紫雲に関する覚書

緑翠

将星は雲の上にて

 建和四年三月。燕京奉天府に国境から騒乱が再びやって来た。ー国内問題と手を携えて…。

 「ふう、これで最後!」
 ダン、と李紫雲は印を書状に押し、府の官僚に投げ渡した。
「ありがとうございます」
「後は工部の専門家に任せる。わたしには堤防工事などわからんからな」
 官僚が退出すると、彼女はクッションを敷いた都督の席に寝転がった。その様はだらしなく、ついさっきまでの勤勉な政治家の姿とは思えない。
「お疲れ様でございます」
「おう、許由。甘い物と茶を持って来い」
 勤務日であるにも関わらず、普段使いの平服姿で紫雲はごろごろと席上を転がった。
 少し前まではきっちりと正装すると決めていたものの、少し前に休日を平日と間違えたことでその気は失せてしまい、元々の気まぐれさも相まってすっかりだらしない姿へと堕落してしまった。
 そんな気まぐれさまで含めて、許由は愛らしいと思わないではないが、その評価にはかなり贔屓目が入っていると言わざるを得ない。何しろ、既に身辺に仕えて十五年。彼という人間は、少なからず紫雲という朱に交わってしまっているのだから。
「お持ちしました。芝麻球(ごまだんご)とお茶です」
「おお、ありがたい!」
 菓子が来るや否や、紫雲は起き上がった。裾から覗く尻尾も上向いて、嬉しげに動いている。
「政務も軍務もこれがなくてはやってられん!」
 早速摘んでぱくりと口に入れ、幸せだと目を細める。これだけ見れば、やはり彼女が漢朝随一の将帥だとはどうしても信じられない。
 毎日の様に、莫大な仕事をこなす為政者であることなど、到底想像もつかないだろう。

