紫雲に関する覚書

緑翠

辺塞に寧日無く、北地春光遅し

 「…朝か」
 セリカ暦建和四年(西洋暦1899年)。セリカ帝国領燕京奉天府。春の息吹近づく冬の末のことである。
 李紫雲は燕京城奥深くの私室で目を覚ました。寝台の周りには書物が散らばり、兵棋演習に用いた道具がひっくり返っている。
「やれやれ、酷い有様だな」
 その原因である彼女は他人事のように呟くと、手を叩いて侍女を呼び、湯を入れた盤と着替え、それから櫛と化粧道具を持って来させた。そして、顔を洗う間に自身の長い黒髪を手入れさせる。
「いつも助かる。何しろ、長い髪の手入れは苦手でな」
「いえいえ、公主様のお勤めに比べましたら」
 洗い終えると、侍女に顔を拭かせつつ立ち上がり、服を着替えさせた。但し、その服は女性が着飾る為の衣ではなく、軍人や騎馬民族の着用する旗服ー両端に深いスリットが入った、騎乗、疾走に都合の良い戦闘服ーである。
 着替えが終わると、今度は係の者がごく簡単な化粧を施す。白粉を塗らずとも肌は白磁の如く白く、唇は紅を刺すまでもなく鮮やかな色をしている。
 だが、彼女は一応の嗜みとして、戦場以外では化粧は必ずさせていた。自身が軍人であり、男にも等しい存在であるとは思っていたが、それでも女を完全に捨てることは出来なかったからである。
 その後、服の上から正装としてシジギャン(長い上衣)と品級官職を示すザヒルギ・クルメ(更に上に着る上衣)に帽子を支度させると、今度は部屋を出て政庁に向かった。
 この装いは、執務をとる時の仕事服でもあり、正式な天子の使者を迎える時の服でもある。戦時の軍服と鎧兜と共に、彼女を可憐な少女から、凛々しく勇壮な将軍に変える服装であった。

 政庁の広間に入り、最上段の席に着くと、一人の青年が紫雲を迎えた。
「公主様、おはよう御座います」
「許由か。今いるのはお前だけか?」
「はい」
「ふむ…始業には多少早いとはいえ、それはかなり不安だのう…まあいい、一先ず報告を聞こうか」
「はい、公主様に申し上げます」
 副官許由はハッキリと言った。
「本日政庁は休日でございます。当直の兵士と、急に備えて待機している人員の他、今日官吏は誰も参りません」
「……え?」
 李紫雲の一日は、かくして始まった。

 「休日なら、誰かそうと教えてくれたらよかったのに!」
 紫雲は不機嫌そうに帽子を前の机に放った。鮮やかな色の孔雀の羽飾りがふわりと揺れる。
「公主様にお声をかけることを憚る者は多うございます。皆、分かってはいても躊躇ったのでしょう。さもなくば…」
「さもなくば?」
「公主様のお世話は一年中無休ですからな。侍女達もそのような概念が無いのでしょう」
「…お前、それはつまりわたしが手のかかるご主人様だとそう言いたいのか!」
「いえ、その様なことは」
 許由はくすりと笑って、主人の怒りを受け流した。何しろ、十五年来の付き合いである。お互いのことはよく知っているし、彼の方が四歳ほど年上な分余裕があるのだ。
「わたしが誰だか、もう一度教えた方が良いのかな?」
 怒りを堪えつつ彼女が言うと、許由は朗々と呼びかけた。
「はい、わたしの前におられます李英素様は、聖上の第七皇女にして、蘭陵公主。官途は正一品燕雲大都督、正確に申し上げますと燕京奉天将軍並びに緑営提督、鑲白旗王、並びに燕京巡察使、そして忠武大勲征北大将軍で在らせられます」
「その様な長ったらしい官職を持つわたしに対して、高々副官のお前がよくもそんな口を聞けるものだな、ええ?」
「お許しになったのは公主様でいらっしゃいます。よもや、十五年前の約束を忘れたわけではありますまい」
「…ふん、まあその通りだな。それにしても、お前は歳をとるごとに嫌味ったらしいむかつく男になる!」
「お褒め頂いたと思っておきましょう」

 許由は十五年前、紫雲が四歳の頃からの親友である。父親が国子監の教授であり、彼女の教育係を拝命したのと同時に、自身が学友に指名されたことが縁の始まりだった。
 以降不思議と馬があった二人は、互いをして刎頸の友とし、友誼を結んできたのである。
 この友の存在は、その特異な才覚と嗜好故に孤立していた彼女を救い出し、その成長の大きな糧となったが、同時に我が儘と気まぐれをぶつける相手を得たことにもなり、心中に依存にも近い感情を芽生えさせた。
 このことを許由は憂慮してやまなかったが、あくまで口には出さず、やんわりと友離れを促すにとどめていたのだが…。

