紫雲に関する覚書

緑翠

妹へ

 「それでは、本日の衆議は以上。者どもは各々職務にあたれ」
「大都督失礼致します」
「許由、ついて来い。他の者は下がって良いぞ」
 建和四年のある日。十九歳にして大都督の地位にあり、北の国境を鎮護する重職を担っている少女、公主李紫雲は、凛とした声で政庁に集う百官達に告げて出て行った。その後を腹心である許由が付いていく。
 その様子を見て、ある者が呟いた。
「今年もか」
「そうですな。今年もお二人でどこかにお出でになっている」
 この燕京の地に赴任して以降、彼女は毎年一回不可解な行動を取る様になっていた。伴も護衛も連れず、正装して馬に乗りただ一人許由だけを連れて、城を出て行くのだ。単に変装して街へ繰り出すのはいつものことであるが、その際は普段の緩い服装で向かう為、正装の必要性は何処にも無い。また、密やかな逢引にしても同じであろう。
「全くどういうことでしょうか。どなたか理由をご存知の方でも?」
「いや、それは無茶というものです。大都督がお乗りになる馬は、日に千里を駆けるという駿馬。またご本人も特に馬術の技量に優れておいでですから。並の騎兵ではすぐに見失ってしまいます」
「しかも勘が並外れて鋭いお方です。一人たりとも付いてくるなとの厳命を破らば、罰を受けるのは我らですぞ」
「うむむ…」
 と、この様な事情もあり、二人が毎年この時節になると城の外へ出て行って、一体何をしているのかは、誰も知る者がなかった。

 その少し後。燕京城から大きく離れた土地まで馬を駆った紫雲と許由は、一面の草原が広がるある場所で降りた。そこはぽっこりと盛り上がった小高い丘であり、遠くを望めば薄らと城の影が見える場所である。
 しかし、街道からは大きく外れており、ただでさえ人口希薄な北域において、この辺鄙な丘に人が近づくことは殆ど無いと思われた。
「許由。準備を頼む」
「はい」
 馬を降りると、紫雲は前を見直した。そこにはこぢんまりとした小さな木の堂がある。周りには低い壁を巡らし、また簡素な木の門が建てられていた。堂の広さは人が四、五人入れるか程度の大きさで、普通建物には付き物の扁額や、これがなんなのかを示す明確な標も無い。
 建物の様式も質素極まり、小さな飾りや彫刻さえも廃した、ただひたすら、そこに建っているだけの建物だった。
 しかし、きちんと誰かしらによって管理はなされている様で、敷地の中には雑草が生えていることもなく小綺麗に保たれている。建材も古びてはいるが、廃屋というほど見窄らしくはなく、所々に補修の跡が見えた。
 そして、先に入った許由が堂の入り口にかけられた大きな錠前に鍵を差し込み、同時に小さく呪文をつぶやく。すると、ガコンという低い音がして錠前が外れ、一人でに扉が開いた。
「公主様、どうぞ」
「ああ」
 紫雲が扉をくぐって中に入る。薄暗い堂の室内には祭壇が設られ、長い線香を立てる為の灰入りの線香立てに灯明を立てる為の燭台が置かれている。そして、その最上段には一つの位牌が丁重に祀られていた。
「赤雲、今年も来たぞ。わたしだ、紫雲だ」
 彼女は位牌に向けて拝礼し、語りかけた。ここは霊廟だった。彼女と、親友としか知らない小さな秘密の聖域。それは今となってはその名前を知る人も少ない、たった一人の妹を祀る場所だった。

