K.O.(恋に落ちても)いいですか?~格闘家な年下君と、病弱薬剤師な私~
第二十話 Side杏子③
共同生活三日目。
朝起きると、ちょっとしたハプニングが発生していた。青くんが熱を出していたのである。
「あ~……。ごめんね、完全にわたしの身体のせいだ。季節の変わり目ってだいたい風邪ひいちゃうんだよね」
「いや、俺が夜更かししせいだと思います。杏子さんの身体なのにすみません。もっと気を付けていればよかったっす……」
「ううん、気にしないで。夜更かしして平気な時もあるから、普通に運が悪かったんだと思う。むしろごめんね、虚弱な身体で」
体調を崩すのは自己管理不足だ、なんて言われることもあるけど、どんなに気を付けていてもどうにもならないことってあると思う。
幸いこの手の風邪は二日程度で治る軽いものだ。
濡れタオルをおでこに置き、ベッドサイドの机に飲み物と経口ゼリーを用意する。あとは果物があれば乗り切れるはずだから、スーパーで買ってこようか。
「……手際がいいですね」
青くんがポツリとこぼす。
「そう? 慣れてるからかな。ほんとごめんね、今日明日寝ていれば治るはずだから、ちょっと我慢してね」
「……っす。こちらこそ手間かけさせちゃってすみません」
「平気だよ。じゃあ、ちょっとスーパーに行ってくるね」
「ありがとうございます。気を付けて」
近所のスーパーでいつもののど飴を買って青くんに届ける。同じくいつも食べているお粥を作り、りんごを剝いて冷蔵庫にしまっておく。これで寝込む環境は万全だ。
「他に必要なものはあるかな?」
「十分っす。すみません、なにからなにまで」
「看病なら任せてね! 病気になる経験だけは豊富だから。じゃあわたしは出かけるから、なにかあったら連絡してね。ブルー、青くんをよろしく頼んだよ」
「ワンワンッ!!」
「……行ってらっしゃい」
今日はわたしが事故った交差点を見に行こうと思っている。
最後にわたしだったのはあの場所だ。なにか手掛かりでもあればと思ったのだけど――。
「なにもない……。ただの交差点だわ……」
せっかく電車に乗ってここまで来たのに。
がっくりと肩を落とす姿を、通行人がちらちらと一瞥しては通り過ぎていく。
駅に引き返そうと歩行者信号のボタンを押すと、ふと柱の下に薄汚れたものが目に入った。
「……あれっ。これ、ブルーのキーホルダーだ」
合鍵につけていたものだ。キーホルダーの金具だけが鍵に残っていたから不思議だったけど、こんなところに落ちていたのね。
(事故の衝撃で外れちゃったのかな。こんなにボロボロになっちゃって、ごめんね)
大事に拾い上げ、ハンカチにくるんでポケットにしまった。
「……これ以上の収獲はなさそうね。別の場所に移動しよう」
今度こそ駅に戻ってホームのベンチに腰かけていると、ポンと肩を叩かれる。
びっくりして振り返ると並木さんが白い歯を見せていた。
「よお青! なんでこんなところにいるんだ? もうすっかり元気みたいだな!」
「なっ、並木さん! そ、そっちこそどうしてここに!?」
「おいおい、なんだよその驚き方は? 変な奴だな」
並木さんはジムの帰りで、午後は休みだという。
けれども彼は不満そうだ。
「おまえが休んでるせいで俺の仕事がないんだよ。暇を持て余して半日で帰るマネージャーの身にもなってくれ」
「いつも忙しいんですから、たまには休んだほうがいいですよ」
「ほんとうにどうしたんだよ青。生死をさ迷ったせいで性格が変わっちまったのか? それとも小森さんの影響で人間らしくなったんか? それなら喜ばしいことだが……」
これはまずい。青くんのマネージャーである並木さんはさっそく違和感を感じている。
ボロが出る前にこの場を離れた方がよさそうだと思ったのに、並木さんはわたしの肩にガシッと腕を回した。
「よし青、今からミーチューブの撮影するぞ! どうせ暇すぎてウロウロしてたんだろ? おまえのことならなんでもお見通しだからな」
「えっ!? 今からですか!?」
「思い立ったが吉日! なに、大丈夫だ。機材はいつも持ち歩いてるし、簡単な企画にしとくから」
「ちょっと……!!」
