自然派ママの異世界事件簿
4
どれぐらい歩いたかはわからない。
スマートフォンも電源が入らないし、左腕につけていた腕時計も止まっていた。
時計がないというだけで時間の間隔も狂いそう。自分は健康マニアで出来るだけ自然に沿った生活をしていたつもりだったが、文明の利器には依存して生活している事を深く自覚させられた。
ただ、裸足で森の中を歩くと嬉しくなってくる。時々、日本では見かけないような白くてモフモフした小動物に出くわしたりした。名前はわからないし、私が声をかけたら逃げて行ったが、後でこの動物を調べる楽しみもできた。
どうにか自分は生きられそうだと感じた。
マグボトルに原液のにがりを数的入れて飲むとますます冷静になった。
それに小さな小川も見つけた。
サラサラと流れる綺麗な川だった。小さな魚も住んでいるようだった。
私は空になったマグボトルに小川の水を注ぐ。
魚がすんでいるぐらいだ。おそらく水質には問題は無いだろう。
そこに原液のにがりを数滴落とし、一口飲んでみた。
「お、美味しい!」
思わず叫んでしまうぐらい美味しい水だった。硬水か軟水か難しい事はわからないが、まろやかでにがりとも良く合う。身体にスッと染み込むような水で、例え帰れなくてもこんな美味しい水があるのなら大丈夫そうだと安心もしてしまう。
水だけでない。
空気も爽やかで気分がいい。
おそらく工業地帯や自動車も走っていないと感じる。
ここに来たばかりの瞬間は空気を感じる余裕はなかったが、風や匂いも自然そのものような雄大さも感じる。
目を閉じてこの土地の空気を味わってみた。
確固たる証拠はないが、日本で言えば江戸時代中期ぐらいの空気だろうか?
森の木々も生き生きとしているし、この様子だと農作物に農薬は撒かれていないと思う。
健康マニアな私は、そう思うとこの土地について早く知りたい気持ちが勝ってしまった。
といっても歩きすぎて少し足も疲れてきた。
私は小川のそばにしゃがみ、少し休憩する事にした。
保冷バックの中には野菜や納豆もあった。
今食べるのは、ちょっと惜しい気持ちあったが、空腹もおぼえはじめた。
通勤用のカバンの底の隠れていた割り箸を掘り起こし、納豆が入っていたタッパーを開ける。
そこに同じく農家から貰った天然塩をふりかける。塩は雪のようにふわりと納豆の上に降り積もり、きらりと光って見えた。
天然塩は、精製された食卓塩と違ってマグネシウムなどの栄養素を含んでいる。
意外な事に日本が塩を自由に販売出来るようのなった歴史は浅いとお客様から聞いた事がある。日本人の弱体化を狙った米国の仕業だという陰謀論だったが、あながち嘘では無いかもしれない。
実際、天然塩をふりかけた納豆を食べ始めた後、脚の疲れも軽減された気がした。
昨今では減塩が叫ばれているが、天然塩の場合は別だ。むしろ塩はとった方が良い。取りすぎた塩分はどうせ尿になって出るし、マグネシウムなどの栄養もとれて疲労回復に良いという。
昔からの諺では「敵に塩を送る」とある。サラリーマンの語源も「塩」。給料の代わりに塩が支払われていた。それぐらい貴重なものだった。
科学的根拠が豊富にあるわけではないが、そんな言葉が残るぐらいならやっぱり塩は健康に良いと思う。
ただし、精製された食卓塩はマグネシウムなどの栄養素はぬけているので、その場合はあまり摂取しない方が良いが。
すっかり天然塩をふりかけた納豆を食べ終わると、今度は同じく農家から貰ったトマトも食べたくなってしまった。納豆のおかげで腹は多少膨れたが、保冷バックに入っているツヤツヤとした大ぶりのトマトを見ていたら、食べたくなってしまった。
無能薬オーガニック栽培のトマトなので、軽く濯ぐだけで安全だが、小川の水にちょっと浸して冷やす。
素手でトマトを持ちながら小川に沈める。
清らかな川の水に指先が浸っているだけでも、生命力を取り戻せそうだ。いくら健康マニアで自然派の私でも毎日のように自然に触れ合えるわけでもない。電車もスマートフォンも使う。
