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お気に入りの音楽 3

ノベルバユーザー607660

有線大賞80年代

 私が音楽に夢中になった時代は、レコードとカセットテープが主流だった。
 初めてCDを聴いた時はすごい違和感があった。なんだろう? 今ではわからないが。
 CDが発売されたのは1982年。それから5年でレコードシェアを追い越した。
  
 今また、レコードブームだという。すでに大量のレコードは場所を取るので廃棄した。
 今はCDさえ聴かない。携帯と小さなスピーカーだけ。
 便利だが……

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1989年 大賞 Diamonds   :    プリンセス・プリンセス
https://youtu.be/IKjRLKQo7O0

 どうしてもヴァイオリンを弾いてみたくて、2駅先のヤマハまで、電子ヴァイオリンを習いに行った。
 同じグループにすごい方がいた。
 テレビで『おばプリ』という企画があって、ヴォーカルでテレビに出演した。
 素人のおばさんが集まりプリプリの曲を演奏する特集。合宿の様子からコンサートまで。
 これ、オーディションで選ばれたことになっていたが、ほとんどコネだったらしい。
 その方は最後は堂々とMを歌い終えた。

M プリンセス・プリンセス
https://youtu.be/m_RDUv0109A

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1988年有線音楽賞 百万本のバラ :    加藤登紀子
https://youtu.be/wOq-gV8dNPw

「百万本のバラ」は、ラトビアの歌謡曲
『Dāvāja Māriņa』(マーラが与えた人生)
を原曲とするロシア語の歌謡曲。
 もともとの歌詞は、画家や薔薇とはまったく関係ない。

 ラトビアは、小国ゆえに歴史的に近隣のスウェーデン、ポーランド、ロシア、ドイツなどによって絶えず侵略・蹂躙されてきた。
 独立への思いを抱きながらも、多くの時間においてそれを成すことができなかった。
 詩人ブリディスは、そんなラトビアの悲劇の歴史を「幸せをあげ忘れた」と表現し、これにパウルスが旧ソ連時代の1981年に曲を付け、女性歌手アイヤ・クレレがラトビア語で叙情豊かに歌ったのが最初だった。

『Dāvāja Māriņa』(マーラが与えた人生)
https://youtu.be/0uuGafmr5vE

 子守唄のように優しく歌いながら、実はそこには民族の自尊心とソ連への抵抗への思いが込められていたのだという。

 しかし、当時支配者だったロシア人は、原語のそんな意味も分からず、魅力的なメロディーだけを歌い継ぐこととなった。
 ボズネンスキーという男が作詞したロシア語の歌詞では、なぜかグルジア出身の放浪の画家ニコ・ピロスマニを題材とした“悲恋”が描かれ、それをロシアの人気女性歌手アーラ・プガチョワが唄って大ヒットさせたのだ。
https://search.yahoo.co.jp/amp/www.tapthepop.net/imanouta/51612/amp%3Fusqp%3Dmq331AQIKAGwASCAAgM%253D

百万本のバラ アーラ・ブガチョワ
https://youtu.be/dPZdC792zo0

 日本語でも歌われる「百万本のバラ」などのヒット曲で知られるロシアの国民的女性歌手アーラ・プガチョワさんは、ウクライナ侵攻を批判した夫が、ロシア政府からスパイを意味する「外国のエージェント(代理人)」に指定されたため、
「夫への連帯として、私も指定してほしい」
と訴える声明を発表し、侵攻を批判した。
 プガチョワさんは、侵攻を続けるプーチン政権に反対の立場を明確にした。
 プガチョワさんは2009年、60歳の誕生日に当時のメドベージェフ大統領から「祖国功労勲章」を授与されている。
https://news.yahoo.co.jp/articles/

 ラトビアは、1918年11月に独立を宣言したものの1920年まで内戦状態が続き、1940年には独ソ密約により旧ソ連の領土となった。
 そして、1941年から1945年までナチス・ドイツの占領を経て、再びソ連領となる。
 その間、1940年から1949年にかけて約8万にも及ぶラトビア人がシベリアに流刑され、また多くの国民が難民として国外に亡命した。
 この結果、1939年にはおよそ73%いたラトビア民族は、1989年には52%にまで減少した。
 