 「ところで公主様、お伺いしてもよろしいですか?」
「んん?」
「一月前の騒乱で浮かび上がった、易姓革命道という連中ですが、顛末はどうなったのでしょうか」
「ああ、そうだ。伝えるのを忘れていたな」
 芝麻球を茶で流し込んで手を拭き、紫雲は側の錠前が付いた鉄製の箱の中から、一冊の報告書を引き出した。
「まず、革命党そのものについてだが、こいつは前に説明したな。大漢を廃し、内地人による新たな帝国を建設しようとする奸賊だ」
「はい」
「で、わたし達が報告書を送ってすぐ、錦衣衛(秘密警察)が新海の拠点を急襲し、奴らの構成員三百人を検束することに成功した。まあ、後から外国公使達から、商売に差し障ると抗議をくらったがな」
「なるほど」
「が、それだけで話は終わらなんだ」
「と、言いますと」
 紫雲はずいと顔を近づけ、囁き声になって言った。
「こいつは軍事機密だ。誰にも言うなよ」
「はい」
「…実のところ、新海は氷山の一角だった。奴等は天朝打倒・異民族排斥による新国家の建設を目指す連中の、多くの拠点の中の一つに過ぎなんだ。奴等は思ったよりも大量に居て、この国のあちこちに根を張っている。麻薬密売で得た利益を使って官僚達を抱き込んでいるのだ。そして、その淵源が…」
「……」
「アルビオンを筆頭にした外国勢力だ。奴等が我々の弱体を狙って賊めらを資金源と武器との両面から支援していると言うわけだな」
 紫雲の言葉は、決して衝撃的なものではなかった。寧ろ、麻薬密輸の関係性なども含めて察しのつくことではあったし、歴代の帝国における政変の多くは、民族間の対立を利用した外国勢力の蠢動によるものであったからだ。
 革命党は外から仕入れた質の良い阿片を売り捌いて資金を作り、それによって今度は最新式の武器弾薬を仕入れて蜂起の機会を窺っている。
「それで、大逆を企む連中はどれだけいるんですか」
「分からん。分からんが、新海の他に十を超える大規模支部が確認されている。中には、現地を統治する巡撫や総督府にも食い込んでいるのもあるそうだ」
 顔を離して茶を口に含み、喉を潤して彼女は話を続ける。
「…そこで、今あちこちでそうした賊を炙り出す諜報作戦が始まっているというわけだ。無論、この燕京とて例外ではないぞ」
 許由ははっと思い出して、眼前の報告書に目を落とした。『極秘』の朱印が押されたその題は、『北賊夷狄報告書』。
「燕京に潜伏する逆賊の報告書ですか…!?」
「そうだ。少し前から内偵調査をさせていたが、まあ出るわ出るわ、まるでシラミが頭にいた時くらいの衝撃だったのう」
 見ていいぞ、と顎で紫雲が本を示すと、彼は急いでそれを開き、中身を読んだ。
「革命党北域総司令部、所属者五百人、外国協力部隊本部、所属者三百人…。これだけの逆賊がこの燕京に…!」
 興奮と共にページをめくった許由は、あるページでそれを急停止させた。
「大都督李紫雲、暗殺計画…?」
「まあ、そうなるであろうな」
 どこか他人事のように紫雲は呟いた。
「自分で言うのもなんだが、わたしの存在は奴等の革命とやらには大変不都合だ。清王朝を建設したい者にとっては、わたしは皇族の一門だし、異民族排斥をしたい輩にとっては、騎馬民族の血を引いている。そして何より、わたしの軍才は奴等全てを戦場で撃砕するに足るだけのものがある。となれば、暗殺するのが一番早いからのう」
「公主様は、これを知っていたのですか!?」
「無論だ」
「一体、一体どうして俺に教えてくれなかったんです!?」
「そりゃ、お前が狙われては困るから…」
 紫雲は最後まで結論を言い切ることはできなかった。床几から身を乗り出した許由が、強引にその身を抱き締めたからである。
「…おい、どういうつもりだ」
「嫌です、公主様。貴女が殺されることなど、絶対に」
 身体の震えが、思いの強さを示していた。
「…やれやれ、お前は相変わらず、こういうことには耐性が無いのだな」
 ぽんぽん、と彼の背中を叩いて落ち着かせると、紫雲は腕をすり抜けて話を続けた。
「まあ、いずれにしても、わたしを殺そうとしてくることは完全に予測がついていたし、それに対する備えもしっかりとしてある。その辺は心配しなくてよいぞ」
「ですが…」
「それよりも、今は光復会の壊滅を考えねばならん。決して奴らに恨みがある訳ではないが、逆賊を許しておく訳にはいかんのだ。その為の計画が…」
 紫雲が言いかけた時、兵士が息急き切ってやって来た。
「大都督、大変です!」
「何事だ?」
「山海関総兵、袁崇煥将軍からの伝令で、大規模な叛乱が発生し、援軍が必要であるとのこと!」
「分かった、直ぐに向かう!許由、お前も来い!」
「あっ、ちょっと!」
 彼女は許由の手を引いて駆け出した。たまらず彼は持っていた報告書を取り落とし、慌てて走って続く。既に外には、駐屯する軍隊が集まりつつあった。
「さあ行くぞ!用意は良いな?」
「応!」
「じゃ、留守は頼むぞ。わたしが出ている間、引き続き全ての城門を封鎖し、猫の子一匹通すな」
「承知しました」
 留守を預かる曹安国将軍は、固く請け合った。かくして軍は征旅に発ち、戦旗は北域に翻った。

 さて、紫雲は燕京駐屯軍二万余りを率い、報告のあった叛乱軍の拠点へ向かった。既に山海関の友軍が拠点を包囲下に置いているとの報告があり、援軍の必要性は刻一刻と下がりつつあったのだが。
「袁将軍!」
 眼前の側を確認すると、紫雲は親しげに叫んで馬を走らせた。
「これは大都督!」
 本陣から出てきたのは、獅子を象った金ピカの鎧を纏った七尺近い偉丈夫である。五尺半の紫雲など、簡単に見下ろされてしまう。
「暫くだったな、将軍。元気そうで何よりだ」
 彼女が笑顔で手を差し出すと、袁崇煥はその数倍の大きさの手で、握手に応じた。

 袁崇煥は北域に駐留する将帥の中で、特に名を知られた者の一人であり、山海関の総兵官を十年以上勤めた練達の軍人である。
 人格は豪放で派手好みの面はあるが、女性関係や金銭関係は潔癖であり、公正廉直な人物として兵士からの人気は高い。中でも扱いの非常に難しい八旗の精鋭部隊を手足の様に指揮することから、『天馬将軍』の渾名も持っている。
 紫雲が来る前は、北域で最も名声と能力とが高い人物であり、その後でも麾下筆頭格の勇将として数々の鮮やかな勝利を挙げてきた。
 そんな英傑であるから、当然彼女の信頼も厚く、今では山海関総兵に加えて、都督府首席副将の地位を与えられており、しかもそれらの職務を十二分に果たしてきたのだ。

