異世界の歪曲者たち

ノベルバユーザー604636

筆ヶ谷の過去1

 僕、筆ヶ谷描臥は絵を描くのが好きだった。高校では美術部に入っていた。絵を描ければなんでもよかった。ジャンルも色々だ。水彩画や水墨画、抽象画、鉛筆画、サンドアートや電子に至るまで、様々な美術的表現に手を付けてきた。自分の考えを言葉ではなく、こうして美術として表現することは、言葉よりも多くのメッセージを相手に与える。感動と情動、怒りと憎悪、哀愁と憐憫。人の思いは言葉では表現できない部分が多分にしてある。それを余すことなく表現することができる美術が大好きだった。

 だが、そのせいで成績がおろそかになってしまった。授業時間はノートに絵を描いてばっかりだったからだ。教師に見つからないように隠れて絵を描くというスリルは、筆舌に尽くしがたい。その着想を絵に還元できたのは良かった。

 お陰で美術部の顧問である小山田からお叱りを受けた。フレームのない眼鏡をかけ、ビシッとした黄土色のスーツを常に着用している彼は、規律という枷を体中にぐるぐるまきにされているような性格をしていた。極めつけは、その規律を他人に強いるのだから始末に置けない。

「お前いつもいつも絵ばっかり描いているな、勉強はしているのか?勉強をしておけ、良い大学に行って良い仕事に就くべきだ。絵なんて描いても社会に出たら何の役にも立たないんだぞ?」

 という内容ばかり言ってくる。正直面倒だったので聞き流していたが、後から噂で聞いた話だと、小山田はその昔、美術大学を志望していたけれどそれに失敗した経験があるのだとか。だから僕に嫉妬して美術大学に行ってほしくないのだろう。社会とは、人生とは美術を必要としていない。美術で成功するなんて人間は一握りの存在に過ぎない。だから自分は落ちたのだ。今美術教師という位置に座っているのは社会が悪い。社会に出れば美術にかまけている暇なんてないのだ。という自分の人生に対する正当化を固めたいのだろう。

 学校に行ってはいつも生徒指導室で一時間弱拘束されてしまう。だから学校に行かずに描こう。ということで、高校一年の冬、とうとう学校に行くことはなくなった。

 それからは全てに解放されて描き続けた。絵具が尽きれば鉛筆で描けばいい。鉛筆が尽きれば砂で描けばいい。描いて描いて、描きまくっていた。両親は結構な日和見で、今は一年生だから大丈夫だろうという、結構な放任主義だった。だから自分の絵に集中することができたわけだが。

 そんな僕の家に来たのが、恋華だった。縁側に座って、庭の砂場に木の枝で富岳三十六景を描いている時であった。丁度波の部分を描き終えると、その地面に一枚のざら紙がひらひらと落ちてきたのである。それは進路調査票だった。

「君は、美術家になりたいんですか?」

 ────目を、奪われた。

 声の主を見上げると、手を口に当て、驚いている女の子がいた。長い黒髪を腰まで伸ばし、ふわふわな白いコートを羽織り、ピンクのマフラーと手袋はモコモコしていてとても愛らしい。抱きしめて寝ればきっと良い夢が見られるだろうと思わされる彼女の様相に、目を奪われた。

「ええと、ああ、」

 返答を考えるためにきょろきょろと目を泳がせていると、窓の自分の姿が視界に入った。全身灰色の寝巻のまま描いていたので、彼女との対比に少し肩を落としてしまう。それから返答していないことを思い出した。

「僕はもう美術家、だから、今は絵で生活することを目指してる」

 恥ずかしくて、彼女の目を見ることができなかった。輝く彼女を見ていると、自分がえらくみすぼらしいと感じてしまったから。だが、恋華は陽気な口調で言った。

「私、君をスポンサーをさせていただきます!」

「......え、なんて?」

 何を言っているのか、全く内容が伝わらなかった。いや伝わったのは伝わったのだけれど、脈絡がなくて理解するのに時間を要したといった方が良い。しかし振り向くと、彼女の目はじーっと砂の絵を見つめていた。輝く笑顔で。

「アルバイトは学校で禁止されてるからお金は出せないですけど、君に勉強を教えてあげることでスポンサーします!君は絵を描くべきです!」

「スポンサーをするって、言葉的にどうなの?」

「スポンサーっていうのは”sponsor”で『〇〇を支援する』という動詞でもあるんですよ?英語は不得手ですか?」

 自分で言うのは憚られるが、彼女は僕の絵を気に入ってくれたのだと理解した。だから勉強がおろそかになるという理由で学校を離れるのが良くないと考えたから、僕に勉強を教えたいのだろう。僕の絵がここまで人を動かすことができたことに、手ごたえを感じていた。単純に嬉しかった。だから、彼女の意思を邪険にすることなんて出来なかった。