こうしていると今までの生活の毒素が抜けていくようだった。
こうして冷えたトマトをハンカチで軽く拭き、ヘタをとる。
行儀が悪い事はよく理解していた。日本ではこんな食べ方はした事はないが、清水から上がったトマトは湯上がりの水も浸るイケメン以上に襲いたくなってしまった。
私はツヤツヤとした表面のトマトを見つめてゴクリと唾を飲み込む。
オーガニック栽培で無農薬。それにこの綺麗な川の水で浸した。
不味いわけがない。
天然塩をつけても良いが、スッピッンのトマトも絶対美味しい。
私はトマトに歯を立てて一口かぶりつく。汁がくちびるから溢れてしまうが、それ以上に濃厚な甘みが美味しい。太陽の光を味覚にしたらきっとこんな味がするに違い無い。
途中で天然塩もつけて味を変えながら、あっという間にトマトを完食してしまった。
この土地の雰囲気を見る限り、無農薬で野菜を作っている可能性が高いが、このトマトが人生最後の美味しい野菜の可能性だって捨てきれない。
そう思うと涙が目の隅に滲むぐらい美味しく感じた。
同時に息子の事も思い出す。
息子が大きくなるにつれてオーガニック野菜や手作りのパンを嫌っていったが、キュウリやトマトなどの生野菜は完食していた。
私がここのいてあの子は一人で料理の支度が出来るだろうか。洗濯や掃除も一人でできるか自信がない。
もう18歳の息子だったが、私の中ではいつまでもヨチヨチ歩きをしている子供だ。
自分の事があまり心配していないが、息子の事を思うと心細くて泣きたくなる。
私が帰って来れなかったら、息子は天涯孤独の身だ。私の両親は元気に生きているが、あと数年で介護される身になるだろう。そうなった時、息子はちゃんと出来るか不安だった。それに私の両親が死んだら、完全に孤独になる。
死んだ夫には親戚はいない。
となると、息子派お嫁さんを連れてくるしか家族が居なくなってしまう。
息子に嫁が出来る?
喜ばしい事なのにちょっと嫉妬めいた感情も生まれ、本当に泣きたくなってしまった。
というか泣いていた。
今後の自分の事は楽観視しているくせに、息子の事になると私はとことん弱いようだった。
「ちょっと、あんた。何泣いてるんだ?」
「まあ、ここにも日本人の女性がいるの?」
そこに耳慣れた日本語が響いた。
スマートフォンも電源が入らないし、左腕につけていた腕時計も止まっていた。
時計がないというだけで時間の間隔も狂いそう。自分は健康マニアで出来るだけ自然に沿った生活をしていたつもりだったが、文明の利器には依存して生活している事を深く自覚させられた。
ただ、裸足で森の中を歩くと嬉しくなってくる。時々、日本では見かけないような白くてモフモフした小動物に出くわしたりした。名前はわからないし、私が声をかけたら逃げて行ったが、後でこの動物を調べる楽しみもできた。
どうにか自分は生きられそうだと感じた。
マグボトルに原液のにがりを数的入れて飲むとますます冷静になった。
それに小さな小川も見つけた。
サラサラと流れる綺麗な川だった。小さな魚も住んでいるようだった。
私は空になったマグボトルに小川の水を注ぐ。
魚がすんでいるぐらいだ。おそらく水質には問題は無いだろう。
そこに原液のにがりを数滴落とし、一口飲んでみた。
「お、美味しい!」
思わず叫んでしまうぐらい美味しい水だった。硬水か軟水か難しい事はわからないが、まろやかでにがりとも良く合う。身体にスッと染み込むような水で、例え帰れなくてもこんな美味しい水があるのなら大丈夫そうだと安心もしてしまう。
水だけでない。
空気も爽やかで気分がいい。
おそらく工業地帯や自動車も走っていないと感じる。
ここに来たばかりの瞬間は空気を感じる余裕はなかったが、風や匂いも自然そのものような雄大さも感じる。
目を閉じてこの土地の空気を味わってみた。
確固たる証拠はないが、日本で言えば江戸時代中期ぐらいの空気だろうか?