 「さて将軍。貴公なら十万の敵であっても撃砕できようものを、どうしてまたわたしに援軍を求めた?」
「いや、お恥ずかしい話、敵が野戦砲を持ち出しましてな。兵の士気が下がってしまったのです」
「ふむ」
「それに、我が軍は騎兵部隊が中心であります。攻城戦は些か不得手でございまして」
「分かった。確かに、犠牲を払うことにもなりかねんし、デカブツが敵にあっては士気も落ちよう。慎重を期した、良い判断だ」
 紫雲は目の前の小山を眺めた。周りに山脈はない一人山だが、相応の高さと要害足りうる地形を備えている。そして、山のあちこちに木の壁や逆茂木が配置され、所々の銃眼から銃や砲がこちらを覗いていた。
「こちらの損害は?」
「城に追い込む過程で十数名負傷者が出ましたが、それ以外は。精々砲撃で旧型攻城砲が二、三個おじゃんになった位ですかな」
「ふむ、となると、敵は実際野戦よりもこの籠城戦で決着を着ける肚か」
「だと思われます。本気で抵抗しているのなら、我々にも少なからず死者が出たはずですから」
「……まあ、よかろう。で、敵の戦力は割れているか」
「野戦に出てきたのは千と少しといったところです。誘い込むのが狙いとすれば、二千から三千はいると見て良いでしょう」
「よかろう。貴公の兵力が一万、わたしが二万。敵の十倍は居る訳だ。攻城兵器も用意してある故、二、三日あれば落とせよう。久々に腕を見せてやる」
「ありがとう存じます」