 今から八年前の泰安十六年。
 春のぽかぽかとした日差しが降り注ぎ、京師の禁城を照らす。植えられた木々も花をつけ、あちこちから馥郁たる香りが漂ってくる。そんな折、無数の中庭に面した縁側に座って、琴を弾いている少女がいた。
 年の程は十歳位だろうか、長く伸ばした艶やかな髪の毛を綺麗に結って、あどけない顔には薄く白粉を塗り、細められた目は宝玉を埋め込んだ様な真紅の色をしている。
 ゆったりと流れるのんびりとした時間。それは、唐突に割り込んできた焦り声によって破られた。一人の少年が無礼にも少女の前に駆け込んできたのだ。
「公主様!公主様、何処においでですか!」
「…何かあったのですか、許さん」
「これは、妹君。実は、我が主人がまたもお部屋を抜け出されたのです。今手を尽くしてお探し申し上げているのですが…」
「こちらには来ておりませぬ。紅珠宮の外ではありませんか?」
「うむむ…ありがとう存じます。では、失礼を…」
 少年が去ると、彼女は建物の奥に向けて呼びかけた。
「もう行きましたよ、姉さん」
「ありがとう赤雲!」
 溌剌とした返事が響くや、置かれた葛籠の一つの蓋がポンと飛び、中からもう一人の少女が顔を出した。その姿は、髪の毛をそのまま伸ばしていることを除けば、全く瓜二つである。
「…あまり、許さんをいじめないでくださいね。姉さん」
「ふふふ、考えておくとも」
 もう一人の少女ー紫雲は力強く頷いて見せた。今から八年前、あらゆることが平穏のうちに流れている頃の、平和な一情景であった。
 ところで、セリカ帝国第十二代皇帝である明帝は、その長きに渡る在位の中で十八名の民族が異なる妃嬪を迎え、五十人を越える子女を儲けた。紫雲と赤雲の姉妹の母親も、そうした妃嬪達の一人であり、特に明帝の寵愛深い人物だった。
 元来多産な北方人のこと、無論寵愛深ければその分多くの子供を宿す。彼女は姉妹を産む前にも、一度男児の双子を産んだことがあった。しかし、天は無慈悲にも最初の兄弟を幼くして奪い去り、彼女と皇帝を悲嘆に暮れさせた。そして、泰安五年に再び彼女が身籠った時、その願いは一つだけだった。
「男でも女でも構わない。どうか、健やかに育つ子供が欲しい」
 その願いは叶えられた。彼女が産み落としたのは、玉の様に可愛らしい、瓜二つの姉妹だった。共に目鼻立ちは母に似て美しく、深紅の双眸を持ち、長く黒い尻尾を生やしたこの姉妹は、姉は紫雲、妹を赤雲と名付けられ父帝の大いなる鍾愛を受けて育った。

