紫雲に関する覚書

緑翠

傅説

 セリカ暦建和4年の晩夏。秋の気配が日々に深まる頃、李紫雲と許由は城を抜け出て燕京の市街地を歩き回っていた。
「木々の葉も色づいて来たな。もうじき秋か」
「どこも農民は穀物の刈り取りを心待ちにしています。今年は特に実りが良く、全土で大豊作だとか」
「そうか。そうなれば当分兵糧の心配は必要なさそうだな」
 秋が近づいてくると、街は俄に忙しくなる。米商人などは来る書き入れ時に備えて各地を飛び回って相場を調べ、酒屋なども仕込みに必要な材料の買い付けに走る。また、これなどは全く歓迎されないが、徴税官も秋の税金取り立てのために血眼になって戸籍を調べ、家を回るのだ。
 そうした風景はこの北方とて例外ではない。燕京の城門からはひっきりなしに人が出入りし、実りの豊かさを象徴する様に、大通りには賑わいが溢れていた。
「豊作になるとわたしの実入も増える。懐が温かいとまことに心にも余裕が出るものだ」
「俺の給金も上がりますかね」
「お前は据え置きだな。残念ながら」
「そ、そんな!」
「冗談だよ。お前は随分と良い働きをしてくれた、きちんと褒賞を出すさ」
「頼みますよ…ん、公主様、あれを」
「おん?」
 二人が視線を向けた先にはちょっとした人だかりが出来ている。すり抜けて見てみれば、なんとそれは北域では長いこと立っていなかった奴隷市であった。
「さあさあ、皆様方!ご覧あれご覧あれ!こちらは世にも珍しい蛮夷の女奴隷でござい!力仕事はできませぬが、この通り顔つきは可愛らしく体つきは華奢でございますさあどうだ…!」
 セリカにおいて奴隷とは決して珍しい存在ではない。戦争において拉致して来た人々や、何らかの事情があって身売りせざるを得なかった者達、はたまた誰かの罪に連座して身分を剥奪された家族など、実に様々な理由によって多くの民が奴隷として生きることを余儀なくされた。
 彼らは戸籍の上では奴婢と総称され、政府の最下層の役人や使い走りとして、またはそれ相応の規模の家の下働きとして社会の底辺を担っており、欠かせない働きをするものの強い差別と抑圧のもとに置かれてきた。
 そして、今回もまた一人、その群れに加わる者が現れたのである…。
「許由、あれをどう思う」
「奴隷売りを見るのは久しぶりですね。どこかの大家が売りに出したのでしょうか」
「どうかな、言葉遣いに癖がある。あれは外国を中心に人身売買を請け負ってる連中じゃないのか」
 紫雲は決して奴隷制度に嫌悪感や忌避感を持っているわけではない。何しろ、いかに兵士や部下と近い位置で接するとはいえ、彼女の根本は皇帝の姫君である。身の回りの世話をさせるにも、都督府や地方府の仕事を処理させるにも膨大な奴隷を使っていたし、それをおかしいとも思っていなかった。
 故に今日の奴隷市を見ても、義憤に囚われたり、憐憫によって救ってやろうなどと言う心持ちは全く無く、単に面白い見せ物があるくらいにしか考えていない筈だった。
「では、本日最後の掘り出し物。こちらをご覧あれ!」
「あれは…!」
 奴隷商が最後に引き出して来たのは、まだ年端も行かぬ小さな男の子だった。顔つきはあどけなく、身の丈は5尺半の紫雲よりも小さい。だが、体は少々痩せ細っており、両の目は不安げに左右して辺りを見つめている。
「この子はこれまた珍しい、遥か東の海を越えた先の異国から連れてこられた奴隷でございます。見て下さいこの女の様な可愛らしい顔つき、体は弱っちいですがいい声を出しますぞ!」
 この時初めて紫雲はこうした商売に嫌悪の情を抱いた。理由はよくわからないが、彼女の根底に何か燻る思いがあり、それは明らかに気持ちの良いものではなかった。
「さあお前、何かしゃべってみろ」
「あ、あのの、ぼく、ぼくは…」
「許由」
「はい?」
「…折角だ。何か土産を持っていこう」
「え、まさか」
 涙を溜めて言葉を搾り出そうとする少年、その前に進み出て、彼女は良く通る大声で告げた。
「その孺子、この李紫雲が買った!」
「ちょっと!?」
 瞬間、群衆はしんと静まり返り、程なくして驚きの声があちこちで弾けた。大都督様がこの様なところに、なんと言うことだ、これは驚いた!