 この詩は大国の犠牲となった悲しみの象徴。
「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」
 エストニアでは、ナチの占領期間に1万というユダヤ人が殺され、ラトビアでは約8万5千のユダヤ人が殺されている。
 バルトの神話、女神マーラは、ユダヤ人には生も幸も授けず、迫害と死を与えた……
 1982年に、「マーラが与えた人生」は、ロシアのアラ・ブガチョワの持ち歌「百万本のバラ」にかわった。
 放浪の画家ピロスマニが女優マルガリータのホテルの前を花で埋め尽くしたという伝説をもとに詩を創作した。

 原曲の詩のまま、ロシアで訳すわけにはいかなかったのだ……
https://ameblo.jp/merrymorrow/entry-12365695938.html
  
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1987年有線音楽賞 愛しき日々 :    堀内孝雄
https://youtu.be/abdoobSe3kg

 表題曲は、日本テレビ系の年末時代劇『白虎隊』(1986年)の主題歌として使用された、堀内の代表曲の一つ。

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1986年新人賞 夜霧のハウスマヌカン :   やや
https://youtu.be/uMbgp9ya4mY

 日本中がバブル景気に向かっていた1986年。今となっては死語化した「ハウスマヌカン」をテーマにしたパロディーソング。

 これは、テレサ・テンのカバー曲しか聴いたことがなかった。パロディか。
 テレサが歌うと、哀愁……名曲!
 
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1985年 Romanticが止まらない :   C-C-B
https://youtu.be/lvgQTF6R3XI

「Romanticが止まらない」などのヒット曲で知られるバンド「C-C-B」でドラマーなどとして活躍した笠浩二さんが2022年12月14日、脳梗塞のため亡くなった。60歳。
 笠浩二さんは、福岡県で生まれ、1982年に「C-C-B」の前身となるバンドを結成してドラムやボーカルを担当し、翌年メジャーデビューした。

 バンド名を「C-C-B」に改名した1985年には笠さんがリードボーカルを担当した「Romanticが止まらない」をはじめ、「スクール・ガール」、「Lucky Chanceをもう一度」など次々とヒット曲を発表し、その年の紅白歌合戦にも出場。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221218/k10013926831000.html
  
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1984年有線音楽賞 浪花節だよ人生は :   木村友衛
https://youtu.be/KT-9b9MZ4Ok

『浪花節だよ人生は』作詞は藤田まさと作曲は四方章人。小野由紀子が最初に歌い、のちに二代目木村友衛の歌唱によって人気を得る。その後は細川たかしなど多くの歌手によりカバーされて有名になった。
 最初は1976年に小野由紀子の歌唱によりシングルのB面曲として発表された。その後、この曲の歌詞を自分の人生の引き写しのように感じたという木村友衛が藤田に直訴して1981年1に歌い始めると、地道なキャンペーンの努力が実り徐々に人気を獲得するようになった。これを受けて歌手16人、レコード会社13社による競作としてレコードが制作され、1984年にその人気は最高潮に達した。同年大晦日の第26回日本レコード大賞では細川たかしが最優秀歌唱賞、木村が特別賞を受賞し、紅白歌合戦では水前寺清子と細川による同曲対決が行われた。

 この歌は父が好きだった。母に先立たれ、酒を飲むと、よく歌っていた。

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1983年有線音楽賞 夢芝居 :   梅沢富美男
https://youtu.be/dao-92GZD9c

 元々歌うつもりはなかったが、当時売れている役者は歌を出す風潮があった。それを断るには無理難題を押し付けるしかないと考えた梅沢は、小椋佳が楽曲提供するなら、と断るつもりで提案した。
 丁度ディレクターが以前勤めていた第一勧業銀行(現在のみずほ銀行)での小椋の後輩で、その縁を元に当時現職の行員だった小椋に頼み込んだらOKが出たので梅沢曰く「歌う羽目になった」という。