 長じるにつれて、二人の性格は全く逆のものであることが段々と明らかになって行った。
 二人とも利発聡明、姿は共に幼いながらも仙姿玉質の美しさだったが、姉の紫雲は落ち着きが無く、嫌なことがあるとすぐにカッとなって逃げ出し家臣たちを大いに慌てさせた。他方妹の赤雲は万事控えめで素直、凡そ人に立て突くことが無い温和な人柄で、宮中で誰もに愛しまれていた。
 好みも真逆だった。紫雲は馬に乗って弓を引き、はたまたあちこちを駆け回って遊び倒すのを好んだのに対し、赤運は女子らしく楽器と読書を好み、共に住う殿舎の縁側で琴を弾じる日々を送っていた。
 この様に性格も好みも何もかも、風貌以外真逆な姉妹だったが、二人の中は睦まじくいつも共に身を寄せ合い、助け合っていた。彼女らの見た目は、それこそ一番側にいる人間以外はとても見抜けないほどに似通っていたので、入れ替わりや秘匿もごくごく簡単だった。尤も、そうした悪事のほとんどは姉が原因で、妹は半ば強引に付き合わされていたのだが。
「ところで姉さん、許先生の講義をまた抜け出して大丈夫なの?」
「案ずるな。孔公の『論語』はすでに誦じた」
「…じゃあ、第一巻学而を誦じて下さい」
「ええと、『学びて時にこれを習う。また喜ばしからずや』」
「その先は?」
「『学びたくないときにこれを学ぶ、また痛ましからずや』」
「はぁ…じゃ、『孫公兵法』の謀攻篇第三の一は?」
「『凡そ用兵の法、国を全うするを上と為し、国を破るは之に次ぐ。軍を全うするを上と為し、軍を破るは之に次ぐ。旅を全うするを上と為し、旅を破るはこれに次ぐ。卒を全うするを上と為し、卒を破るは之に次ぐ。伍を全うするを上と為し、伍を破るは之に次ぐ。この故に百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり』」
「流石は姉さんです」
「ふふん、武経七書は一字一句誦じられるぞ」
「兵法の知識を身につけて、将軍にでもなるつもりですか?」
「それも悪くはないな。何処かの名家の奥方で終わるよりも、勇敢に戦って功績を立て、天朝の歴史に名を刻むのだ」
「………」
 赤雲はふと黙り込んだ。彼女の目には楽しげに夢を語る姉が、無性に眩しく見えてならない。道理や慣習、伝統を越えた先の者を姉は見ている。それを理解して、彼女は自ら口をつぐんだのだ。
「公主様ー!どこです、何処においでですか!?」
「不味い、許由が戻ってきた。また葛籠に隠れねば!」
「…許さんがお嫌いなのですか?」
「む…決してそういうわけではない。彼奴は筋も通すし、優しく忠義に厚い男だ。だが、こうなんだ、時に彼奴といると暑苦しくなることがある。だから今は隠れていたいのだ」
「ふぅん…」
 紫雲が葛籠に隠れると、再び許由が汗だくになって赤雲の前に現れ、
「妹君、禁城を隈なく探しましたが、主人はおりませぬ。この上は貴女様にお縋りするほかありません、主人が何処へ隠れたかご存知ではありませんか?」
「……」
 彼女は約束は破らなかった。ただ、ちらりと葛籠の一つに目を向け、
「私は知りません。それから、これより昼寝を致しますので隣の部屋に下がります」
「はは」
 彼は言葉の真意を見誤らなかった。彼女が隣の部屋に下がると、すぐに葛籠を開け放し、中で丸くなっていた紫雲をひっ捕まえて肩に担ぎ、意気揚々と引き上げて行ったのだ。
「こ、こら!無礼者、離せ、このっ、赤雲!恨むぞー!!」
 姉の悲鳴を聞きながら彼女は寝転がり、くすりと笑みを浮かべた。