「だ、大都督様!まさかこの様な穢らわしいところに足をお運びになられるとは!末代までの名誉にございます」
「おべんちゃらは結構。とにかくこの孺子を買い取ろう。幾らになる、苦しゅうない、有体に申せ」
「はは、この子供は力仕事はできませぬし、気は弱く中々に扱いが難しゅうございます。故に私共難儀をしておりましたが、大都督様のお側にお仕え出来るのならば身の誉と申せましょう。ぐっとお値段大負けに負けて、銀25両で如何でございましょうや」
「よかろう。その条件で買ってやる」
 彼女は懐をごそごそと探り、ややあってずっしりと重たい皮袋を取り出した。
「5両の銀が6枚、併せて30両ある。残りの5両は役得としてとっておくがいい。許参軍!」
「へ、あ、はい!大都督」
「この子を連れて帰る。連れ帰った後の世話は一旦お前に任せる。衣服から食事まで整えたら、わたしの前に連れてこい」
「心得ました!」
「???」
 かくしてこの日、燕雲大都督府にまた一人、奇妙な連れ合いが加入することとなった。この弱々しい奴隷の少年は、後に数奇な縁によって歴史の1ページに名前を残すことになる。

 燕京城へと戻った紫雲は、すぐに少年の襤褸を剥ぎ取って浴場へと放り込むと、許由に命じて下働き達が着る様な簡素な衣類を用意させた。同時に3人分の食事を運ぶ様命じ、私室を片付けて小さな宴の支度を整える。
「失礼します」
「や、許由。あの子は大丈夫か」
「今他の下人が世話をしています。もうすぐこちらにやってくるでしょう」
「うむ」
 言葉の通り、程なくして少年が部屋へと連れてこられた。泥と垢で汚れた顔は艶を取り戻し、白く若い元の姿が露わになっている。
「さあよく来た。ここへ座って食事にしよう、さあ食べよ」
「あ、あ、あ、ありがとうございます」
 不自由な言葉を吃りながら発して、少年は躊躇いがちに饅頭に手を伸ばし、ややあってガツガツと頬張り始めた。痩せている体から見て、やはり余り良い待遇を受けて来たとは言えなかったのだろう。
「時に、名はなんというか」
「え、えと、えとと…ぼ、僕は…さ、サジュン・ラウフォンと言います」
「サジュン、うーん、悪くはないが少し発音しにくいな。許由」
「え!?」
「何かこの国式の名前を考えてやってくれ」
「うーん、まあ10歳にもなっていなさそうですし、左阿万とでも…」
「あ、その…僕、15歳、です…」
「「は!?15歳!?」」
「ひぅ…!ごめんなさい、ごめんなさいっ…」
 二人は思わず同時に大声で聞き返してしまった。目の前の少年の見た目は明らかに幼すぎるほど幼く、また弱々しかったからだ。腕は細く物を持つには堪えず、身の丈もまた小さく人間というよりは小動物を連想させる。性格も怯えと警戒心が強い様で、言葉一つを絞り出すにも躊躇いと恐怖がある。
「ふうむ…夷狄の国というのは、まことに妙だ。一体どこの国から来た」
「あ、アルセチア、という国です」
「亜留節国…聞いたことがあるか」
「どこかの地理誌で読んだことがあります」
「しかし、いずれにしても遠いところだろうに。一体どうしてこの様な」
「う、ううっ、お父さん、お母さん…!」
「あわわ、泣くんじゃない、こらこら」
 故郷の話をした為に、記憶が蘇ってしまったのだろうか、阿万はポロポロと涙をこぼし、遂にはわっと泣き伏した。なるほどこの性格ではそう簡単には売り飛ばせまいよ、と紫雲は許由と視線を合わせて頷いた。