青くんより背は低いけれどガタイのいい並木さんに引きずられるようにして改札を出る。
近くのカフェに入り、お客さんがあまりいないテラス席を希望した並木さん。席に着くとニコーっと営業用のスマイルを浮かべた。
「はいっ! では今日は、格闘家空谷青のカバンの中身チェックをやりまーす!!」
「か、カバンの中身チェック??」
「はいはい空谷選手。もうカメラ回ってますからねー」
「えぇ……??」
混乱するわたしに向かって並木さんは「早くカバンを開けろ! 中身を出せ!」とジェスチャーする。
(急すぎない? 前から思ってたけど、並木さんって青くんに対しては容赦がないというか、結構スパルタなんだよなぁ)
しぶしぶ背負ってきたリュックのチャックを開ける。
そんな面白いもの、持ってきてないけどなあ……。
「えっと……別に普通ですよ。財布にタオルに飲み物に……あとはポーチが二つです」
「おっと~!? そのポーチの中身も見せてもらいましょう! 結構いっぱい中身が入ってるように見えますね!?」
Metube用の並木さんはちょっとテンションが高い。
「こっちのポーチには薬が入ってます。体質を整える漢方とか、あとは整腸剤とか胃薬とか。絆創膏も入ってます」
「空谷選手は漢方を飲んでるんですね! 長い付き合いですけどこれは僕も初めて知りました~!」
「あっ……! まあ始めたのは最近です。花粉症をきっかけに飲み始めたんですけど、なんか興味が湧いちゃって。この吸入薬は風邪ひいたときに使ったやつがまだ入ってるだけです。ハハハ……」
漢方が二種類に胃薬、整腸剤、喘息の吸入薬。自分が使う何の変哲もない薬ポーチだけど、並木さんからすると意外だったらしい。冷汗がどっと沸いてくる。
(そっ、そりゃあそうか。青くんは健康そのものだもの。こんなに薬を飲んでたらおかしいか……)
花粉症のことは並木さんも知っているはずなので、それと関連付けながらどうにかその場を切り抜けた。――と思いたい。
「これは空谷選手の意外な一面が見られましたね~! じゃあ次のポーチをお願いします!」
そういう意味ではもう一つのポーチも青くんとはイメージ違いなんじゃないだろうか、と冷汗が止まらない。
「あー。こっちは美容品関係ですね……」
青くんと入れ替わっているものの、美容品は使い慣れた自分のものを使い続けている。
犯罪の証拠品でも並べているような気持ちでポーチから品物を取り出していく。
化粧水に乳液、ヘアミスト、汗拭きシートなど。ついいつもの癖で一式カバンに入れていた。
「おっと!? 女子力の高いアイテムが出てきましたね。一つずつ説明してもらえますか?」
「あ、はい。この化粧水は敏感肌でも使えるので重宝してます。乳液は出先で乾燥が気になったときにポイントで塗ります。汗拭きシートはこの香りが一番好きで――」
身体が丈夫でなかったわたしは、こういう美容グッズが好きだった。社会人になってからはちょっとご無沙汰になってたけど、家の中でできる趣味としてあれこれ試すのが好きで、語らせるとちょっと話は長くなる。
お気に入りの品を紹介できるのが嬉しくて、つい詳しく喋ってしまった。
撮影が終わってカメラを止めた並木さんは驚いていた。
「いやあ、完全に小森さんの影響だな。前までは『化粧水? なんすかそれ』だったじゃんか。今のうちに始めておけって俺が押し付けたやつを使ってると思ってたのに」
「ハハハ……。ってかポーチのくだりはカットにしません? 俺のイメージと違いますよね」
「バカ、なに言ってんだ。ポーチの話こそ使わなきゃダメだろ。人間ってのは意外性に弱いんだ。空谷青も身体に気を使っていて、美容にこだわってるって一面は貴重だろ」
「そんなもんですかね……」
「そうだよ。じゃあ、お疲れな。元気そうで安心したよ。早くジムにも顔出せよな!」
並木さんはさっそく動画の編集をするとのことでネットカフェに行くという。なんとなく、家に帰るのを先延ばしにしているように見えた。
(ずっと泳いでいないと死んじゃうマグロじゃあるまいし。すごく仕事が好きなんだなぁ)
わたしは並木さんとは反対方向に歩き出す。
青くんの体調が気になったので、一度家に帰ることにした。
