元文三年十一月二十三日の事

ふかふかね

ケチイジワル爺ィ

三人は朝早く家を出ゝ、電車やバスを乗り継ぎながら、目的の地へと向かつて行つた。日帰りの予定だから荷物は少い。途中一泊する予定の宿も予約してあるから安心だ。
奈良から京都を通り過ぎ、大津から湖西線に乗り換へると、近江塩津駅に着くまでは一時間半程かかるから、その間は車窓から景色を眺めるだけで、特に話をすることもない。
ところが、此処に到り突然孫の文雄君が口を出したものだから、車内は少し騒がしくなつた。
「先生、先生は何時も白衣を着ておられますが、今日はどうして黒い背広なんか着ておられるのですか?」
と訊いたのだ。
確かに、寺田博士は普段着るものと言えば、黒か茶か紺色か……といった地味なものばかり選んで着る癖があるのだが、この日ばかりは珍しく白いシャツにネクタイを締めてゐたので不思議に思つたらしい。
寺田博士は笑いながら答えた。
「いやね、実は此の後仕事の関係で人と会ふ約束をしてゐるんだが、その人に会う時は、いつも決まってこの服を着ることにしてゐるんだ」
すると文雄君は、
「へえ? そうなんですか? ところで、その人は男の人ですか? それとも女の人なんですか?」
などと訊いて来るので、つい私もつられて笑ってしまったものだ。
すると、すかさず先生が仰有つた。
「こら! そんな余計な詮索をするもんぢゃない!」
すると文雄君も負けずに反論する。
「ええ? なんで? だって気になるやんけ」
「ならんで宜しい」
「なんで? なんであかんねん? 別に悪いことあらへんでえ」
「あのなあ……」
「何でなん? 教えてくれても良うないかあ」
「駄目だ駄目だ」
「……ケチイジワル爺ィめ」
と憎らし気に呟く文雄君に苦笑しながら、私はふと窓の外を見るともなしに眺めてゐたのだが、その時、何かがちらりと見えた気がしたので目を凝らすと、線路沿いの草むらに何か動くものがあつた。初めは野鼠か何かだと思つたが、良く見ると人の顔に見えないでもない。しかもそれが一つではなく二つ三つ四つ五つ六つ七八九十―――次々と増えて来て、あっという間に辺り一面埋め尽くされ、まるで巨大な人の顔が並んでいる様に見えた。思わず声を上げそうになった瞬間、列車がトンネルに入り、同時にその顔たちも忽ち消えてしまひ、後には何事もなかったかの様に元通りの光景が広がってゐたのである。
あれは一体何だったのか……? 

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