 「まあいい。今日は久しぶりの休みということにしよう。済まないが、少し待っていてくれ。平服に着替えてくる」
「え?私に何か用でも…」
「大有りだ。執務にも休暇にも、お前がいてもらわなくては困るのでな」
 そう言い捨てると、紫雲は一度奥へと引っ込んで行った。この辺りが許由の頭痛の基である。
 少しして、彼女は質素な平服姿で戻ってきた。男の服である点を除けば、その姿は市井の人々と何ら変わりは無い。
「で、何かなさりたいことでもありますか?」
「いや、特に。とりあえず街に出てみて、それから探そう」
 後ろの裾から控えめに顔を出している、黒い尻尾が僅かに揺れた。

 紫雲が治める燕京は、その名の通りセリカ北方の大都市、帝国の三つの首都の一つである。
 人口は凡そ八十万人に達し、河北一帯の物資・交易の一大集積地、また北方を守護する駐防八旗の根拠地として十万以上の軍団を支えるこの街は、燕雲と総称されるセリカ帝国の支配領域北部の心臓部であり、その戦略的価値は計り知れない。
 その為朝廷は、この街を徹底的に要塞化し、あらゆる土地から技術と人材の粋を結集した城壁で市街地を囲んだ。城のあちこちには、侵入してきた敵軍を文字通り粉々にするための罠や設備が設けられ、城門からは一撃で攻城兵器を破砕する砲台が睨みを効かせている。二重の城壁には、特殊な技術によって作られた石よりも堅い特別な煉瓦が用いられ、更にその周りは通常の数倍深い堀で囲まれていた。
 だがそうして尚、この城は薄氷の上に立たされている。諸外国の技術革新によりこれらの防衛設備は日に日に陳腐なものへと成り下がって行き、有効性は危うくなる一方だった。かつては砲撃を受けても傷一つ付かなかった城壁は、砲弾の進化によって容易く打ち崩される様になり、砲台は射程の外から攻撃してくる敵に対しては全く無力だった。
 この致命的なまでの防御設備の遅れば幸運にもこの城そのものではなく、かの七夷擾乱の折同じ設備を持つ更に北方の関や城で証明された。城を守っていた兵士達は、その死と引き換えに重大な警告をもたらしたのである。
 朝廷は城を作り直す大計画を立案し、各地でそれに着手した。しかし、巨大な城壁と膨大な装備の修築や更新が一朝一夕で成る筈がない。故に彼らは、その間城を確実に守り切れるだけの保証を必要とした。それこそが紫雲の持つ異常なまでの軍事的才能であり、彼女が幼くして重すぎる責任を負う理由でもあったのである。
 この城を含めた北方の諸城の守りは、全く綻びを見せてはいない。だが、未だ十九歳の不安定な少女の心が壊れた時、国家の盾は砂上の楼閣も同然に崩れ去るだろう。
 城を支える薄氷はいつ割れてもおかしくはないのだ。

