メグルユメ
28.無謀を勇気にかえて
ミノタウロス。
魔物の代名詞の一つに数えられる真正の怪物。牛の頭にしては凶悪な印象を受け、その力強さはよく伝説として語り継がれている。
曰く、攻撃が当たっただけで爆発四散。
曰く、上位の冒険者でも攻撃を通すのに一苦労。
曰く、追い詰めてからが本番。
しかし、ほとんどのヒトがミノタウロスを見たことさえないまま伝説だけが世間に広まったせいで、その真実味が薄れていった。
アレンもその一人だ。ミノタウロスを知らぬ父母からの話では何か自分とは関係のない話だと考えてしまっていた。目の前にいるミノタウロスを見て、当時の自分をぶん殴ってやりたいと思った。実際に見てみてわかる。伝説は噂ではなく真実なんだと、事実なんだと。多少の誇張はあったとしても実現可能なことなのだと。それぐらいやってのけてしまうかもしれないと思わせるほどの気迫がある。
肉質的巨躯。全身凶器。そして、本物の重圧感。
「ふんっ」
薄く保たれていた均衡をアストロが崩す。炎の魔術が矛のように相手の巨体を何度も突き刺し、炸裂。視界は黒い煙に埋め尽くされた。何の反応も返さない炎の残滓を前にアレンは目を張る。倒せなかったとしてもどれくらい削れているのか確かめたかったのだ。
チン、とコストイラが刀を抜く。
「武器を構えろ、来るぞ」
黒煙が揺らめき、その中から巨腕が現れる。その先端には先ほどグラントプスの首を飛ばした斧を持っている。コストイラは刀で受けるが、踏ん張り切れない。視界が振動したかと思うと、コストイラは後方に飛ばされた。決河の勢いで飛ばされるコストイラに視線を移せない。移したら死ぬかもしれない。
『ヴヴン』
「もう少し後ろに下がれ」
レイドが前に立つ。しかし、ミノタウロスはこちらを見ていない。飛ばされたコストイラを見る猛牛は五体満足で目立った傷が見えない。アストロの魔術は何の足しにもならなかったのか。アストロの顔が引き攣ったのが分かった。
ミノタウロスが地属性というのもあり、相性の問題からかアシドが攻めようとしない。半ば岩の中に埋まるような恰好をしたコストイラはピクリとも動かない。
今までの戦いとは一線を画す。最初にカンジャに全滅させられた時に似た絶望感。
これが、冒険。
父の顔が、母の顔が見たくなった。
寂しくなったからではなく、学びたくなったからだ。父は対人の心得を、母はまるで見てきたかのように冒険譚を聞かせてくれた。それが懐かしくなった。もう少し聞いていれば対処法が分かったのかもしれない。
『オオオオオオオオオオッッ!!』
顔を振り上げて、口から漏れ出た大粒の唾液を飛ばすミノタウロスは斧を振り上げた。膝が今にも崩れそうだ。しかし、心に反してシキはナイフを手にした。ミノタウロスが迫ると同時にシキも距離を詰める。振り下ろされる斧の一撃を、シキは地を蹴り宙に身を投げる。
「シキさん」
「下手に手を出せねェ。今のうちにコストイラのとこに行くぞ」
アレンは一度シキを見るが、すぐにコストイラのほうに小走りする。後ろから爆砕音が鳴り響く。眼前に出来上がっている地割れに汗を噴出させ、必死に距離をとる。
『ヴォオオオオ!!』
強靭な下腿が地面を踏みこまれ、距離をゼロにされる。瞳を見開くシキの前で斧をフルスイングされる。シキは咄嗟に屈み、避ける。頭髪が数本持っていかれた。剛力でもって振り回される血濡れの斧が大気を抉り取る。長いリーチを誇るミノタウロスに反撃は許されないし、追撃は終わらない。気が付けばシキは擦り傷だらけになっていた。ミノタウロスの息が荒い。捕まらないことに業を煮やしているのか。
『フゥ…………ヴォオオオオ!』
ミノタウロスが怒号を上げる。
心を乱さない。乱してはいけない。乱せば捕まる。速さはミノタウロスに勝っていることに気付いている。でも前には出られない。耳のすぐ横を掠めていく破滅の風切り音が、体の熱を奪っていく。足を竦ませる。思えば、シキにとっては初めての実践なのかもしれない。ここまで心をひりつかせる戦いというのは父にも習わなかった。
視界の端でコストイラが立ち上がった。
助けられる?
