を丸くする。
「でもそれって、大卒じゃないとダメっすよね」
「ううん、そうじゃないところも今はあるみたいよ。経済とか健康科学とか、興味に応じて専門的なことを学べるの。社会人の生徒も増えてるって聞くよ」
「……そっか。大学院……。大学院……」
青くんは噛みしめるように何度も繰り返す。
その表情はどこか嬉しそうで、まるで大切な探し物を見つけたかのようだった。
(青くんも、実はいろいろやってみたいことがあったのかな……?)
彼が格闘技に人生を捧げていることについて深く考えたことはなかった。強くてカッコいいなあ、厳しい練習を積んでいてすごいなあと、そういうふうにしか捉えてこなかった。
でもほんとうの青くんは、もっと複雑な想いを抱えて生きているのかもしれない。
きちんと勉強したかったし、高校や大学で友達とワイワイ過ごしてみたかったのかもしれない。
小さいころ、病院のベッドで『強い身体になりたい。学校に行ってお友達と遊びたい』と泣きじゃくっていた自分の姿が重なる。
(なんだか、青くんとの距離が縮まった気がする)
ふふっ、と笑みがこぼれる。別世界の人だと思っていたけど、実はそうじゃないのかも。
振り返ってみても、わたしたちは交わることのない人生を送ってきたと思う。
それがどういうわけか知り合って、身体が入れ替わり、一つ屋根の下に住んでいる。
そんな運命のいたずらが、ほんの一瞬だけ、粋なものに思えてしまったのだった。
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