「大方、悪徳な商人が攫ったか逸れたところを拐かしたのだろうて。全く、忘八の商売とはよく言ったものだ」
「ただいずれにしても、この有様ではどこで働かせても上手くやっていくことは難しいでしょう。かと言って放り出せば餓死するだけです。如何なさいます?」
「ま、なんとか使い道を考えるとも。とりあえず明日から、都督府付きの下人として使う。許由、お前は地理誌を引っ張ってこい、なんでもいいから。阿万の世話は一先ず他の下人にさせよう」
 さて、それからと言うもの、阿万は先輩に付いて仕事を習いつつ、上手く城に順応しようと努力した。彼は争いごとは苦手で気は弱々しく、側の者達はまるで女の様だと笑っていたが、その一方で心根に卑しいところや暗いところが見えず、常に真面目で密かに利を貪ると言うことが無かった。
 都督府から給金として出される銭や米も、自分の食べる分や必要な分を除いて足りない者に分けてやったり、時には自分の食い扶持も顧みずに飢えた乞食の子供に握り飯をくれてやることも一度や二度では済まない。と、この様な態度で仕事をするのだから、当然紫雲を含めた上の者からの信頼は厚くなり、幼い風貌も相まって女官や他の下人からも可愛がられる様になる。
 そうして一月か二月経つ頃には、彼はすっかり都督府に馴染み、人気者となっていた。
「阿万は上手くやっている様だな」
「はい、公主様。本人が平和的で、多少怖がりなのは玉に瑕ですが、それでも仕事は真面目に上手くやるものですから」
「だが、自分の財産という物を持とうとしないなあやつは。給金も困っている者にくれてやって、しかも取り立てもしないと言うではないか」
「これが面白いことに、最初は皆彼を便利な貯金箱扱いしていたんですが、一言も取立てに出ないのが却って効いた様で、みんな利息代わりにご飯やお菓子をつけて返してるそうですよ。最近は逆に踏み倒そうとした不届き者がこわーいお兄さんに脅しつけられたとか」
「なんだそれ」
 くすくすと紫雲は笑って、満足げに頷いた。そして、ふと思い出した様に許由に問うた。
「ところで、アルセチアとか言う国のことは分かったか」
「はい、お時間がかかってしまい申し訳ありませんでした。こちらの地理誌に詳しい情報があります」
「見よう…ふむむ。アルセチア、遥か東海を南へ一万里航海した先にある国か。何々、かつて文帝の御代に大航海をした徐定海の記録によると、『丈は小さく三尺前後。人々の性情は穏和で争いを好まず、常に人を信じ、上から下まで憎み合うということが無い。利を貪って財を溜め込む者はなく、ある人の畑の実りが豊かならば、実り無い者の畑に惜しげもなく分け与える。王は宴を好み、客人を迎えて主食を共にすることを常とす…』…なんだ、蓬莱の記事でも書いているのかこの地理誌は」
「そう思い、新海まで人をやって調べさせましたが、外国の商人の話を聞く限りほぼ事実である様です。国には軍も無く、争いが絶えて久しい為、人々は武器も知らないとか」
「有り得ぬ!その様な国がなぜ、虎狼の様に貪欲狡猾な西洋列強に滅ぼされておらんのだ」
「どうやら、国土に恐ろしい神獣が住んでいる他、彼らは隣の大国に朝貢して保護されている様子。過去にアルタイが精強な軍を送って戦ったものの、あまりに遠い土地であった故に征服を諦め、今は交易のみの関係であるとか」
「ふぅむ…」
 彼女は考え込んだ。彼の言葉を信じるのなら、アルセチアという国はまさしく王道楽土の理想郷だ。この国の儒者達が聞けば間違いなく羨むだろう。だが、妙に嫌な気配がある。