 「さあ!行くぞ、まずは市場で腹ごしらえだ!」
「ちょっと、待って下さい!」
 隼の様に駆け出した紫雲は、政庁を飛び出て、そのまま一気に城門まで抜けた。途中走る二人を見て、歩哨が戸惑いがちに敬礼をしたが、その表情はどこか諦めめいた感情をたたえていた。
 内城門を出てみると、そこからは外城門まで市街地を貫く朱雀大街が伸びている。要塞都市とはいえ、その中には当然住民がおり、彼らは日々の生業を城内外で営んでいる。
 朱雀大街はそんなあらゆる種類の生業が集まる、燕京一の大通りである。城の側には幾つかの官衙と寺院が並び、外城門へ近づくにつれて、食べ物屋や道具屋、書店などが増えてくる。これらの店の中には、夜まで営業を続けるものも多く、大街は昼夜を問わず明るい賑わいに満ちていた。
「さて、何を食おうかのう」
「南の食事がしたいところですね。麦飯には飽きてますから」
「気持ちはわかる。戦場でないのなら、食事は旨いものが良いからな」
 紫雲はうんうんと頷いた。自身が常に戦陣に身を置く機会があるからか、彼女は食事の様な日常的なもののありがたみを肌で理解している。といっても、普段から我慢我慢を強いられているだけに、食事の質や好みには執着するのだが。
 二人が街を歩いていくと、大勢の市民とすれ違うが、その姿は皆一様ではなく、それぞれが大きく異なっている。
 例えばゆるい漢服を着た内地人があれば、旗服を着ている北方人もいる。或いは、高地出身と見える男が側の食堂で忙しく働き、その向かい側ではターバンを巻いた砂漠の商人達があれこれと商談に励んでいる。
 この様な混沌とした風景は、俗に内地十八省と呼ばれる本土の大都市では日常的な物で、燕京の様な陪都では特にその傾向が強い。第二代皇帝文帝が定めた多民族併用制に基づき、各民族から官僚や軍人を取り立てる様になってから、諸都市には少なくない数の異民族官僚が配属されている。(尤も、皇室自体が北方騎馬民族の出身である為、寧ろ大多数を占める内地人の方こそ異民族なのだろうが)
 それ故、今や内地の都市で内地人しか住んでいないという場所は殆ど無く、あったとしてもよほどの辺境の小都市程度のものだった。
「時に、許由。あれは何だ」
 ふと紫雲が指さした。その先には、重たい荷物が乗った車を引く粗末な格好をした奴隷の姿がある。その肌は白く、明るく輝く様な色の頭髪と青色の瞳が周囲の目を引いていた。
「ああ、あれは白夷です。最近また更に増えてきましたね」
「外国人か」
「はい。元は西の夷狄に属する国の者どもですが、今から二百年前の内戦の折に大漢の南方に侵入してきた者達です。その後土地が支配に戻ると、ああして賎民になったわけです」
「しかし、我が国ではあらゆる民族を国民として保護し、賦役と軍役と引き換えに良民として公認する旨、祖法がある筈だが」
「はい。その通りに内戦以降の時期に服した者どもは殆どが新たな良民として公認されたんですが…五年前の七夷擾乱の頃に攻め込んで来て、捕虜になってしまった者達が、新たに賎民階級に加えられたのです」
「なるほど、そういう訳だな…」
 説明を聞いて納得したのか、紫雲は視線を外し、話題を変えた。
「ところで、沿岸部の蛮夷共は何をしているかわかるか」
「例の新海租界とかの話ですか?」
「そうだ。どうも最近、東部の利権を取り戻したい跳ねっ返りどもが京師で増えていると聞いた。呆れた話だが」
「確かに。今の我が国に敵と争って勝てる目はほとんどありませんね」
「きちんと理解してくれて助かる。馬鹿を言う者もあったものでな、『蘭陵公主が燕雲軍を率いて彼らの租借地を討ち、その隙に他の軍が沿岸部の蛮夷の海軍を潰す』だと。戦術的な勝利と戦略的勝利を見事に混同しておる。アホとしか言いようがない」
「まあまあ」
「だいたい…いや、続きは向こうでするぞ。ついて来い!」
「あ、ちょっと!」
 唐突に紫雲は許由の服の袖を掴み、走り出した。その先には、『新海料理』の看板を掲げた食堂がある。どうやら、そこから流れてくる匂いに釣られた様だった。
 この気まぐれさが、彼女の基本的な性格だった。移り気で、何をするか読めないのだ。何かに集中している時でさえ、突然他のものに惹かれて消えてしまう。
 今日にしても、城の人間にしてみれば、主人が朝食も取らずに消えたことになるだろう。自分の行動如何で、北方の情勢が大きく変わることを、恐らく彼女は理解している。理解していてもなお、この性格を直そうとはしないのだった。
「主人!席は空いているか!」
「へい…って、公主様!いらっしゃいませ」