 「攻城戦の用意だ、早くしろ!砲兵の周りには虎人と象人が鉄盾を持って並べ!」
 紫雲が命令すると、俄に陣中が活気付く。将軍達が持ち場に向かい、兵士達が走り回る。
「それにしても、高々十数分の間に攻城作戦を定めてしまわれるとは」
「流石、軍才は健在といったところですな」
 援軍の将帥達の感嘆に照れるでもなく、彼女は指示を与え続ける。官軍は急速に攻撃の陣容を整えつつあった。
 さて、許由はといえば如何に紫雲の友人兼副官であるとはいっても、作戦に参与する権限は無い。加えて、最近彼女は彼を疎外気味であり、軍機であるとか理由をつけて作戦会議の場から追い出していた。
 無論彼はそれが不満ではあったが、敬愛する主人の命令であれば従わない訳にもいかず、素直に服したが、それでも一抹の寂しさは拭えない。
 どこか自分に至らぬところでも有っただろうか。そう考えながら、彼が陣所で黄昏ていると、辺りを見慣れぬ白肌の異民族の兵士が通りかかった。彼らは砲弾の入った重い箱を運んでいる。
「ああ、白夷か…」
 心の中で思っていたことが自然に出ていたのかも知れない。だが、相手が悪かった。普通の人間ならば聞こえなかったであろうその呟きは、相手の耳に届いてしまったのだ。
「今なんと言った!」
 忽ち許由は怒りに燃える彼らに取り囲まれ、襟首を掴まれ物理的に吊し上げられた。
「貴様!俺達のことをなんと言った!」
「ひ、あっ、それは…っ!」
「何処の隊の者だ!大都督に申し上げて、罰を下してやるぞ!」
「……」
「答えないか。なら、俺達でお前を罰してやろうか!」
 どさり、と地面に落とされたかと思うと、無防備な横腹に蹴りが突き刺さり、許由は嘔吐しながらのたうち回った。
「お前達、は…何者だ…」
「ふん、知りたきゃ答えてやるよ。俺達はオロス佐領!南方から移り住み、今に至るまで陛下に忠誠を誓う八旗の一員だ!」
 オロス佐領。かつて武帝の時代に無秩序と化した南方に割拠した幾つかの植民地国家が滅亡した後、彼の地に住んでいた西洋移民達は一度賎民階級に落とされ、世襲的奴隷民として各地で酷使されていた。
 しかし第九代憲帝の時代に至り、彼らの多くが時の暴君に対する革命に参加し精鋭として活躍したことから、特に民族全体に赦免の勅令が下され、一部は旗人として土地を供与され、帝国の軍事を担う階級へと昇格した。
 その後彼らの大部分は北方の大国オロシヤへの備えに当てられた為、同時に彼らもまた「オロシヤ八旗」、「オロス人」などと呼ばれる様になったのだった。
 許由は決して、異民族への差別感情を持ち合わせていた訳ではない。だが、時流が彼の目を曇らせた。
「いいか、俺達をあんな奴等と一緒にするな!恩知らずにも攻め寄せた、同族の恥晒しどもととはな!」
 四年前の戦争。彼らの故国との苛烈極まる争いと、それによって生まれた戦争捕虜奴隷が存在しなければ、許由も彼らを奴隷…もっと言えば、蛮族に連なる輩と捉え、侮蔑的な呼び名を言うこともなかっただろう。
 しかし、一方で彼はごく模範的なセリカの人間であり、侵略してきた他国民に対して慈愛を持って接するという、器の極端に広い若者ではなかった。北方での熾烈な戦いに起因するある種素朴な敵愾心が、紫雲に疎外されているという鬱憤と結びつき、唐突に理性の箍を飛び越えてしまったのである。
「俺達は、忠誠を誓ってた!だが、奴等のせいで、俺達は、俺達はなァ!」
 かの七夷擾乱において、多くの西洋人達が捕虜になると同時にオロス人達もまた激しい差別の嵐に晒された。忠誠度に問題がある、と地方軍司令官の恣意的判断により戦線を外された部隊、あるいは部隊ごと旗人としての資格を停止された者達…。
 これらの対応は不当ではあったが、理不尽と謗られる部類のものではなかっただろう。何しろ、他国における「敵性国民」への対応よりは、ずっとマシなものであったはずだから。
 とはいえ、それで本人達の心が慰められる訳ではない。結果として、彼らは戦地において最も剽悍な同族殺しの部隊となるか、ともすれば皇帝への失望を片手に移住か帰農の道を選んだ。
 そして、最近紫雲の隷下に配属されたばかりのこの部隊は、前者の更に過激な部類に属していた。
「済まない、俺は燕京では奴隷しか見たことがない…。最近配属されてきたことを知らなんだっ…!」
 もう一発蹴りが入る。口の中の酸味がより強くなり、体を貫いた痛みで視界が明滅した。
「クソッタレ。何処に行っても、みんな同じことを言いやがる。俺達だってな、立派にこの国に尽くしてんだよ!」
 力任せに背中を踏みつけられ、再び許由はうめいた。少なくとも彼は、戦場を長く経験してはいたが、特段武芸に優れていた訳でもないし、ましてやこの様な一方的な暴力に対して反撃する精神など持ち合わせていない。
「悪かった、俺が悪かったよ…」
「へっ、謝るだけなら…」
「何をしている!」
 凛とした女性の声が、更なる暴行の嵐を押し留めた。オロス人達が振り返ると、そこに居たのはー
「大都督!」
「…お前達、一体何をしているんだ」
 紫雲は激しい怒りと共に叫んだ。
「この人間の兵士が俺達を夷狄だと侮辱して来たんです。俺達は自分の誇りを守っただけです」
「…恥ずかしい話だが、元々燕京にはオロス八旗は一部隊も駐屯しておらず、市街にいるのは皆奴隷ばかりだった。かくいうわたしも、お前達の存在などつい最近まで知らなんだ。こいつが知らずとも、無理はなかろう」
「ですが…」
「いいから、この場は収めよ!理不尽な懲罰を続けるなら、軍法に照らすぞ!」
「はっ!」
 命拾いしたな、と言いたげに兵士達が去っていくと、紫雲はやれやれ、と手を貸して許由を立たせてやる。
「すみません、公主様」
「お前も悪い」
 ぴしゃりと言い切って彼女は近くのテントに彼を引き込み、介抱した。
「あまりいらんことを口走るなよ。特に、喧嘩っ早い輩の前ではな」
 薬酒を飲ませながら、紫雲は説教を垂れた。一方許由は、痛みを堪えつつも縮こまってそれを聞いている。
「申し訳ありません、お手数をおかけして」
「本当ならあの兵士に謝ってやるべきだろうが、まあ良かろう。相手を殴った者に謝罪する必要は無い。それに私とて少々腹に据えかねている。特別な事情がなければ、奴らを軍法に照らして処断しているところだ」
「……」
「まあ、そのな。わたしも気持ちは分からんではない。だが、それでも言ってはならん一言がある。特に彼らは何代もこの国に尽くしながら、ただ一度の、それも全く関係の無い他国からの侵略によって名誉も地位も失ったのだ。その恨みや憤りは深かろう。同族に対しても、我々に対してもな」
「はい、迂闊でした」
「…この始末は私が付けてやる。お前は少し休んでいろ」
 ぽんぽん、と背中を叩いて紫雲はテントを出て行った。将軍としての彼女は、どうやら許由よりも数段上のようである。