 「あぁ、酷い目にあった」
「お疲れ様です」
「お前の父ではないか!今少し手加減する様に言え!」
「無理です。私の父は、家ではもっと厳しいのですから」
 それから少しして、ようやく解放された紫雲は真っ青な顔で中庭に出てきた。身に纏う雰囲気は十歳か二十歳は老いた様に暗く、重くなっている。
「うぅ…ううぅ…バカ。お前には人の心がないのか、無いんだな?」
「公主様、一応最低限の教養と作法を身につけておかないと、降嫁先が無くなりますよ」
「その時はお前が駙馬になれ」
「ご冗談を…」
「それよりも、私が頼んだことはやってくれたか?」
「はい、万事仰せのままに」
「そうか。なら良い、わたしは妹の所へ行くから、持って来てくれ」
「分かりました」
 ふらりと彼女が姿を表した時、赤雲はいつもの様に縁側に出て読書をしていた。目を通しているのは分厚い典籍で、科挙の生員達が学習する様な高度なものであった。
「赤雲」
「姉さん」
「お前やってくれたのう、あの時密かに目配せをしただろう」
「……何のことだか」
「そう澄ましていられるのも今のうちだ!」
「きゃあっ!」
 襲いかかってきた紫雲が腰の辺りに軽く触れると、赤雲は突然の刺激に体を震わせ、たちまち本を取り落とす。この様子を見た彼女は上にのしかかり、妹を押さえつけた。
「さあさあ、ごめんなさいと素直に謝れ!」
「くすぐり、くすぐりだけはやめてくださいっ…!」。
「ふふふふ、お前は喧嘩などしたことがあるまい。尻尾の扱いなら紫雲の方がずっとうまいのだからな」
「く、くうぅ…」
「何をなさっておいでですか」
「あっ」
 気まずそうに声の方向を見てみると、小さな箱を抱えた許由が中庭に立ち尽くしていた。
「えっとな、その、これは…」
「許さん、助けて下さい。姉さんが私をいじめて来るんです…」
「なっ、違う!」
「…ちょっと失礼しますね」
「ふひゃあ!!なっ、お前っ、主人の腋の下を触るとは…!」
「それからうんしょっと。公主様はこの辺りを触ると力が抜けるので、そのまま運びます」
「ありがとうございます」
「許さんぞ!父帝に申し上げて罰を下してもらうからな!」
「昔の頃より、太傅は育てる皇子を躾けるための鞭を天子より賜ることとなっています。私はそれに倣いました」
「ゔ~、ゔ~!」
 手慣れた調子で紫雲を抱きかかえ、赤雲と引き離す。そして彼は冷静に主人に言った。
「今ここに来たのは何のためですか?わざわざ喧嘩してどうするんです?」
「う、それは済まないと思ってる」
「謝るのは私に対してでなく、妹君でしょう?」
「…ごめん、赤雲。ついカッとなった」
「……はい。でも、姉さんはどうしてここに来たんですか?」
「ええと、その…渡すものがあったからだ」
 彼女は許由が持っていた箱を受け取り、そのまま赤雲に渡した。開けてよいか、と問われると気恥ずかしげに頷く。中身は、
「これは、鞠ですか」
「そうだ。転がすと鈴の音が鳴る。綺麗な花模様が縫われているものを、許由に頼んで手に入れてもらったのだ」
 赤雲は、色鮮やかな糸で包まれた鞠を手に取り、不器用そうに転がした。確かにコロコロと涼やかな音が中から響く。
「どうして、その、いきなり贈り物など」
「少し前の誕生日、わたしはすっかり気を回せずに、お前には贈り物をやれなかった。お前があんな綺麗な守り刀をくれたのに申し訳なくてな」
「ちなみに、鞠を送ってくれた理由は何ですか?」
「ん?いや、お前は外に出て遊ぶことが無いからな。少しは日の光に当たった方がいいと思ってこれにした」
「素直に一緒に遊びたいと言えば…」
「何か言ったか?」
「…あの、姉さん」
「なんだ?」
「ありがとう、ございます。私、ずっと大切にします」
「…はは、初めて笑ってくれたな、お前は」

 位牌の前で紫雲は永く瞑目していた。ここに来るたびに、彼女はそうする。ひたすら目を閉じて、誰かと語らう様に座り込んでいる。そして、許由もそれを止めようとはしない。長い長い時間、ずっと二人は位牌を見つめたまま黙りこくり、古い思い出の回想に身を浸していた。
「(赤雲。だが、私はあの時は思いもしなかったのだ。それから一週間余、お前と毎日一緒に遊んだのに…)」