 ここの店主も客も、紫雲の行動にすっかり慣れ切っている。彼女が親友を連れて来店しても、騒ぎ立てる者はいない。唯、振り回されている親友に憐れみの目を向けるだけである。
「何になさいます?」
「小籠包と米、あと八宝菜!」
「許大人は?」
「同じ物を」
「では、一つの皿に盛って盛って参ります」
 よく食うな、という視線を残して店主は立ち去った。運動能力に優れているからか、紫雲は人の二倍は食べる。加えて胃腸も強く、多少無茶をしても腹を壊すことは無い。
 この辺りは戦場に身を置く者としては役に立つ美質といえよう。何しろ、生水や時には野生動物、草まで食べねばならぬのが戦場なのだから。
「じゃ、話を続けようか」
 待つ間、紫雲はついさっきの話の続きを喋り出した。
「そもそも論として、京師の奴等は戦術的勝利と戦略的勝利の違いや、何方が重視されるべきかを分かっておらんのだ。わたしの華々しい勝利で目眩しをされたか知らんが、戦術的な勝利だけで、戦略的な勝利を得ることは基本的に出来んのだよ。そして…戦略的に勝てなくては、万事意味は無い…」
「夷陵の奇跡は、偶々二つが同じ方向を向いていたから成し得たということですか」
「それも少し違う。蛮夷どもは、既に戦略的には負けていたのだ。わたしの勝利は、八割まで決していた勝利をダメ押しで十割に持って行っただけのこと。此方が圧倒的に優位な状況を確立させたものに過ぎん」
「京師の方々は、それを何と見たのでしょうか」
「不利な戦争でも、一度の戦場での大勝利で、戦争そのものに勝てるとお考えの様だ。もっと言えば、戦場の勝利の累積で戦争に勝てると思っているのさ」
「駄目なんですか?」
「駄目も駄目、大駄目だ。その程度もわからん様では、まだまだ李紫雲将士学堂の学生としては不合格だのう」
 紫雲はくすくす笑うと、今度は一転して真面目な面持ちで言った。
「いいか、我が友。数十度の勝利の集積が、たった一度の敗北で潰えた事例は幾らでもあるし、何十回敗北しても、結局敗北しなかった事例もある。…所詮、局地的な勝利だけでは戦争に勝つことはできんのだ。もっと大きな次元で勝利を収めなければ、どんなに戦場で勝とうが意味は無い。そのことを忘れるな」
 そのタイミングで、山盛りの八宝菜と小籠包、そして飯が運ばれてきた。
「ほう、旨そうだ!」
「八宝飯と同じくらいの美味を保証しますよ」
「早速食べよう!」
「…はい、いただきます」
 紫雲は早速むしゃむしゃと野菜と肉を頬張り、飯をかき込む。一方許由は、彼女が言ったことを心中で反芻していた。
「(ただ戦に勝つだけでなく、それよりももっと上の次元で勝たなくてはいけない、か)」
 恐らく彼女は、補給が絶たれ、軍規も無きに等しく、挙句無謀な兵力分散によって壊滅した連合軍を指して「戦略的に負けた」と言っているのだろう。
 そして、仮に新海を攻撃するとすれば、戦略的に負けているのはこちら側だ。何しろ、兵器の面で未だ劣り、改革も道半ば。そして、何よりも四年前の侵略の傷がまだ癒えていない。
 それでは、どれだけ勝ったとしても最終的に敗北を喫する。彼女はその点を考えてああ言ったのだ。許由はそう結論付けた。
「ん、どうかしたか」
「いえ、なんでもありません」
「…んぐっ。にしても、戦争というものはあまりゾッとしない。長い時間をかけて育てた人間を、膨大な資金と物資ともども使い潰すのだからな」
「…意外です、まさか公主様がその様なことをおっしゃるとは」
「馬鹿者。わたしはいつでも天下泰平を願っておる。戦争など、物語とシャンチーの盤上だけで十分だ」
 大漢に比類無き天才用兵家は、そう言うとうずらの卵を口に放り込んだ。
「いいか、許由。凡そ戦争の才能というのは、無駄な物として持ち腐れさせた方が良い部類のものだ。確かに、歴史上の偉人には、戦火の中で頭角を表した戦争の天才が確かにいる。だが、そうした人物が大元帥ではなく、何処にでもいる商人や農民として人生を終えられる時代の方が、余程素晴らしいかと思う。わたしとて、あの戦争がなければ、禁城でお前とだらだらして、もう嫁いでいた頃だろうさ」
「しかし、公主様は兵法をこよなく愛されておいでです。戦がお嫌いならば、何故ですか?」
「剣の稽古をする者が、人を殺したがっていないのと同じだ」
 そのまま餡で滑り良くなった飯を飲み込み、付け合わせとして出された蜜柑を剥きながら、紫雲は呟く。
「無論、解ってはいるのだ。わたしは人殺しだ、そして、人殺しの術に魅入られている。きっと、長生きは出来んだろうなぁ…」