 この様な悲喜交交がありつつも、官軍は昼頃には攻撃準備を完全に整え、照準を山の砦に合わせた。
 既に砲兵達は持ち場につき、命令を待っている。
「如何致しますか」
「うーん…よし、じゃあこうしよう」
 紫雲は手近の兵士に指示を与えると、馬に乗って砦の城門の前に現れた。
「賊軍の諸君、わたしのことを知っているか!」
 鳳凰の意匠があしらわれた鎧に、獅子の飾りの兜。黄金の太刀を佩き、芦毛の馬に跨るその姿は、正しく漢朝一の大将軍である。
「わたしは大漢の燕雲大都督、李英素(紫雲の字)である。諸君、既にこの城は三万の精鋭に取り囲まれ、退路は既に失われた!故に、わたしは諸君らに勧告する。速やかに降伏されたし!繰り返す、速やかに降伏されたし!寛大にして名誉ある処遇を約束する」
 答えがあるか。そう待っていると、門から大声で返事があった。
「汚らしい異民族の屑!民を虐げる奸賊の手先よ!貴様こそ武器を置き、頭を垂れて降伏せよ!」
 凄まじい罵言である。普段の紫雲なら、激怒して引っ掻くことも辞さないだろう。しかし、彼女はニヤリと笑い、右手を上げた。
 瞬間、城の無礼者は舌の罪を全身で贖うこととなった。数十門の巨大攻城砲が火を吹き、山のおよそ四分の一ほどを消し飛ばし大穴を穿ったのである。
「さて、聞こえなかったが。今一度答えを聞かせてくれんかのう」
「…降伏する!!」
 これだけだ。紫雲は自慢げな笑みを許由に向けると、そのまま本陣へと帰っていった。
 記録では、この反乱の鎮圧に要した期間は六日間。しかし、実際に戦闘が行われたのは一日と『三時間』。うち一日は袁崇煥による追い込みであるから、実質的には三時間程の戦闘で勝敗が決したことになる。