朝起きると、ちょっとしたハプニングが発生していた。青くんが熱を出していたのである。
「あ~……。ごめんね、完全にわたしの身体のせいだ。季節の変わり目ってだいたい風邪ひいちゃうんだよね」
「いや、俺が夜更かししせいだと思います。杏子さんの身体なのにすみません。もっと気を付けていればよかったっす……」
「ううん、気にしないで。夜更かしして平気な時もあるから、普通に運が悪かったんだと思う。むしろごめんね、虚弱な身体で」
体調を崩すのは自己管理不足だ、なんて言われることもあるけど、どんなに気を付けていてもどうにもならないことってあると思う。
幸いこの手の風邪は二日程度で治る軽いものだ。
濡れタオルをおでこに置き、ベッドサイドの机に飲み物と経口ゼリーを用意する。あとは果物があれば乗り切れるはずだから、スーパーで買ってこようか。
「……手際がいいですね」
青くんがポツリとこぼす。
「そう? 慣れてるからかな。ほんとごめんね、今日明日寝ていれば治るはずだから、ちょっと我慢してね」
「……っす。こちらこそ手間かけさせちゃってすみません」
「平気だよ。じゃあ、ちょっとスーパーに行ってくるね」
「ありがとうございます。気を付けて」
近所のスーパーでいつもののど飴を買って青くんに届ける。同じくいつも食べているお粥を作り、りんごを剝いて冷蔵庫にしまっておく。これで寝込む環境は万全だ。
「他に必要なものはあるかな?」
「十分っす。すみません、なにからなにまで」
「看病なら任せてね! 病気になる経験だけは豊富だから。じゃあわたしは出かけるから、なにかあったら連絡してね。ブルー、青くんをよろしく頼んだよ」
「ワンワンッ!!」
「……行ってらっしゃい」
今日はわたしが事故った交差点を見に行こうと思っている。
最後にわたしだったのはあの場所だ。なにか手掛かりでもあればと思ったのだけど――。
「なにもない……。ただの交差点だわ……」
せっかく電車に乗ってここまで来たのに。
がっくりと肩を落とす姿を、通行人がちらちらと一瞥しては通り過ぎていく。
駅に引き返そうと歩行者信号のボタンを押すと、ふと柱の下に薄汚れたものが目に入った。
「……あれっ。これ、ブルーのキーホルダーだ」
合鍵につけていたものだ。キーホルダーの金具だけが鍵に残っていたから不思議だったけど、こんなところに落ちていたのね。
(事故の衝撃で外れちゃったのかな。こんなにボロボロになっちゃって、ごめんね)
大事に拾い上げ、ハンカチにくるんでポケットにしまった。
「……これ以上の収獲はなさそうね。別の場所に移動しよう」
今度こそ駅に戻ってホームのベンチに腰かけていると、ポンと肩を叩かれる。
びっくりして振り返ると並木さんが白い歯を見せていた。
「よお青! なんでこんなところにいるんだ? もうすっかり元気みたいだな!」
「なっ、並木さん! そ、そっちこそどうしてここに!?」
「おいおい、なんだよその驚き方は? 変な奴だな」
並木さんはジムの帰りで、午後は休みだという。
けれども彼は不満そうだ。
「おまえが休んでるせいで俺の仕事がないんだよ。暇を持て余して半日で帰るマネージャーの身にもなってくれ」
「いつも忙しいんですから、たまには休んだほうがいいですよ」
「ほんとうにどうしたんだよ青。生死をさ迷ったせいで性格が変わっちまったのか? それとも小森さんの影響で人間らしくなったんか? それなら喜ばしいことだが……」
これはまずい。青くんのマネージャーである並木さんはさっそく違和感を感じている。
ボロが出る前にこの場を離れた方がよさそうだと思ったのに、並木さんはわたしの肩にガシッと腕を回した。
「よし青、今からミーチューブの撮影するぞ! どうせ暇すぎてウロウロしてたんだろ? おまえのことならなんでもお見通しだからな」
「えっ!? 今からですか!?」
「思い立ったが吉日! なに、大丈夫だ。機材はいつも持ち歩いてるし、簡単な企画にしとくから」
「ちょっと……!!」
青くんより背は低いけれどガタイのいい並木さんに引きずられるようにして改札を出る。