 逆説的であるが、人種民族を問わず全ての者達は心のうちに悪意や欲望を持っており、だからこそ生き生きと輝くのだ。それが無いということを想像するのは容易ではない。
「だが、阿万に敢えて問うのも憚られるか」
「お望みであれば、より深く調べさせますが」
「頼む。きっと何か、原因あってのことだろうから」
「大都督、お茶とお夜食をお持ちしました」
「阿万か、入れ!」
 紫雲が地理誌を隠し、許由がその正面に座り込むと、阿万が部屋に入って来て湯気を立てているお茶と饅頭を机に置いた。
「お前も食べていくか」
「宜しいんですか?」
「ああ、無論だとも」
 もぐもぐと小豆餡の入った饅頭を頬張りながら、彼女は阿万の顔を見直した。かつては悲惨なほどに痩せ衰えていた体は、しっかりとした食事と労働によってすっかり元の調子を取り戻し、りんご色の頬は福々しく膨らんでいる。
 しかし、身の丈は相変わらずの様で、歳の程は10歳そこらにしか見えない。
「時に、この国は心地よいか阿万」
「はい!皆さんよくしてくれて、本当に嬉しいです。まるで故郷の人たちみたいに優しくて…」
「…故国に帰りたいか」
「あっ…」
 聞くまいと思っていた問いが、ふと口からまろび出た。彼は笑顔を消して、俯きつつ答える。
「…父さんと母さんには、今でも会いたいです。もし出来るのなら、故国に帰って、僕は生きてるよって、安心させてあげたいです」
「その願い、叶えてやってもいいぞ。信頼できるお前に路銀を渡して、信頼できる旅人に預けて送らせよう。よくよく考えれば、この場所は戦地に程近く、いつ何時戦いが始まるかわからぬ故な」
「でも…そうしたら…、僕は大都督のところに戻って来れないでしょう?それは嫌です…」
「…嬉しいことを言ってくれる。だが、出来ることならばわたしの側になどいない方が良い」
「なら、どうして僕を買って下さったのですか?単なる憐れみで、ここまで僕を厚遇してくれたんですか?」
「憐れみではない。…だがそうだな、お前を買ったのは単に、わたしの心がそうせよと命じたからだ。お前の様に、戦いたくない者に暴を以て当たるのは、私が最も憎むところなのだから」
「…なら、僕も同じです!僕の心も、大都督にお仕えしたいと言っています。大都督の為に沢山勉強だってしました。僕にとって大都督は、商の高宗と同じです」
「ならばお前は傅説か。随分と大きく出たな」
 かつて、中華を治めた最初の王朝である商の王であった高宗は、夢で傅説という賢人を見たという。その通り探させてみると、彼は罪人として労役刑を受けていたが、用いてみれば見事に王朝を立て直したのだ。
 無論彼は自信をそんな大賢人であると言っているつもりは無い。きっと、「運命の出会いは思わぬ場所に転がっている」とでも言いたいのだろう。かつて高宗が罪人の中にいた傅説を見出した様に、紫雲が奴隷の中にいた自分を取り立ててくれた。それが自分にとっては、望外の幸福だったのだと彼は涙ながらに訴えた。
「…ですから、故郷に帰るのはいいです。でも、また大都督の下に戻ってお仕えできないのなら、それは嫌です」
「参ったな。許由よ」
「はい」
「わたしはどうも、こう持ち上げられると弱いんだ。どうしたらいいと思う?」
「ふーむ…ここはやはり、天朝を再興して天下を安んじた後、我々でアルセチアに渡るより他に無いのでは。いずれ、遠い異国とも航路がつながり、まるで隣の家に行くように外国に行ける日が来るでしょう。そうなれば、アルセチアに渡ったのちまたこの地に戻ることも容易でしょうし」