 だが、未だこの反乱は終わってはいなかった。この次の幕こそが、真に記録の主役となるのである。

 叛乱を鎮圧した紫雲は、半数を防衛強化と捕虜移送に割き、自身は精鋭一万と共に燕京に帰還した。
「さて、戦も勝ち、死者も無かった。万事順調で何よりなことだ」
「…ええ」
「どうした許由、やけに浮かぬ顔だな」
「いや、何でもありません」
「まあそれなら良いがな。では、これより南東の春明門から市街に入り、凱旋式と行こう」
「え、朱雀門からではないのですか?」
「少し事情があるのだ。先に行くぞ」
 そう言い捨てて、彼女は馬を走らせる。その様子は些か急いでいる様で、許由に僅かな違和感を与えた。
 春明門の前に着くと、そこでは厳重に兵士たちが門を閉ざし、警備にあたっていた。
「帰ったぞ。門を開けよ!」
「大都督のご帰還だ!門を開けよ!」
「わたしが居らぬ間、誰も通さなかっただろうな」
「はっ!猫の子一匹通しておりません!」
「なら良い」
 門が開くと、まずは先行部隊が市街地へ入って道を確保し、その後に弓と剣で武装した親衛隊と共に紫雲が入城する。この時許由は、命令によって後方へ下がり、遥か前方を行く彼女を見つめていた。
 市街地へ入ると、野次馬達が囁き合うのが彼らの耳に入った。
「普段は朱雀大街を行かれるのに、何故だ」
「いきなりのことだぞ」
 異例のことに戸惑う人々をよそに、紫雲は悠々と進み続ける。そして、間も無く内城の門の前という時、事件は起きた。
 一発の銃声。市街地のある建物の二階から放たれた弾丸が、全てを止めた。
 二秒の後、馬上の紫雲の体はぐらりと揺れ、地面へと落ちた。
「公主様!」
 許由が叫び、走り出すと時が動き出した。即座に兵士達が走り出して通りを封鎖し、建物に突入して暗殺犯達とその係累を引き摺り出す。
「一人も逃がすな!怪しい者どもは全て捕らえろ!」
 親衛隊長の檄が飛び、瞬く間に数十名が引っ立てられた。抵抗しようとした者、逃げようとした者、自殺しようとして果たせなかった者。彼らは採った策こそ異なれど、皆同じ表情をしていた。
 達成感、歓喜、勝利ー恍惚とした表情の中に、俺達は全てを変えたのだという感情が溢れていた。
 しかし、許由はその全てを見ていなかった。怒号、悲鳴、混乱。全ては遠い彼方の出来事であり、明確な形無き幻の風景だった。
 ただ一つ、彼の目が捉えていたのは、自身の膝の上に横たわる少女と、そのこめかみから流れ出す鮮やかな血の色だけだった。
 光を失った紅玉、物言わぬ唇、段々と生色が褪せていく白磁の肌。彼の生涯を捧げる筈だった人間の成れの果て。それだけを見ていた。
「公主様」
「……」
「公主様!」
 二度口にされた同じ言葉の中に、どれだけの感情が含まれていることだろう。情愛、忠誠、悔恨、悲憤、否定、惜別…。言葉、思考にさえ表せぬ感情の奔流が、涙として、叫びとして現れた。
「俺は、俺は…」
 誓いを果たせなかった。守りきれなかった。全てを捧げた人、星の如く駆け抜けた憧れの人。半身にも等しい、主人であり親友。彼女だったものが目の前にある。ないまぜになった感情のまま、再び彼がそれを吐き出そうとした時、
「顔を上げろ、我が友」
 確かに聞こえた。
「え…」
 刹那。目の前に横たわる少女の体が崩れていく。ボロボロと、紙吹雪となって。そして、崩壊が全身を包み、紙片が飛び去った後、一枚のヒトガタだけが残された。
 複雑な呪印と共に、『李紫雲』と書かれた紙のヒトガタを手に取った許由は、理解と共に呟いた。
「…式神」
「正解だ!」
 後ろを振り向くと、そこには一人の兵士がいる。質素な兜と鎧、装いは単なる雑兵に過ぎない。しかし、その顔はー。
「あなたは…!」
 輝くばかりの紅の瞳、嬉しげに笑みを浮かべた唇、生気溢れる肌…そして、兜を脱ぎ捨てた内から現れた、腰まで届く瑞々しい黒髪…。
「公主様!?」
「左様!李紫雲、再び見参!」
 ひらりと馬に飛び乗って叫ぶ。すると、恐怖と混乱の洪水は一瞬にして爆発する歓呼の津波と化し、通りを越えて市街全体へ広がった。
 勝利を確信した暗殺者達は、最初愕然とし、次いで絶望共に膝をついた。彼らにとって、すぐそこにあった筈の素晴らしき未来は、再び地平の果てへ消え去った。
 そのことを悟ったのである。
「公主様、あなたは…」
「教えてやろう」
 紫雲は答えた。まるで悪戯に成功した悪童の様な、美しく、純粋な笑みを浮かべて。