私が?
また一人では倒せない?
駄目だ。
私は勇者になったんだ。望まなかったとしても私は勇者に選ばれたんだ。
全うするんだ。
体が軽かった。
頭が冴えている。
想いが燃えていた。
視界が絶え間なく過ぎ去っていく大刃をくぐり、前へ。
浴びせられる雄叫びを受け流し、前へ。
勝利をもぎ取ろうと全身を奮い立たせて、前へ。
初めて心から思えた。
私は。
勇者だ。
「コストイラさん」
「駄目だ。オレは参加できない」
「何で」
「アイツは勇気を賭けて戦っている。参加すんのはマナー違反だ」
「そんな」
「信頼してやれよ。オレ達の勇者様をよ」
そう言われてしまうと何も言えない。
アレンはシキのほうを見る。見ることしかできない。
戦いが続く。
シキとミノタウロスは頻りに互いの位置が入れ替わる。4本の足が地面を踏みしめ、駆け上げ、蹴り貫き、何度も交錯する。絡み合う2つの動きは止まらない。
「フッ!!」
普段は聞けないシキの大声とともに鋼を彷彿させる強靭な肉体に、赤い線が走る。斜めに刻み込まれた傷跡から血が飛び散り地面を斑模様に彩る。シキは好機を逃さない。
「あぁっ!!」
『ヴォオォオッッ!!?』
ミノタウロスはグラリと後方によろめいた。立て続けに迸る斬撃。怒涛のごとき勢いはミノタウロスを圧倒する。まるで風の渦だ。香り高く凛とした澄みやかな匂いがたつ。散り散りと血の欠片が飛ぶ光景の中、ミノタウロスの体が裂傷まみれになっていく。
そこで、ミノタウロスは無造作に斧を振った。刃の向きなど何も考えていない一撃はシキを斧の横っ面で引っ叩いた。シキの体は岩をいくつも壊しながら飛んでいき、4つ目でようやく止まった。
「あっ」
「待て、まだだ。まだ行くんじゃねェ」
「で、で、でも」
「ここからです」
エンドローゼが飛び出そうとするのをコストイラが止め、アレンが説得する。言葉通りにシキが立ち上がる。ふらふらとしているが、その眼には決意が宿っている。頭から血が流れ、左目が開いていない。左腕はもうぐちゃぐちゃになっていた。無意識のうちに左腕は痙攣している。
シキはペッと血を吐く。
『ヴォオオオオオオオオオオッッ!!!』
「ああああああああっ!!」
雄叫びを上げるミノタウロスと、聞いたこともない絶叫を上げるシキ。大気ごと斬る斧に合わせて跳び、斧を足場にもう一度ジャンプする。初めてミノタウロスの頭まで届いた。
ミノタウロスにはまだもう一つの武器がある。角だ。頭を振り、角を仕向ける。片目がないため距離感が掴めず、空中で体勢を変えるが脇腹を掠めてしまう。骨の折れた左腕を角に絡め、頭に乗り、右手のナイフを振り下ろす。目玉に突き刺し、突き刺し、突き刺し続ける。
『ヴォオオオオオオオオッッ!!』
「ああああああ!!」
ミノタウロスの腕が到達する前に左目に腕ごと突っ込む。瞼を閉じようとするのは関係ない。腕が到達するのと同時に、ナイフは脳へと辿り着き、ミノタウロスはシキを掴んだ姿勢で力をなくした。ずるりと腕が落ち、その勢いでミノタウロスが倒れる。シキは投げ出され、流されるままに地面を転がり大の字になる。
エンドローゼの切羽詰まった声と足元が聞こえてくるが、もう何もわからないほどに意識が混濁していった。シキは瞼を閉じた。
魔物の代名詞の一つに数えられる真正の怪物。牛の頭にしては凶悪な印象を受け、その力強さはよく伝説として語り継がれている。
曰く、攻撃が当たっただけで爆発四散。
曰く、上位の冒険者でも攻撃を通すのに一苦労。
曰く、追い詰めてからが本番。
しかし、ほとんどのヒトがミノタウロスを見たことさえないまま伝説だけが世間に広まったせいで、その真実味が薄れていった。
