K.O.(恋に落ちても)いいですか?~格闘家な年下君と、病弱薬剤師な私~

優月アカネ@note創作大賞受賞

第十一話

「えっ……」

驚いて言葉を失うと、空谷選手は頬を赤く染めた。

「杏子さんを初めて見かけたのは今年の四月でした。恵比寿の商店街で、転んだお婆ちゃんを助けてたっす」

……そういえば、そんなこともあったような。就職したばかりだったからあんまり覚えてないけど……。
当時は毎日に必死すぎて、空谷選手の動画とも出会っていないころだ。

「俺は少し離れたところにいたんすけど、見て見ぬふりをして通り過ぎる人も多くて。助けに行こうと思ったら杏子さんが駆け寄ったんです」
「よっ、よく覚えてるね……」
「……正直、その時は優しい女の子だなって思っただけでした。でも、その次の日にテーピング切らしちゃって、たまたま買いに入った薬局で杏子さんを見つけたっす。覚えてないっすか? レジしてくれたの」
「ごめん。まだ格闘技にハマる前だったから覚えてないです……」

まさか空谷選手の方が先にわたしを認識していたなんて。照れと恥ずかしさで顔が真っ赤になる。

「白衣がよく似合ってて、笑った顔も可愛くて。……もう好きになってたっす。今までそういう気持ちになったことがなかったんで不思議な感覚でした」

「ひぇ」と小さな悲鳴が出た。嬉しいはずなのになんだか泣きそうな気持ちになる。
それくらい空谷選手の真剣さとまっすぐな感情が伝わってきた。

「なんとか接点持てないかって考えてたんすけど、俺風邪とかひかないし、テーピングも基本はジムの備品があるし……。だから七月のあの日、杏子さんとぶつかったのは奇跡でした。驚きすぎて何もできなかったことをめちゃくちゃ引きずったっすけど」

だからキーホルダーを失くしたのは不幸中の幸いだった、と彼は言う。

「格闘技に興味ないかなと思ってたんで、試合を見に来てくれた時はすげえ嬉しかったっす。いいとこ見せようって気合入りました。それで翌日、勇気出して処方箋を持って行ったんです。ちょうどと言っていいか分かんないですけど、花粉症になっちゃったんで」
「そ、そうだったの……。あの試合、すごかったよね。生で観戦するのは初めてだったんだけど、すごく感動した」

キーホルダーのお礼にといただいたSS席チケットの試合。空谷選手は1Rで見事に相手選手をKOしていた。

「見ての通り俺は暗いし、しゃべりも下手です。なに考えてるか分かんないってよく言われます。でも杏子さんはいつも元気で明るい。それがすごく眩しくて……もっと俺のことを見てほしいって思うんです」
「…………」
「…………」

沈黙が流れる。
これはわたしの返事を待っているのかしら? そう思うと頭の中がいっそう熱くなってぐるぐるしてくる。

(空谷選手はすごく優しいし、一挙手一投足にドキドキしている自覚もある。でも……)

これの気持ちは憧れが高まりすぎたものなのか、恋愛感情なのか、はたまた一時の浮かれたミーハーなものなのか、正しく判断ができなかった。

結局、ちっぽけなわたしにできることは今の思いを正直に伝えることだけだった。

「……ごめんなさい。空谷選手の気持ちは嬉しいんですけど、ちょっと時間をもらえませんか? 自分でも自分の気持ちがよくわからなくて……。こんな状態で返事をするのは良くないと思うんです」
「わかりました。急かすつもりはないです。先に気持ちだけでも伝えときたくて。他の男に杏子さんをとられたら嫌なんです」
「そっ、その心配はないですよ。わたし全然モテないので。あはは……」

異性と遊ぶより女友達と過ごしてばかりいたから、恋愛経験は皆無と言ってもいい。当然告白されたことも無いから空谷選手の心配は杞憂だ。

けれども彼は眉間に皺を寄せる。

「薬局のお客さんにも男はいるでしょ。杏子さんを狙ってるやつ絶対いますから」
「いや……ほんとうに無いんです……」

彼は胡乱な目でわたしを見ているけど、事実なんだから仕方ない。

「……。まあいいです。とりあえず俺、三月にタイトル戦があるんです。そこでチャンピオンになったらもう一回返事を聞きますね」

ケーキと飲み物のマグカップを片付けようと、空谷選手が立ち上がる。

「あ、自分のは自分で片付けます。空谷選手は自分のを持って――」
「青、って呼んでください。もし嫌じゃなかったら」
「そっ、そんな! 呼び捨てだなんて」

恐れ多すぎる。わたしはただの薬剤師で、相手は格闘界のエースだ。
空谷選手はじっとわたしの顔を見つめたあと、空いた食器の乗ったトレーを静かに机に置き、おもむろにわたしの手を取った。

「ひゃっ!?」
「杏子さんにはそう呼んでほしいんです。選手だなんて呼ばれてると、いつまでも距離感じます。……だめっすか?」

拗ねたような、はにかむような表情。
ずるいと思った。そんな顔をされたら断れるわけがない。

空谷選手の手は格闘家とは思えないほど綺麗だった。長い指に整った爪。それでもしっかり筋は浮き出ていて、男の人なんだと思わされる。
この美しい手であんなパンチを繰り出しているのかと思うと、やっぱりわたしは目の前の人がよくわからなくなる。

……でも。自分の気持ちを知るためにも、これは必要な一歩なのだと思う。
薬剤師と患者さん、あるいは一ファンと格闘家という関係から踏み出すための。

「……わかりました。でも、呼び捨ては気が引けるので”くん”をつけます」
「……! ありがとうございます。嬉しいっす!」

空谷選手――青くんは幸せそうに目を細めた。

激動の一年の終わりに彼のそんな顔を見ることができて、わたしも「来年は、きっと今年よりいい年になりそうだわ」と、自然と頬が綻んだのだった。

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