近くのカフェに入り、お客さんがあまりいないテラス席を希望した並木さん。席に着くとニコーっと営業用のスマイルを浮かべた。
「はいっ! では今日は、格闘家空谷青のカバンの中身チェックをやりまーす!!」
「か、カバンの中身チェック??」
「はいはい空谷選手。もうカメラ回ってますからねー」
「えぇ……??」
混乱するわたしに向かって並木さんは「早くカバンを開けろ! 中身を出せ!」とジェスチャーする。
(急すぎない? 前から思ってたけど、並木さんって青くんに対しては容赦がないというか、結構スパルタなんだよなぁ)
しぶしぶ背負ってきたリュックのチャックを開ける。
そんな面白いもの、持ってきてないけどなあ……。
「えっと……別に普通ですよ。財布にタオルに飲み物に……あとはポーチが二つです」
「おっと~!? そのポーチの中身も見せてもらいましょう! 結構いっぱい中身が入ってるように見えますね!?」
Metube用の並木さんはちょっとテンションが高い。
「こっちのポーチには薬が入ってます。体質を整える漢方とか、あとは整腸剤とか胃薬とか。絆創膏も入ってます」
「空谷選手は漢方を飲んでるんですね! 長い付き合いですけどこれは僕も初めて知りました~!」
「あっ……! まあ始めたのは最近です。花粉症をきっかけに飲み始めたんですけど、なんか興味が湧いちゃって。この吸入薬は風邪ひいたときに使ったやつがまだ入ってるだけです。ハハハ……」
漢方が二種類に胃薬、整腸剤、喘息の吸入薬。自分が使う何の変哲もない薬ポーチだけど、並木さんからすると意外だったらしい。冷汗がどっと沸いてくる。
(そっ、そりゃあそうか。青くんは健康そのものだもの。こんなに薬を飲んでたらおかしいか……)
花粉症のことは並木さんも知っているはずなので、それと関連付けながらどうにかその場を切り抜けた。――と思いたい。
「これは空谷選手の意外な一面が見られましたね~! じゃあ次のポーチをお願いします!」
そういう意味ではもう一つのポーチも青くんとはイメージ違いなんじゃないだろうか、と冷汗が止まらない。
「あー。こっちは美容品関係ですね……」
青くんと入れ替わっているものの、美容品は使い慣れた自分のものを使い続けている。
犯罪の証拠品でも並べているような気持ちでポーチから品物を取り出していく。
化粧水に乳液、ヘアミスト、汗拭きシートなど。ついいつもの癖で一式カバンに入れていた。
「おっと!? 女子力の高いアイテムが出てきましたね。一つずつ説明してもらえますか?」
「あ、はい。この化粧水は敏感肌でも使えるので重宝してます。乳液は出先で乾燥が気になったときにポイントで塗ります。汗拭きシートはこの香りが一番好きで――」
身体が丈夫でなかったわたしは、こういう美容グッズが好きだった。社会人になってからはちょっとご無沙汰になってたけど、家の中でできる趣味としてあれこれ試すのが好きで、語らせるとちょっと話は長くなる。
お気に入りの品を紹介できるのが嬉しくて、つい詳しく喋ってしまった。
撮影が終わってカメラを止めた並木さんは驚いていた。
「いやあ、完全に小森さんの影響だな。前までは『化粧水? なんすかそれ』だったじゃんか。今のうちに始めておけって俺が押し付けたやつを使ってると思ってたのに」
「ハハハ……。ってかポーチのくだりはカットにしません? 俺のイメージと違いますよね」
「バカ、なに言ってんだ。ポーチの話こそ使わなきゃダメだろ。人間ってのは意外性に弱いんだ。空谷青も身体に気を使っていて、美容にこだわってるって一面は貴重だろ」
「そんなもんですかね……」
「そうだよ。じゃあ、お疲れな。元気そうで安心したよ。早くジムにも顔出せよな!」
並木さんはさっそく動画の編集をするとのことでネットカフェに行くという。なんとなく、家に帰るのを先延ばしにしているように見えた。
(ずっと泳いでいないと死んじゃうマグロじゃあるまいし。すごく仕事が好きなんだなぁ)
わたしは並木さんとは反対方向に歩き出す。
青くんの体調が気になったので、一度家に帰ることにした。
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