負けず嫌いでツヨツヨな人魚姫は、絶対に隣国の王女なんかに王子さまを渡さない!
八話 思いの強さ
500年ほど昔、魔女ヘレは実在する人物として恐れられた。
愛する男に裏切られたヘレの怒りによって、一国が海の下へ沈んだからだ。
ヘレはほとほと人間の汚さに愛想をつかし、それ以来姿を隠したという。
再び人の世にヘレが現れたとき、それが何を意味するのか。
まだ誰も知らない――。
「父さん、間違いないんですね?」
「間違いない、伝説の魔女ヘレだ。童話集にもかなり婉曲的に書かれているが、その実力は本物だ。昔この大陸は、もっと陸続きだったのだ。それが途切れているのはヘレがそこにあった一国を、丸ごと海にしてしまったからだと言われている」
「では、兄さんはどうなるんでしょう?」
「魔女ヘレならば、人間など、何にでも変身させられるだろう」
◇◆◇
「いいねえ、若さと勢いがあって。その言葉に二言はないね?」
魔女はヴィンセントの意志の強さを確かめるように聞いてきた。
「二言はない。ノアは脚の痛みに耐え、声を失った。俺も同じ、いやそれ以上の辛苦だって受け入れる」
こぶしを握って力説したヴィンセントに、うんうんとうなずき、魔女は袖口の隠しから細い小瓶を取り出す。
ノアが飲み干した薬に似ていた。
ヴィンセントの目線の高さでふりふりと振って、これが薬だと言う。
「ノアに渡した薬とはちょっと違う。私は人間には厳しめなんでね。とくに愛を口にする人間には用心が必要だと学んだんだ。だからお主には、この薬を渡そうと思う」
「これを飲めば、ノアに会いに行けるのか?」
「そうだ、ノアには会えるだろう。だが、そこから先、どうなるかはノア次第だ」
「ノアと共にいられるのではないのか?」
「お主がノアに望まれれば、それも叶うだろう」
「……分かった、飲もう」
ヴィンセントは薬の蓋を取る。
止めるんだ! と父の声が聞こえた気がした。
だがすでに、心はノアのもとへ旅立っていたヴィンセントには届かない。
喉をそらせ、グイッとひと息で飲み干す。
途端にめまいを覚えて、ヴィンセントは砂浜にどうっと倒れた。
体が硬くなっていく。
服がズルズルとまとわりついて邪魔だ。
海へ行かなくては。
行きたい場所があるんだ。
会いたい人がいるんだ。
ああ、誰だったか。
会いたい。
ヴィンセントの思考は、複雑だった人間のそれからかけ離れていく。
ただただ強い思いに突き動かされ、必死に手を動かして海に出た。
波に乗り、身をまかせ、手と足をかき、前へ前へと。
海岸には、ヴィンセントが着ていた服が残った。
高台から慌てて駆け下りてきた父とオスカーは、それを掴んで号泣した。
「何も心配することはないよ」
そこへ魔女が声をかけてきた。
「ちょっと恋の試練を与えただけさ。相手はノアだ、大丈夫だよ」
「何が大丈夫なものか! てっきりヴィンセントは人魚になるのだと思っていた! なのに、あれは……!」
「兄さんはあの姿でなくてはいけなかったのでしょうか? 魔女どの、どうして大丈夫だと言えるのですか?」
すっかり取り乱している父に代わり、まだ思考力が残っているオスカーが質問する。
「お前さんたちはノアを見くびっている。あの子はただの優しい子じゃない。周りにいる者を虜にしてしまう魅力を持った人魚姫で、間違いなく次代の海王だ。あの子の家族しかり、海洋生物しかり、私だってそうだ。あの子のために力になりたいと、自然と思って尽くしてしまう。人間の世界でも、あの子に夢中になっていたのは王子だけじゃないはずさ」
オスカーは思い出す。
一糸乱れぬ統率を見せていたノアの侍女たちを。
「そんなあの子が、唯一と見染めたのがあの王子だ。確かに初めは金髪に惹かれたんだろう。海の底に住まう私たちは、太陽を思わせるものを好む。仕方がない習性だよ。王子はそれで命拾いをして、あの子からの愛を注がれるようになったんだ。僥倖すぎる」
だから、ちょっとくらい苦杯を舐めてもいいだろう?と魔女は続けた。
