恋愛マッチングアプリ『Optiple(オプティプル)』

結城 刹那

1話

「沙恵の描く絵はやっぱり綺麗だね」

 窓の景色を見ながらキャンバスに絵具を塗る女子生徒の背中を見つめながら俺はふと心に抱いた感想を呟いた。

「ありがとう。それにしても教室から見える景色はやっぱり綺麗だね」
「高台にあるし、それにここは5階だからね」
「一年生の頃はもうこの景色は見れないと思ってたけど、二年生で唯一5階にあるクラスを引き当てたのは本当に運が良かったよ」
「俺もこのクラスになれて良かった。沙恵の描く風景画が見れて嬉しい」
「そんなに褒められると照れるな」

 沙恵はそう言って微笑む。俺の位置からは彼女の表情が見えない。今彼女はどんな表情で俺の話を聞いてくれているだろうか。

「そういえば、来年に東京でスカイツリーが建てられるんだって。高さは634メートル。きっとそこから見える景色は絶景なんだろうな。描いてみたい」
「そうなのか。来年は受験だから難しいと思うけど、高校に入ったら行けるかもしれないな。その時は一緒に行かないか?」
「行くっ! なら、受験勉強頑張らないとだね」

 絵に夢中になっていた彼女がこちらを振り返る。茶色の髪を風になびかせ、まん丸な瞳がキラキラと光る。下唇の下にあるホクロが愛らしい。綺麗な絵の横で見せる彼女の笑顔もまたとても美しく俺はつい見惚れてしまった。

 ****

「孝也くん、起きて」

 耳元で囁く甘い声に唆され、まぶたをゆっくり上げる。
 暗かった視界が開ける。しかし、視界に広がる景色を理解するまでには時間がかかった。
 目の前には多くの人がいる。体は終始、左右に揺すられるような感覚を抱いた。

 少し上を見ると天井の方から丸い輪っかが吊り下げられている。ほんの少し右へ視線をずらすとスクリーンが目に入り、『渋谷』と書かれた字面が見える。
 そこで自分の置かれた状況を理解することができた。

「次、降りるわよ」

 再び耳元で囁く甘い声。声のした方に顔を向けると一人の女性が俺を見ていた。黒髪のショートヘアに紫色の瞳。白色のシャツにジャケットを鮮やかに着こなす姿は大人の女性の魅力を大いに引き立てていた。

 桐崎 夏海(きりさき なつみ)。俺と同じ営業部の二年上の先輩だ。旧帝大を卒業しているエリートで、仕事ができるのはもちろんのこと、コミュニケーション能力の高さや面倒見の良さを兼ね備えた『できる上司のお手本』のような存在だ。

 そんな彼女の下で働かせてもらえるのはとても光栄なことだった。

「すみません、先輩に気を遣わせてしまって」
「いいわよ。今日は大事な商談だったもの。気を張りすぎて疲れちゃったのね。それに可愛い後輩の寝顔を見れたから満足よ」

 先輩は怒ることなく、ハニカミながらウィンクする。冗談だと分かっていても、可愛くて凛々しい先輩に言われると胸の鼓動が跳ね上がる。それによって、眠気は綺麗さっぱり吹き飛んだ。

 駅へ到着し、俺たちは電車を降りる。
 本日のスケジュールは商談が終わった後に直帰する形だったため、今日の仕事はこれで終わりだ。

「ねえ、明日からは休日だし、少し飲みに行かない?」
「いいですね。久々に羽を伸ばして飲みたい気分です」

 ここ最近は、他社の社員や自社の部長など気を遣いながらの飲み会が多かった。そのため気楽にお酒を飲みたいと思っていたので、先輩の誘いは嬉しい限りだった。何度か飲みにいった仲のため、プライベートの話など気兼ねなく話すことができる間柄だ。
 
 決まったところで、駅を出て、近くの居酒屋へと足を運んだ。
 明日は休日のためか店は混んでいたが、幸いにも1テーブルだけ空いていた。
 席に座るなり、生ビールを二杯注文する。すぐに出てきたのでジョッキ片手に乾杯をした。

 久々に口にするビールは美味しく、この一週間の疲れを吹き飛ばしてくれた。先輩もまた、ビールを一気に半分くらいまで飲み干すと大きく息を漏らす。先輩もまたここ最近の仕事で疲労が溜まっていたみたいだ。