森の木々も生き生きとしているし、この様子だと農作物に農薬は撒かれていないと思う。
健康マニアな私は、そう思うとこの土地について早く知りたい気持ちが勝ってしまった。
といっても歩きすぎて少し足も疲れてきた。
私は小川のそばにしゃがみ、少し休憩する事にした。
保冷バックの中には野菜や納豆もあった。
今食べるのは、ちょっと惜しい気持ちあったが、空腹もおぼえはじめた。
通勤用のカバンの底の隠れていた割り箸を掘り起こし、納豆が入っていたタッパーを開ける。
そこに同じく農家から貰った天然塩をふりかける。塩は雪のようにふわりと納豆の上に降り積もり、きらりと光って見えた。
天然塩は、精製された食卓塩と違ってマグネシウムなどの栄養素を含んでいる。
意外な事に日本が塩を自由に販売出来るようのなった歴史は浅いとお客様から聞いた事がある。日本人の弱体化を狙った米国の仕業だという陰謀論だったが、あながち嘘では無いかもしれない。
実際、天然塩をふりかけた納豆を食べ始めた後、脚の疲れも軽減された気がした。
昨今では減塩が叫ばれているが、天然塩の場合は別だ。むしろ塩はとった方が良い。取りすぎた塩分はどうせ尿になって出るし、マグネシウムなどの栄養もとれて疲労回復に良いという。
昔からの諺では「敵に塩を送る」とある。サラリーマンの語源も「塩」。給料の代わりに塩が支払われていた。それぐらい貴重なものだった。
科学的根拠が豊富にあるわけではないが、そんな言葉が残るぐらいならやっぱり塩は健康に良いと思う。
ただし、精製された食卓塩はマグネシウムなどの栄養素はぬけているので、その場合はあまり摂取しない方が良いが。
すっかり天然塩をふりかけた納豆を食べ終わると、今度は同じく農家から貰ったトマトも食べたくなってしまった。納豆のおかげで腹は多少膨れたが、保冷バックに入っているツヤツヤとした大ぶりのトマトを見ていたら、食べたくなってしまった。
無能薬オーガニック栽培のトマトなので、軽く濯ぐだけで安全だが、小川の水にちょっと浸して冷やす。
素手でトマトを持ちながら小川に沈める。
清らかな川の水に指先が浸っているだけでも、生命力を取り戻せそうだ。いくら健康マニアで自然派の私でも毎日のように自然に触れ合えるわけでもない。電車もスマートフォンも使う。
こうしていると今までの生活の毒素が抜けていくようだった。
こうして冷えたトマトをハンカチで軽く拭き、ヘタをとる。
行儀が悪い事はよく理解していた。日本ではこんな食べ方はした事はないが、清水から上がったトマトは湯上がりの水も浸るイケメン以上に襲いたくなってしまった。
私はツヤツヤとした表面のトマトを見つめてゴクリと唾を飲み込む。
オーガニック栽培で無農薬。それにこの綺麗な川の水で浸した。
不味いわけがない。
天然塩をつけても良いが、スッピッンのトマトも絶対美味しい。
私はトマトに歯を立てて一口かぶりつく。汁がくちびるから溢れてしまうが、それ以上に濃厚な甘みが美味しい。太陽の光を味覚にしたらきっとこんな味がするに違い無い。
途中で天然塩もつけて味を変えながら、あっという間にトマトを完食してしまった。
この土地の雰囲気を見る限り、無農薬で野菜を作っている可能性が高いが、このトマトが人生最後の美味しい野菜の可能性だって捨てきれない。
そう思うと涙が目の隅に滲むぐらい美味しく感じた。
同時に息子の事も思い出す。
息子が大きくなるにつれてオーガニック野菜や手作りのパンを嫌っていったが、キュウリやトマトなどの生野菜は完食していた。
私がここのいてあの子は一人で料理の支度が出来るだろうか。洗濯や掃除も一人でできるか自信がない。
もう18歳の息子だったが、私の中ではいつまでもヨチヨチ歩きをしている子供だ。
自分の事があまり心配していないが、息子の事を思うと心細くて泣きたくなる。
私が帰って来れなかったら、息子は天涯孤独の身だ。私の両親は元気に生きているが、あと数年で介護される身になるだろう。そうなった時、息子はちゃんと出来るか不安だった。それに私の両親が死んだら、完全に孤独になる。
死んだ夫には親戚はいない。
となると、息子派お嫁さんを連れてくるしか家族が居なくなってしまう。
息子に嫁が出来る?
喜ばしい事なのにちょっと嫉妬めいた感情も生まれ、本当に泣きたくなってしまった。
というか泣いていた。
今後の自分の事は楽観視しているくせに、息子の事になると私はとことん弱いようだった。
「ちょっと、あんた。何泣いてるんだ?」
「まあ、ここにも日本人の女性がいるの?」
そこに耳慣れた日本語が響いた。
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