 一方小椋は『夢芝居』の制作の同時期に別の人から童謡を作るよう依頼されていた。
 午前中に満足の行く童謡(曲名は不明)が仕上がったが、午後から『夢芝居』を作るのに少し疲れてしまったという。 
 そこで、長調だった童謡のメロディを短調に変えて完成させたのが『夢芝居』である。

 ボクの場合、ピアノもギターも弾けないし、楽譜も読めない。だから、詞を書いて、テープレコーダーを回して歌っちゃうだけです。録音した歌を、楽譜に書き起こしてくれる人に頼んで、あとはアレンジャーにまわって、アレンジがつくという流れ」
 梅沢富美男に提供した『夢芝居』のキャッチーなイントロは、アレンジャーが作ったものだ。
 
「最近、梅沢さんが出演するレモンサワーのCMでも使用されて、ボクのところに印税がウン百万円入りましたが、あのイントロ、ボクは作っていないんだよなあ(笑)」
https://jisin.jp/entertainment/interview/2174434/2/


 イントロの拍子木は梅沢富美男本人が叩いたのが、そのまま採用された。

「なんせ歌なんて歌ったことがなかったから、全く気持ちが歌に乗っていかない。でもね、役者って拍子木が鳴ったら、どこでもスイッチが入っちゃうものなんです。
 それで試しに打ってみたら、背筋もピンとなるし、これまたイントロともうまくマッチしちゃった。
 小椋さんも「いいじゃないか」ってことで、そのまま採用されることになったというわけです」
(Wikipedia)

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1982年 心の色 :   中村雅俊
https://youtu.be/gaXlqJfGi3A

『心の色』は中村の主演したドラマ『われら動物家族』挿入歌であり主題歌。
 元々当ドラマの主題歌は堀江淳の歌う『ルージュ』で『心の色』は挿入歌であったが、本曲の反響が大きかったことから第8話以降は主題歌として用いられるようになった。
 本曲のヒット当時、『ザ・ベストテン』ではサザンオールスターズの『チャコの海岸物語』と1位の座を争った縁で桑田佳祐は、後に中村の代表曲の一つとなる『恋人も濡れる街角』を中村のために書き下ろしている。
 2009年に放送に放送された『地球街道』のロケで中村が作詞者の大津あきらの母から聞いた話によると、大津は実家(山口県長問市仙崎)近くの日本海に沈む美しい夕陽に感動して本曲の歌詞を作ったとのこと。大津逝去の翌年である1998年長門市仙崎の海岸沿いに本曲の歌碑が建てられ、中村のコメントを記した碑が一緒に建っている。

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1981年大賞 奥飛騨慕情 :   竜鉄也
 https://youtu.be/c_qKXOFVOI0

 郡上八幡のスナックで歌っていたところ、作詞家の喜多條忠の目に留まり、1980年にトリオレコードから発売された。
 有線放送から徐々に注目されるようになり、発売から6ヶ月経ってオリコンのトップ10に初登場した。
 1981年に第14回日本有線大賞を受賞し、同年の『第32回NHK紅白歌合戦』にも自身唯一の出場を果たした。
 1981年オリコン年間シングル売上ランキングでは寺尾聰の『ルビーの指環』に次いで2位となった。
 オリコンチャート集計による累計売り上げ枚数は約150万枚。
 奥飛騨温泉郷の新平湯温泉に歌碑が建てられている

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1980年有線音楽賞 ダンシング・オールナイト :    もんた&ブラザーズ
https://youtu.be/adu4_yzQjes

 1971年にソロ歌手としてデビューするも思うようなヒットを出せなかったもんたよしのりがレコード会社と再起をかけた思いで結成したバンド・もんた&ブラザーズのデビュー曲。
 当時、もんた本人は「売れるわけないやん」とすっかり弱気になっており、これが最後のレコーディングになるだろうと思っていたが、発売前から有線放送で火がつき各地で第1位を獲得。オリコンチャートでも10週連続で第1位を独走した。
 1980年代(集計期間:1979年12月 - 1989年11月)オリコンチャートシングル売上ランキング第1位。累計売上は200万枚。

 もんたさんの声が好きで、アルバム買いました。

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