東京では皆一様に夜が暗い

ふかふかね

その時ふっと気がつくと

その時ふっと気がつくと、あの男の姿が見えない。驚いて辺りを見回したが、影も形もなかった。だが確かに其処にいた筈なのだ。

しかし、私がその事を喋ると、誰も信じて呉れないばかりか、変なものを見るような目つきをする。仕方なしに私は、少し酔っていたせいか、或いはまだ雨の中にいたせいなのか、幻覚を見たのかも知れないと言って誤魔化した。

しかしその晩以来、私はどうしても忘れられない事があって困ってしまった。あれは何時頃の事であったろうか、多分八時近くになっていたに違いない。

雨の中を急いで帰って来て、玄関の戸を開けると、何だか中が妙に明かるい。奥の部屋を見ると、電燈がついている。私は思わず驚いた。今までこんな事は一度だってなかったからだ。妻が居るにしても、何故こんな時間に電燈をつける必要があるのだろう。しかも、妻は普段滅多に電気を使う事はないのだ。怪訝な思いをしながら、そろそろと足音をしのばせて行くと、居間の方から人の話し声が聞えて来た。

間違いない、妻が誰かと話をしているのである。

誰と話しているのか、そっと覗いて見て、私はまた驚かされた。

何とあの男が、妻と向かい合って坐っているのだ。そればかりではない、その男は、まるで生きているように動き回り、妻の手を取るやら、肩に手をかけるやら、傍で見ていても気味の悪いくらいだった。

そのうちに、男と話をしていた妻が、私の方を振り返ったので、私もぎょっとしたが、それと同時にその男の姿も見えなくなってしまった。

いや、見えなくなったのではない、消えたのだ。すっかり消えてしまったものだから、私には何が何やら訳が解らない。妻は何時の間に帰ったのかと尋ねたが、勿論そんな覚えはないと言う。夢でも見たのではないかと言われれば、そうかも知れないと答えるより仕方がない。

それから後、何度か同じような事があったが、別にこれといった害はなかった。ただ一度、妙な事があった。それは、あの待乳山聖天の裏の藪の中での出来事である。

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