 料金を支払って店を出ると、紫雲はそのまま大街をウロウロと歩いた。許由は黙ってそれに続く。
「これからどこへ向かわれますか?」
「んー?そうだな…一旦城に戻らなくては。行方不明になっていて、騒がれてるかも知れん。その後は…」
 そう思案した時、
「危ない、こっちへ!」
 顔色を変えて、彼女は許由の腕を掴んで道の脇へと引き込んだ。その背後から、数騎の騎兵が駆け抜けていく。
「何事だ…?」
「公主様!?」
「お、すまん。…だが、あれはどこの兵だ?」
 抱き締めた彼の体を離すと、紫雲は不思議そうに言った。
「制服から察するに、城を守る八旗の兵に見えたが…」
 走って追いかけてみると、騎兵たちは城の門前で足止めを食らっていた。疾く大都督に報告を!いや、今大都督はお留守で…、などと押し問答を続けている。
「わたしはここに居る!」
「大都督!?」
 紫雲が叫ぶと、使者達が飛び上がった。市民とは違って、兵士達は身分秩序に忠実だ。皇族や最高司令官などが護衛や隊列も組まずに街をふらつくことなど、実際に触れていない人々にとっては想像も付かないことである。
「こんなところで何をなさっているのです!?」
「お説教は後だ!何があったか教えろ!」
 騎兵は馬から下りると、地面に膝をついて言った。
「敵でございます。蛮夷領から侵入した敵が、燕京を抜けて南へ向かっているのです!」
 それを聞いた紫雲は、肩をすくめて、許由に向けて苦笑いを浮かべた。
「どうやら、休暇は取り消しらしい」