「あの子の愛はそれだけ価値があって深いんだ。すぐに心が移り変わる人間にはもったいないほどにね。だからこそ、大丈夫だと言っている。あの子なら分かる。王子がどんな姿をしていようと、絶対に気づく。私の魔法がどれだけ完璧でも、あの子は見破ってしまうだろうよ」
魔女は純粋なノアを愛おしそうに語る。
オスカーはそれほどノアと接触をしてこなかったので、話半分という感じだ。
「それは、どんな能力なのですか?」
「能力? 違うね、人間の言葉にあるだろう? 愛の力ってやつさ」
◇◆◇
その日もノアは部屋に引きこもっていた。
思い出すのはヴィンセントと過ごした楽しい日々ばかり。
ゴン……
脚の痛みなんて全然平気だった。
ずっとヴィンセントが抱っこしてくれたから。
声が出なくても構わなかった。
だってヴィンセントが文字を教えてくれたもの。
ゴン……
大好きなヴィンセントと一緒にいられて幸せだった。
もっと一緒にいたかった。
私が人間だったなら。
ゴン……
ヴィンセント、会いたいよ。
ゴン……
さっきから何かがぶつかる音がする。
じめじめした思考から、ふとノアは戻ってきた。
私の部屋の外壁だ。
軟禁から抜け出すためにぶち破って、その後に修繕された壁。
その壁に、何かがずっとぶつかっている。
潮の流れで漂流してきた木っ端だろうか?
ノアは久しぶりに立ち上がると、窓を開けて外を見た。
修繕したせいでちょっと色の違う壁に、大きなウミガメが頭をぶつけていた。
ゴン……
◇◆◇
思考を失くしたヴィンセントは、ひたすら海を泳いだ。
目には見えないが、道がある気がする。
会いたいものまで繋がっているそれを、今は必死にたどっている。
どうやって泳いでいるのかは自分では分からない。
ただ手足を動かしているという感覚だけがある。
ちらちら視界に入る手は、明らかに人間の物ではない。
だがそれを、どうこう思う気持ちはない。
会いたい。
会いたい。
ただそれだけで。
ずいぶん泳いだ先に、城が見えた。
海の中なのに城だ。
だがそこに道は続いている。
心のすべてで願う。
会いたいんだ、君に。
◇◆◇
「オオウミガメ?」
ノアは窓からするりと外へ出てくる。
ノアが近づいてようやく、ウミガメは頭を打ちつけるのを止めた。
ウミガメはノアに向かって手をばたつかせる。
なにか言いたいことでもあるのかな?
「どうしたの? 頭をぶつけていたけど痛くない?」
ノアはウミガメの頭に手をやり、撫でてやる。
途端にウミガメは大人しくなり、されるがままになった。
「いい子だね。どこから来たの?」
ノアはウミガメの顔を覗き込む。
そして視線があった。
恋焦がれた紫色の瞳。
愛していると熱烈に告げて止まないヴィンセントの瞳が、そこにあった。
「ヴィンセント! どうして!?」
ノアは両手でウミガメの顔をはさむ。
ウミガメはまた手をばたつかせ始めた。
ちょっと体勢が苦しいらしい。
ノアは慌てて手をどけると、ウミガメをぎゅっと抱きしめた。
「会いに来てくれたの? 私に? ウミガメになって?」
海の中だが、ノアの青い瞳が潤んで、そこから涙が零れているのが分かった。
ウミガメは頭を上下に振って、肯定している。
手をばたつかせているのは、抱擁しかえしたいのに出来ないからだろう。
「嬉しい! ヴィンセント! 大好き!」
きっと亀の甲羅でなかったら、背骨が軋んでいただろう勢いでノアが抱き着く。
しばらく会えなかった寂しさを、ウミガメを堪能することで落ち着かせ、そこからノアは考える。
「きっと魔女さまの薬ね。どうしてウミガメなんだろう? 人間だと海の底には来られないから、変身させたんだろうけど、人魚でも良くない?」
ウミガメが首をかしげる。
複雑な思考には向いていないのだ。
「でも大丈夫だよ! ヴィンセントに読んでもらった童話集にあったでしょう? こういうのはお姫さまのキスでだいたいなんとかなるって! 私に任せてちょうだい!」
ノアはまた両手でウミガメの顔をはさむと、尖った口先へ唇をふれさせた。