アレンもその一人だ。ミノタウロスを知らぬ父母からの話では何か自分とは関係のない話だと考えてしまっていた。目の前にいるミノタウロスを見て、当時の自分をぶん殴ってやりたいと思った。実際に見てみてわかる。伝説は噂ではなく真実なんだと、事実なんだと。多少の誇張はあったとしても実現可能なことなのだと。それぐらいやってのけてしまうかもしれないと思わせるほどの気迫がある。
肉質的巨躯。全身凶器。そして、本物の重圧感。
「ふんっ」
薄く保たれていた均衡をアストロが崩す。炎の魔術が矛のように相手の巨体を何度も突き刺し、炸裂。視界は黒い煙に埋め尽くされた。何の反応も返さない炎の残滓を前にアレンは目を張る。倒せなかったとしてもどれくらい削れているのか確かめたかったのだ。
チン、とコストイラが刀を抜く。
「武器を構えろ、来るぞ」
黒煙が揺らめき、その中から巨腕が現れる。その先端には先ほどグラントプスの首を飛ばした斧を持っている。コストイラは刀で受けるが、踏ん張り切れない。視界が振動したかと思うと、コストイラは後方に飛ばされた。決河の勢いで飛ばされるコストイラに視線を移せない。移したら死ぬかもしれない。
『ヴヴン』
「もう少し後ろに下がれ」
レイドが前に立つ。しかし、ミノタウロスはこちらを見ていない。飛ばされたコストイラを見る猛牛は五体満足で目立った傷が見えない。アストロの魔術は何の足しにもならなかったのか。アストロの顔が引き攣ったのが分かった。
ミノタウロスが地属性というのもあり、相性の問題からかアシドが攻めようとしない。半ば岩の中に埋まるような恰好をしたコストイラはピクリとも動かない。
今までの戦いとは一線を画す。最初にカンジャに全滅させられた時に似た絶望感。
これが、冒険。
父の顔が、母の顔が見たくなった。
寂しくなったからではなく、学びたくなったからだ。父は対人の心得を、母はまるで見てきたかのように冒険譚を聞かせてくれた。それが懐かしくなった。もう少し聞いていれば対処法が分かったのかもしれない。
『オオオオオオオオオオッッ!!』
顔を振り上げて、口から漏れ出た大粒の唾液を飛ばすミノタウロスは斧を振り上げた。膝が今にも崩れそうだ。しかし、心に反してシキはナイフを手にした。ミノタウロスが迫ると同時にシキも距離を詰める。振り下ろされる斧の一撃を、シキは地を蹴り宙に身を投げる。
「シキさん」
「下手に手を出せねェ。今のうちにコストイラのとこに行くぞ」
アレンは一度シキを見るが、すぐにコストイラのほうに小走りする。後ろから爆砕音が鳴り響く。眼前に出来上がっている地割れに汗を噴出させ、必死に距離をとる。
『ヴォオオオオ!!』
強靭な下腿が地面を踏みこまれ、距離をゼロにされる。瞳を見開くシキの前で斧をフルスイングされる。シキは咄嗟に屈み、避ける。頭髪が数本持っていかれた。剛力でもって振り回される血濡れの斧が大気を抉り取る。長いリーチを誇るミノタウロスに反撃は許されないし、追撃は終わらない。気が付けばシキは擦り傷だらけになっていた。ミノタウロスの息が荒い。捕まらないことに業を煮やしているのか。
『フゥ…………ヴォオオオオ!』
ミノタウロスが怒号を上げる。
心を乱さない。乱してはいけない。乱せば捕まる。速さはミノタウロスに勝っていることに気付いている。でも前には出られない。耳のすぐ横を掠めていく破滅の風切り音が、体の熱を奪っていく。足を竦ませる。思えば、シキにとっては初めての実践なのかもしれない。ここまで心をひりつかせる戦いというのは父にも習わなかった。
視界の端でコストイラが立ち上がった。
助けられる?