 紫雲は急ぎ千人の騎兵を集めさせると、甲冑を着込むのもそこそこに全速力で城を飛び出した。
「しっかり付いて来い!」
「無茶を言わないで下さい!」
 乗馬の天才である紫雲は、前から吹き付ける風もものともせず、凄まじい勢いで加速を続けていく。一方人並みの乗馬技能しか持たない許由は、どんどん引き離されていった。
 他方周りを見回せば、紫雲と同じく北方民族の血を引く兵士達が、主人の走りにも全く劣らぬ速さで駆け抜けて行った。重い甲冑と銃、剣を身に付けているのにも関わらず速度を維持できる辺り、単なる民族の特質だけでは説明が付かない。
 これこそが、北方を守護する燕雲軍の強さの理由であり、紫雲が数多の奇跡的な勝利を演出できた理由でもあった。
 燕京を出て二時間ほど全速力で駆け抜けると、燕京に向かう街道と、その東に位置する北平城へ向かう街道の結節点に設けられた軍の野営地が見えてきた。臨時のそれではあるが、数百人の兵士が駐在できる規模を持っている。
「大都督がお出でだ!門を開けろ!」
「全員速度を緩めよ!」
 目のいい兵士が報告すると同時に、紫雲は軍を一度止め、隊列を立て直させる。その後、開かれた門から野営地へと入り、指揮官を呼び出した。
「大都督、御自らの御出馬とは」
「挨拶は結構だ、ヘリャン将軍。状況を報告してくれ、簡潔に、要点を押さえて」
「はっ!」

 セリカの領域とその北方であるアルビオン領建州植民地の長大な国境線の周辺には、広大な平原が広がっている。かつて皇室李氏の故地の一部であったこの地方は、肥沃な牧草地帯として、百万人を超える騎馬民族の遊牧、狩猟生活を支えてきた。
 しかし、幾度となく続いた戦乱と混乱の果てに、王朝の故郷は分断され、肥沃な土壌と膨大な資源を内包した大平原の北方は諸外国の手に落ちた。当然その地に住む者達は、自身を迫害する侵略者に対して武器を取って対抗するか、平穏を求めて南へと逃走するかの二択を余儀なくされ、前者を選んだ者の殆どは鉄と炎の嵐によって部族ごとこの世界から消えた。
 しかし手に入れた諸国も資金不足や対外戦争などに忙殺されたことで、多くの可能性を秘めるこの土地を利用しきれておらずその開発は未だ途上であった。
 その結果、工業化の波が押し寄せることも先住者達が戻ることもなく、処女地は主人無きままに放置されてきたのである。
 さて今から十日前、多量の積荷と共に武装した五百人ほどの集団が国境線を植民地側からセリカ側に向けて越えた。彼等は街道に設けられた関所を抜けたわけであるが、その際は「陸路で新海へ向かう貿易商」と名乗っていたのである。
 しかし、その風体は明らかに異様だった。確かに、外国人への憎悪渦巻くセリカの国土を陸路で移動するのに、護身の為武装するのはよくある話であるし、条約で公認された外国人の権利の一つでもある。
 だが、その集団の武装はそう考えても度が過ぎていた。威力の高い散弾銃、軍用小銃などは無論のこと、軍艦に載せる様な小型旋回砲さえ馬車に取り付けていたのである。
「どうしてその時点で止められなんだか」
「調べたところ、国境の官吏が賄賂を取っていたようで…」
「よもや、腐敗もそこまで進んでいたとはな」
「積荷の調べも、ろくに行われていなかった様です」
 その様な軍隊じみた集団さえ賄賂を得れば通してしまう程、当時の帝国末端の腐敗は深刻であった。紫雲は、外国人達が祖国の下級官吏を指して、『マンダリン』と呼び、元々は『支配者』、『命令者』を意味する外来語が、今となっては『腐敗官僚・汚職官吏』を指す言葉に変わってしまっていることを苦々しく思い出した。
「それで、その後は」
 その後、外国人達は何にも遮られることなく、街道を抜けて行ったが、この砦から北へ数百里離れた海林周辺に設けられた臨時関所で停止を命じられた。
「要は、善意の告発者によるものです」
 臨時関所が設けられていたのは国境での杜撰な調査を憂いた善意の兵士による通報によるもので、彼が数百人の武装外国人集団に対する調査を、海林城総兵である劉子明に急報ところ、それが認められたという幸運があった。
 今この様な詳しい事情が共有されているのも、その兵士による報告あってのことである。
「その兵士は後で厚く賞しよう。で、大方それで積荷や、異様な武装について問いただそうとしたら、無理矢理押し通られたとかそういう訳だな」
「ご賢察恐れ入ります」
「こいつは、ほぼ間違いなく何某かの禁制品が絡んでいるな…。ところで、お前の報告日時が正しければ、間も無くこの砦の周りに奴らが姿を表すことになるな」
「はい。今、あの二つの丘の向こうに斥候を向かわせているのですが…おや、赤旗を振ってこちらへ戻ってきます!」
「敵だ。直ぐに出陣しよう」
 ヘリャンが言うが早いか、紫雲は立ち上がって周りの将達に出陣の支度を命じる。赤旗は彼女が定めた信号の意匠の一つで、斥候が振り回すのは即ち敵襲を意味する。
「この砦にはどのくらいの兵がいる?」
「輸送要員含め六百です」
「援軍も入れて千六百だが、兵器で劣ってるとなれば油断はできんのう…そうだ」
 紫雲は少し考えると、将達に布陣と部隊指揮の割り当てを指示した。彼等はそれを理解すると、直ちに砦の門から出て、布陣にかかる。
「許由、お前はいつも通り、わたしの後ろだ。…主戦場はあの双丘だ。奴らは野営地の位置までは分かるまい。あの間の街道を通ってくると見た。奴らに視認される前にことを運ばねば!」