 贈り物をしてから一週間経った頃。その日も紫雲は赤雲と共に遊ぶ約束をしていた。しかし、運悪く前日に微熱を発し、医師に処方された薬もあまり効果が無いまま布団に寝かされていた。いつも側についている許由は今は姿を見せず、彼女はひとりぼっちでぼんやりと中庭の木々を眺めていた。
 そんな時、にわかにあたりが騒がしくなった。ふと外を見ると、許由を含めた宮中の人々が忙しなく駆け回り、皆一様に同じ場所を目指していた。
「何かあったのか」
 そう思って体を起こした彼女は、まだ熱っぽく言うことを聞かない手足を叱咤して歩き出した。その方向には赤雲が住む部屋がある。
「典医殿、いかがか!」
「…残念ながら…」
 切れ切れに聞こえる声の下をくぐり抜けて、赤雲の部屋の前へ出ると、その正面にある大きな池の前に人だかりができている。
「なにか、あったのか…」
「公主様!いけません、すぐにお部屋にお戻りを!」
「何があったのかと聞いている!」
 許由の顔は蒼白で、憔悴のあまり冷や汗が止まらず、微かに体が震えてさえいる。その様子に彼女は初めて恐怖を覚えた。よくよく考えれば赤雲の姿が見えない。いつも縁側にあるはずの彼女はどこへ行った?
「おい誰か!赤雲を呼んでこい!どこだ、何処にいる…!?」
「公主様、公主様、どうかお部屋にお戻りを」
「亡くなられました」
 冷然とした声が響いた。その主ー宮中に務める宦官の一人ーは、六尺を越す巨体を揺すぶって、少女の視界を塞いでいた人の壁に穴を開けた。その隙間から見えたのは、水に濡れそぼり、ぐったりとして二度と動かない白い人形と成り果てた妹の腕であった。その手には、見覚えのある鞠が握られていたが、やがてそれは手から落ち込み、透き通る音と共に小さく転がった…。
 そこから先、彼女の記憶は無い。気がつけば紫雲は自分の部屋の布団に寝かされていた。そして、あの宦官が側に控え、恭しく申し上げた。
「蘭陵公主殿下、妹君は薨去あそばされました」
「こう、きょ?」
「不幸にも、池で溺れられたのです」
「何故だ、あの子は池になど近付く子ではなかった!誰もあの子をそばで見てやってはいなかったのか!?」
「殿下、確かに妹君は慎重なお方です。しかし、それには理由があったのでございます」
 彼は懐からある物を取り出した。池の水で濡れ、ところどころ糸のほつれた球状の物体だ。
「…鞠?」
「はい。殿下はこれで遊ばれている最中、誤って手から抜け出したこれが池に飛び込んでしまい、自ら取りに行かれようと足を踏み入れ…」
 半分以上言葉は頭に入って来なかった。虚しく宦官の声だけが脳裏にこだまする。そこは既に一つの考えに支配され、それ以外にわかることなど一つもなかった。
「わたしの…せいか?」
「……」
 宦官は応えない。ただ頭を下げ、立ち上がる。紫雲を見下ろしながら、ふと思い出した様に彼は言った。
「…こちらは、殿下の落とし物でしょう。お返し致します」
 彼は懐から一振りの匕首を取り出し、布団の側に置いた。牡丹の花と金泥の流れが鞘に描かれたそれは、間違いなく亡くなった赤雲からの贈り物だった。
「では、私はこれにて…」
「張太監!」
 宦官が立ち去ろうと踵を返した瞬間、部屋に一人の少年が暴れ込んできた。間違いない、許由だ。
「張太監!いや、張譲!貴様、公主様に何を吹き込んだ!」
 大男の顔に一瞬狼狽が浮かぶ。怒りに燃える少年の背後には、彼を追いかけてきたらしき数名の宦官の姿があった。
「申し訳ありません、抑えきれませんでした!」
「張譲!この賊臣!品性下劣なる匹夫、恐れ多くも公主様にどんな嘘を吹き込んだのだ!」
「…如何に国子監祭酒のご子息とはいえ、頂けませぬな。主人の前で諱を公然と呼び捨てるは、切り捨てられてもおかしくないこと。ましてや天子の手足としてはたらく属僚を匹夫と愚弄するとは!申し上げて厳罰に処しますぞ!」
「何をぬけぬけと!私が何も聞かなかったと思うのか!後ろにいるこの寄生虫どもははっきりと言ったぞ!『少し手筈がズレたが問題ない。後は張様が蘭陵様を上手く誘うから』と!巫山戯るのも大概に…」
「やめないか!」
 一人の声が場を収めた。凛とした少女の声だ。彼女は布団から起き上がって正座し、皇族の身も顧みず、張譲に頭を垂れた。
「我が臣下が大変な無作法をした。申し訳ない。わたしが主人として其方に謝罪しよう。許由、何をしている。手を離して張殿に謝罪しろ」
「……大変失礼致しました」
「恐れ多くも公主殿下のお言葉とあらば、聞かぬわけには参りますまい。許殿、主人に感謝されよ」
 言い捨てて出ていく彼の背中を、許由は唇を噛み、強い憎悪を込めて睨みつけた。
「公主様、彼奴は…」
「もう、よい」
「え…」
「裏にどの様な事情があれ、わたしの贈った鞠が、あの子を殺した。その責任はわたしにある…今までありがとう許由。…わたしは今から、あの子に詫びてくる」
 紫雲は張譲が置いて行った匕首を手に取り、鞘を払ってそのまま喉を突こうとする。しかし、虎の前足よりも早く飛びかかった許由の手がそれを押し留めた。彼は匕首の鞘を払おうと柄を握りしめた彼女をそのまま抱きしめ、それによって抑えつけたのである。
「離せ、許由」
「なりません」
「このまま刀を抜けば、お前を傷つける」
「そうなさって下さい。このまま刀を抜き、私の腹を切り裂いて下さい。それでお気が済むのなら、どうぞ私をお殺し下さい」
「馬鹿な、死ぬのはわたしだ。お前には何の咎もない、さあ離せ!」
「お断りします」
「許由!」
「なりません公主様!」
 どちらが先かはわからない。だが、気がつけば二人とも涙を流していた。紫雲は許由の胸で感情のままに涕泣し、彼もまた、温かい主人の体を抱きしめながら声を上げて泣いた。まだ幼い二人には、重すぎる悲劇だった。
 少しして、皇帝臨席の下赤雲の葬儀が盛大に執り行われた。彼女は長平哀献公主の諡を下賜され、都の祖廟に祀られた。双子の姉である紫雲はその形見として遺髪と鞠を賜り、悲嘆にくれる母后共々、葬礼の間祭壇から一歩も離れずに祭儀に奉仕した。
 遺骸が帝室の祖廟に埋葬されてすぐ、彼女は中常侍張譲らが連名で許由を公主付の学友から免じ、流刑にする様に上奏したことを知った。名目は公主本人と張譲らへの侮辱である。無論激怒した彼女は謁見して反対の旨を上奏しようとしたが、宦官達に阻まれて果たすことができなかった。
 しかし皇帝は、塞ぎ込む娘に献身的に仕え、寝食を忘れて側に寄り添う彼の姿を見て大いに心を動かされ、その上奏を却下したばかりか、改めて彼を蘭陵公主の家丞として側に仕えさせる様上諭を出した。
 その後紫雲は一年間に渡り、許由と傅役である彼の父の他はろくに人と交流しないふさぎ込んだ日々を送った。彼女に生気が戻るのは、気晴らしの為に父帝が供奉を命じた北域行幸において、燕京に滞在した時のことである。
 やがて彼女は燕雲大都督として北域の地に住まうことになるが、赴任して初めて命じたのは、燕京から離れた静かなこの丘に、妹の遺髪と鞠を祀る霊廟を建立することであった。

