元文三年十一月二十三日の事

ふかふかね

まるで台風並みだった

それから暫くの間は何も起らなかつたが、やがて大津駅で降りると、再びタクシーを雇ひ、問題の現場近くまで来た時には既に夕方近くなつてゐた。一行は近くの旅館に部屋を取り、一息入れた後、夕食を済ませてから出掛けることにしたのだ。
時刻は夜の十時を過ぎてゐるので、外はすっかり暗くなってゐる。その為か道中は殆ど誰とも擦れ違はなかつたし、又人も歩いてゐなかつた。時折車が徐行気味に走るくらいで、至って静かなものである。田舎町と云ふものは、都会とはまた違った趣があるもので、街灯も少なく民家も少ない為か、星明かりや月明かりだけが頼りだつた。お陰で月の光に照らされた山々や田畑の風景などは実に幽玄な雰囲気を漂わせてゐるから、一行にとっては却って好都合である。しかし一方、この辺りまで来ると、事件の被害に遭った家もある筈なのだが、何処迄行ってもそんな気配はないし、勿論人の気配もない。既に警察が一通り調べ尽くしたあとだからかも知れないが、それにしても静か過ぎるのではないか? 流石に少し不安になり始めた頃、前方に大きな橋が見えて来た。その下を流れる川は琵琶湖である。橋は長さ約五十メートルで幅は約三間あり、欄干には赤いペンキで大きく×印が書かれてあるが、その上にも亦同じ様に×の字が幾つも並んでゐるのが見える。恐らくこれも警察による規制の跡なのだろう。
橋の袂には小さな交番があり、其処には二人の警察官が立っていたが、此方を見るなり近寄って来た。
「今晩は。何か御用でしょうか?」
「はい。実はですね――」
そこで寺田博士が説明しようとすると、横から文雄君が口を挟んだのだ。
「僕は警察の者です。この近くに犯人がいると聞いて来ました」
それを聞いて警官たちは俄に顔色を変え、慌てて敬礼した。
「これは失礼致しました! どうぞ中へお入り下さいませ!」
「いえいえ、そんなに畏まらなくても結構ですよ」
博士は微笑みながら手を振って応えたが、それでも二人は緊張した面持ちで直立不動の姿勢のままである。それを見た文雄君は不満げな表情で抗議したのだ。
「なんや? 僕が来ちゃアカンのか?」
それに対して警官の一人が答えた。
「いえ、決してそんなことはございませんが、只今は捜査中でございまして、ご協力いただけるのは大変有り難いのですが、もし犯人を刺激する様なことがありましては……」
「ああ、成る程なあ。つまり僕らの安全を考えてくれてゐる訳やな? いや、それは心配せんでも大丈夫やでえ。僕らはプロ中のプロやからな」
「はあ……?」
何を云つてゐるのかよく判らないといふ顔をする警官たちに向かって、今度は私が説明した。
「この人は大学の教授をしておられる方なんですがね、今度こんな事件が起きたものですから、それで調査の為にいらしたんですよ」
すると警官も漸く安心したらしく、態度が少し和らいできた様だ。それを確認した寺田博士は改めて話を始めた。
「では早速ですが、此処で起きた事件の事を詳しく聞かせて頂けますか?」
それに答えて一人が話し始めたのだが、その内容は次のようなものだった。
今から二週間ほど前のことだったらしい。その日は朝からとても暑い日だったが、昼頃から急に風が強くなり始め、夜になると嵐の様な大雨になったそうだ。その雨風の勢いときたら、まるで台風並みだったというのだから驚きだ。当然落雷も多く、雷鳴が轟く度に家の中に居た人たちは怯えていたらしい。ところが、その晩のことである。突然雷とは違う音が外から聞こえてきたのだ。その音は次第に大きくなってゆくばかりで、遂に家の真ん前までやって来たらしい。そして次の瞬間だった。ガシャーンというガラス窓が割れる音がしたかと思うと、ドシンッと屋根から落ちて来るものがあったのだ。その物体の正体は何と人間の死体であった。それも全身が血塗れになっていたのである。その後の調査によると、被害者の名前は東堂正典さんといい、年齢は六十一歳だということが判明した。死因はやはり出血多量によるもので、背中にナイフが深く突き刺さっていたというのだ。そしてその死体の横には大きな足跡が残っていたことから、犯人は大柄な男ではないかと思われた。
だが不思議なことに、他の犠牲者たちの遺体からは血が一滴も流れていなかったのである。それだけではない。玄関の鍵は全て内側から掛かっており、窓も全て鍵が掛かったままだった。おまけに犯人は凶器を残していないばかりか、指紋すら残していない始末なのだ。警察は懸命に捜索したが結局見つからなかったそうで、目撃情報も皆無だったらしい。ただ唯一判明したことは、殺されたのは全員この家の関係者だということだけだそうである。

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