私が?
また一人では倒せない?
駄目だ。
私は勇者になったんだ。望まなかったとしても私は勇者に選ばれたんだ。
全うするんだ。
体が軽かった。
頭が冴えている。
想いが燃えていた。
視界が絶え間なく過ぎ去っていく大刃をくぐり、前へ。
浴びせられる雄叫びを受け流し、前へ。
勝利をもぎ取ろうと全身を奮い立たせて、前へ。
初めて心から思えた。
私は。
勇者だ。
「コストイラさん」
「駄目だ。オレは参加できない」
「何で」
「アイツは勇気を賭けて戦っている。参加すんのはマナー違反だ」
「そんな」
「信頼してやれよ。オレ達の勇者様をよ」
そう言われてしまうと何も言えない。
アレンはシキのほうを見る。見ることしかできない。
戦いが続く。
シキとミノタウロスは頻りに互いの位置が入れ替わる。4本の足が地面を踏みしめ、駆け上げ、蹴り貫き、何度も交錯する。絡み合う2つの動きは止まらない。
「フッ!!」
普段は聞けないシキの大声とともに鋼を彷彿させる強靭な肉体に、赤い線が走る。斜めに刻み込まれた傷跡から血が飛び散り地面を斑模様に彩る。シキは好機を逃さない。
「あぁっ!!」
『ヴォオォオッッ!!?』
ミノタウロスはグラリと後方によろめいた。立て続けに迸る斬撃。怒涛のごとき勢いはミノタウロスを圧倒する。まるで風の渦だ。香り高く凛とした澄みやかな匂いがたつ。散り散りと血の欠片が飛ぶ光景の中、ミノタウロスの体が裂傷まみれになっていく。
そこで、ミノタウロスは無造作に斧を振った。刃の向きなど何も考えていない一撃はシキを斧の横っ面で引っ叩いた。シキの体は岩をいくつも壊しながら飛んでいき、4つ目でようやく止まった。
「あっ」
「待て、まだだ。まだ行くんじゃねェ」
「で、で、でも」
「ここからです」
エンドローゼが飛び出そうとするのをコストイラが止め、アレンが説得する。言葉通りにシキが立ち上がる。ふらふらとしているが、その眼には決意が宿っている。頭から血が流れ、左目が開いていない。左腕はもうぐちゃぐちゃになっていた。無意識のうちに左腕は痙攣している。
シキはペッと血を吐く。
『ヴォオオオオオオオオオオッッ!!!』
「ああああああああっ!!」
雄叫びを上げるミノタウロスと、聞いたこともない絶叫を上げるシキ。大気ごと斬る斧に合わせて跳び、斧を足場にもう一度ジャンプする。初めてミノタウロスの頭まで届いた。
ミノタウロスにはまだもう一つの武器がある。角だ。頭を振り、角を仕向ける。片目がないため距離感が掴めず、空中で体勢を変えるが脇腹を掠めてしまう。骨の折れた左腕を角に絡め、頭に乗り、右手のナイフを振り下ろす。目玉に突き刺し、突き刺し、突き刺し続ける。
『ヴォオオオオオオオオッッ!!』
「ああああああ!!」
ミノタウロスの腕が到達する前に左目に腕ごと突っ込む。瞼を閉じようとするのは関係ない。腕が到達するのと同時に、ナイフは脳へと辿り着き、ミノタウロスはシキを掴んだ姿勢で力をなくした。ずるりと腕が落ち、その勢いでミノタウロスが倒れる。シキは投げ出され、流されるままに地面を転がり大の字になる。
エンドローゼの切羽詰まった声と足元が聞こえてくるが、もう何もわからないほどに意識が混濁していった。シキは瞼を閉じた。
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