 「帰ろう、許由」
「はい、承知しました」
 長い祈りを終えて、紫雲は立ち上がった。許由を連れて霊廟を出ると、季節外れの強い風が吹いていた。 
 「おや、これは公主様」
「爺やか」
 ふと目をやると、痩せた老馬を引いた一人の老人が門の前にいた。彼は紫雲が雇った廟の管理人であり、普段の掃除や修理、および祭祀を担っていた。
「許由、済まないが先に馬に乗っていてくれ。わたしは彼と話があるから」
「は、はあ…」
 彼が門を出ていくと、俄に紫雲は語気を冷たく小さく変えて老人の耳元に囁いた。
「首尾は?」
「間違いありませぬ。妹君の死の裏にあるのは万貴妃様です。恐らくは、妬みの末の犯行でございましょう」
「なるほど、張譲は?」
「張譲は中常侍を罷免されるとか」
「結構、工作をした甲斐があったというもの。…今後の資金としてまた幾らか届けさせる。引き続き宮廷工作を頼むぞ」
「御意のままに」
「公主様ー!お話はお済みですかー!?」
「終わった!雨もぱらついてきたし、さあ帰ろう!」
 もはや紫雲は振り返らなかった。二人はそのまま馬に跨り、風の吹き抜けるを燕京に向けて走り去って行った。

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