愛する男に裏切られたヘレの怒りによって、一国が海の下へ沈んだからだ。
ヘレはほとほと人間の汚さに愛想をつかし、それ以来姿を隠したという。
再び人の世にヘレが現れたとき、それが何を意味するのか。
まだ誰も知らない――。
「父さん、間違いないんですね?」
「間違いない、伝説の魔女ヘレだ。童話集にもかなり婉曲的に書かれているが、その実力は本物だ。昔この大陸は、もっと陸続きだったのだ。それが途切れているのはヘレがそこにあった一国を、丸ごと海にしてしまったからだと言われている」
「では、兄さんはどうなるんでしょう?」
「魔女ヘレならば、人間など、何にでも変身させられるだろう」
◇◆◇
「いいねえ、若さと勢いがあって。その言葉に二言はないね?」
魔女はヴィンセントの意志の強さを確かめるように聞いてきた。
「二言はない。ノアは脚の痛みに耐え、声を失った。俺も同じ、いやそれ以上の辛苦だって受け入れる」
こぶしを握って力説したヴィンセントに、うんうんとうなずき、魔女は袖口の隠しから細い小瓶を取り出す。
ノアが飲み干した薬に似ていた。
ヴィンセントの目線の高さでふりふりと振って、これが薬だと言う。
「ノアに渡した薬とはちょっと違う。私は人間には厳しめなんでね。とくに愛を口にする人間には用心が必要だと学んだんだ。だからお主には、この薬を渡そうと思う」
「これを飲めば、ノアに会いに行けるのか?」
「そうだ、ノアには会えるだろう。だが、そこから先、どうなるかはノア次第だ」
「ノアと共にいられるのではないのか?」
「お主がノアに望まれれば、それも叶うだろう」
「……分かった、飲もう」
ヴィンセントは薬の蓋を取る。
止めるんだ! と父の声が聞こえた気がした。
だがすでに、心はノアのもとへ旅立っていたヴィンセントには届かない。
喉をそらせ、グイッとひと息で飲み干す。
途端にめまいを覚えて、ヴィンセントは砂浜にどうっと倒れた。
体が硬くなっていく。
服がズルズルとまとわりついて邪魔だ。
海へ行かなくては。
行きたい場所があるんだ。
会いたい人がいるんだ。
ああ、誰だったか。
会いたい。
ヴィンセントの思考は、複雑だった人間のそれからかけ離れていく。
ただただ強い思いに突き動かされ、必死に手を動かして海に出た。
波に乗り、身をまかせ、手と足をかき、前へ前へと。
海岸には、ヴィンセントが着ていた服が残った。
高台から慌てて駆け下りてきた父とオスカーは、それを掴んで号泣した。
「何も心配することはないよ」
そこへ魔女が声をかけてきた。
「ちょっと恋の試練を与えただけさ。相手はノアだ、大丈夫だよ」
「何が大丈夫なものか! てっきりヴィンセントは人魚になるのだと思っていた! なのに、あれは……!」
「兄さんはあの姿でなくてはいけなかったのでしょうか? 魔女どの、どうして大丈夫だと言えるのですか?」
すっかり取り乱している父に代わり、まだ思考力が残っているオスカーが質問する。
「お前さんたちはノアを見くびっている。あの子はただの優しい子じゃない。周りにいる者を虜にしてしまう魅力を持った人魚姫で、間違いなく次代の海王だ。あの子の家族しかり、海洋生物しかり、私だってそうだ。あの子のために力になりたいと、自然と思って尽くしてしまう。人間の世界でも、あの子に夢中になっていたのは王子だけじゃないはずさ」
オスカーは思い出す。
一糸乱れぬ統率を見せていたノアの侍女たちを。
「そんなあの子が、唯一と見染めたのがあの王子だ。確かに初めは金髪に惹かれたんだろう。海の底に住まう私たちは、太陽を思わせるものを好む。仕方がない習性だよ。王子はそれで命拾いをして、あの子からの愛を注がれるようになったんだ。僥倖すぎる」
だから、ちょっとくらい苦杯を舐めてもいいだろう?と魔女は続けた。
「あの子の愛はそれだけ価値があって深いんだ。すぐに心が移り変わる人間にはもったいないほどにね。だからこそ、大丈夫だと言っている。あの子なら分かる。王子がどんな姿をしていようと、絶対に気づく。私の魔法がどれだけ完璧でも、あの子は見破ってしまうだろうよ」