「かもしれないな、全く。お前はわたしに更なる重荷を背負わせるつもりか」
 口では非難しているが、顔は笑っていた。彼女は涙を流す阿万の頭を撫でて立ち上がらせると、改めてこう約束した。
「ならば、きっとわたしがお前を故郷に送ってやろう。乱れた天下を立て直し、中興の大業を成してお役御免となった暁には、お前の故郷に共に渡って、父母に共に合わせてやろうではないか」
「まことですか?」
「ああ。わたしは嘘はつかんよ」
「ありがとう存じます、大都督」
 それから少し時間が経って、三人は部屋を出て回廊を抜け、中庭に出た。阿万の住む臣下の棟まで彼を送っていく為だ。
「うう、流石に夜は寒いな」
「確かにそうですね」
「あの、お二人とも、僕は大丈夫です。ですから、お戻りになってください」
「何を生意気な。この李紫雲が寒さに負けることなど決してあり得ハクション!」
「あわわ」
「まあまあ、もうすぐ着きますから…公主様」
「……来たか」
「え、え?」
 ふとある一角で二人は足を止めた。阿万がそばを見回すと、夜の闇の中に剣呑な雰囲気が漂っている。瞬間、白刃の煌めきが路地の中、屋根の上に群がり起こった。
「なるほど、討手の侵入を許したか!」
「公主様、されどこの数は!」
 三人は囲まれていた。殿舎の甍の上には、黒い装束を着た暗殺者の群れが立っており、側の路地からは三人を押し包もうと10人の黒装束が現れ出て、忽ち裏へと回られた。
「燕雲大都督李紫雲だな」
「流暢な獣人語だ。漢人がお前らは」
「我らが誰かは、お前が知る必要はない」
「生憎と今わたしは金を持ってはいない。蔵に行って1,000両でも2,000両でも取ってくるから、今は見逃してくれんかな」
「金が目的ではない。我らはその命が欲しいのだ!」
「くそっ!」
 黒装束の最初の1人が立ち上がるや、辺りの者達が一斉に襲い掛かった。紫雲は巧みな剣の技量で最初の1人を切って捨てたが、2人目3人目相手にはなかなか反撃できず、持っていた刀とその鞘で防ぐしかない。
 他方許由は剣を防ぎつつ腰に下げた回転式拳銃を取り出して前へ打ち放して敵を瞬がせたが、仮に一斉に飛び掛かられれば勝機はない。後ろにいる阿万を守りつつ、自分達も生きて逃げ延びることなどできるだろうか。
「それは難しかろうな」
 この奥の院まで気取られずに侵入できる暗殺者だ。流石に抜かりは無いだろう。護衛や援軍が到着するのが少しでも遅れる様に、鍵をかけるなどして手を打ってあるはずだ。
「この李紫雲、どうやら命運尽きたかな」
「困りますよ公主様!今公主様を失えば漢室は崩壊しますっ!」
「だ、だ、大都督…」
「案ずるな、貴女の軍才と中華への功績に敬意を払い、痛みなくあの世に送って進ぜよう」
「敬意を払うなら明日を生き延びさせて欲しいものっ…!」
 遂にとどめを刺そうと囲んだ全員が一気に襲いかかって来る!…その瞬間、
「う、ウワァァ!」
「なっ、なんだこいつは!」
「化け物だ!」
 地の底から響くような恐ろしい唸り声と共に、山のような巨体が素早く動いて、横の暗殺者達を薙ぎ倒した。そして、「それ」は落ちた刀を拾うと、そのまま紫雲の正面の敵を一刀両断して見せたのである。
「な、なんだこいつは…まさか、阿万か!」
「ええ!?」
 その姿は元の阿万とは似ても似つかない。身の丈は7尺近く、全身に巌のような筋肉の膨らみがあり、屹立して前を睨み据える様はまさに大丈夫たるに相応しい風格である。