「ああ、英語は苦手なんだ。だから、色々と教えてほしい」

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 小野上恋華は、生徒会長である。それもただの生徒会長ではない。支持率99%という誰もが納得する生徒会長だった。眉目秀麗もさることながら、運動能力抜群で人当たりも良い。かといって完璧というわけでもなく、子供っぽい趣味を持ち、親しみやすさもあった。非の打ちどころがないという表現は正しくないだろう。非の打ちどころをいい塩梅に兼ね備えた、人に好かれる要素を兼ね備えまくった人間だった。お陰で学校の取材の矢面に立つことも多く、ローカルなメディアで見ることも多い人だった。そんな多忙の間を縫って僕の勉強を見てくれるのはとても助かった。

「さて、今日も勉強頑張りましょう!今週は数学で新しい単元に入りましたよ!」

 部屋に入って来るや否や、ゾイ!と両手をグーにして気合が入っていた。新しいと彼女から言われても全く説得力に欠ける。本人曰く、教科書が新しくなるとまず一通り教科書マラソンをしてから、要点を纏めるためにもう一周。それの復習でもう一周するのだから。

 不登校になってしばらく。このように彼女は毎週末家に押しかけては勉強を教えてくれた。というのも、僕の描く絵を見ることも兼ね備えているのだとか。

「生徒会の仕事をほっぽり出して良いの?そろそろ文化祭でしょ?」

 という心配事を投げかけるが、笑顔で即答した。

「副会長達にはちゃんとお仕事の割り振りを伝えていますから大丈夫ですよ、定期健診と称してますし、そこまでうるさく言われないでしょう」

 誰の定期健診なのかは敢えて伝えていないような気がしないでもない。僕だとすると、定期健診ではなく進捗確認ということになるのだが。漫画の編集さんみたいだ。それでも無償で勉強を見てくれている以上、感謝以外ない。だが申し訳なさはあった。

「何を言うんですか、来週は定期試験なんですから、成績が傾けば美大に入る前に高校を中退することになるんですよ?」

 お母さんのように嗜められた。だが心地いい。恋華と居られるこの時間がとても僕にとっては救いになっていた。正直最近家族以外の人間と出会っていないことで、一抹のさびしさを覚えていたからだ。会話した男子は数人いた。美術部に入っていたから、会話する人もいたが、基本一人だった。しかしその他大勢の中で一人になるのと、空間において本当に一人でいるのでは、寂しさのベクトルが違う。世界から断絶されたような気持ちだ。その躁鬱を彼女が和らげてくれる。その感情は新たなる着想となって筆が止まらなかった。

「そうだ、数学が終わったら今週の筆ヶ谷さんの絵を見せてください、今回は何で描いたんですか?」

「今日は鉛筆。お題は『狭間からの光』ってところかな」

 こうして勉強を見てもらったお陰で、学校の定期テストではとてもいい成績を修めることができた。しかし、そのテスト以降彼女はめっきり来れなくなっていった。

 ────────────────────────────────

 今日は来れない。

 今日も来れない。

 ごめんね、筆ヶ谷君の絵は、次来る時の楽しみにとっておくね。

 そんな連絡が、一週、また一週と続いた。お陰で勉強が後退するどころか、絵すら描けなくなっていった。心が何か、闇のようなものに浸食されていくような感じ。僕は嫌な感じがした。僕の家に恋華が来ていたことで、何か彼女に良からぬことが起こってしまったのではあるまいな。

 久しぶりに学校に行くことにした。キョロキョロするも、恋華の姿は見当たらない。休み時間は限られており、もともと高校生が高校で自由に出歩きする時間は限られているのだ。学校にしばらく行かないうちにそんなことまで忘れていた。

 それに僕が珍しく登校してきたからだろうか、周囲の人間の視線が妙に気持ちが悪い。それに、ひそひそと話される内容が、とても吐き気を催した。

「筆ヶ谷君来てる、彼女探しに来たのかな」
「小野上会長と筆ヶ谷が、ねぇ」
「あの人清廉潔白って感じだったのに、残念」
「会長って男たぶらかしてるらしいよ、ほら、あの筆ヶ谷がそれよ」
「今も学校来てないけど、どうせ駅で他の男と待ち合わせでもしてるんだろ、こんだけ大っぴらになったら隠す必要もないし」
「小野上会長のニュース見た?」