 幸いにして、燕雲軍の兵士達は統率と機動性において平均よりも遥かに秀でていた。彼らは速やかに指示通りの場所に展開すると、目の良い者達で構成された斥候部隊が丘の草むらに伏せ、敵を目視で監視する。
「どの程度で接敵かな」
「既に斥候以外も目視できる距離ですから、そこまで遠くはないでしょう」
「よし。楯兵に銃と槍を構える様に伝えろ」
 主戦場には、東西に半里(二百五十メートル前後)の間隔を空けて二つの小高い丘があり、その間隔に街道が通じさらに後方二里の距離に野営地がある。
 紫雲は兵を大まかに四手に分け、先ず街道上に丘の間隔を埋める様にして大楯を持った歩兵を配置した。彼等は鉄製の楯と槍、そして旧式のマスケット銃で武装している。この一団には総兵力の約半分が投入されていた。
「彼らは言うなれば囮だ。勝負は残りの三方で決める」
「敵です!」
 彼女が許由に作戦の説明をしようとしたところ、見張りが敵の進軍を伝えた。どうやら、既に抜き差しならぬ位置に到達しているらしい。
「一度警告を!」
「は、はい!そこの外国人、手向かいせずー」
 瞬間、激しい銃声が警告に応えた。我が国のものではない。となれば…
「大都督、奴らが…」
「撃て!」
 報告を聞くまでもなく、即座に紫雲は応射を命じる。同時に彼女は、丘の上へと合図を送った。そして、凄まじい閃光と砲声が、更に続いた。

 二つの対になる丘と、その真ん中を通る街道の上に広がる形で、数百人の兵士が巨大な鉄楯と簡素な柵と共に待ち受けている。
 他方、ならず者達はこれを見るや、散弾銃を構え、馬車に積んだ旋回砲の発射準備を完了させた。
 彼らの武器は敵と比べて遥かに優勢だ。小銃は正規軍用の最新式で、発射速度も射程距離も遥かに長い。砲に籠められた弾丸は、あの様な楯くらいは簡単にぶち抜くことが出来る。
 敵の射程の前で止まり、砲撃と銃撃によって追い散らしてやればいい。そう考えた彼らは、敵の姿を確認すると即座に銃と砲を構え警告も終わらぬうちに一斉射した。予想通り、炸裂砲弾は楯もろとも敵兵を消し飛ばし、銃撃は鉄の楯で防がれはしたが、防御陣を大きく揺るがした。
 元よりならず者達には、積荷を守ること以外の戦略構想は無い。敵の陣が崩れたら、そのまま突撃して突破すれば良いと考えていた。
 続いて二発目の砲弾と第二射を叩き込もうとしたその時、双丘の茂みがざわめいた。
 注意を引かれて見上げると、俄かにその丘から敵兵が群がり起こり、野砲と銃でこちらを狙っているではないか。
「撃て!」
 命令一下、丘の上の兵達は同時に一斉射撃を加え、準備の整わぬならず者達を薙ぎ倒した。
 この十字砲火で手痛い損害を与える戦術は、丘陵地に置いて少数による多数の迎撃戦法として紫雲が考案したもので、敵の各個撃破戦術を防ぐ為のカウンター策の一つであった。
 この攻撃にたじろいだならず者達にとって、選択肢は二つのうち一つしかない。即ち、突撃するか逃走するかだ。
 そして、彼らは後者を選んだ。踵を返し、後生大事に守っていた積み荷を捨てて遁走を始める。
「今だ!突撃しろ!」
 この報告を合図で受けた紫雲は、騎兵四百人と共に丘の影から現れると、そのまま逃げ散るならず者の最後尾を追い越し、三隊に別れて伸び切った彼らの隊列に側面から猛進する。
 一隊が前を塞ぎ、もう一隊が後方を遮断し、最後の一隊が中心に突入して分断包囲するーこの困難な戦術をわずかの間に考案し、一切の澱みなく実現してみせる辺りやはり彼女の将才と従う部隊の練度は尋常のものではあり得ない。
 タイミングを同じくして後方の歩兵隊も包囲陣に向けて殺到し、戦闘に加わる。包囲陣は突破不能な程に厚くなり、最早士気統率に致命傷を受けたならず者達に勝機は無かった。