 「一体あれはどういうことですか!?」
「おいおい落ち着け!」
 燕京城の政庁に入るや否や、許由は襟首を掴まんばかりの勢いで、紫雲に問い質した。
「いつから入れ替わってたんですか?何で俺を遠ざけたんですか?いやむしろ最初から何で暗殺計画のこと話してくれなかったんですか!」
「あーもう、わかったわかった。順に話すよ」
 やれやれ、といった調子で彼女は席に座ると、小豆餡入りの蒸し立て包子を頬張りながら、話し出した。
「ええと、どっから話したもんかな…。じゃあまず、例の叛乱の話しようか」
「はい」
「あの叛乱はな…一から十まででっち上げの嘘っぱちだ。数ヶ月前から袁将軍と打ち合わせしていた」
「はい!?」
「うわあ立ち上がるな!茶が溢れる!」
「す、すみません」
「はぁ…あの兵士達もな、実は道士達の巫術で動かしてた泥人形の類に過ぎんのだよ。式神も含めて、お抱えの道士部隊がまとめて動かしていたんだ」
「一体何の為です?」
「前にも言った通り、革命党壊滅の為だ」
 そう言って、紫雲はまた見覚えのある本を取り出した。
「これは…!」
「そう、前に見せた内偵の報告書だな。でだ、今回の計画の始まりはこいつにある」
「はい」
「中身を見たらわかると思うが、此奴は規模こそ割れていても、幹部陣の潜伏場所や主要な拠点がどこにあるかはよく分かっておらなんだ」
「はあ、あ、確かに。燕京の拠点だとかは多少ありますけど、分からないことも多いですね」
「で、そんな時にわたしの暗殺計画を内偵が嗅ぎつけた。コイツを利用しない手は無い!そう思ったので…」
「思ったので…?」
「まずは、わたしが暗殺と蜂起の計画を察知し、近々大弾圧をする肚であることをとある数名の人間、尤も、こいつらはネズミの公算が高い奴らだが…に故意に漏らすところから始めた」
「な、なんちゅうことしてくれたんですか!」
「わーわー、もう騒ぐな!お終いまで黙って聞け!」
「…はい」
「宜しい。さて、次は心持ちの話だ。許由、仮にお前が武装蜂起を計画するとして、予定日より前に露見したらどうする?」
「それは…逃げるか、そのまま一か八かっていう感じです」
「左様。奴等もそうしようとしたはずだ。だが、わたしは漏らした後にその手を封じる策を立てた」
「あ、城門封鎖!」
「正解だ。まず、城門を封鎖させて逃げることと連絡を封じた。此奴は奴らが精鋭軍の留守に乗じて蜂起しても、他の都市と連携が取れなくさせることを意図している」
「では、蜂起を封じるのは?」
「内偵によれば、奴等の規模は多くとも千人というところだ。その規模で城門を固く鎖し、さらに警備兵を置いておけば、わたしが全速で帰るまで持ち堪えられる。それに、奴らは夷狄同様民衆の支持が得られない。そして、これはそもそも論だが、戦場でわたしとやり合って勝てると思うか?高々非正規叛乱軍が」
「確かに」
「つまりは、わたしが存在すること自体が蜂起に対する要石であり、同時に他の策も更なる足枷になるということだ」
「しかし、そうなったら奴等に打つ手は無いのではありませんか?」
「たった一つある。万事解決する手がな」
「…あっ!もしかして」
「そう、わたしを暗殺することだ」
 会心の笑みを浮かべ、紫雲は策謀の中核を明かした。
「逃走は不可能、蜂起も無理。となれば奴らは総力を上げてわたしを暗殺するしかない。そして、暗殺の混乱に乗じて逃げるか、蜂起するかしか手が無いのだ。だから、それを逆用した」
「……」
「まず、さっきの策を打ちつつ、わたしは駐屯軍の主力を率いて城を出る。これは、城を封鎖しながらも、奴等から見て『好機だ』と捉えさせる為だ。親の居ぬ間に逢引き、とそういうわけだな」
「ふむ」
「無論奴らのことだ。暗殺からの武装蜂起か逃走まで策を詰めているはずだ。そして、奴らの下にわたしがのこのこ戻ってくる。パーンと暗殺、しかしそいつは式神を使った罠で、殺し屋は一網打尽。後は芋づる式に組織自体を引っ張り出す、とそういう算段だ」
「ですが、内偵でおよその結果は割れていたんですよね。では、漏らさずに発見次第奇襲でも良かったのでは無いですか?」
「それでもよかったが、最大の敵が残ることになる」
「最大の敵?」
「さっきも言ったが、奴らは官僚の中にも仲間を紛れてさせている。普通に捕らえれば、官僚の中の敵は野放しで取り逃すか、疑心暗鬼で怯えることにもなるが、こうして『もともと誰が知っていたか』、『誰に流したか』を把握できる情報を流せば、敵の存在の是非を明らかにできる上、出所の監視も容疑者の絞り込みも大変やり易い。ネズミ獲りが今回の最大の目的の一つだったのだ」
「ということは?」
「既に、情報を流した人間は監視下に置いてある。政庁の中に潜んだ密偵が、策の対象を常に監視しているのだ。その結果をわたしが選別して、容疑者を絞り込んだ」
「もしや、今回別の道で凱旋したのも?」
「策の一環というわけだ。あれは本来、報告書の存在を漏らした連中にしか流していない機密だ。重々しく『朱雀ではダメだ。暗殺者が潜んでいる故…春明門から戻る』とな。…にも関わらず、奴らは来た。これだけで、粛清すべき対象が特定できたと言うもの」
 獲物を見つけて舌なめずりする表情で、紫雲は笑った。
「とまあ、これだけ策を打てば、何処かしらで真実に行きあたるはずだ。そう思ってな」
「…では、わたしに策を教えてくださらなかったのは何故ですか」
「わたしは今回影武者を立てた。兵士の中に紛れ、仮に魔導砲を撃ち込まれても良い様に準備もした。だが、お前がそのことを知っていたらどうした?」
「……」
「間違い無く、兵士の中のわたしを気にして、視線を向けただろう。明敏な殺し屋なら、それで真実を看破してしまうからな」
「そう、ですか」
 万事、紫雲の手の内だったのだ。そう知った時、許由の心は驚きと同時に、もう一つ何とも言えない怒りに満たされた。あの時、彼女が死んでしまったと思われた時の感情さえ、全て利用されていたのだと。
「…どうした?何故泣いている」
「いえ、そんな、泣いてなんか…」
 気遣わしげな表情さえも、痛みとして心に突き刺さる。涙を拭うためか、そっと紫雲の指が許由の頬に触れた。
「…悪かったと思っている。お前の忠心を弄ぶ様な真似をしてしまったこと、本当に済まなかった」
「……」
「だが、これだけは解ってくれ。お前が泣いた時、偽物のわたしの死体を抱いて、お前が泣いてくれた時。わたしの心は締め付けられた。これ程までに想ってくれている人間に嘘をついた罪悪感で、潰れそうだったんだ」
「…はい」
「だからわたしは、あの場でお前に声をかけた。本当なら、もっと後で。そう、わたしの死を知った奴らが調子に乗って蜂起するまで待つつもりだった。だが…」
 紫雲は身を乗り出し、許由を抱き寄せる。
「お前が泣いているのを見て、耐えられなくなった。一刻も早く、お前を安心させてやりたくなったんだ」
「…じゃあ、何で。何でわたしを遠ざけたんですか。何でわたしに言ってくれなかったんですか!」
「…実を言うとな、我が友。わたしは、お前に命を掛けて欲しくなかったんだ。もしも、お前を側に置いたら、式神であれわたしを守ろうと凶弾の前に身を投げただろう?或いは、本物のわたしを守る為にもそうしたと思う。それが嫌だった。高々式神の為にお前を失うことが。…わたしの計略のせいでお前が傷つくのが見たくなかった」
「…馬鹿、大馬鹿ですよ、あなたは…」
「そうだな、そうかも知れん」
 優しげな笑みを浮かべて、紫雲は泣きじゃくる親友を受け入れた。震える体を抱きしめて、沸騰する感情が収まるまで、彼女はそのままでいた。