 そうして学校中を走り回っていると、会いたくない奴にあった。小山田だ。僕を見るやいなや、ねっとりと口角を上げて話しかけてきた。

「筆ヶ谷じゃないか、久しぶりだなぁ、勉強ははかどっているかな?この前は結構がんばったじゃないか、今回の中間試験もその調子で頑張れば、もしかしたら美大に行けるかもしれないなぁ」

 僕の不都合なことを的確に皮肉として口にできるからと言って、こいつが恋華に何かしたという証拠にはならない。落ち着け、今まで自分の心と向き合い、絵に表現することで、自分が憤っているとか、悲しんでいるとか、楽しんでいるとか、そういった感情を俯瞰できるようになっていた。だからあいつの皮肉に反応するな。

「お、お久しぶりです」

 流石に表情まで怒りを抑えることができていないのだろうか、僕の顔は固まっている感じがした。それを見てまた笑う。

「小野上の個人レッスンが無くなって、痺れを切らしたってところかね、生憎彼女は学校に来ていないよ」

「はぁ!?どうして!?」

 得意げな表情を保っている小山田に対して、ついに感情が言葉として漏れた。怒りという感情が。

「そう騒ぐな、不貞を働いていたかもしれないんだから自粛もするだろう、誰かさんの家に毎週通っていたらしいじゃないか」

 ねばっこい声で僕を見る。全てわかっててやっているのだろう。そして恋華を陥れることで来れなくした。僕の成績を下げるために。

「ま、あの注目を集めすぎるあいつだ、ちょっと吹聴すれば尾ひれ胸ひれは付くだろう」

「あんたがそれをしたのか?」

 ダメだ、絶対に僕の目は敵を見る目になっている。だが相手の目は僕を見下していた。ガキを見る目だ。

「さぁてな、確かに知り合いの記者やテレビ局の奴らに私が言えば、こういう状況にならなくもないかな、結構顔は広い方なんだ。警察庁にも顔が効いてね」

 人脈が豊富ということだ。そして彼らの欲しい情報として恋華が僕の家に通っていることを吹聴した。証拠はないがそう決めつけていた。

「お前が真面目に学校に来て、真面目に勉強していれば、あいつに迷惑をかけることはなかったんだ。つまり誰が悪いのかは明白だ。お前が小野上を追い詰める原因なんだよ」

 踵を返した。ここで時間を費やしている場合じゃない。学校に来ていないなら、きっと自宅だ。恋華が学校に来たら、メディアが圧力をかけ、その状況を見たその他の生徒が圧力をかけるだろう。圧力と認識すらせずに。

「今は行かない方が良い。自宅付近には張り込みの記者が見ている。それにまだ授業は続くぞ?そろそろ昼休みが終わってしまう。次の授業の準備をしなさい!筆ヶ谷!」

 これ見よがしに教師である立場を利用し怒号を浴びせた。だが屈してはならない。恋華は僕の絵を認めてくれた。そして未来に期待してくれた。その期待に答えるために。いや違う。大切な人が弱っているとき、側にいるために。

「すみません、胸糞が悪いので早退します」

 少し振り返り、再び走り出した。

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 恋華の家には行ったことがなかった。しかしこの地域ではテレビやネットニュースを見ずとも、風評で「〇〇さんの御子さんは柔道の大会で優勝した」「××さんの御子さんがお受験に通った」という話が嫌でも耳に入る。庭で絵を描いている時そういうのを聞いていた。だから恋華の家が実は徒歩で行けなくはない圏内であること、そしてとても大きいことが分かっていた。裏を返すと、それほどの人物だからこそメディアのエサにされてしまったのだろうと思うと悔やまれた。

 庭付きの自分の家の二倍ほど。夕方にはピアノの演奏が聞こえてもおかしくないような広さの家だった。ピアノが置かれても生活スペースに困らないくらいの広さだということだ。その敷地の周辺にちらほらと、見慣れない大人の姿が数人見受けられていた。

 ......知ったことか。カメラを構える人々を尻目に、僕は門扉の隣にあるインターホンを押した。

『......はい』

「僕だ」

『ひ、な、なんで家から出て』

「人を引きこもりみたいに言うな。景色の写生とかのために外出てるし」

 明らかに弱弱しい声音だ。おそらく外のこいつらを警戒して外に出られないでいるんだろう。それも当然か、後ろのこいつらは、もう隠れようともせずにカメラ回してる。そんな奴らに張りこまれたってんならな。