 ーかくして、ほんの二時間程度のうちに『北平街道の戦い』は終結を見たのである。
「戦闘は終わりだ、許由。お前は負傷者と共に先に戻って、留守居の奴らを安心させてくれ。諸々片付いたら、詳しい事情を調べよう」
「了解しました」

 戦場での事後処理を終えると、紫雲は部隊の半数を率いて帰還し、そのまま京都への報告書と継続的な処理の決裁にかかった。
 まず捕虜を京師へ移送する手続きを行い、ついでに没収した武器弾薬や積荷の保管先を作る。最後に戦闘に参加した兵士への報奨金や、戦死者遺族への弔慰金を支払う為の命令書とお悔やみに署名捺印し、漸く全ての処理が終了する。
 夕刻ごろの帰還から休み無しに続けても、完了したのは真夜中のことだった。
「ん、んんーっ。終わった…」
 最後の書類に署名し終えた紫雲は、大きく伸びをして床几に突っ伏した。服の裾から覗く尻尾も、疲れて元気を無くしているのか、面倒臭げに床を擦っている。
「お疲れ様でした」
「必要な仕事故、やらぬわけにもいかんが、辛いものは辛いのう」
 湯呑みから冷め切った茶を飲み干して、座りっぱなしで痛む腰を伸ばすと、紫雲は言った。
「疲れたから許由、少し背中を押してくれんかな」
「構いませんけど、やり易い様に服を着替えて貰えませんか。今お召しになっているのだと、分厚すぎてやりにくいです」
「ん、ああ。着替えてくる」
「頼みます。体の動きが見えませんと、効果やツボが分かりませんので」
「分かった…って、お前。もしかして体は正直でわかりやすいとかそう思ってないか」
「思ってます」
「貴様ーっ!」
 「ちょろい女だ」と言われたも同然だ!といきりたつ紫雲を無視して、許由はさっさと奥へと引っ込み準備を始めた。実際、彼女の機嫌や思考を読み取るのに体の動きほどわかり易いものはない。だからこそ、彼女はそれを隠したがるのだ。
 許由は散らかった部屋を片付けて紫雲を待っていたが、程なくして彼女はやって来た。
「待たせたな」
「はい、待ちました。兵法書とかを皆棚に入れられるくらいには」
「う、毎度済まないと思っておる…」
「まあ良いです。それじゃ、寝台に寝っ転がって下さい」
 寝台にうつ伏せで転がった紫雲の腰の上に、体重をかけぬ様にまたがって背中に指をあてる。
「どの辺ですかー?」
「もっと下の方」
 ツボを上手く当てると反応があるので、それを目印に見極めていく。力加減と場所が好みに合えば、紫雲の息はゆったりと長くなっていく為、その具合を確かめつつ施術をしていく。
 紫雲の息がだんだんと長くやっていくを感じつつ、指でツボを押し、肩から肩甲骨全体にかけて揉み解すと、気持ち良さげに紫雲は言った。
「あー、こりが抜けていく。仕事の後はこれがなきゃいかんなぁ…」
「一体おいくつですか」
「本年十九だな」
 悪びれずにそう答えると、彼女はまた黙って身を委ね始めた。その様は少女だとか将軍だとかと言うよりも、働き詰めの官僚を彷彿とさせた。
「ところで、公主様」
「んー?」
「結局、今回のならず者達はどんな輩だったんです?」
「ええと…確か、アルビオン国だったはず…。そこの、密輸商人で…」
「それで、何を密輸しようとしてたんです?」
「阿片…炭団みたいに丸めた奴を箱一杯に持って来ておった」
 阿片。セリカを蝕みつつある呪われた名詞を、許由は今一度口の中で転がした。
 国土の南方で栽培されるケシの実の樹脂から作られるこの麻薬は、近年急速な広まりを見せ、各地で中毒者を生み出している。
 元々は薬剤としてある程度認可されていたが、昨今の急激な蔓延と、毒性依存性において大きく勝る精製阿片の流入に伴って、幾度となく禁令が発布されていた。
 伝統的な手法では、採取したケシの樹脂を乾燥させ、黒い粘土状にした生阿片をそのまま使用する為、毒性は比較的少なく(それでも中毒にはなり得るが)、流通量も微々たるものだった。
 しかし、昨今ではアルビオン国を中心に、列強植民地の大プランテーションで採取された(合法・非合法が混在)生阿片を、本土や北方の精製施設で高純度化したものが出回る様になり、これが民衆や官吏の間に急速に蔓延したのである。
 加えて、尚のこと性質が悪いのは、これらの阿片を禁制品と知りながら持ち込む内外の商人と、それを取り締まる側の官僚組織との断ち難い癒着構造であった。
 今回の事件においても、国境において取り締まりを行う関所役人の腐敗が原因であったし、ところを変えれば更に大胆かつ巨大な汚職や腐敗が広がっていた。
 第九代憲帝とその麾下の建安三傑、第十一代章帝による綱紀粛正により、幾度となく漢朝を蝕む巨悪を断罪する試みが進められたが、いずれも宮廷クーデターや外国の手先による暗殺で頓挫して来た。
 紫雲はそうした犯罪に対して、賄賂も受け付けず断固たる態度で根絶に邁進して来たが、その結果北方では今日の様な小競り合いが頻発し、敵味方に多くの死傷者を出していたのである。
「持ち込まれたのは生阿片だったんですか」
「…まあのう。大方、新海でこちらの商人に捌き、茶や絹織物に変える算段だったのだろう。計算してみたが、精製すれば、総計銀五千両は下らんだろうな」
「道理で、あれだけの人数が警護していたわけですね」
 許由が慨嘆すると、紫雲は曖昧に頷いた後、トーンを変えてまた話し出した。
「…と言っても、問題はそこだけではない。焼却処分のために支度していたら、中からとんでもないものが出て来た」
「何ですか?」
「大逆の計画書」
「は!?」
 一瞬驚きのあまり、許由は力加減を間違えた。直ぐに下から激しい抗議の声が飛ぶ。
「いだだだだだ!こら!集中を切らすな!」
「す、すみません!」
 起き上がった紫雲を宥めつつ、寝かせる。しばらくまた続けてやると、機嫌が戻ったのか、話を再開した。
「…例の阿片玉の中に紙が仕込んであってな、その中に武装蜂起に繋がる計画書があった」
「誰がその様なことを」
「…『易姓革命党』」
「易姓革命、ですか」
「前の擾乱の折、解放軍とかそういう名前の漢奸どもが居ただろう」
「ええ」
「そいつ等の系列にあたる組織だ。治外法権地域に潜伏して、阿片の密売と海外からの武器入手で力を蓄えている様だな」
「ご存知だったんですか?」
「噂だけは聞いていた。なんでも、天子を廃して新しい王朝を立て、内地人だけの国にするつもりらしい」
「そんな…!」
「そうなれば、わたしは処刑されるだろうな」
 いつの間にか息は普段通りに戻って、耳がぴくぴくと震えている。既に思考は安らぎから、国家の困難へ移っている様だった。
「どうなさるおつもりですか」
「既に京師に手紙を送ってある。蜂起されれば八旗軍一つが必要だが、その前なら二個中隊で制圧できるはずだ。それに、改正議定書では、我が国の警察権も認められている」
「なるほど」
「だから、さっさと部隊を新海に送って奴等を制圧しつつ、手紙にあった革命党の頭目を捕らえるのだ」
 そう言うと、彼女は唐突に寝台から立ち上がり、伸びをして肩を回した。
「助かった、ありがとう」
「いえ…」
「…なに、そう心配そうな顔をするな。わたしが今までに詰めを誤ったことはそうなかろう。今日はもう帰っていい、ご苦労だった」
 紫雲に大きく礼をして許由が辞去する。一人ぼっちになった部屋の中で、彼女は呟いた。
「新たな王朝も、このセリカにとっては悪くはない。そうではあるだろう。だが…」
 内地人だけの国家など、なんと狭苦しいことだろうか。
 今の帝国の為に命をかける理由など、彼女にとっては、それだけでよかった。

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