「さあ、いっぱい食べてね。今日は私の奢りだから」
「ありがとうございます」

 俺はメニュー表を見ながら食べたい物を片っ端から注文する。先輩は気を遣われるのを好まない主義なので、躊躇することなく注文させてもらった。料理を注文する頃には、先輩はすでにビールを一杯飲み終わっており、二杯目を注文していた。彼女もまた大事な商談を終えて羽を伸ばしたかったようだ。

「あまり飲みすぎて帰れなくなるのはやめてくださいね」
「その際は、孝也くんに家まで送ってもらうわ」
「酔っぱらう気満々じゃないですか! いいんですか? 既婚者が男との飲みでそんな無防備な発言してしまって」
「大丈夫よ。孝也くんは決してそんなことをしないって信じているから。それとも、そういうことをしようと思っているのかしら?」

 二杯目にしてすでに出来上がっている先輩が頬を赤く染めてこちらを見る。

「そんなことするわけないじゃないですか」

 色っぽい先輩の姿に体が熱くなるのを感じる。欲情するのを抑えるようにビールを口にする。体に流れていく冷たい液体が体に溜まった熱を冷ましていく。

「そうよね。孝也くんには、沙恵ちゃんって言う素敵な彼女がいるものね」

 先輩の一言でゴクゴクと飲んでいたビールを思わず吹き出す。ジョッキで口を塞いでいたので、先輩にかかることはなく、かかったのは自分のスーツだけだった。急いでテーブルにあったお絞りでスーツを拭く。

「どうしてその名前を知っているんですか?」
「さっき電車の中で沙恵って名前を呟いていたのよ。ふふふ。そんなに驚かなくても良いのに。その年なら、彼女の一人くらいいてもおかしくないわよ。それで沙恵ちゃんはどんな女性なの? どこで出会ったの?」

 酔った勢いで先輩はぐいぐいと質問してくる。先輩もやっぱり、色恋沙汰には興味津々のご様子だ。

「彼女じゃないですよ。今の俺には彼女はいません」
「へー、てことは別れたのね。ごめんなさい、嫌なことを思い出させてしまったわね」
「いや、そもそも付き合ってすらいません」
「えっ! そうなの! じゃあ、沙恵って誰のことを言っていたの」

 先ほどの興味津々な表情から訝しげな表情へと移り変わる。確かに、付き合ってもいなければ、会社にもいない女性というのは不可解な存在だろう。
 俺はまるで仕事で話をするかのように端的に沙恵と言う女性について話をした。

 西條 沙恵(にしじょう さえ)。
 同じ中学の同級生で、二年生の時に同じクラスになった人物だ。一学期で隣の席同士になったのを機に仲良くなり、よく一緒に遊ぶようになった。

 俺は彼女に好意を抱いていた。幸いなことに彼女もまた俺のことを好いてくれた。両想いであった俺たちだが、二学期の終わりに彼女は引っ越してしまった。当時はまだスマホを持っていなかったので、三学期は手紙でやりとりをしていた。

 しかし、三年に進級し、高校受験が始まったところで手紙のやり取りは徐々に回数が少なくなっていった。高校に入った頃には、全く手紙のやりとりをしなくなってしまったのだ。やりとりをしなくなったとはいえ、恋心が消えたわけではない。

 俺は今も心のどこかでは彼女のことを好いている。

「なるほどね。それで、今は彼女とは連絡をとっているの?」
「とっていません。高校でスマホを買ってもらえましたが、その時にはやりとりがなくなっていましたから」

 先輩は先ほどの大胆な飲みっぷりを止め、一口ずつ噛み締めるようにビールを飲んだ。
 
「大きなお世話かもしれないけれど、孝也くんもそれ相応の年齢なのだから、結婚願望があるのならば、新しい恋に乗り換えたほうがいいわよ。幼い頃の恋心をずっと抱き続けるのはロマンチックではあるけれども、しっかり現実は見ないといずれは手遅れになるからね」
「先輩みたいな素敵な女性がいればいいんですけどね」

「ありがとう。でも、もし本気でそう思っているのなら、早めに動かなければダメよ。素敵な女性はたくさんの男に狙われるからね」
「はあ。本当どうしたものでしょうか?」
「んー、実はね。この前、婚活している友達に面白いアプリを教えてもらったの」

 先輩はそう言うと内ポケットに入れていたスマホを取り出す。指で操作すると俺へと画面を見せる。画面には『Optiple(オプティプル)』と表示されている。

「恋愛マッチングアプリですか?」
「そう。それも従来のマッチングアプリとは少し異なるらしいわ」

 先輩はそう言うとマッチングアプリの説明を始めた。

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