「お、お前はっ」
「俺かい?俺の名は左阿万、燕雲大都督の武将だ!」
「許由今だ、後ろを2人で押し返すぞ!」
「は、はい!」
「凶賊は何処にいる!討ち果たせ!」
「まずい、兵士どもが来た!逃げるぞ!」
 黒衣の暗殺者達はそのまま甍を飛び越えて逃げ去った。一方駆けつけた兵士たちは、紫雲達を取り囲みつつ、二手に分かれて彼らを追いかけていく。暫くして、再び辺りには静寂が戻ってきた。が、紫雲と許由の間に聳え立つ巨大な生命の気配はまだそのままに居る。そして、おそらく元に戻ることはないだろうと思われた。
「えっと…」
「はい」
「阿万?」
「なんでしょうか」
「いや、阿万なんだな…」
「はい、俺は阿万です。間違いなく」
「うん、そうだな。ありがとう、おかげで二人とも命を救われた」
「…お二人のご恩は海よりも深く山よりも高くあります。この位で返したとは申せますまい。これからも忠義を尽くします」
 阿万はそう言って膝をついた。もはやそこに、かつての幼さやあどけなさは一片も残ってはいなかった。

 「…そうか、そんなこともあったな。阿万、久しくその名では呼んでいなかった」
「あの日から彼は見違える様でしたね。剛直で融通が効かない、勇敢な武将になりました」
「一軍の将たる素質はあった。それがうまく伸びただけのことだよ」
 長い長い回想を終えて、紫雲は懐かしげに呟いた。阿万が硬い殻を破り、自らの種族に課せられた呪いの枷を断ち切ってから、短くはない時が流れた。だが、結局のところ二人は彼が唐突に覚醒した理由を未だに知らなかった。
「あの後彼はなんと言っていたかな。ええと…」
「分からないけれど、自分の中で何かが弾け飛んだ気がした、でしたっけ」
「そういえばそうだった。思うにわたしは、彼の覚醒はなんらかの術によるものだと考えている。きっと、彼…いや、アルセチアの人々全てにかけられたなんらかの妖術の様なものだ」
「…果たしてそんな巨大な術が存在するのでしょうか」
「さあてな」
「大都督、虎威将軍がご帰還でございます!」
 大きな呼び声が、二人の会話を断ち切った。程なくして天幕の中に、巌の様な大男が踏み込んでくる。
「大都督、左阿万。拝謁します」
「よく来た季高。顔を上げろ」
 顔を上げた大男こそ、かつて紫雲達に拾われたあの阿万その人である。今やすっかり大将軍の風格を身につけ、体つきは精悍に引き締まり、眼光は鋭く辺りを威圧している。
「首尾はどうだ」
「はい、街道に跋扈する賊を討ち、首300、捕虜1,200、多数の武器と財を得て帰還しました」
「結構。北伐も順調に進むだろう」
「なんと、いよいよ北伐に出られるのですか!」
「そうだ!全世界の戦乱に乗じてセリカの平穏を脅かす輩を伐ち、我々の故郷を取り戻す。かつての雪辱を果たし、帝国を復興する。季高、お前との約束も遂に果たされるぞ」
「はい、大都督。どこまでもお供いたします!」
「許由、お前も来るだろう?三人で、いや、折角だから私の子供達も連れて行こう。楽土の地、アルセチアへ…」
 左阿万、字を季高。その名は、李紫雲最後の戦いとなった、1916年(光和15年)の「大北伐」に参加した将帥の中に見える。彼はアルセチア人唯一の将軍として一軍を率い、勇猛果敢に戦った。
 しかし、彼女の陣没後の足取りは杳として知れない。

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