魔女は純粋なノアを愛おしそうに語る。
オスカーはそれほどノアと接触をしてこなかったので、話半分という感じだ。
「それは、どんな能力なのですか?」
「能力? 違うね、人間の言葉にあるだろう? 愛の力ってやつさ」
◇◆◇
その日もノアは部屋に引きこもっていた。
思い出すのはヴィンセントと過ごした楽しい日々ばかり。
ゴン……
脚の痛みなんて全然平気だった。
ずっとヴィンセントが抱っこしてくれたから。
声が出なくても構わなかった。
だってヴィンセントが文字を教えてくれたもの。
ゴン……
大好きなヴィンセントと一緒にいられて幸せだった。
もっと一緒にいたかった。
私が人間だったなら。
ゴン……
ヴィンセント、会いたいよ。
ゴン……
さっきから何かがぶつかる音がする。
じめじめした思考から、ふとノアは戻ってきた。
私の部屋の外壁だ。
軟禁から抜け出すためにぶち破って、その後に修繕された壁。
その壁に、何かがずっとぶつかっている。
潮の流れで漂流してきた木っ端だろうか?
ノアは久しぶりに立ち上がると、窓を開けて外を見た。
修繕したせいでちょっと色の違う壁に、大きなウミガメが頭をぶつけていた。
ゴン……
◇◆◇
思考を失くしたヴィンセントは、ひたすら海を泳いだ。
目には見えないが、道がある気がする。
会いたいものまで繋がっているそれを、今は必死にたどっている。
どうやって泳いでいるのかは自分では分からない。
ただ手足を動かしているという感覚だけがある。
ちらちら視界に入る手は、明らかに人間の物ではない。
だがそれを、どうこう思う気持ちはない。
会いたい。
会いたい。
ただそれだけで。
ずいぶん泳いだ先に、城が見えた。
海の中なのに城だ。
だがそこに道は続いている。
心のすべてで願う。
会いたいんだ、君に。
◇◆◇
「オオウミガメ?」
ノアは窓からするりと外へ出てくる。
ノアが近づいてようやく、ウミガメは頭を打ちつけるのを止めた。
ウミガメはノアに向かって手をばたつかせる。
なにか言いたいことでもあるのかな?
「どうしたの? 頭をぶつけていたけど痛くない?」
ノアはウミガメの頭に手をやり、撫でてやる。
途端にウミガメは大人しくなり、されるがままになった。
「いい子だね。どこから来たの?」
ノアはウミガメの顔を覗き込む。
そして視線があった。
恋焦がれた紫色の瞳。
愛していると熱烈に告げて止まないヴィンセントの瞳が、そこにあった。
「ヴィンセント! どうして!?」
ノアは両手でウミガメの顔をはさむ。
ウミガメはまた手をばたつかせ始めた。
ちょっと体勢が苦しいらしい。
ノアは慌てて手をどけると、ウミガメをぎゅっと抱きしめた。
「会いに来てくれたの? 私に? ウミガメになって?」
海の中だが、ノアの青い瞳が潤んで、そこから涙が零れているのが分かった。
ウミガメは頭を上下に振って、肯定している。
手をばたつかせているのは、抱擁しかえしたいのに出来ないからだろう。
「嬉しい! ヴィンセント! 大好き!」
きっと亀の甲羅でなかったら、背骨が軋んでいただろう勢いでノアが抱き着く。
しばらく会えなかった寂しさを、ウミガメを堪能することで落ち着かせ、そこからノアは考える。
「きっと魔女さまの薬ね。どうしてウミガメなんだろう? 人間だと海の底には来られないから、変身させたんだろうけど、人魚でも良くない?」
ウミガメが首をかしげる。
複雑な思考には向いていないのだ。
「でも大丈夫だよ! ヴィンセントに読んでもらった童話集にあったでしょう? こういうのはお姫さまのキスでだいたいなんとかなるって! 私に任せてちょうだい!」
ノアはまた両手でウミガメの顔をはさむと、尖った口先へ唇をふれさせた。
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