元文三年十一月二十三日の事

ふかふかね

私立探偵事務所

そのやうな事があり、
暫くの間は何事もなく過ぎた。その間にも、又一人殺されてしまったし、奈良でも二人殺られたと聞いた時、最早これ以上傍観してゐられまいと決心したと見え、漸く重い腰を上げて、調査を開始したらしい。先ず最初に始めたのは、被害に遭った場所の地図を作ることだった。それも、なるべく正確に作らなければならぬ。何故なら、どんな方法を使ったのか知らぬが、死体を磔柱に逆さ吊りにした以上、当然縄の長さにも限界がある。となれば、必ず現場の位置を示す証拠品が残っている筈だからだ。それを見逃してはならない。次にすることは、死体が発見された場所を丹念に調べることだ。これはもう常識であらう。ただ注意すべきなのは、警察の捜査とは別に動かなければならないことであつた。警察はあくまでも殺人事件としてしか扱はないのだから仕方がないにしても、民間の調査機関となると話は別だ。下手をすると相手にされないので、寧ろ避けるべきなのである。この様なことから、最初は自腹を切って探偵社の様なものを組織しようとした。然しながら、そう簡単に行くものではない。何せ素人なのだ。それで駄目なら専門家に任せようと考へたらしく、私立探偵事務所を探したところ、幸運なことに見つかった。
寺田寅彦は早速依頼をした。
「奈良県下の山間僻地で起きてゐる事を調査して欲しい」
それだけの依頼内容だったが、相手は引き受けてくれたばかりか、費用の方も格安にして呉れた。これには彼も大いに感謝したものだらう。
さてこの探偵社が調べた結果判ったことは、次のようなものだった。
・殺されたのは、全て女である。
・年齢はまちまちだが、五歳から八十歳までの範囲。
・殺された場所は、主に村の中心部に近い所が多い。
・殺される前に、何か変わった様子はなかったかとの問いには、誰も何も答えることが出来なかった。
そこで、寺田博士は考えた。――何や知らんけど、どうやら犯人は若い女を狙って殺してるらしいなあ。
だが問題はここから先である。
一体誰が何のためにそんなことをしているのか? 動機は何だろうか? それにもう一つ重要な事は、何故態々遺体を磔にする必要があるのか? それによつて何が判るのだろうか? これらの疑問に対する答を出すためには、どうしても現場に行ってみる必要があると思ひ、今度は自ら車を運転して出かけることにしたのである。
ところが、いざ出発する段になると、どうも気乗りしないのである。多分に気が弱いからだと思ふのだが、誰か一緒に来てくれる者はいないものかと思つてゐたら、幸いにも親友の一人に声を掛けられたのだ。そして二人で相談した結果、もう一人加えた三人連れで出かけようと決めたのである。
そのもう一人の友人と云ふのが、私の友人の祖父に当たる人で、名を夏目漱石と云ふ人だつた。私はこの人の事を尊敬してゐるし、また好きでもあるのだ。尤も、私が尊敬する理由は他にもあるのだが……。兎も角も、これで準備万端整った訳だ。


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