 「…申し訳ありません。公主様」
「いや、落ち着いた様で結構」
「…この後どうなるのでしょうか」
「さあな。だが、暗殺も失敗、逃げられもしない。となれば…」
 そう話していると、将軍達が政庁に駆け込んできた。
「大都督!革命党を名乗る賊が、市内各地で蜂起しました!」
「全軍出撃の用意だ!」
 白皙の頬を朱に染めて紫雲は立ち上がり、すぐさま自分の鎧兜を持ってくる様に命じた。
「読み通りだ、許由。くく、これで北域の賊は一掃できるぞ!やはり、敵は追うより引き込むに限る」
 先程までの優しさは消えて、現れたのは苛烈なまでの焔の嵐である。激情と昂奮が彼女を満たし、王者の勢威と共に走り出そうとしていた。
「さあ行くぞ、友よ!」
「はい!」
 差し出された手を、今度こそ許由は強く掴んだ。

 1899年3月末。燕京蜂起鎮圧から始まった、帝国政府による組織的な壊滅作戦により、革命党を含めた反政府組織は北域における拠点を喪失した。
 逮捕・拘束された者は二千人以上、うち外国人は四百人を占めこれに連座した者は一万人に及ぶ。また膨大な小銃や銃火器、銀三万両に登る秘密資金が押収された。
 外国人は当初条約に従って領事裁判所に引き渡されたが、その中でアルビオン領事裁判所は犯人に大逆罪適用を宣告し当局への引き渡しを決定した。
 五月十三日。幹部とされた二百人余り、および彼らと繋がっていた官僚百六十人、加えて外国人三十一人が京師・燕京・新海の三箇所で絞首刑・銃殺刑に処され、国内における反体制組織に対する見せしめとして晒し首となった。
 後世「建和の案」・「建和大獄」と呼ばれるこの大粛清により、革命党他既存の組織は大打撃を受け地下深くへの潜行を余儀なくされる。
 また、帝国政府はこれ以降も断続的に行われた外国や反政府組織と癒着した不正官吏の摘発により、一時的に国勢を取り戻すことに成功した。
 かくして、建和五年年上半期における争乱は終わった。だが未だ国内の紛争の種は尽きず、そう遠くない未来に紫雲は再び戦場へ赴くこととなる。

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