「学校行くんだろ、行こうぜ、僕もせっかく出たんだ。今ならまだ五時限目の途中で間に合う」

『だ、大丈夫ですよ、勉強は家でもできます』

「僕が困る。恋華に勉強を教えてもらわないと美大に行けないんだよ。スポンサーしてくれるんだろ?」

『......帰って』

「嫌だ帰らない」

『帰れ!』

 僕も腹が立っていたのだろう。彼女にか、小山田か、噂する生徒か、後ろのメディアか、そんなのはどうでも良かった。だから。

「────え、ちょ!」

 ガシャン!!と、黒い精密機器が呆気なく崩壊する音が響いた。立て続けに、薄汚れた男たちが持つカメラというカメラを掴み、地面に叩きつけた。

「何するんだガキ!」

「商売道具だぞ!」

「弁償してもらうからな!」

 と言い、破片を集めて退散していく男たち。

「これで良いだろ、行くぞ」

 こうして小野上恋華は、一か月振りに門戸を開いたのだった。

 ────────────────────────────────

「なんだ、ハッピーエンドじゃないか」

 と、長話に耐えかねて結論を言うと、ため息と共に筆ヶ谷は苦い顔をした。

「僕も人に話をするのは苦手なんだよ、できるだけ順序立てて話すから、結論を急がないでくれ」

 隠れながら話を聞くのも身体がしんどいので、詰みあがった机と椅子のバリケードから椅子を取り出して、バリケードに隠れるように座って聞いていた。

「ほら、でもコーヒーブレイクってのは必要だ......そうだ、筆ヶ谷の固有スキルをもっと見せてくれよ」

「僕の?まだ君は僕にとっては『話を聞いてくれる敵』でしかないんだけど、手の内を晒せと?」

 懐疑的に拒否する筆ヶ谷に、安心を促した。

「手の内は大体わかってるんだ、というか筆ヶ谷の話を聞いて分かった。絵ってのは人に見られて初めて意味を成す。そして筆ヶ谷の絵を第三者が見ることで、第三者の想像力を利用して具現化してるってところだろ」

 俺が銃であると認知した瞬間に、あの黒い靄は銃となった。絵を俺が認知することで初めて絵は意味を成すのだから。

「凄いね、一目見ただけで分かるなんて。僕も自分のこの力を詳細に理解してるわけじゃないから正解とは言えないけれど、おおむね合ってるよ」

 お、合ってたのか。ぶっちゃけ「物質創造なら銃の構成要素を理解する必要がある」というルールに抵触すると思ったのだが。だって俺も流石に銃を作ったことはない。不幸対策七つ道具は飽くまでも自分や自分の周囲を不幸から回避させ恋華れんか筆ヶ谷ひつがやる道具だ。敵を退けるための道具じゃない。

「ドローメーカー、僕はガラスコップの絵を描いた......っと」

 ブンブン!と太いのが空気を切る音が聞こえた。なんだかんだ付き合いが良いのかもしれない。と考えていると、バリケードの向こうから銀色の靄がスーッと手前に飛んできた。その靄って雲みたいに空気中を流せるのか。と見ていると、銀色の靄が透明度を増し、逆末広がりな形に変わっていく。確かガラスコップって言ってたよな、あ、これ落ちると割れるじゃん。下に手を添える。すると物質化したガラスコップが手の上にボトンと落ちた。

「おおー!すげぇ!」

「これで満足か?」

「あ、オレンジジュースって作れる?」

「......液体ってのは試したことなかったなぁ、ドローメーカー、僕はオレンジジュースの絵を描いた」

 再び筆が振るわれる音がする。そして橙色の靄が流れてきた。そこに先ほどのコップを下に支える。すると、じょろろろ〜という音を立ててコップにオレンジジュースが注がれていった。こいつめっちゃ良い奴だな。

 ゴクゴク。こののど越し、この甘味と酸味。間違いない。

「これは100パーセント果汁だな!」

「......続き話していいか?」

 良い奴の機嫌がそろそろ傾きそうなので、彼の話の続きを聞くことにした。正直聞きたくなかった。だから筆ヶ谷の固有スキルをわざわざ話題に上げて逸らしたというのに。筆ヶ谷が言っていた「社会に殺された」という言葉からして、バッドエンドであることが決定されている話なのだから。

 しかし向き合わなければならない。彼らの苦しみを、悲痛の叫びを、聞かなければならない気がした。

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